エピローグ
『天歴5875年 日付:今日も沢山書くから省略 シキ・イースレイター
一つの任務が片付いた。
たった数日。村に着いてからは一日だけの出来事ではあったが、とても多くの学びを得たと思う。
出会いと別れを繰り返した。
家族のみんなとは、一度もきちんとした別れを告げられなかったから。今回、自分の想いを伝える機会があって嬉しかった。
パートナーであるルシフェルはもちろん、ミカエル将軍やアリシスとも、少しだけ本当の意味で話ができた気がする。
この三ヶ月。確かに言葉を交わすことはあったが、相手の顔を見ていたのかと問われれば、肯定できない。
未だ、自分の感情は、本音は、どこにあるのか。よく分かってはいない。
だけど、自分は前を向いて生きることにした。
だから、人生の旅の中で少しずつ、ゆっくり見つけて行こうと思う。
魔王であるルシフェルと、一緒に。
少しずつ――』
「まーた書いてるね! なになに、我と一緒に生きていく決意? 物好きだね!」
けらけらと笑いながら、ルシフェルが日記を
部屋のベランダで日向ぼっこをしながら書いていたシキは、突然飛んできた騒がしい声にゆったりと振り向く。
「うん。だってルシフェル、まだオレに加護を与えてくれるんでしょ」
「まあね! 飽きたらやめるけど」
「そう」
魔王は気まぐれだ。いつ離れていっても確かにおかしくない。
だからこその納得だったのだが、それがまたルシフェルはお気に召さなかったらしい。ぶーぶーと唇を
「まったく! シキは相変わらず反応が面白くないね! つまんない!」
「そう」
「会話終わらせない! 何か話す!」
無茶苦茶だ。
シキと話をしてつまらないと感じるならば、構わなければ良い。それをしない彼の気持ちを推し量るのは、シキとしては苦手な部類である。
ただ、彼の要求は一度呑んでみるべきかもしれない。
有意義な意見も多かった故に、シキは取り敢えず受け入れることにした。首を捻って、これから書こうかと思っていた事案を示してみる。
「母さんのことなんだけど」
「え。ここで母親出てくるんだ」
「うん。オレ、ハルやミリー、父さんとはきちんとお別れできたけど。母さんには、最後まで何も言えなかったなって」
日記を閉じて、床に置く。そのままベランダの手すりに少し寄りかかって景色に視線を転じた。
帝国は、世界でも一番大きい領域を支配している。それだけに、天使が住まう空の宮殿より下の城下にも、見事な街並みが広がっていた。
風が楽しそうにシキの頬を撫で、街に降り立つ様に軽やかに駆け抜けていく感触が気持ち良い。
「オレさ。クロワッサン、嫌いだったんだ」
「知ってる! 吐きそうな顔してたよね」
「うん。でもね、唐揚げは好きだったんだ」
クロワッサンは血の繋がった父の好物だった。それは老人から聞いている。
だが、唐揚げはそうでも無かったらしい。これは間違いなく、シキ自身の好きな食べ物だった。
「母さんは、オレのこと、父と息子、混同して見ていたんだと思う。精神病んでたし」
「……」
「だけど、きっとその中でもオレのこと、少しは見ようとしてくれていたのかもしれないなって。……希望的観測でしかないけど」
「そうだね! 楽観的だね」
「うん。知ってる」
最後の最後まで、母の心境を見透かすことは叶わなかった。
だからこれは、あくまでシキの推測でしかない。都合の良い幻想で、事実は地獄よりも深い闇の中かもしれない。
しかし、構わない。例え自分が良い様に利用されていただけだとしても、シキは母を嫌いにはなれなかった。
それにアリシスも、母は自分達に『息子である』シキを託してきたと言っていた。それも希望的観測でしかないかもしれないが、父の名と共に告げた願いだったならば、信じられる。
例え事実では無かったとしても、アリシスの言葉だから信じてみようと思えた。
「母さんのこと、重荷だったけど。でも、好きだったんだと……思う」
「疑問形に近いね」
「うん。オレ自身、複雑なんだろうと思う」
「それも推測だよね」
「うん。でも今はこれで良いかなって。時間はまだまだあるし」
シキはこの三ヶ月、死ぬために旅をしてきた。
だが、これからは違う。生きるためにもう一度、己の足で地面を踏み締める決意をした。罪を犯して、道を踏み外しかけて、それでもやり直せる自分は幸運だと思う。
間違いは、誰でも犯す。人間も、恐らく天使も。
