真夜中カフェ(元)魔王

真楠ヨウ

OL・ミーツ・魔王

 橘明音たちばなあかねが初めて『その店』に出会ったのは、まだ寒い秋の夜のことだった。


「つっかれたぁ……」


 残業の帰り道。むくみと疲労が溜まった身体をズルズルと引きずりながら、げんなりとぼやく。


 間一髪、終電に間に合ったのは果たして幸運と呼ぶべきか否か。いや、そもそもこんなうら若き乙女(明音のことだ。もちろん)を、夜更けすぎまで残業させる職場の方がおかしいのだ。ちくしょう、あんな会社いつか絶対に辞めてやる!


 などと息巻いたところで、転職のアテがあるわけでもなし。そもそもこう忙しくては、転職活動などする暇もない。それよりなにより差し当たって、当面の問題といえば──


「おなかへった……」


 そんな明音の呟きに応えるように、ぐぎゅるる……と暗い夜道に、あまり可愛げのない腹の虫が鳴り響く。せめてどこかのコンビニで買い物でもして帰ろう。そんなことを思いながら明音がよたよたと夜道を歩いていると──不意に『それ』が目に飛び込んできた。


 木造住宅の二階建。外見だけなら、さして広くもないごく普通の一軒家である。造りの古そうな木の扉。その上にちょこんとかけられた看板と『Open』の掛札。

暗くひとけのない住宅街の中にあって、まるでそこだけが童話の世界を切り取ってきたような。不可思議な印象を持つ店だった。


 どこか味のある古ぼけた木の看板には、意外な達筆で店名が書かれていた。



『真夜中カフェ(元)魔王』



「えぇ……?」

 外見をはるかにぶっちぎった予想外の店名に、思わず困惑して呻く。魔王ってなんだ。


「あー……これは、その、あれだ。不味い店とか、多分そういうノリのやつだ。うん」

 なんとかそれらしき理由を見つけて、無理やり自分を納得させる。うん。そうだ。きっとそうに違いない。


 そう考えると、何も疑問はない。逆に興味が湧いてきた。

 だってほら。お店からはこんなにいい匂いが漂ってくるし。私、お腹空いてるし。それに何より、こんな可愛らしいお店なのだ。きっとご飯だって美味しいに違いない。


 明音は少しワクワクしながら店の扉に手を伸ばした。そして──



「……よくぞ来た。歓迎するぞ。人の子よ」


 

 魔王がいた。本当にいた。


 それはどこからどう見ても間違いなく、びっくりするぐらい完璧な魔王だった。


 ゾッとするほど鋭い──明かに過去にダース単位の国を滅ぼしているであろう鋭すぎる金色の眼差し。頭部から直接生えた、明かにイミテーションじゃない迫力を持つツノ。そして何より──圧倒的な魔のオーラ。


 偽物だとかコスプレだとか、そんな可能性は微塵たりとも考えなかった。こうしてただ向き合っているだけで、二十四年間ついぞ目覚めることのなかった明音の生存本能が、ガンガンと最大限に警報を掻き鳴らしている。目の前の存在が種の頂点に立つモノ──即ち、と。


 魔王だ。魔王がいる。異界への門も目も眩むような閃光も、怪しい呪文も謎の古代召喚陣もなにもなかったのに。ついでに言えば、トラック転生も勇者や聖女の召喚に巻き込まれた覚えもないのに、本当に魔王がいる。深夜の都内のカフェに。いや、なんでだよ。


 何一つ意味が分からなかったが、思考よりも迅速に身体は動いていた。明音は開いたままの扉を──命綱のようにしっかりと握りしめていたドアノブを、ごく自然に手前へ引き戻す。


「──あ、すみません。間違えました」

「待たんか」

「ヒィ」


 何事もなかったかのように颯爽と扉を閉めようとした瞬間。目にも止まらぬ光速で眼前に現れた魔王に、ガッと扉を押さえられた。


 一瞬で間合いを詰められた。

 人間とは思えぬ早業だった。


「わざわざ店の扉を開いておきながら、なにも注文せず帰るとは無粋であろう。今日の料理は我ながら会心の出来なのだ。大人しく食べてゆけ」

「いいいいいいえええええええ結構ですお気遣いなく!実は私、母方の曽祖母の叔父の遺言で人を種族名で呼ぶ相手には近づくなと言われておりまして……!」


 自分でも若干よく分からないことを言いながら、必死で扉を閉めようとする。ていうか人が全体中かけて閉めようとしている扉を、人差し指一本で開けないで! 隙間から虹彩が縦に伸びてる瞳を覗かせないで! 怖い怖い怖い怖い怖い怖い!


