潮汐の足おと

野木千里

潮汐の足おと

 エンジンの振動と潮の香りが心地いい。


 9月も終わりに差し掛かる頃、ふと思い立ってツーリングに出かけることにした。相棒は中古のバイク。大学が人生最後の夏休みとはよく言ったもので、今年就職したサークルのOBは度々俺のバイト先の居酒屋で酒に溺れて泣いている。


ーーお前も再来年にはこうしてここのカウンターで泣くんだよ。


 枝豆とビールしか注文しないのに、学生相手に説教するオッサンにだけはなりたくない。

 最終学年の夏休みなど運が悪ければ就職活動に消えるだろうし、先輩の姿にちょっとした危機感も抱いた。

 俺の最後の夏休みになるかもしれない。

 ふと暑さが和らいだのを見て、俺はバイクに跨った。特に行き先は決めなかった。帰るまで二日かかろうと三日かかろうと特に気にしないでいいように、店長には一週間休むと伝えた。


「ま、みんな帰省から戻ってきたし、お前が迷子になったら迎えに行ってやるよ!」


 店長は俺の一週間の不在をデカい笑い声と共に許してくれた。


 キラキラと太陽光を反射する波が眩しい。

 自販機を見つけた俺は、寂れた漁港にバイクを停めて海を眺めた。見たことのない名前のソーダを飲み、ぼんやり海を眺める。大二病ってやつだ。海辺で育ったわけでもないのにノスタルジックな気分に浸る。慣れない磯の香りは思ったより嫌いじゃなかった。


「おにーさんこんなとこで何してんの?」


 声をかけられて振り返ると、色の白い女子高生がキラキラとした目で俺を見ていた。

 真っ白いシャツとチェックのプリーツスカートを着ていなければ、同い年くらいだと思ったかもしれない。発育が良いわりに細い手足が、大学に入ってダイエットを覚えた女みたいだ。肩甲骨まで伸ばされた黒い艶やかな髪さえも、大人っぽく見える。


「ツーリングだよ。君はここらへんの子?」

「うん。そこの……ほら、見える? あそこの岩のあたりに家があるよ」


 女の子の指さす方を一緒に見ると、確かに家があった。

 山と海の間にわずかに陸地があって、そこに家が立ち並んでいる。マリンブルーと古びた木造の家は写真にすればめちゃくちゃ映えそうだが、実際に暮らすことを思うと不便そうだ。満潮になればあの村と漁港を繋ぐ石畳には海水が流れてくるのか、小さな貝が岩の隙間に入り込んでいるのが気になった。


「すごいところにあるな。台風とか大丈夫なの?」

「うん。てかさぁお兄さんってオカルトの人?」


 突拍子もないことを言う子だ。俺が顔を顰めると、彼女は海を見た。


「ここ、人魚伝説あるんだよ。満月の夜に人魚が出るんだって」

「へぇー」

 きっと神社か何かがあるのだろう。地名と人魚、という文字を入れるがそんな話は出てこない。代わりに出てきた写真を見て、俺は振り返った。


「あそこのトンネルはでるらしいけど」

「えーっ何それ怖い!」

 両手で頬を覆って俺を見上げてくる。女子高生特有のあざとさが可愛い。


「ほら」

「やだぁ! いつも通ってるのにー!」

「じゃあ大丈夫じゃん」

「私ここ朝市に行くのに通るんだよ!?」


 リップクリームも塗っていない赤い唇を突き出して拗ねた様子を見せびらかしてくる。ちょっと高校生にしては不自然なくらいに天真爛漫だ。


「お兄さん、朝市行ってみる? 手伝ってくれるなら獲れたての魚、焼いてあげるよ」

「えーいいけどー……」

 多分この様子だと泊めてくれそうだ。日も傾いてきたし、この美少女に魚を焼いてもらえるなら無償労働も悪くないだろう。


「私、なぎさっていうの。お兄さんは?」

「俺は将洋しょうよう。将軍の将に太平洋の洋」

「海にご縁があるね! いい名前」


 凪は頬をほんのり染めて目を細めた。こんな田舎だから普通の子なだけで、きっと大学生や社会人になって都会に出たら、あっという間にド派手なアゲハ蝶みたいになってしまいそうだ。

 見た目からしてあと一年。さなぎみたいな凪は妙に色っぽく見える。


 少し湿った石畳を辿り、夕焼けの道を歩く凪を追う。少しぬかるんでいるのにそんなことを気に留めない様子が魅力的だ。


「凪ちゃーん! お客さんかいー?」

 村のおばあさんが微笑ましそうに凪に声をかける。

「うん! 明日朝市手伝ってくれるってさー!」

「そしたら、おばちゃんおかずいっぱい持って行ってあげようねぇ」

「ありがとー!」


 どう見ても成人男性が女子高生の家に泊まっていいわけないだろ。しっかりしろおばちゃん。

 おばちゃんは大皿にいっぱいの肉じゃがを持ってきてくれた。山みたいな野菜も一緒だ。

 凪は作っておいた出汁におばちゃんからもらった茄子を放り込み、オクラを茹でて食卓に出してくれた。器用に豆腐を手の上で切って冷奴まで提供される。


「おぉー豪華! ありがとう凪ちゃん」

「まぁねー! ほら、お父さんも食べちゃって」


 凪の親父さんは俺が泊まると言ったら「そうか」と言って黙って風呂を沸かしてくれ、凪が作る食事をおとなしく食卓で待っていた。俺が麦茶や皿を出しているのに山のように動かない。

