最終話 あなたに守護天使のキスを
なかからアーニャがとびだしてきた。消耗し、憔悴した顔だ。
汗を飛ばしてふりかえり、大アーチスクリーンを見やる。アーニャの映像は、ヘッドセットの接続が外れて明滅をくりかえしている。
「……の阿呆!」
アーニャは筐体の反対側へと走り、義孝のいる殻のハッチに取りついた。非常弁をまわして、油圧式の把手をひっぱる。
ハッチが跳ね上がるのももどかしげに、アーニャは上体をなかへつっこんだ。
「義孝!」
殻の内部は、コンソールの仄かな光につつまれていた。
照らされる義孝は、シートに座ったまま、身動きひとつしない。
アーニャは義孝のヘッドセットをむしり取った。肩をつかんではげしく揺さぶる。
「義孝、だいじょうぶなん!? 生きてるん!?……ちょっと、なんか返事しい!」
「……生きてるよ……」
「……!」
「外電圧の過負荷で、映像のフィードバック回路がいかれたらしいが……こっちのモニターで見てみるか?」
「なっ……」
アーニャの声が震えた。
「なんですぐ出てこおへんの! なんて無茶するんや! 直撃受けてたら、死んでたんやで!」
「……心配してくれたのか? おまえが俺を?」
「あ……阿呆! 対戦相手が無茶して死んだら、寝覚めが悪いだけや!」
アーニャはあわてて、目の端からこぼれる涙をそででぬぐった。
義孝はコンソールを指先でたたいた。内部のモニターに明かりがともり、数字と着順が並ぶ。
彼はそれを読んだ。
「おまえより三秒二九、早かった。リタイアじゃない」
「勝者、
司会が、甲高い声で叫ぶ。
MM1は、またたく間に歓声と熱狂につつまれていった。
『若き天才』アーニャに賭けてくやしがるもの、『最強のプレイヤー』復活に涙まで流して喜ぶもの。
だが、義孝が最後にとった「戦術」には、誰もが感嘆していた。不可能を可能にした勇敢さ、豪胆さに誰もが拍手と称賛を惜しまなかった。
彼らは、義孝がきわどい死の谷間から生還したことに興奮していたのだ。
……そして、殻から出てきた義孝は、観衆の声援に応えることもなかった。
(俺は、たしかに雷の直撃を受けたはずだ……)
ハッチに腰をおろし、あの瞬間を思いだす。
炸裂した爆撃のような光と、肉体がばらばらに砕け散るような衝撃。
(命は失くしても、誇りだけは取り戻せると、あのとき思った……)
なのに、どうして無事だったのか? それに、稲妻とはちがう、あの暖かくてやさしい光はなんだったのか。
彼を包んでくれた、破滅から守ってくれた光は。
義孝は目をとじた。
考えなくてもわかる。心で感じとれる。あのやさしさは、彼のよく知っているやさしさだったのだ。
人の意識を肉体から切り離し、魂だけでレースをおこなうキャノンボールシステム。
あの淡い光につつまれた瞬間、今は亡い妹の声さえもが、聞こえた気がした――
「……よう、あんな無茶ができるわ」
その声に、義孝は顔をあげた。
「あんた、ほんまに阿呆やね」
アーニャが、殻の壁にもたれて立っていた。
「まともなやつには、あんな真似はできへん……」
見つめる瞳に、もう挑戦的な光はなかった。
義孝は苦笑いした。
「阿呆でいっこうにかまわんさ。なにしろ『天才』を出し抜けたんだからな」
「なっ……そ、そんなんとちがう! 関西弁の『阿呆』ゆう言葉には、いろんな意味があって……!」
そこまで言ってから、アーニャはぷいとそっぽをむいた。
「なんでそんなこと、いちいち説明せなあかんのん。それこそ阿呆らしいわ」
「……あの夜は、すまなかった」
唇をとがせらた少女の横顔に、義孝はつぶやいた。
アーニャの身体が、かすかに震えた。
「俺はどうかしていた。どう詫びればいいのか、わからんくらいだ……もし、それで気がすむのなら、好きなだけ殴ってくれてかまわん」
「………………べつに……いまさら殴る気ぃも起きひんけど……。もう絶対に、二度とあんなことせえへんて、誓える?」
「誓う。絶対に、二度と、あんな乱暴な真似はしない」
しばらく間をおいてから、アーニャはぽつりといった。
「うち、ひどいこと言うてもうた……」
「何が?」
「きちんとした事情も知らんと、あんたに、ひどいこと言うてもうたやん……誇りを金で売った、とか、負け犬や、いうて……」
「ひどくないさ。事実、俺は負け犬だったんだ」
義孝の表情はおだやかだった。
「もう少しで、本物の負け犬にまで成り果てるところだった……立ち直れたのは、おまえのおかげだ。感謝してる。……ありがとう」
「…………」
アーニャは、勝者を祝福しに舞い降りてくる妖精たちへ指をのばした。
なにも応えぬその頬が、急速に赤く染まっていく。
義孝は、その美しい横顔をまぶしげに見つめた。
「ところで、アーニャ。明日はなにか予定はあるのか?」
「え?……ううん、なんもないよ」
「なら、ふたりで食事にでもいかないか。どこか、気のきいた、落ちつけるところで」
ゆっくりとふりむいたアーニャは、義孝の顔をまじまじと見つめた。
「……それって、ナンパ?」
義孝は苦笑いした。
「気のまわしすぎだよ。単にそういう気分ってだけだ」
「なんや、つまらん……あ、いや、そやなくて!……ええと……あの……それ、ほんまに気のきいた、落ちついたとこなん?」
「ああ。ずいぶん行ってなかったがな。いい店を知ってるんだ」
「……うちをレディとして大切に扱うて、あんたが全部エスコートしてくれる?」
義孝は内心苦笑した。こいつ、本当はそういうのに憧れていたのか、と思う。
義孝はうなずいた。
「……なら、いってもええよ」
アーニャは口元をほころばせた。
その微笑は、柔らかく咲き開いた花のようで、期待に満ちていて、うれしそうだった。
「よし、決まりだ」
義孝は腰をあげた。
筐体から降りたふたりへ、熱狂的な拍手が送られた。義孝の勝利を讃える歓声がMM1にこだまする。
義孝はようやくそれに手をふって応えると、いっそう高まった歓声を背に受けながら、トラックの階段を降りていった。
〈終〉
天使は電磁波の夢を観る 白井鴉 @shiroikaras
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