 文字通り全身全霊で抵抗するが、しかし悲しいかな。魔と人の争いは、彼我の実力差があまりに明白だった。片や種の頂点たる魔王。片やモブその一を通り越して、モブその三十七ぐらいの木っ端都民である。


 軍配はあっさりと魔王にあがった。

 即落ち二コマみたいな呆気なさだった。


 全開になった扉の前。温かな灯りと美味しそうな匂いを背負った恐怖の象徴が、呆れたように明音を見下ろす。


「そう心配せずとも、別にとって喰いなどせんわ。貴様などより、余の料理のほうがよほど美味いからな。あまり自惚れるでない」

「ええええええええぇ……」


 こともあろうに叱られてしまった。なんでだ。人類としてごく普通に人外を警戒しただけなのに。でも確かに、店の奥から漂ってくる匂いはいかにも美味しそうで。それに勝てるかと言われれば正直言い返せない。悔しい。


「今宵は冷える。そんなところでいつまでも突っ立っていないで、さっさと中に入れ」

「うっ……い、いやでも……」


 うっかり流されそうになりながらも、どうにか踏みとどまって悩む。ご飯は食べたい。でも魔王は怖い。

 そんな彼女の葛藤を嘲笑うかのように、グギュルルルルゥと、怪物の断末魔めいた音が鳴り響いた。いうまでもなく、明音の腹の虫である。


「……ああ、そうだ。言い忘れたが、当店は焼きたてパンがおかわり自由である」



 魔王からは逃れられなかった。

 


 真夜中カフェ(元)魔王。

 冗談のような店名に反して、いざ足を踏み入れてみると、なかなかどうして居心地の良さそうな店だった。


 硬い木の床は濃い焦げ茶色をしており、長年使用されてきたのか、表面が丸く滑らかになっている。店内はさほど広くない。席はテーブルが三つとカウンター席が六席。


 店の奥にある棚には明らかに地球上の言語ではない文字で綴られた本が入っており、床に敷かれたラグには一見幾何学模様に見えそうで見えない魔法陣が描かれている。壁に掛けられたおしゃれな風景画は、ときどき中の人物が動いていた。


 要所要所に若干おかしな部分があるものの、冷静にさえならなければそこまで気にならない。ちょっと営業時間が変わっているだけの、都内のどこにでもありそうなごく普通のカフェだ。


「席は自由に選ぶがよい」

 目の前の、やけにウキウキと上機嫌な魔王(仮)さえいなければ、本当にごく普通のカフェなのだ。多分。

「ええっと……」

 言われて明音は店内を見回した。といっても、さして広い店でもない。ついでにいえば他に客もいない。少し悩んだ末に、とりあえずカウンターの一番端の席に腰掛けた。そこが一番出口に近かったので。


 座る際、荷物をどこに置こうかと迷ったが、足元に荷物用のカゴがあることにすぐ気づいた。ついでにカゴの中には膝掛けまで入っていた。卓上の一輪挿しといい、気配りが驚くほど細やかである。


「して人の子おきゃくさまよ。注文は決まったか?」

「うーん、そうですね……」


 ほんのりレモンの香りがする水で喉を潤しながら悩む。絶対に客相手に使うべきではないルビについてはもう気にしないことにした。

 なんかもう、一から十まで本当に色々と言いたいこととか聞きたいととかは山ほどあるが、多分それをいちいち突っ込んでいたらキリがない。何より、あまり関わりたくない。だって魔王とか、やっぱり怖いし。


 かくなる上は、さっさと食べてお店を出よう。明音はそう決意した。幸い、お腹が空いているのは事実だし、食事をするのは問題ない。

 メニューを見れば、セットメニューが三種類とドリンク、その他に単品で頼める一品料理が数種類載っていた。これまたカフェとしてはまあ普通である。

 

・塩漬けオークとあげ茄子、トマトを乗せて。とろーり蕩けるチーズが魅惑の本格釜焼きピッツア!


・濃厚なうまみが口いっぱいに! 三種のマイコニドのラグーソースパスタ


・皮はパリッとザックザク! 一味違う、真夜中の満腹てりたまサンドイッチ


 迷う素振りをしたのは、あながち演技でもない。実際、メニューはどれもすごく美味しそうだった。


 思わず目を引くフレーズに、なんとお値段は千円均一(税込)。その上、サラダとパン(おかわり無料)とドリンクまでセットでついてくる。ランチタイムならともかく、深夜にこの内容と値段は破格だ。

 本来ならば迷う余地などないのだが。一点、どうしても無視できない所を見つけて、明音は恐る恐る口を開いた。


「……あの。すみません。食べる前にどうしてもお聞きしたいことがありまして……メニューのところに描いてある、素材っぽい絵についてなんですけど」

「ああ。それは余が書いた。当店のような飲食店においてアレルギー表示の義務はないが、そうでなくとも宗教上の理由から特定の食材を食べられない人間もいるからな。記載するに越したことはなかろう」


