日はとっぷりと暮れている。スティックチキン程度じゃお腹は満たされず、今にもワガママに暴れ出しそうだ。

「腹減ったー」

 流風るかが北斗七星を指でなぞりながら言った。

「どこかで食べていかない?奢るし」

 横を見上げると、赤い黒眼くろめと目が合った。

「……ふぅん」

 意味ありげな顔で、何だよ。

 会社から大通りを真っ直ぐ進み、松葉のように分かれ道になっている所で彼は立ち止まった。

「こっちから帰ろうぜ」

 川沿いの道を指す。

「あそこの桜、せっかくだから見ていこう」

「河津桜だから、散ってる頃だと思うけど」

「いいんだよ」

 こちらの返事を聞く前に歩きだしたので、小走りで背中を追う。

 実際、河津桜は散り際の頃だった。

 ガードパイプの向こうには、花びらが水面で花筏はないかだを作っており、街灯に照らされたその塊は、何だか妖しげな新種の生き物にも見えた。

「やっぱり見頃はとっくに過ぎてるね」

「セーフだな」

「え?」

「全種類楽しめるじゃん。咲いてるの、散ってるの、落ちてるの」

 なるほど。そういう見方もある。

 まだまだ薄寒い風が吹いた。暗闇の中、色を失った花びらがザァッと舞い、黒いシルエットの流風にまだらに散って、落ちた。

 思わず足を止めた。

 ――絵になるなぁ。

 白と黒、うん、やっぱりハスキーだ。

「ワン」

 無自覚に声に出ていたらしい。大きなハスキーが、怪訝そうに振り返る。

「どゆこと?」

 犬語が通じるかな、とか思ったことは内緒にしておく。その背中に再び小走りで追いついて、何事もなかったかのように話を続ける。

「……とかの商品を扱ってる例の会社、タケザキペットって言うらしいよ」

 そして、今日会社で気づいたことを、一つずつ、自分でも確認するように話した。流風は腕を組み、トントンと自分の二の腕を指で弾いた。

「結局、どっちなんだろうな。スナイパーか、足音だけの人か」

「うーん。足音だけの人だったとして。何で、わたしを追いかけてたんだと思う?」

「……まぁ。魔法関係だろうな」

「じゃあ、どっちにしろ状況変わんないじゃん」

流風が頭の後ろで腕を組んで、小さな星の散らばった空を見上げた。

「元魔女って可能性は?」

「どうだろう。名前で辿れば出てくるのかな。こないだ、りーちゃんが怪しい人を調べてくれてたんだけど。十年分くらい」

「うぉ。ひとりで? やっぱすげぇな、リリアさん……おっと」

 今度は流風が立ち止まった。

「ここだけ満開だわ」

「おぉ……」

 待っていてくれたかのような見事な咲きっぷりに、思わず声が出る。

 樹高が低いせいか、見上げたすぐそこにしっかりとしたピンク色の花が無数咲き乱れていて、何気なく手を伸ばそうとした、その時。

 ビキィーーーッ!!

 背中に、雷が落ちたみたいな衝撃が走った。

 息ができなくなって、地面に腕をつき、うずくまる。

「え? おい!」

 不覚。

 喉元どころじゃない。ちゃんと手元にあったのに、またまた忘れていた。二十代だし、なんてどこか軽くみていたんだ。

「おい、大丈夫か?」

「ウー……イー……」

 呻き声しか出てこない。

 空気は冷えているのに、冷や汗だか脂汗だかわからないものが、じわじわと額に浮かぶ。

「ウー……いったぁー……」

 何だこれ、肺の方まで痛い。土の匂いを間近に感じつつ動けないでいると、流風の気の抜けた声が降ってきた。

「腰ですかー? 腹ですかー? じゃあ、背中ですかー?」

 わたしは、どうにか動かせる指先をピン、と立ち上げた。

「何でそんなとこ。運動不足?」

 否めない。

 体力をつけねばと思ってジムに登録はしたものの、三月に入ってからは忙しく、怠りがちだったから。だけど、発症のきっかけは。

「センパイに……」

 正直、言い方はまずかったと思う。直接やられた訳じゃないし。でも、声を出すと痛くって、言い直す元気はなかった。

「先輩って、爽やか発光体のこと?」

 彼は質問しておきながら、勝手に口をつぐんだ。しばらく痛いくらいの沈黙を頭頂部に受けたのち、ため息と共にこう持ちかけられた。

「手当の魔法、しとこうか。痛みは取れる」

 だけど、わたしは指先を上げられない。使われる魔法は平等に一個。これ以上、わたしのために魔法を無駄にしてほしくない。

「これだけは、許可なしでやっていいって知ってる?」

 ゆっくりと指先を上げる。

「その状態で、どうやって帰るんだよ。頑固だな」

 呆れた声がこめかみにツーンと響いて、くらくらした。

「寒いんですけどー」

 頭を指先でつつかれる。

「楽になっちまいな」

 悪魔の囁き。でも、だめだ。

 もし。もしも、それが流風の最後の魔法になったらどうする?

