第11話 美耶子――洋紅の貴婦人②

 薄く笑い、蜘蛛の群れに埋め尽くされた魔女を眺めていた美耶子の耳に、微かな忍び笑いが響く。


 蜘蛛達の塊から黒い風が巻き上がるのを認め、慌てて飛び退るその足元に、八つ裂きにされた蜘蛛の脚や黄色い体液が撒き散らされた。


「アハハハハハッ!! 馬鹿が! 旧支配者の力を甘く見てるんじゃねーぞ、年増!!」


 哄笑と共に蜘蛛の残骸を撒き散らす魔女は、ゴシックドレスを汚す粘液に顔をしかめる。


「人間やめた奴ら相手に、手加減する義理もねぇからな!!」


 蜘蛛達を蹂躙していた黒い風が、轟音と共に洞窟の中空に凝縮されて行く。


「ひ……ヒヒッ……」


 渦の中に形を取りつつあるそれから目を逸らす事が出来ずに、美耶子の口から引き攣った笑いが漏れる。

 僅かに残った理性を掻き集め、美耶子は用意した罠を作動させた。

 予め張り巡らされた糸が、洞窟の中空に顕現した異形の存在を絡め取る。


 それは、一見巨大な鳥のように見えた。

 複数の眼球を持つ頭部はその右半面を砕かれ、内部器官が覗いている。

 純白の羽根状の物体を生やした、翼のようにも、巨木の枝のようにも見える器官は、左翼のみしか存在せず。

 はみ出した肋骨と、そこから毀れる臓物。続く下半身は存在しない。

 そのフォルムはおぞましい事に、どこか人間の物を連想させた。

 異形の残骸を捕らえた糸は、同時に魔女をも虜にしている。


「……馬鹿はそっちだったようね。貴女を迎える方策を、何も用意してないはずが無いじゃない」


 正確には桐月が用意していた物だが、この網を含めた幾つかの罠の存在を、美耶子は自らの身体を餌に左文字から聞き出している。

 屍織の糸で捕らえる事により、精神を侵食される感覚は和らいだが、同じ空間に長時間居続けては、正気を保てそうに無かった。少しでも姿を見ずにすむよう、蜘蛛たちに幾重にも糸を掛けさせながら、魔女に向き直る。


「いたずらをするのは、この手かしら?」


 絡めた糸を引き、魔女の右手を二の腕から斬り落とす。

 黒手袋をしているようにも見えるが、異形の残骸を顕現させた黒い風と同じ物で出来ている。右手は、ドレスの袖だけを残し、地面に落ちる前に霧散した。


「……せっかく馴染んできたのを落としやがって」


 雷塔達を爆散させたのも、男達の肉で組み上げた蜘蛛を解体せしめたのも。魔女が右手で触れた時だと、モニター越しに観察した。まったく、桐月も詰めが甘い。自分一人が利口だと、策士気取りで先鋒にしゃしゃり出て、結果私の勝利をお膳立てしたに過ぎない。仮に何かの間違いで魔女を退けていたとしても、簡単に寝首を掻く事が出来ただろう。


「可愛い屍織。あの人との大切な娘。もう誰にもあなたを汚させないわ」


 自然にこぼれた笑みが強張った。魔女の冷め切った目を見てしまったからだ。


「……何?」


「お前の娘じゃないだろう?」


 少女の頬が鳴った。

 打擲を受けても、魔女は哀れむ目つきを止めなかった。


「屍織を狙った罰として、蜘蛛たちにゆっくり食べさせるのも良かったけど、気が変わったわ。今すぐバラバラにしてあげる!」


 五指に絡めた糸を引き絞る。


「止めておけ。死ぬのはお前の方だぞ?」


「ハッ!? 随分とつまらない遺言だこと!!」


 魔女の四肢を絶つべく糸を弾いた瞬間。

 美耶子の視界は傾いた。

 柔らかな繊毛に覆われた生き物が過ぎるのを、目の隅で捕らえた気がする。

 最後まで何が起こったか理解できないまま、美耶子の意識は途絶えた。


「ハスターを封じられる対策をしない訳も、直前の戦いから何も得ない訳もないだろう?」


 ふわふわと浮かび寄ってくる、繊毛を持つ使い魔から受け取ったのは、桐月が使っていた操糸。使い方を変えれば、美耶子のように斬糸としても利用できる。


「ルールー、あたしは先に進む。ハスターの糸を解いておいてくれるか?」


 くるるると、愛らしい鳴き声を上げ、使い魔は主命に取り掛かった。

 バラバラになった紅いドレスの淑女を、蜘蛛たちが何処かへ運び去って行く。

 入れ替わるように、通路の奥や天井から、熊ほどもある蜘蛛が這い寄ってくるのが目に入った。


「やれやれ。その前に、害虫駆除か」


            §


「すまぬの……わらわのために戦うてくれたばかりに」


 枯れ葉を踏むような音が響くなか、叔母だったものが蜘蛛たちに消化されてゆく。

 愛おしげに撫でていた髪に口付けると、かりかりと音を立て、姫は美耶子さんの頭部を喰らい始めた。

 耳を塞ぎ、青ざめながらも、江間絵はその光景を食い入る様に見つめ続けている。


 僅かな時間で食べ尽くすと、屍織姫はその桜色の唇から紅い珠を吐き出した。掌の上に乗せられたそれは、細い四対の脚を伸ばすと、姫の腕を登り、甘えるように肩に留まった。


「さあ、もう往け。あれはもうそこまで迫っておる」


 紅い蜘蛛を指であやしながら、姫は微笑んだ。


 従兄弟の桐月は悪党で、その最期も自業自得としか云い様が無いのだろうけど。

 叔母の美耶子さんは心を病んでいて、ここで命を落とすのは必然だったのだろうけど。

 守るべき姫は人を喰らう化物で、思いも通じない装置のような物でしかないのかもしれないけれど。


「違うだろ……そうじゃないだろ姫。俺にも問いに応える権利があるはずだ!」


 頑是無い幼子を見る眼差しで。僅かな沈黙の後、姫は溜め息のように問いを零した。


「では問う。真田貴史。そなたが着るのは黒い服か? 赤い服か?」


「赤い服を。俺にも戦える力をくれ!」


「ナイト!!」


 紅く染まった姫の髪を目にし、幼なじみが悲痛な叫びを上げた。

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