 なるほど。素晴らしい配慮である。たとえ強制されていなくても、食べる人のことを思って一手間を惜しまない。その心意気は見習いたい。だが問題はそこではない。明音は声の震えを抑えて続けた。


「ええと、それでですね。トマトに牙が生えているのはまあギリギリいいとして。ピザのところに描いてある豚の絵が、なんかすっごく人間っぽいんですけども……」


 二頭身にデフォルメされた豚っぽいイラストは、妙に人間みがあり、ついでに装備品まで身につけていた。二頭身なのはいい。だが普通の豚は、二頭身になっても武器とか持たない。特に食用の場合。


 ひしひしと嫌な予感がする明音の質問に、魔王はあっさり頷いた。


「うむ。それは豚ではなく豚に似たオークと呼ばれる魔物だ」

「やっぱりか!」


 抱いていた予想が的中し、明音はつい大声を上げた。

 できれば当たってほしくなかった。


「いや、待ってください。オークってなんですかオークって。百歩譲って豚が直立するまではいいとして、武装はしなくないですか普通」

「だから豚ではないというに。オークはオークだ。そのまま食べると少し獣臭いが、塩と砂糖の混合液に一晩しっかり漬け込んで肉の水分を抜くことにより、熟成されて旨みがぎゅっと凝縮される。そうして一度塩抜きした肉を、さらにしっかり乾燥して熟成させることで、ベーコンに近い味わいとなるのだ」


「違うんですよ! 知りたいのは食材としての特徴とか具合的な調理法ではなくて! ていうか、ベーコンに似ているならもうベーコンでいいじゃないですか! なんでわざわざ違う材料を使うんですか!?」

「原価を抑えるために決まっているであろう」

「反論の余地がない!」


 極めて明快かつ真っ当な理由に、明音は思わず頭を抱えて叫んだ。魔王は腕組みなどしながら、したり顔で続ける。


「昨今の原油価格の高騰や相次ぐ原材料費の値上げにより、飲食業界でも例に漏れず値上がりの波が押し寄せている。正当な値上げは確かに経済活動の一環ではあるが、同時に当店の客人にはあまり負担を強いたくはない。とはいえ、品質をさげることなどもっての外。ゆえに当店では、余が自ら獲物を狩ることで、原価をなるべく抑えておるのよ。少しでも美味しいものを、良心的な価格で顧客に提供するためにな……!」

「その方針自体はものすごく立派なことだとは思うんですが……!」


 顧客のために苦労して原価を下げる。確かにそれは、商売の基本にして究極である。だがしかし。

 だがしかし、正論だけではまかり通らぬ道というのも世の中にはあるのだ。明音の葛藤がいまいち伝わらないのか、魔王がきょとんと首を傾げる。


「おぬしは先ほどから、何をそんなに騒いでいるのだ? 確かにオークは人間界にとって馴染み薄い食材かもしれんが、別に毒などないぞ」

「いや、そうなのかもしれませんがそういうことではなくて……!」

「世の中には食べる物がなく飢えて死ぬ者もいるのだぞ。食わず嫌いは良くない」

「仰る通りでぐうの音も出ないんですが、本当にそういうことじゃなくて……!」

「ちょっとばかり豚と人の特徴を持つだけの生き物ではないか。人でも豚でもないのだから、宗教的にタブーということもなかろう」

「そのちょっとがだいぶ問題なんですよ! 具体的にはオークとやらが豚似の人間なのか、人間似の豚なのかで、人間側の覚悟が別れる分水嶺なんです!」


 正直にいえば。

 店に入った時点で、この事態を予測していなかったと言えば嘘になる。

 いくら見た目が可愛らしくて、居心地良さそうで、メニューが魅力的で、全体的に細やかな気配りができていようとも。店に入って初手で魔王にエンカウントした瞬間から、このくらいは予想していた。


 だが予想と覚悟は別物だ。

 人間似の豚と豚似の人間。


 できればどちらも食べたくないというのは大前提として、本当の本当に譲れない大前提として、それでもあえてどちらかを選べと問われれば前者だ。後者は無理。絶対に無理。宗教とか関係なく人として無理。


 力説する明音に対し、しかし魔王(仮)はいまいち納得がいかないのか、不可解そうな表情を浮かべた。


「だがおぬしらとて、極限まで空腹になれば共喰いをするではないか」

「あっ、聞きたくないです! 実話でもたとえ話でも、そういう生々しい話は聞きたくないです」


 異世界の食事情について詳しくない明音だが、別に詳しくなりたいとも思わない。さっと素早く耳を塞ぐと、幸い相手はそれ以上に話を広げてこなかった。むしろそんな明音の反応に思うところがあったのか、悩ましげに腕組みをする。