 笑えない、立ち直れない。

 わたしは、恐る恐る大きく息を吸った。

「もう、大丈夫。先、帰ってて、いいから」

「……ふぅん」

 何拍か置いて、彼はきっぱりと言い切った。

「ウソだね」

 うずくまるわたしの正面に、彼がしゃがむ気配がした。そして背中に、記憶に新しい手の感触を覚えた。

 慌てて身をよじろうとしたけど、姿勢を変えると激痛が走る。喋るどころか、呼吸をしても痛い。でも、瀕死なりに必死で抵抗した。

「流風、ダメ……しないで!」

 だけど次の瞬間、ホットパックを当てられたような温かさが、背中全体を覆った。

 手当の魔法だ。

 どんどん痛みが引いていく。早い。天才と言われる所以がわかる。

 それと並行して、喘ぐくらいの悔しさが押し寄せてきて、コントロールできない量の涙がボロボロと溢れてきた。自前で傷つくっといて、大事な魔法使わせて、スナイパー事件にまで付き合わせて、何てハタ迷惑なやつなんだよ。

 背中の痛みがなくなった後も涙は止まらず、土の上にペタンと座り、泥だらけのまま嗚咽しながら謝った。

「ごめん、ごめん、ごめんってばぁ」

 歪んだ世界で流風が笑う。

「ばぁか。なんで三ツ稀みつきが謝るんだよ。俺が嫌だったの。勝手にやった。ごめん」

「うぅ……ごめんー、ごめん……」

「だから謝るなって。俺、すっげーだせぇじゃん」

「うぇぇぇーー……」

「もう、泣くなよ。悪かったってば」

 泣くな、と言われてすぐに嗚咽が止まる訳もなく、しばらくグズグズ言っていると、頬をつねられた。

やぁらけ」

 反射的に手を振り払う。

「何すんの!」

「おぉ、戻った」

 袖で涙を乱暴に拭って顔を上げると、ニヤニヤしながらこちらを見ている、赤い黒眼と再び目が合った。彼はわざとらしく、片眉と唇を同時にねじ曲げて言った。

「あのな、俺は運命の子なの。そんな簡単に魔法がなくなったりしないの。そう、聞いてる」

 手を伸ばして、わたしの涙の跡を拭う。

「それに、例え今ここで魔法が無くなったとして、三ツ稀が悲しむことなんてひとつもないんだ。極端なこと言うと、俺にとって魔法は共同生命体みたいなもんだから。自分以外の何かに、人生を左右させる気はないから」

 頬に添えられたままの手のひらの熱が、残った涙を乾かしていく。

 流風は強い。

 その強さの背景に何があるのか、わたしは知らない。好きなものも嫌いなものも、どんな風に生きてきたのかも。

 月が雲にすっぽりと隠れた空の下、黒紅色の瞳が、鈍く揺れた。

「お前さ、約束覚えてる?」

 考える間もないまま、流風の顔が吸い寄せられるように近づき、そして、唇に触れるか触れないかくらいのところで止まった。

「ウソついたら、キスするって言った」

 一瞬、なんの冗談かと思った。

 あんな約束が有効だなんて、誰も思わない。

 でも、その表情はさっきまでと違って全然ニヤニヤしていないし、どっちかっていうと真顔だし、本気だったんだと分かって、声を失うほど驚いた。

 だけど、それ以上に驚いたのは、骨ばった指が涙の跡をさする度に、間近で呼吸を感じる度に、距離感を狂わす麻薬に侵食されていく自分の体。

 意思の範疇じゃないところで勝手に手が伸びて、目の前の体に近づき、触れようとする。

 見つめる赤い黒眼がいつになく優しげで、ふと我に返り、頬を染めて手を引っ込めた。

 あれ?

 わたしって、こんなに流されやすかったっけ?

 彼の親指が、頬を伝って口元の輪郭をなぞる。

「言ったからな」

 そう発して、掬うように唇を重ねられた。

 今度はしっかりと、その感触がわかるくらいに。

 熱い吐息で体が痺れる。

 これは、何のキス?

 わたし、何でキスされてんの?

 なんで……。

 理由が判明するより先に、流風の匂いが体を満たした。それは動けなくなるほど甘くて、満足したかのように、勝手に瞼が落ちる。

 そして、わたしは考えることを手放した。

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誰かにとって、魔法はデザート @mi---sa

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