第14話 金糸の晴れ着を

 風が吹いている。


 いつからそうしていたのか。

 ヒースの荒野に一人の少女が佇んでいる。


 黒のゴシックドレスを身に纏い、金の髪を頭の左右で括っている。

 空のままのドレスの右袖が、所在なげに揺れている。


「ああ、そなたか。待たせてしまったようじゃな」


 顔を上げた姫は、驚いた様子も見せず、穏やかに語りかけた。


「礼を言うぞ。この子の男を立ててくれたのじゃな?」


「何の話だ? この小僧が最後の一撃で力を使いきったのは解ってたからな。殺すまでも無い」


 顰めっ面で応える魔女に、姫はくすくすと笑声をこぼす。


「面白い奴じゃな」


「……言ってろ。あたしにはまだやり合う相手がいるからな。お前が紡ぎ部屋を出たって事は、あいつが這い出してくるって事だろ?」


「そうじゃの。栞糸を断ち切ってしまったからの……」


 魔女の言葉に、憂いを浮かべて古城を見やる姫。


「吾が主は永久に糸を紡ぐ。その糸で橋を架ける。どこへ行くための橋なのか。行く先は心得ておられるのに、その方法は皆目見当も付かん。誰も辿り着いたことの無い場所だからの」


 届かぬ場所を想う様に、星空に目を移す。


「吾が主は忘れっぽい。その糸は人とその歴史に何度も絡んできているのに、絡めた意図を忘れてしまう。橋を架ける執念だけは決して忘れぬというのに。たった一つの切要な事が余りに大きすぎて、ほかの瑣末な事を忘れてしまうんじゃろうかな」


 自嘲めいた姫の苦笑。


「忘れてしまった試みでも、神にとっては卑小な人間にその邪魔をされる事は許しがたい。やがて這い出す吾が主は、かつて何度かそうしたように、腹立ちが収まるまでその八本の脚でこの地を撫で回すじゃろう。愛しいそなたらが無慈悲に薙ぎ倒され、磨り潰されるのは忍びない」


「お前が憂うのは勝手だが、人間にはそこまで心を砕く価値はねえよ」


 失笑交じりの魔女の言葉に、姫はゆるゆると頭を振り、否やを返す。


「それはそなたが人の世をまだ半分しか見ておらぬからじゃろう…………いや、真の世界に触れるにはまだ満たされておらぬという事か」


 姫は微笑を絶やさない。優しい眼差しのまま魔女を見る。


「わらわは今まで幾人もの紬小屋の主人に仕えてきた。夜通し犯され続けた事も、獣と番わされた事も、どこまで刻めば死ぬのかを試された事もある。じゃが、ほんに絶望したのは三度だけ――我が身喰らうを命じられたとき。生まれたばかりの赤子を喰わされたとき。それでも自ら死を選ぶ勇気が無いと知ってしもうたときじゃ」