「むぅ……しかし、これは予想外であったな。よもや人間にとってオークがそこまで忌避されるとは」

「できればメニューに入れる前に気づいて欲しかったですけどね……」

「うむ。参考になった。次回から亜人系を使うのはやめるとしよう。剛に入りては剛に従えと言うからな」


 できれば今回も避けて欲しかったが、それは今更なので言うのはやめた。


 だけどとりあえず、ピザを注文するのはやめようと思う明音であった。残りのメニューをじっくり見比べる。パスタは聞き覚えのない単語が二個も入っているから却下。なんだマイコイドとかラグーソースって。絶対に日常生活で出てくる単語じゃない。


 となると自然、残るものは一つだけだった。てりたまサンド。なんて安全な響き。一味違うのフレーズにそこはかとなく不安がよぎるが、人味ではないのでよしとする。明音はキッと顔をあげ、人生最大の勇気を振り絞ってオーダーした。


「すみません。このサンドイッチのセットをお願いできますか」

「承知した。『皮がパリッとザックザク! 一味違う、真夜中の満腹てりたまサンドイッチ』だな」

「え、あ、はい。そちらでお願いいたします」

「ちなみに先に確認しておくと、このサンドイッチにはコカトリスという魔物を使用しておるのだが……その点については問題ないな?」

「……いや、多分そうなんだろうなーという予感はしていたんですよ本当。ちなみに、そのコカトリスっていうのはどんな魔物なんです?」

「鶏によく似た魔物だ」

「鶏かぁ……」


 明音は深く深く深く深く、魂を絞り出すようなため息をついた。

 魔物を食べることに異論はないかと言われれば異論しかないが、人型の豚に比べて鶏というのは心理的にも、ぐっとハードルが低いのも確かだ。


 明音はそこまで博愛主義者ではないし、水族館に行っても綺麗だなという気持ちと、美味しそうだなという本音が矛盾なく両立するタイプである。悩んだ末に、頷いた。


「まぁ、鶏ならオッケーです」

「そうか」


 なお明音は知らなかったが、コカトリスというのは人のサイズほどもある鶏の魔物だ。外見はほぼ鶏だが、尾が猛毒の蛇である。この先も知らない方がいい。

 魔王はさっそく腕まくりなどして準備を始めた。他にすることもなく、なんとはなしにそれを観察する。


 軽く粉をまぶしたもも肉を、皮目からフライパンへ。じゅわあああああああ……と、罪深い音を立てながら肉の脂が勢いよく弾けた。


 その隙に、魔王がタレを用意する。醤油、味醂、砂糖──まるで手品のように、軽量スプーンも使わずに手慣れた様子でひょいひょい調合していく様を見ていた明音は、あれっとなった。


「……マーマレード?」

「うむ。柑橘系と肉は意外と相性がいいのだ。日本でも一時期、塩レモンなど流行ったであろう。特にマーマレードは、皮の苦味が加わることで味にぐっと膨らみが出る」


 なるほど。ちょっとびっくりしたけど、言われてみればそう不思議な組み合わせではない。明音は味を想像してみた。甘辛いタレにほんの少し、フルーティーな香りが混じったかすかな苦味。うん、いける。これ、絶対うまいやつ。


 その期待を裏切らず、魔王はささっと油を拭いたフライパンに、先ほどのタレを一気に流し込んだ。


 照明の光に照らされ、艶やかにきらめく飴色のタレが、ふつふつふつと泡立ちながら肉の衣にじゅんわりと染み込んでいく。醤油、砂糖、味醂。甘辛いタレと熱された肉の脂が、混然一体に混じり合い、溶け合うことで生まれる馥郁たるハーモニーが、店中に一気に広がる。自然、明音の喉がごくり、と鳴った。


 その間も魔王は手を止めない。オーブンからパンを取り出し、チャカチャカとマスタードとマヨネーズを混ぜてソースを作り、レタスを千切る。全ての動線と調理法を把握しきったその動きには、一切の澱みがない。仮にも前職で恐怖のパブリックイメージを務めていたとは、到底思えぬ手際のよさだ。


「そら。完成だ」

 やがてカウンター越しに出てきた料理を見た瞬間。

「っう、わー!!!!!!」


 明音は思わず声をあげた。いい意味でだ。


 なにせ出てきた料理がどれも、ものすごく美味しそうだったので。


 籐製のバスケットに綺麗に盛り付けられていたのは、真っ白いのパンと具沢山のサンドイッチ。

 パンの間にぎっしりと挟まった艶やかな照り焼きと、溢れんばかりの黄色いふわふわ卵。そして千切りにされたオレンジ色のにんじん。ふちに添えられたグリーンのフリルレタス。重ねられた具材はそれぞれが綺麗な層になっており、断面はまるで絵画のようだ。