 別にいいけど、昭和の頑固親父って感じ。両親共働きで度々親父の手料理を食べてきた身からするとちょっと衝撃だった。映画やドラマだけの世界ではないらしい。


 凪は茶碗にいっぱいに白米を盛り、一番多いのを俺に、次に多いのを親父さんに、一番少ないのを自分の前に置いた。

「そう言えばさ、将洋さんって大学生? 社会人?」


「大学生だよ。近くの大学に行ってる」

「大学で何やってるの?」

「経済学。凪ちゃんは高校生だよね? 進路とか決めてる?」

「うん。今三年生なんだけど、卒業したら漁協に入るんだ」

 この辺りから出ないのか。ちょっと勿体無いような気がする。ただ、受験勉強のない高校生活などもはや消化試合だろうし、毎日遊べて楽しいだろう。


「将洋さんは男だから就職決まんなかったら漁師になれるね。このへん結構獲れるから儲かるよぉ。あっちの住宅街で家買っておっきい車持ってる人何人もいるし」

 一瞬で頭の中に空想の家族生活が頭に浮かんだ。


 アルファード現金一括購入の俺。海に出る俺。美人の嫁と可愛い三人の子ども。そしてあったかい手料理の並ぶ食卓。

「それ、プロポーズ?」

 からかって凪の顔を覗き込むと、彼女は真っ赤になって頬を膨らませた。


「ちょっとぉ、やめてよぉ」

 お茶碗にたっぷり盛られたご飯を誤魔化すようにつまんで、凪は口を尖らせた。

 脈ありなのでは?

 鼻の下を伸ばす俺をよそに、彼女は上機嫌に振り返った。 


「あ、そうだ。ご飯食べたら人魚スポット案内してあげる! めちゃくちゃ綺麗な場所があるんだよ」

「へぇ、じゃあせっかくだし行こうかな」


 親父さんは娘が夜に男と出かける約束をしているのに、特に何も言わずに風呂場に向かってしまった。放任主義にもほどがある。

 二人で並んで食器を片付けていると、凪は「お客さんなのにごめんねぇ」と懐っこい笑顔で笑った。俺がわざと小指と小指をぶつからせると、真っ赤になって俯く。


 いやもうこれワンチャンどころか確定で付き合える。


「凪ちゃんって誕生日きた?」

「あー、うん。六月に……」


 とりあえず犯罪にならないことを確認しておこう。流石に手を出すまではいかなくても、夜二人で出歩いてしょっ引かれるのはごめんだ。

 皿を洗い終わって外に出ると、海からの風でぐっと冷え込んでいることに気がついた。砂浜から少し離れた場所にあったはずの石畳がほんのわずかに浸水している。月明かりに照らされてなんとも幻想的な光景だ。

