第13話 貴史――紅衣の騎士②
江間絵だった物が巻き取られ、乾いた音を立て床に落ちるのを、俺は身動き一つ出来ぬまま見続けた。
何故だ? どうしてだ?
怒りなのか悲しみなのか。自分でも理解出来ない感情が、答えの出ない疑問と共に沸き立っている。
俺が手を伸ばせば届く所に糸巻きが転がるのを、表情を消した魔女が見詰めている。
恐ろしいまでの冷徹さで。駆け寄り蹴り飛ばしてくれれば、それで終わる事も出来たのに。
血まみれの左手で掴んだ白い糸巻きは、まだ暖かかった。
江間絵の温もりだ。
ぱたぱたと零れ落ち、赤を洗い流してゆく熱い滴で、初めて自分が泣いている事に気付いた。
ああ。そうだな。桐月に出来た事が、俺に出来ないはずが無い。
ズタズタにされた右手に糸が潜り込んでくる。
襤褸切れのような筋肉を縫い合わせ、戦える組織に造り替えてゆく。
暖かく柔らかな掌で包み込むような感覚。
今頃になって、こんなに取り返しの付かない所にまで来て。ようやく彼女の想いに気付けた。
それでも、俺は。彼女の想いを利用してでも、食いものにしてでも、約束を果たさなければならない。
糸が与える、まだ生きている二の腕の神経との接続による激痛が、今の俺にはむしろ心地良い罰だった。
黒衣の魔女はその全てをただ見守っていた。
立ち上がり、半分ほどに残った糸巻きを、紅衣の左ポケットに仕舞う。
構える前に、自然に一礼が出た。
「黒曜励起」
呟きと共にばら撒く黒い輝石は、黒い風となってその手足に纏わり付く。
無言のまま弓を引き絞るように右腕を引く魔女。
背負う物があるのが自分だけだと、思い込んでいた己の傲慢さを恥じる。
絵間絵にも、桐月や美耶子さんにも、目の前の魔女にも。譲れない思いがあるからこそ、戦いの場に赴いたはずだ。
彼女を殺し得る力と覚悟を手にした俺に、魔女はもう一片の慈悲を見せるつもりもないだろう。
風に乗り踏み込むその速度は、今までと比べ物にならない。
黒い風で形成した、右の貫手による一撃。
かわせる速さでも、紅衣で凌げる威力でも無い事は理解している。
相打ち覚悟のカウンター狙い。
腕を造り替えたところで、俺の拳の速度と威力はたかが知れている。
ダメージを受ける前に、俺の身体を血袋に変えるのみ――
魔女が過ちに気付いたのは、その貫手が俺の肩を貫いた瞬間だった。
俺の右の拳が想定以上の速さで魔女に届いている。
ポケットに落とした糸は俺の左足と体幹を造り替え、床を踏み壊すほどの衝撃を螺旋の形で拳に、魔女の胸元に伝える。
放物線を描く事さえ許されず、直線で吹き飛ばされた魔女が壁に叩きつけられるのと、貫かれた俺の左肩が爆散するのはほぼ同時だった。
肩ごと吹き飛ばされた意識を、倒れ込み床に頭を撃ちつけた衝撃で取り戻す。
撃痛に絶叫し蹲る俺に、衝撃で壊れた天窓のステンドグラスが降り注いだ。
壁にめり込み、磔刑に処された魔女は動かない。
江間絵だった糸が壊された左肩を繕い、癒してくれるのを感じる。
安堵から改めて意識を失う間際。広間へ続く階段から、白い人影が降りてくるのを目にしたような気がした。
§
満天の星が見える。
日本じゃ目にしたことの無い、広さと深さと星の数だ。
「こうして星を見るのは、何年振りじゃろうかの」
優しく微笑み覗き込む姫の顔に、膝に抱かれているのだと理解する。
「魔女は!?」
結局敗れて喰らわれるのかと身が竦むも、姫はゆるゆると首を振り、ただ優しく髪を撫でてくれる。
「約束どおり、共に星空を眺める事ができたな」
そう……だったか。
そういう約束だったのか。
初めて会った幼い日を思い出す。
『星が見えれば、恐れも不安も忘れる事ができる』
地下に迷い込み、心細さでぐずる俺をあやしながら、姫が口にした言葉だ。
不意に、身体の底から込み上げてくる物に、堪え切れずにふき出した。
緊張の糸が途切れ、笑い続ける俺を、屍織姫はきょとんとした顔で見下ろしている。
「こんな城なんかいらない。一緒に日本へ帰ろう。狭い家だけど、家族が一人増えるくらい平気だ。親父の稼ぎで心もとないなら、俺が働けばすむ」
身体の中の白い糸が、甘い痛みを伝える。
お前の事だって忘れちゃいないさ。魔女も魔法も存在したんだ。荒造伯父や桐月だってその一端を知る事が出来たんだ。お前を元の姿に戻す方法も、必ず見つけ出せる。
「姫の呪いを解く方法だってあるはずだろ。親父はあれでも、知識量と検索能力は本物だ。自慢できる。もう人なんか食べる事は無い。きっと年頃の女の子らしく、お菓子の食べ歩きだって出来るようになる」
「それは随分魅力的な提案じゃな」
姫の口元が綻ぶ。
「そうだ、姫。帰ったら君に晴着を贈ろう」
確か江間絵に聞いた覚えがある。家憑きの妖精が解放される条件。立派な外套を贈られたプーカは、家事の義務から解放されたという。
「なんじゃ? 求婚のつもりか?」
いたずらっぽい笑みを浮かべた姫の返答に口ごもる。
……あれ? 違ったか?
そんな俺を見て、姫は鈴を振るような声で笑った。
釣られて二人で一緒に笑い声を上げる。
笑い終えると、どっと睡魔が襲ってきた。
少し疲れた。
身体を癒してくれる幼なじみも、二度の繕いに加え、魔女の黒い風に糸の幾らかを持って行かれたせいか、口を開かない。
「眠いのか。もう少し休むがよい」
穏やかな微笑を浮かべ、屍織姫はただ優しく髪を撫でてくれる。
瞼が落ち、眠りに落ちる間際。
囚われの部屋を離れ、腰を覆うくらいまでの長さになった髪の事を、聞きそびれた事に気が付いた。
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