 その隙間を埋めるように収められた三つのココットにはそれぞれ、ほうれん草とベーコンのソテー、カリフラワーとにんじんのマリネ、そして色とりどりのフルーツが宝石のように散りばめられた、目にも華やかなフルーツの持ち合わせ。そしてまだほんのりとゆげを立てる温かそうな野菜のスープ。


 完璧だ。あまりにも完璧なごはんである。SNSにあげればインスタ映え間違いなし。見た目だけでなく肉野菜主食の栄養バランスさえも美しい。なんならこのままバスケットごと持ち出して、敷物を広げて公園で食べたいぐらい。


 こんなにも美味しそうなご飯が、他ならぬ魔王の手によって生成された事実に、とてつもなく理不尽を感じるが。それはそれとして、この魅力には抗えない。明音は手をあわせた。


「い……ただきます!」


 それでもやっぱり少しだけ迷いながら(なにせ魔王の手料理なので)恐る恐るサンドイッチに手を伸ばし、はぐり、と一口。


「…………ンンッ!」


 思わず。言葉を失う。

 だってそのサンドイッチは本当に、笑ってしまうくらい美味しかったのだから。


 パンは驚くほど柔らかく、しっとりとして触れるだけで指の跡がつきそうなほど。そのふんわりさとは裏腹に、しっかりと小麦の味がする。耳の部分はやや硬めで香ばしくその分、白い生地の柔らさが引き立っていた。


 中の具だって負けていない。少ない油でカラッと揚げ焼きにされた鶏肉は、表面はザクザクなのに、中にはたっぷりの肉汁が閉じ込められていてジューシーだ。

揚げたての肉はまだ温かく、噛み締めるたびにじゅんわりと溢れる肉汁が、濃厚なタレと絡みあい、口の中で至福を生み出す。


 なによりこのタレ! シンプルに甘辛いだけではなく、マーマレードのほのかな苦味とフルーティーさが加わって、絶妙にいい仕事をしていた。一味違う大人の味。なるほど。看板に偽りなしだ。まあ、店名にも偽りなかったものな、と明音は納得する。そこは偽りであって欲しかったけど。


 ものすごく美味しい。ぱくぱくと必死で食べる明音の様子が気に入ったのか、魔王が満足気に笑う。


「どうだ。余の料理は美味いだろう」

「はい! 本当に……すっごく美味しいです!」


 明音はこくこくと頷いた。お世辞ではない。本心では見かけによらずというか、その見かけでこの味は嘘でしょ!? と思うが、魔王飯は本当に掛け値なく美味しかったのだ。


「それにしても、鶏肉とジャムって本当に意外と合うんですね。この組み合わせって新鮮でびっくりしました」

 砂糖の代わりに蜂蜜くらいなら聞くが、ジャムというのは珍しい。ご自慢のポイントなのか、魔王が誇らしげに胸を張る。


「であろう。味には五味といって、甘味、塩味、酸味、苦味、旨味、の五つがある。正確にいえば、脂味を加えた六味なのだが……一般的に知られているのは五味だな。料理の旨さというものは、これらをいかに掛け合わせるかによって決まるのだが、このサンドイッチでは、タレで醤油と砂糖の甘味と塩味。マーマレードの苦味。そして間に挟んだにんじんのマリネの酸味と、五味のうち四つが入っておる。これらがバランスよく重なりあうことで、複雑な旨みを生み出している、というわけよ」


 てっきり異世界で魔王がスローライフ始めましたくらいのノリでやっているかと思いきや、想像の五十倍くらい料理に対して真摯に向き合っていた。

 確かに自慢するだけあって、サンドイッチは絶品だ。一つ一つの素材が美味しいのもさることながら、全体の調和が素晴らしい。


 ツヤツヤとした飴色のタレをまとった揚げたての鶏肉を、マヨネーズであえたまろやかな卵が包み込み、ほんのり酸味を効かせたにんじんのマリネが、全体の味を引き締める。

 さらにそこに加わった瑞々しいシャキシャキのレタスと、ぴりりとしたマスタードソースに、ふんわりパン。登場するあらゆる素材が仲良く調和し、お互いの魅力を何倍にも引き立てあっているのだ。


 付け合わせも最高だ。バターで炒めたほうれん草はちょっぴりニンニクが効いていて、それがいいアクセントになっている。カリフラワーはしっかりと歯ごたえが残っており、箸休めに最適だ。


 美味しい。おいしい。美味しい! 美味しい!!