 思わずため息をつくと、隣で凪が笑った。


「今日は特別潮が高いね。本当に人魚見られるかもよ」

「いいね。どこら辺がおすすめスポットなの?」


 凪は一歩俺より前に出て、嬉しそうに海を眺めながら石畳を進む。サンダルを履いた足が水を跳ねさせて、パシャパシャと音を立てる。それでやっと違和感に気づいた。


「波、ないんだね」

「夜の間だけだよ。綺麗でしょ」


 湖みたいに静かな海に、丸い満月の光が反射している。息を呑むほど美しい光景だ。ひんやりとした海水も心地良い。

 白いシャツに短パンを履いた凪は、確かにこの景色によく馴染んでいて、まるで人魚みたいに綺麗だった。


「あそこだよ」


 石畳を超えて少し山側の岩場に、潮に濡れていない場所があった。そこは少し突き出た形をしていて、陸を背にすると280度オーシャンビューの絶景だ。

 凪は度々ここに訪れているのか、キャンプ椅子が放置してある。潮に負けてすっかり錆びついたそれも雰囲気がある。


「お父さんね、ここですっごい美人を見たらしいよ」

「いいね、夢ある」

「将洋さんはさ、人魚、信じる?」


 んー、と口の中で返事をする。

 肩を抱き寄せたら柔らかくてあったかかった。

 キラキラと月が反射する瞳が綺麗だ。告白は後回しでいいか。


 凪は不思議そうに顔を近づける俺を見ている。それか、期待に頬を染めている。

 うっすら開かれた唇にかじりつこうとした時。


ーーちゃぷ


 いる。

 なにかが俺たちを、いや、確実に俺を見ている。どっと汗が吹き出し、腹の底に氷を投げ込まれた気分になる。生唾を飲み込む余裕もなく、海を見る。


 暗い海。反射する月明かり。

 海に丸くぽっかりと刻まれた月からゆっくりと何かが顔を出しだ。


 人の、頭。


 暗がりなのに不思議と姿がよく見える。

 首から上が精巧な日本人形のような顔。濡れた黒髪からはつんと磯の香りが漂ってくる。濡れた髪が張り付いた体は青白いまでの肢体に張り付いている。


 ソレが笑った。唇から覗く歯は小さく鋭い。

 吐き気を催すほどの醜悪な笑顔。関わってはいけない存在。人間では決して太刀打ちできない不気味さがある。


 人の形をしている。

 人のふりをしている。

 誰かが喜ぶ姿をしている。


 ソレは、恐ろしく長い尾を持っていた。うねる尾が海面から飛びだし、水飛沫をあげ、龍でもそこにいるみたいだ。

 みるみるうちに尾は小さくなり、女のしなやか足になった。


「ーーあ」


 ソレは当然のように岩場によじ登ってきた。ひた、ひたと水かきが岩を捕まえる音が聞こえた。


「う、あ、ああぁ……」


 声が出ない。体が動かない。頭が、ソレの存在を理解すること拒む。

 女は俺に向かってにっこりと微笑んだ。


「お母さん」


 岩場に登ってきた女に、凪は高揚した声をあげた。

 甘えるようにくっついていた俺を押し退け、女に向かって近づいていく。


「ああ、会いたかった! お母さん、お母さん! ねぇ、今度はちゃんと精のある男だよ! あのねあのね−−」


 凪の次の言葉はなかった。

 ポテチでも食べるみたいに、女が凪の首を噛みちぎったから。

 女は凪を一瞥すると、手を一振りした。たった、それだけ。


 盛大な血飛沫をあげて、一人の人間がバラバラにちぎれて岩場に飛び散った。鉄くさい臭いがあたりに立ち込め、俺は無意識に嘔吐していた。そんなことはどうでもいい。ここから逃げないと。


 女と目が合った。開き切った瞳孔が不気味で、肌はイルカやクジラみたいに不自然に艶がある。首筋にエラが見えて、それで、


ーーこんな美人は、今まで見たことない。


 女の白い腕が俺に絡みつく。やばい。気持ちいい。

 やわっこい唇。冷たくてしょっぱい。


 うっすらと目を開ける。ずっと開いたままの目。


「ヒッ!!」


 急に我に返って俺は女を突き飛ばした。凪が殺されたのになんで今全部忘れてしまったのか。目の前で殺されてものの五分も経っていない。


 殺される。


 とっさにその場に落ちていたものを掴んで、村に向かって全力で走る。ぬるつく岩場で転んで腕を擦りむいた。歯軋りするような黒板をかきむしるような音が背後から聞こえる。嗤ってる。


 なんのためのキスだ? いや、捕食行動か? それならなんで俺は食べられなかったのだろう。

 いや、全部どうでもいい。あいつは尾を足に変えられた。追ってこようと思ったらすぐに追いつかれる。


 逃げろ、逃げろ。


 水に濡れた石畳を走りながら、遠目にうねる海を見る。

 俺はソレを持ったまま、防波堤を乗り越えてバイクに飛び乗った。





ーーーーーーーー


「将洋、お前ツーリングどうだった?」


 ゼミの友人に問われて、将洋は少し気だるげに口角をあげた。いつも遊んでいるメンバーが集まる飲み会だが、夜通しバイクを走らせたという彼は少し眠そうだ。


「あー寝るとこなくて、ずっと走ってた」

「マジか、やべぇな」


 男ばっかり集まった飲み会の食事はいつもそっけないものだが、今日は一味違う。将洋が通りすがりの漁師と仲良くなって、クジラ肉をもらってきたらしい。一人暮らしも三年目になると唐揚げくらいは揚げられるようになる。


 母親に持たされた牛肉を持ってきた仲間の一人が、ペッパーランチにしようと息巻いてリビングでホットプレートを広げている。普段の将洋ならキッチンでやれと文句を言うところだが、今日は文句も言わずに油と向き合っている。


「ちょっと味見ー」

蓮斗れんとお前ほんとやめとけよ」


 牛肉を持ち込んだお調子者が将洋の唐揚げを一つつまんだ。友人が止める間もなく、彼は口に放り込んで満足そうだ。


「うわ、昔食った時より柔らかくて美味い! しゅうも食っちゃえ」


 蓮斗は唐揚げをさらに一つつまんで、顔を顰める修の口に押し込んだ。男に食べ物を食べさせられたくないのか、不快そうな顔をしていた修だが、唐揚げを口に入れた途端に目を輝かせた。


「確かに全然臭くなくて美味い。な、将洋! これもう出しちゃっていい?」

「ああ、いいよ。俺はこっちの揚げたて食べるし」

「了解〜」


 皿に適当に盛られた唐揚げに、リビングで調理をしていた友人たちが歓声を上げる。それをじっと見ていた将洋は、唐揚げを油から取り出して火を止めた。

 そして、美味しそうに肉を頬張る友人たちを見て、心から嬉しそうな笑みを浮かべた。

 友人たちを映す黒の瞳は、凪いだ海のように穏やかだった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

潮汐の足おと 野木千里 @chill-co

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