第12話 貴史――紅衣の騎士①

 姫の部屋の奥の扉は、さらに地下へと続いていた。

 辿り着いた先は大広間。床にモザイクを描くのは、遥か高みにあるステンドグラスから差し込む夕暮れの光。庭の温室の中にあったものだろうか。足りない明かりは、壁に設えられたランタンが補っている。


 ちょっとした舞踏会でも開けそうな広さだが、どこか礼拝堂めいたこの場所では、もっと陰惨でおぞましい事が行われていたんじゃないかと、足元のどす黒い染みを見て思う。

 待つほどの時も措かず、正面の両開きの扉を開け、黒衣の魔女が姿を現した。


「お前が最後か? 退かねえ――だろうな」


 苦笑交じりで問い掛けてくる。黒のゴシックドレスは汚れ綻び、その右袖は空のまま揺らいでいる。それなのに、碧の瞳は輝きを放ち、強い意志で俺を射抜く。


「……そっちも諦めてはくれないようだな」


 魔女は左手でスカートの裾を摘み、優雅に一礼してみせる。今の俺に礼を返す余裕は無い。


 猫足立ちに構えた俺に、魔女はゆらゆらと踊るように滑り寄る。見た事もない格闘術だが、桐月達との戦いである程度のパターンは把握している。避けも受けもするという事は、基本的には生身の人間のはず。体術に優れるとはいえ、少女の身体。リーチではこちらに分があるし、力の源である異形の残骸を美耶子さんに封じられた以上、魔法の種ももう残り少ないはず。


 打ち出される拳は少女のものとは思えないほど重いが、凌げないほどじゃない。姫の織ってくれた紅衣が防弾防刃で、至近距離からの自動小銃の斉射も朝のシャワー程度にしか感じない、まさに魔法の品だという事を考慮すれば、空恐ろしい威力ではあるのだろうが。


 しなやかに跳ね上がる足を際どくかわし、カウンターの右拳を入れようとした俺は、不意の悪寒に飛び退る。振り下ろされた魔女の踵は、タイルを打ち砕き床に穴を穿った。


「今のを避けるか。やるなあ」


 口元を吊り上げる魔女の賞賛に、二の腕が粟立つのを覚える。グルカナイフだろうが日本刀だろうが、傷一つ付けられないはずの紅衣の胸が綺麗に裂けている。

 魔法抜きでもここまでの事をやってのけるのか!? 恐怖で混乱しかける意識を立て直し、観察する。床を砕いた魔女の左足に、黒い靄のような物が纏わり付いている。死角である魔女の右手側に回り込み、体勢を整えようとした俺に、魔女の右手が伸びる。


 右手!?


 総毛立ち身を引くも遅く、魔女に掴まれた俺の右腕は、ミキサーにでも掛けたかのように、紅衣の中でズタズタに引き裂かれた。


「!!!!!?!――――――ギッッ……ああああッ!?!」


 痛みと驚きで満足に悲鳴を上げる事さえ出来ず、袖口から血と肉のスープを溢しながら蹲る俺に、いっそ優しいとさえ云える哀れみの眼差しで、魔女が微笑みかける。


「小僧、お前は良くやったよ。動かなきゃ見逃してやる」


 無理だ……勝てるはずが無い。予め準備をしていた桐月や美耶子さんだって、あっけなく敗れたんだ。俺には急ごしらえの防具だけ。それに、人を壊す事に躊躇の無い従兄弟や、人の命を絶つ事を迷わない叔母と違って、俺には目の前の魔女を殺すつもりなんて最初から無かった。覚悟が無くて何が悪い。壊れているよりよっぽど上等じゃないか。守ろうとしていた姫だって化物だった。魔女が連れ去るにせよ殺すにせよ、それで終わるなら敗北した俺も蜘蛛に喰われずにすむ。所詮俺はただの高校生だったって事だ。旅先で浮かれて利き腕を失ったけれど、それで命まで無くす訳じゃない。多少不便はするだろうけど、いずれはそれにも慣れる。風が強い夜は魔女を思い出すだろうけど、膝を抱えて耳を塞いでやり過ごせば良い。約束は守れなかったけれど、姫の顔を思い出すたび、罪悪感が薄まるまで酒でも呑めば良い。誰だってそうするはずだ。当たり前だろう!? 無理だったんだ! 仕方ないじゃないか!!


「諦めるの!?」


 聞きなれたはずの幼なじみの声が、聞き覚えの無い強さで響く。


「約束したんじゃなかったの!?」


 目に涙を浮かべ、叫ぶ江間絵の姿。

 その左手がぼやけて見えた。まるで解れているような――

 苦痛と汗で滲む目を凝らすと、右手に持つ物が糸巻きだと理解できた。


「……待て――止めろ!!」


 言い知れぬ不安に駆られ叫ぶ俺に、幼なじみは気丈な微笑を返す。


「負けないで」


 糸巻きは独りでに回転し、白い糸を巻き取った。

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