 明音は夢中になって食べた。思えばこんなまともな食事はいつ以来か。

 もぐもぐと必死になって貪るうちに、ふと視界がじんわり滲み始めた。なんだろう。なんでだろう。気にせずぱくぱく口を動かしていると、魔王がぎょっと目を見張る。


「……おい、どうしたのだおぬし」

「……え?」


 気がつけば。

 明音は泣いていた。


 彼女の瞳から、ほたり、ほたりと透明の雫がこぼれ落ちる。唐突に生まれた涙粒は、サンドイッチを頬張る明音の頬を伝い、顎に流れて、木のテーブルに丸い小さな水たまりを作った。


「え、あれ? なんで、これ……おかしいな、あれ──?」

 自分でもびっくりする。慌てて拭うが止まらない。ゴシゴシと必死に目を擦る明音をやんわり諌め、魔の王は紙ナプキンを差し出した。

「そんなに強くこするでない。肌が荒れるぞ。これを使え」

「ありがどう、ございまず……! 急にこんな、ごめんなさい……でもなんだか。ここのご飯、すごく美味しくて」


 おいしくて──とても、あたたかくて。


 感情がまるで制御できない。自分で呆れてしまう。涙腺の蓋がバカになったみたいだ。


「わ、私……最近ずっと、仕事忙しくて。家に帰っても寝るだけで、誰かとこういうなんでもない話をしたり、椅子に座って、ちゃんとしたご飯をゆっくり食べたりするの、本当に久しぶりだなって……そう思ったら、なんか急に気が緩んじゃって」

 えへへと照れ笑いを浮かべる彼女を、魔王は嘲りも笑いもしなかった。ただ静かに頷いてみせる。

「……分かるぞ。なぜなら余も昔、おぬしと似たような経験をしたことがある」

「えっ」


 突如として発生した魔の頂点と自分の共通点に、思わず明音は目を剥いた。そんな彼女の驚きに構うことなく、魔王は滔々と続ける。


「かつて余は魔界を統べる王であった。平々凡々たる日々を過ごす一介の庶民であるおぬしには想像もつかぬかもしれんが、王の責務というものはそれはそれは過酷でな……」

 勝手に決めつけないでくださいそもそもなにが辛いかなんて人によって違うものだし、確かに私はあなたの気持ちは理解できませんが、あなただって私の気持ちを理解できないわけで、だいたい身分によって仕事の大変さが違うなんて一体誰が決めつけた世迷言ですか、と。


 よほど高速でまくしたててやろうかと思ったが、シンプルに命が惜しいのでぐっと堪えた。魔王(確定)は続ける。


「それでも余は懸命に務めた。それがいかに苦難の道であろうとも、一度、玉座についた者には国に尽くす義務がある。王とは支配者であり奴隷であるのだ。誰よりも至高の頂に立つと同時、全ての民の安寧のため身を捧げねばならぬ。それが、蒼き血を持つ者の勤めなのだ。分かるか? 人の子よ」


 蒼き血というのは、果たして比喩なのかそれともただの事実なのかという生物学的な疑問が脳裏をかすめたが、口に出す勇気はなかった。


「そんな重責と多忙で押し潰されそうな日々の中、たまの夜食だけが余の癒しだった。食事もままならぬ余を気遣い、料理長がこっそりと用意くれてな。それを食べるたび、いつしか余は夢を抱くようになった。いつか魔王としての任期を終え、玉座を辞するときがきたら──そのときは、どこか遠くの田舎にでも引っ込んで小さな店を開こう。そして余のように、忙しくてロクに食事もできぬ者たちのため、どんな真夜中であっても温かく美味しい料理を作ろう、とな」

「なるほど……それでこの店なんですね」


 真夜中カフェ(元)魔王。

 第一話にして驚くべき早さのタイトル回収だった。


 見かけによらず普通にいい話を語り終えた元魔王は「だが……」と、縦に虹彩の伸びた人外みが強すぎる金の瞳を憂いに伏せる。


「見ての通り、当店は軌道に乗っているとは言い難い。まあ、店のコンセプトとしては『疲れた自分をいつでも受けて入れてくれる知る人ぞ知る地元の名店』的な感じを目指しているので、混雑しすぎるのも困るのだが……」

 転職したとはいえ、前職と比較してちょっと方向性の変換が大胆すぎるな、とは思った。はぁ……と、魔王が無念そうにため息をつく。


「どうもそれ以前の問題でな。魔力耐性のないこの世界の人間にとって、余のまとう魔力はちと強すぎるらしい。オープンしてもう半年経つのだが、とんと客が寄り付かぬ。このままでは閉店もやむなしと危ぶんでおったところよ」

