第10話 美耶子――洋紅の貴婦人①
「なぁ……聞いてくれよ。俺は逃げたんじゃない……」
かさかさと枯れ葉を踏むような音が、部屋中に響いている。
「そうじゃな。そなたはよくやった」
屍織姫は、膝に乗せた桐月の頭を、愛おしげに撫でている。
俺の胸元に顔を埋めた江間絵は、その光景が映らないよう、固く目を閉じ震えている。
ソファに座り込んだ俺は、幼なじみの肩を抱く事さえできずに、ただそれを見つめ続けている。
びっしりと蜘蛛に集られた桐月の上半身は、張りを失い土気色に変わっている。
下半身に取り付いた熊ほどの蜘蛛は、既に膝上まで両脚を噛み砕いてしまっている。
それが幸いかどうかは解らないが、生きながら喰われている桐月はさほど痛みを感じていないだろう。
制止しようとしてその蜘蛛に噛まれた俺は、指先一つ動かせずにいる。
「……本当だ……足止めして、次の策を試すつもりだったんだ……」
「試みは一度だけ。決め事じゃからのう」
姫は桐月の額に口付けると、真珠のような白い歯を立ててかりかりと齧り始めた。
最後まで弁明を続けた桐月が喰い尽されるまで、さほど時間は掛からなかった。
その光景を俺は最後までただ見守り続けた。瞼を閉じるくらいは出来たが、逃げ出すにせよ、試練を受けるにせよ。そうする事が、俺にとって最低限の責務に思えたからだ。
「次は……美耶子か。服に袖を通す前なら、行っても構わんのじゃぞ? そのくらいの時間はある」
桐月の戦装束を仕立てるため使われた髪が、再び生え揃い銀色の川となって床中を埋め尽くしている。
「愛しい屍織。私があなたを見捨てる訳がないじゃない」
桐月が喰われて行くのを、冷笑を浮かべて眺めていた美耶子さんは、屍織姫に満面の笑みで応えた。
「では問う。織機美耶子。そなたが着るのは黒い服か? 赤い服か?」
「赤い服よ。屍織、私に極上のドレスを用意して!」
紅く染まった姫の髪を、仔蜘蛛たちが慌しく織り上げ始めた。
§
「あークソッ、小汚ねぇ!」
闇の中、魔女は毒づいた。
大した手間も掛けずに人間細工の蜘蛛を解体したまでは良かったが、館の門を潜って直ぐ、土蜘蛛に捕らえられ、地の底に引き込まれた。程度の低い眷属だったらしく、簡単に退けられたが、ドレスを汚された事の方が腹立たしい。
「ま、どのみち用があるのは地の底なんだがな」
目の前には立って歩ける程広い地下道が続いている。廃坑の上に館を建てるはずもない。だとすると、あいつらが徘徊していた跡か。灯の手持ちはないが、空気の流れで周囲を把握しながら前へ進む。
やがて二手に分かれる分岐に辿り着いた。左手側は来た道と同じ様に見えるが、右手側の道にはびっしり蜘蛛の巣が張り巡らされている。
「……露骨だな。冒険映画じゃ、蜘蛛の巣は人が踏み込んでないっていう記号だろうが、この場合はこっちに奴らのねぐらがあるって事か。……いや」
今相手にしているのは、野生の生物ではない。警戒すべきは罠と迎撃の仕掛けだ。考慮すべきは、どちらの道により厄介な仕掛けがあるかという事。
「面倒くせえな」
舌打ちをすると、魔女は風を操り道を選択した。
§
紅いドレスの裾を風が揺らす。
幾本かの地下道が交差する開けた空間。
目の前の一本の隧道から、白い綿埃のような物が吐き出される。
静かに佇む美耶子の前に、風と共に黒衣の少女が現れた。
「エンゼルヘアーと共に現れる魔女なんて。笑えない冗談ね」
「天使の和毛なんてしゃれた物かよ。べたべたと汚らしい」
魔女は口元を歪め、悪態と共に肩に張り付いた蜘蛛の巣を払い落とした。
「対戦相手がいるって事は、道は間違えてないようだな?」
「残念ながら、最短ルートで辿り着いたみたいね。でもそれでお仕舞い」
紅いドレスの淑女は、戯けた様でスカートを摘み、挨拶をして見せた。
「初めまして黒衣の魔女。そしてさようなら!」
音も無く這い寄っていた巨大な蜘蛛の群れが、天井から壁から魔女に襲い掛かる。
逃げ出した使用人や相続人達を、金や身体を餌に連れ戻し、屍織に作り変えさせたものだ。
屍織の主の眷属に比べれば格が落ちるが、桐月の連れていた荒くれ者達に比べれば、裏切られる心配も無ければ余程役にも立つ。なにより、屍織の身体を弄んだ者を、罰も与えず見逃してやる理由も無い。美耶子にとっては、一石二鳥の手駒だった。
「地下にまで風は届かなかったようね」
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