第16話 **消された灯火 最終話:残された問い**


物語のすべての要素が収束し、しかし安易な答えは提示されない、苦い余韻を残す最終話


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**1**


壬生えりかがテレビ局を去った後、彼女が点けた火は、鎮火するどころか、より無秩序に燃え広がっていた。

『報道特集』という旗印を失った人々の怒りは、もはや特定の対象を持たず、医療全体への不信感という名の煙となって、社会を覆い尽くしていた。緑ヶ丘中央総合病院は、経営難から規模を大幅に縮小。地域の救急医療に、大きな穴が空いた。


園田初恵は、メディアの前から完全に姿を消した。一部の噂では、心労で倒れ、入院しているという。かつて彼女が悪魔の肖像として晒されたネット上では、今度は壬生えりかが新たな魔女として、面白おかしく消費され続けていた。


正義も、悪も、熱狂も、すべては刹那的なエンターテイメントに過ぎなかったかのように、世間の関心は次のスキャンダルへと移ろいでいた。後に残されたのは、深く傷ついた人々と、崩壊した現場、そして、誰にも答えられない問いだけだった。


季節が一つ巡った頃、元アシスタントディレクターの田中は、小さなNPO法人で働いていた。医療従事者の労働環境改善を支援する、地道な活動だった。テレビのような華やかさも、社会を動かすような力もない。だが、目の前の一人の相談者の声に耳を傾ける日々に、田中はかつて失いかけたものを取り戻そうとしていた。


ある日、そのNPOの事務所に、一人の女性が訪ねてきた。

やつれ、すっかり様子の変わった、壬生えりかだった。


「…田中くん」

久しぶりに会う彼女は、かつての自信に満ちたオーラを完全に失い、まるで嵐に遭った難破船のようだった。


「壬生さん…」

田中は、言葉を失った。


二人は、近くの公園のベンチに座った。気まずい沈黙が流れる。先に口を開いたのは、壬生だった。


「私、ずっと考えていたの。…何が、間違っていたんだろうって」

壬生の声は、か細く、風に消え入りそうだった。

「私は、山本あづささんの無念を晴らしたかった。それは、本当よ。でも、いつの間にか、物語を面白くすること、敵を打ち負かすこと、視聴率を取ること…そっちが目的になっていた。あづささんの死を、私はただ、自分の物語のために『利用』しただけだったのかもしれない」


それは、田中がずっと彼女に抱いていた疑念、そのものだった。


「あなたを裏切って、週刊誌に話したこと、後悔してないと言えば嘘になります」

田中は、正直に言った。「でも、あのままじゃ、本当に取り返しのつかないことになっていた」


「分かってる」

壬生は、力なく笑った。「あなたは、正しかったわ。私を止めてくれて、ありがとう」


その言葉は、壬生が初めて見せた、心からの弱さだった。田中は、なぜか胸が詰まるのを感じた。


「壬生さんは、これからどうするんですか?」


「さあ…。もう、テレビの仕事に戻るつもりはないわ。私には、その資格がない」

壬生は、空を見上げた。「ただ…一つだけ、やり残したことがあるの」


**2**


数日後、壬生は一人、ある場所に向かっていた。

緑ヶ丘中央総合病院の、職員用の通用口だ。

彼女は、何日もそこに立ち続け、一人の人物が出てくるのを待っていた。


そして、その日は来た。

白衣ではなく、地味な普段着に身を包んだ、園田初恵だった。彼女は、壬生の姿を認めると、一瞬、体をこわばらせたが、逃げようとはしなかった。


「…今更、何の御用でしょうか」

園田の声は、静かだった。


「謝罪に、来ました」

壬生は、深く、深く、頭を下げた。

「私は、あなたという一人の人間を、悪魔に仕立て上げました。あなたの背景や、葛藤を、知ろうともしませんでした。報道の名の下に、あなたの人格を、尊厳を、踏みにじりました。本当に、申し訳ありませんでした」


園田は、何も言わずに、壬生の頭を見下ろしていた。

長い沈黙の後、彼女は、ぽつりと言った。


「…顔を、上げてください」


壬生が顔を上げると、園田は、番組で見たあの冷酷な表情とは全く違う、ただ疲れ切った中年女性の顔で、静かに立っていた。


「…あなたの報道が、正しかったかどうか、私には分かりません。たくさんの人が傷ついた。病院も、めちゃくちゃになった。…でも」

園田は、言葉を切った。

「でも、もし、あの番組がなければ、私たちは、あづさちゃんの死を『仕方のないこと』で終わらせていたかもしれない。誰も、何も変わらないまま、第二、第三のあづさちゃんが、生まれていたかもしれない。…あなたたちがめちゃくちゃにしたから、私たちは、もう一度、ゼロから始めなきゃならなくなった。…それは、もしかしたら、必要なことだったのかもしれない」


それは、赦しの言葉ではなかった。しかし、単なる憎悪の言葉でもなかった。

壬生のしたことを肯定も否定もせず、ただ、起きてしまった現実として受け止めるという、あまりにも重い言葉だった。


「もう、行ってください」

園田はそう言うと、壬生に背を向け、ゆっくりと歩き去っていった。

壬生は、その背中が見えなくなるまで、ずっと、その場に立ち尽くしていた。


**3**


壬生えりかのその後の人生を、誰も知らない。

ただ、田中は、一度だけ、遠くから彼女の姿を見かけたことがある。

それは、山本あづささんの月命日に、彼女の墓前で静かに手を合わせる姿だった。その横顔は、贖罪を求める巡礼者のように、穏やかで、そして、ひどく孤独に見えたという。


物語は、終わった。

しかし、答えは、どこにもなかった。


報道は、本当に社会を良くすることができるのか。

真実を伝えるという大義は、誰かを傷つけることを正当化するのか。

そして、私たちが信じる「正義」とは、一体、何なのだろうか。


その問いは、まるで消えることのない灯火のように、今も私たちの心の中で、静かに燃え続けている。

そして、その光の前で、私たちは皆、永遠に試され続けるのだ。


(了)

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『灯火(とうか)は誰のために』 志乃原七海 @09093495732p

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