「そ、そんな……困ります!」


 相手が(元)魔王ということすら一瞬忘れて、明音はつい大声を出した。魔王がキョトンと金の目を見張る。


「困るのか」

「はい! だってせっかくこんな素敵なお店を見つけたのに……ご飯も、すっごく美味しいですし!」


 昼ならともかく、この時間にこのクオリティの料理を、この値段で食べられる店なんて、きっと人間界のどこを探しても他にない。明音は声を大にして力説した。


「私もできるだけ協力しますし……その、SNSで宣伝とか! だから閉店なんて……」

「ふむ。つまり人の子。おぬしはそこまでして、余の力になりたい、と」

「もちろんです! あ、でも私あんまりフォロワーもいないので、お役に立てないかもしれないですけど。でも口コミとかグルメサイトのコメントとか、なるべく頑張りますから……!」


 なにせ魔王カフェは、暗く荒んだ明音の食生活に突然現れた一筋の希望の光。たとえ店長がどれほど人間離れしていようと(事実、人間ではないが)美味しいご飯の前には関係ない。明音の熱意に絆されたのか、魔王は「よかろう」と重々しく頷いた。


「おぬしの思い、しかと受け止めた。そこまで熱心に請われるのであれば、余としても店を続けるにやぶさかではない」

「じゃあ……!」

 ぱぁっと顔を輝かせる明音に、魔王が至極当然そうに続ける。

「して、いつから出勤可能か?」

「エッ」


 なにか、酷くおかしな流れがあった。

 気がしたが、具体的にそれがなにかを理解する前に、魔王は平然と先を進める。


「知っての通り当店は深夜営業だ。勤務時間は夜十時から朝六時。うち休憩は一時間。定休日は固定で日月と祝日。年休は初年度から年二十日で、それとは別に慶弔休暇あり。賞与は年二回で給与の五十%、昇給は年一回──といっても、見ての通り個人経営なので部下が増えるということはないが、給与は上がるぞ。肝心の給与だが、各種保険は引いた上で手取りは──」

「ま、まままままままま待ってください!!! ちょっと一回本当に待って!!」


 怒涛すぎる急展開についていけず、明音は全力で叫んだ。魔王はぱちくりとまばたきする。


「どうした人の子。何を突然」

「どうしたはこっちの台詞ですよ!? 急すぎてビックリしたんですけど、なんか今おかしな流れがありませんでした……!?」

「おかしくなどない。就職にあたり、まず採用条件を詰めるのは重要なことであろう」

「それだー‼︎ いや、待ってください! なんでごく当然のように私がここで働くことになってるんですか!? 絶対にそんな話してなかったと思うんですけど……!?」


 一体なにがどこでいくつぐらい理論跳躍を経てそんな結論に至ったのか。何も分からない。いや、本当に何も分からない。混乱する明音に、魔王はやれやれこれだから定命の者は、と言わんばかりにため息をついた。


「なにを今更。先ほど、おぬしが言ったのではないか。余の店の役に立ちたいと」

「言っ……い、ました、けど」

 言ってない、と反射的に言い返そうとして寸前で飲み込む。確かにそれは言った。言ったがしかし……

「余の役に立ちたい。即ち余の元で働きたい。つまりはそういうことであろう?」

「そ、そうかな……そうかなぁ?」


 極大解釈すぎてびっくりする。これが種族差というものか。しかし魔王にとってはなんの疑問もないのか、いっそ誇らしげに言ってくる。


「深夜勤務というデメリットを差し引いても、都内の他の職種と比べて好条件だと自負している」

「それは……そうかもしれませんが」

「ちなみに賄いもつくぞ。しかも無料でな」

「それは確かに心惹かれるんですが……!」


 だからといって、そう簡単に魔王配下になれるわけもない。うじうじと躊躇う明音に、魔王は怪訝そうに顔をしかめた。


「ならなにを迷うことがある? 既に辞したとはいえ余は(元)魔王。上王の旗下につく機会などそうあるまい。キャリアアップのチャンスだぞ」

「いや、キャリアアップっていうか……そもそも、どうして私なんですか!? だって私、別に料理とか得意じゃないし、むしろ苦手だし……」

「知れたことよ。無論、おぬしの持つ耐魔力を見込んでのことだ」 

「ん……?」


 話の流れが妙になってきた。耳慣れない単語に、明音は首を傾げる。


「耐魔力、ですか……?」

「うむ。先ほども言った通り、余の魔力は人間には強すぎるらしくてな。というより、魔界と比べてこの世界の住人は、魔力耐性が極めて低いのであろうな。店に入った途端、客のほとんどが気絶してしまう」

「ほとんどが、ですか……」

「ああ。だが先ほど約一名、例外ができた」

「……………………」


 橘明音。二十四歳。人類。まさかのチート持ちだった。

 でも別に嬉しくはなかった。


「正味な話、余も悩んではおったのだ。いくら世のため民のため、余が美味しい料理を作ろうと食べれぬのでは意味がない。が、その欠点もおぬしがいれば解決する」

 どこか竜を思わせる金色に輝く魔王の瞳が、ひたりと正面から明音を見据える。気分はさながら蛇に睨まれた蛙、いや魔王に睨まれた生贄だ。


「どうだ人の子よ。改めて問うが、余に仕える気はないか? 我らが手を取り合えば不可能はない。まずはこの街を手中に収め、テイクアウトからデリバリー事業への展開……そしてゆくゆくはフランチャイズに手を伸ばし、世に蔓延りし飢えた者共の胃を、幸福と満足感で満たすのだ……!」


