第9話 饗夜――深紅の蜘蛛群②

 苛立つ声も半分は演技。人間相手の荒事になれた子飼いの手下でも、まるで役に立たない事までは想定済みだ。

 そろそろ、人外相手の策を試すか。


 くんっ、と。不意に人間離れした速さで踏み込んだ左文字のナイフが、初めて魔女のドレスに触れる。


「ひぎゃぁぁッ!!」


 苦悶の悲鳴を上げる相棒に戸惑いの視線を投げる雷塔のハンマーは、背後の死角に潜り込んだ魔女を捕らえていた。

 少女を叩き潰すはずのハンマーが、細い右手一本で受け止められている事と、そのハンマーを振り下ろす己の腕がありえない方向に捻じ曲がっている事を認め、巨漢の口から獣じみた絶叫が迸る。


「いッ、痛えぇぇぇッ!!」


 苦痛で泣き叫びながらも、肩から外れた両腕を鞭のようにしなやかに振り回し、魔女に切りかかる左文字。

 紙一重でかわしたものの、ドレスの胸元を切り裂かれた少女は、不機嫌な表情で桐月をねめつける。


「操糸か。小賢しい」


「……なんだ、もうネタバレかよ」


 口元を歪めて軽口を叩くも、桐月の心中は穏やかではない。指先から伸び、雷塔と左文字に人間離れした動きを強いた赤い糸を目視できるのは、この場では糸を脊髄にまで直結させた桐月ただ一人のはず。超技術どころではない、明らかな異形の力。表の世界には噂レベルでさえ流れていないはずの情報。桐月同様、魔女もこちらの手の内をある程度は把握していたという事だ。


「桐月ィ! 手前ぇ、俺たちの身体に何しやがった!?」


 思考を中断させる雷塔の怒声に、溜め息交じりで肩をすくめて見せる。


「楽しませるためだけに屍織と犯らせたとでも思ってんのか? お前等の身体中に糸を仕込んでやったんだよ。実際それがなきゃ、魔女に触れられもしなかったじゃねぇか」


「……桐月……さん、あんた、俺らを捨て駒にする気か!?」


 泣きじゃくりながらの左文字の糾弾に、思わず失笑が漏れる。


「人聞きの悪い事言うなよ。お前等と違って、俺が死んだら話はご破算だ。重みが違う」


 にやりと口元を歪め、黒衣の魔女を指し示す。


「この女を始末して生きてた奴には、ちゃあんと分け前くれてやんよ!!」


「てめえ、桐月ィィィ!!!」


 絶叫しつつハンマーを振り上げる雷塔と、泣き喚きながら突進する左文字の交差する位置に魔女がいる。全力で振り下ろすハンマーの軌道を曲げる事も、ありえない方向からナイフを繰り出す事も出来るうえ、糸を介して二人の視界も共有している。魔女を捕らえ損ねる道理がない。


 勝利を確信した次の瞬間、桐月が目にしたのは、雷塔のハンマーで頭を吹き飛ばされた左文字と、胸にナイフごと左文字の腕をめり込ませ、背中から刃先を覗かせている雷塔の姿だった。


 なんだ? 視界が黒くぼやけた一瞬、何があった?

 絶命した腹心達の脇に立つ黒衣の魔女と目が合った瞬間、桐月は本能的に敗北を確信した。


「畜生がッ!!」


 胸に小男を生やしたままの巨漢の死体が、でたらめにハンマーを振り回す。魔女が優雅にかわすたび、気絶したままの者や、苦痛に呻きながら逃げようとしていた者が潰されてゆく。


「ここまでくると、終わらせてやった方がこいつ等のためか」


 呟きながら魔女が右手で触れると、肉の杭打ち機は内側から血袋の様にはじけ、漂う赤い霧は黒い風に吹き消された。


「があああああぁぁッッ!!?」


 雷塔達に潜り込ませていた糸が寸断され、反動で脳を直接抉られるような感覚を捻じ込まれる。


「お前ッ……それでも人間か!?」


「それをお前が言うのかよ」


 冷めた目で返す魔女。

 桐月は魔女の足元に這い蹲る男に糸を繋ぎ、ストッキングに包まれた細い足首を捉えさせる。


「手前ら、せめて俺が逃げる時間くらい稼ぎやがれ!」


 魔女と目が合った男は必死に首を振り、へつらい笑いで敵意が無い事を示すも、意思に反して握り潰さんばかりの力が込められて行く。魔女の右手の一振りで手首がはじけ飛ぶも、その間に男達が次々立ち上がる。


 まだだ。こんなもんじゃ、直ぐ追いつかれる!

 桐月は糸を操り、苦痛と恐怖に泣き叫ぶ男達を組み上げて行く。腕を組ませ、崩れないよう指を肉に食い込ませ、互いの肩に喰い付かせ、脚で腹を踏み抜かせ。

 血と赤い布切れで彩られた、肉で作られた歪で巨大な蜘蛛は、怨嗟と苦痛の呻きを上げながら魔女に襲い掛かった。

 肉の蜘蛛が風に削られて行くのを、糸で感じ取りながらも、門の中に逃げ込む事に成功した桐月は、目まぐるしく思考を走らせた。


 身を隠して、美耶子やあのガキがどこまでやるか様子を見るか。潰しあってくれるなら御の字だし、消耗させてから取引を申し出るのも良い。魔女を名乗るくらいだ、屍織の不死の秘密を解き明かせるなら、願ってもない僥倖じゃないか。何にせよ、見積もりが甘すぎた。力に溺れるだけのガキなら付け入る隙は幾らでもあったろうが、あの目は向こう側を覗いて帰って来たって目だ。人を殺した事のある奴、この世にある筈のない物を目にした奴――


 不意に桐月の足が凍りついた。

 目の前の地面に穴が開いている。

 暗い地の底から、紅く輝く八つの眼が覗いている。


『残念じゃ……』


 屍織姫の声が脳裏に響く。


『そなたは敗れてしまったのじゃな……』


 無意識に後ずさる足首に、いつの間にか糸が巻かれている。


「ち……違う! 逃げるんじゃない! 体勢を立て直して――」


『残念じゃ……』


 巻かれた糸は、穴の奥に続いている。


『吾が主はそうは思わんかったようじゃ……』


 踵を返しかけた桐月は、かつて目にしたのと同じ、熊ほどもある土蜘蛛に捕らえられ、悲鳴ごと地の底に引き込まれた。

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