 黒衣の魔女は黙したまま。整った貌にはどんな種類の感情も見受けられない。


「恐れも嘆きも躊躇いもすべて踏み越えた。いまはただ、人と人の世の全てが愛おしい」


 膝を枕に眠る少年を、慈愛を込めた眼差しで見下ろす機織の姫。

 髪を梳く手を止め、真っ直ぐに魔女に向き直る。


「銀の鍵の魔女よ。そなたが着るのは黒い服か、赤い服か?」


「喪服だ。見りゃ解るだろ」


「それでは、そなたがわらわに着せるのは、白い経帷子か、それとも、金糸の晴れ着か?」


 魔女は左手を振ると、何もない中空から金糸の帯を掴み取り、そのままふわりと姫に投げ掛けた。


「……これは?」


「依頼者からの預かり物だ。お前にそれを渡す決意をしたせいで、先に逝く事になった様だな」


「そうか……」

 帯を抱き、僅かに眉を寄せる姫。


「だが、悪いな。あたしがお前に着せるのは死に装束だ」

 魔女は無慈悲に言い放つ。


「さあ、アトラック=ナチャへの捧げもの。人を喰らい、久遠に屍衣を織る囚人。お前の戒めを渡せ!」


「ああ、わらわに経帷子を着せるのは、やはりそなただったか。あるいはこの子がと期待しておったのじゃが……」


 少年を見る姫の眼差しに、少しだけ未練めいた物が混じる。


「指輪を渡した者に、苦役を押し付ける事になるというのが最後の心残りじゃったが……いや、言い訳か。そなたならの」


 城のある方角から、微かな振動が伝わってくる。


「名付けざられしものの戒めは解いた。後は任せる」


 機織の姫は、その細くしなやかな指から、蜘蛛の意匠の指輪を抜き取る。

 捧げられた供物を、黒衣の魔女は僅かな応えだけで受け取った。


「ああ。実に美しい夜空じゃ。落ち延びた夜は、もっと沢山の星が見えたものじゃが――」


 見上げる姫の髪から艶が落ち、みるみる肌に皺が刻まれてゆく。


「あの夜は死ぬのが怖くて怖くて仕方なかったというのに、今宵はどうしてこんなに穏やかな気持ちなんじゃろうな」


 干からび、ひび割れ、埃となって崩れ落ちる姫だったものを、風が運んでゆく。

 それを見送る者は誰もいない。

 魔女の視線は既に、城を砕いて聳え立つ塔――剛毛に覆われた巨大な蜘蛛の脚――に向けられていた。


            §


 轟音に目覚めると、すでに夜は明け始めていた。

 空からは白い糸のようなものや、綿ぼこりのようなもの――ゴッサマーだと、江間絵は云う――が降りて来る。

 すぐに音の源である古城に目をやると、黒々とした巨大な柱のような物が、瓦礫を巻き込みながら沈んで行くのが見えた。


「姫!!」


 気付けば膝枕をしてくれていた屍織姫の姿が見当たらない。着ていたはずのドレスと、金糸の帯だけが残されている。


 異常なまでの焦燥感に駆られ、辺りを慌しく見回し、再び城があった方角に目を向ける。黒い塔は既に無く、城の瓦礫のほとんどは地下の空間に落ちてしまったようだ。


 巨大な柱から感じた異様な忌まわしさ。あれは、異形の残骸を目にした時抱いた感覚に通じる物がある。

 終わったと思い込んで、俺は何か大変な過ちを犯したんじゃないか?


 走り出そうとして派手にぶっ倒れる。

 魔女との戦いで受けた傷は、とっくに死んでいてもおかしくない程度のもの。糸になって繕ってくれている江間絵のおかげで、人間の見た目を保っていられるだけだという事を思い知る。

 倒れこんだ拍子に掴んだ金糸の帯を握ったまま、降りしきるゴッサマーの中を歩き出す。


 古城だった場所は、今や巨大な竪穴になっていた。

 館の地下室や広間のさらに底に、こんな大穴が広がっていたのか。

 底知れぬ漆黒の陥穽に堕ちて行く白を見送りながら。

 ぞくりと。

 不意に何かが這い出してくるのではという、原始的な恐怖に囚われ後ずさる。


 ――気のせいだ。ここはもう終わった場所だ。

 頭を振って怖気を振り払う。


 ズタボロになった紅衣の上に、金糸の帯をマフラーよろしく巻いてみる。色合いは派手だが、見れない格好じゃない。

 帯に付いて来たのか、美耶子さんだった紅い蜘蛛が俺の懐に潜り込んでくる。

 姫の行方を聞こうとして、すぐに諦めた。

 訊くのならあの魔女にだ。

 壊れ行く古城の上空に、沈み行く黒い塔を見下ろすあの魔女が見えた気がする。


「必ず見つけ出す……今度は守り通す」


 手掛かりはある。

 糸はまだ繋がっている。

 幼なじみは俺を優しく癒しながらも、体の中から甘い疼きを伝えてくる。

 ごめんな。でも、今のお前は誰よりも俺の近くに居るだろ?

 以前の俺なら口にも出来なかった甘い気休め。

 胸を締め付けるものが、罪悪感なのか彼女自身なのかも解らぬまま。

 つぎはぎだらけの俺は、奈落の縁を後にした。



                          ep.Myth Spinner END

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

供犠のラプンツェル 藤村灯 @fujimura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