 壮大なのかそうでないのか、いまいち分かりにくい野望を唱えながら、魔の王が人の子へと手を伸ばす。


 この手を取るがいい。さすれば貴様の望みを叶えよう。

 魔が人を惑わす手段としては古典的な常套句。だが、誘惑の内容が実のない報酬ではなく勤労のスカウトで、しかも極めて真っ当な内容となれば、断るのも難しい。


「うううううううう……」

 魔族の王から人生最大の難問を突きつけられた明音は、逃げることもできずにダラダラと汗を流した。

  


 翌日。

 昨日までの疲労が嘘のような爽快さで、明音は目を覚ました。


 びっくりするくらい体が軽い。まるで十代の頃に戻ったような。あまりに劇的な回復っぷりに、自分でも半信半疑になりつつ、するりとベッドから下りる。いつもだったらこうはいかない。最低でも十分くらいダラダラしなければ、ベッドから抜け出せないのに。


「やっぱり、しっかりご飯を食べるのって大切なんだなぁ……」


 絶対にそれだけが原因ではなかったが、最大の理由についてはあえて目を瞑りながら、しみじみと呟く。明音は事なかれ主義だった。

 早起きついでに朝ごはんなど準備しようとしたら、まず食材がなかった。仕方ないので、かろうじて発掘した冷凍ご飯に白湯をかけた湯漬けをすする。侘しい。


 結局あの後。

 おぬしも配下にならないか、という魔王直々の突然の勧誘に肝を冷やしたものの「一旦、持ち帰って検討させていただきます」という日本人特有の玉虫色の回答により明音は無事、窮地を脱することに成功した。というのが昨晩までの話である。


 確かに明音は、前々から転職しようと考えてはいた。今の会社にだって別に未練はない。魔王飯は美味しかったし、店長だって見かけによらずいい人だった。厳密ては人ではないけど、思ったよりいい人外だった。給料だって今より高い。しかし──


「……いやいやいやいやいやいや。ないないないない」

 ブンブン、と力一杯首を振る。だって魔王だ。魔王なのだ。四天王とかではなくガチの魔王。いくら(元)だからといって、自分に王族の配下が務まるとは思えない。宮廷作法だって知らないのに。

 だいたい、周囲になんて説明すればいいのだ。実家の両親だって、転職自体に反対しなくても、新しい就職先が魔王傘下だと知ればおっとり刀で田舎から飛び出してくるだろう。なんなら、そのまま連行されて見合いとかさせられるかもしれない。親世代の意味不明な行動力には時折、計り知れないものがある。けれど──


 ──余と共に働かぬか。

 ──おぬしの力が必要なのだ。


 あの言葉に、少しでも心が動かなかったのかと言われれば、そんなことはないわけで。


 ──たとえ真夜中でも、安心して美味しい料理が食べられる。そんな店にしたいのだ。


 その思いを、願いを、一瞬でも眩しいと感じたのは嘘じゃないわけで。


 そもそも明音は、別に仕事にやりがいなんて求めていない。働くのは給料のため、生活のため。宝くじにでも当たったら、その翌日には仕事を辞める。常にそんな気持ちを抱いて生きている人間である。宝くじ買ったことないけど。

 だけど明音だって、どうせ働くならブラック企業よりも楽しい場所がいい。上司が優しくて、給料も高くて、ついでに美味しい料理まで食べられるなら言うことはない。


「……やっぱり、だよね」


 どう足掻いてもお湯と米の味しかしない湯漬けを啜っていると、不意に聞き慣れた振動音が響いた。スマホを見ると、休日だというのに職場の上司からのメールだった。内容はさして緊急でもないが、念の為に今から会社に来いとのこと。当然、この手の出勤では給与なんて出ない。


「……──………………」


 今までの明音だったら、ちょっと鮮度のいいゾンビの如き顔で嫌々ながら出勤していただろう。だが今日の明音はメールアプリを閉じると、そのまま通話アプリを起動した。

 昨日、会計ついでに渡されたショップカードを見ながら、たぷたぷたぷ、と液晶をタッチして数回のコール音。



「あ、真夜中カフェ(元)魔王さんですか? すみません。採用の応募について……」

 

 そうして、真夜中カフェ(元)魔王に、新しい店員が加わった。



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真夜中カフェ(元)魔王 真楠ヨウ @makusu

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