そして。
「堕天使のことも、もう一度考え直してみようかなって」
「……、うん?」
今回の村の件で、一つだけ疑問に思ったことがある。
それは、堕天使に利用され、同化して堕天使同然になった者にも、様々な考え方があるのではないかということだ。
「今までオレ、単純な討伐しかしてこなかったから疑問に思わなかったけど。家族が堕天使……になったからかな? 堕天使だから全員悪さをしたいってわけじゃないのかなって」
結果的に今回は討伐する形になってしまった。
けれど、ハルやミリーが、堕天使としての力をシキを救うために使おうとした様に。父が正気を保っていた様に。正しく生きようともがく堕天使もいるのではないかと、ふと甘い希望がかすめたのだ。
もちろん、誰に話しても却下されるだろう。異端児扱いされて、
だが、生きている限り誰もが堕ちる可能性は持っている。
そして、そこから這い上がってやり直せる者も少なからずいるのならば。
「ルシフェルだって、魔王なのに一時的にオレと一緒にいるし」
「ま、そうだね! 我、強いし! 便利だしね!」
「それはどうでも良いけど」
「どうでもいい!?」
「でも、思うだけなら自由かなって」
これから、更に色々な種類の任務を言い渡されるだろう。その時に、今度はただ言われるがままに遂行するのではなく、シキなりに見極めて挑んでいきたい。
甘さに引っ張られるわけにはいかないのは分かっている。
それでも、ただ無情になることは、恐らくもうシキには不可能だ。己の望みを考えるのは苦手だが、一度見つけた想いを忘れたくはない。
そうして間違いながら、悩みながら、前を向いて生きていく。
「きっと、間違ってたらルシフェル、冷たく突き飛ばしながら、命の危険に
「何それ。我、酷いね!」
「うん。まあ、それで死んだら自分のせいだし。悔いは無いかなって」
「あっそ! さすがシキ! 適当だね!」
面白いなーと笑い飛ばすルシフェルは、いつでも元気だ。どんなに深刻な話をしても、彼は常に笑顔で弾いたり突き放したり蔑んだりするのかもしれない。自由だ。
「ルシフェルって、いつもそのテンションだね」
「まあね! 元気が取り
「昔から、そうなの?」
「……、………………」
いきなり空気が変じた。何となく二人の間が
ルシフェルは、目をまんまるにしてシキを凝視していた。穴が開いて、そのまま後ろの景色さえ突き破って空洞を作ってしまうのではないかというほどの威力に、シキは初めて自分が失言を犯したのだろうかという考えに至る。
「ええっと。オレ、何か」
「それって、我への質問?」
「え、と。……うん。そうかも」
振り返ってみれば、旅立つ前にルシフェルから質問を考えろと命令されていた。すっかり忘れ去っていたが、こんな他愛のない、取るに足りない内容でも良いのだろうか。
後退することも前進することも
「……君って本当、つまんないね!」
破顔して、ルシフェルは前を向く。頬杖を突いて光差す空を見上げた。
「そんなどうでもいいこと聞くとか、凡人すぎるよ!」
「そうかな」
「そうだよ! 普通、どうして魔王になったのとか、そういうもっともな疑問を持ちそうだけどね!」
「え。だって、神様のためでしょ」
「――――――――」
今度こそ空気が明確に止まる。
もう一度シキを見つめてきたルシフェルの瞳は、まんまるではなく見開いていた。
彼がここまで驚愕する場面は初めて遭遇した。はずだ。シキとしては、意外なところで意趣返しを行えたことになる。
「……どうしてそう思うのさ」
「え、っと。初めて会った時、神様と楽しそうに喧嘩してたし」
「いや、からかってたし、エデン怒ってたじゃない」
「うん。楽しそうだった。それに神様、オレにルシフェルをよろしくって言ってたし」
「いや、言ってないよね!」
「言ってたよ。だって、世話を押し付けるって謝っていたじゃない」
要は、神は魔王を危険だと判断していなかった。最初から味方になるのが分かり切っていた様に、加護を任せることを認めたのだ。
かつて友であったとしても、本当に激しく敵対したのであるならば、もっと監視は厳しかったはずだ。例え全てを見通せる目を神が備えていたとしても、緩すぎる。
平和ボケしたとはいえ、三千年前の話が本当であるのなら、魔王は最大級の危険人物なのだ。
「……根拠、弱いよ!」
「弱くても良いよ。オレが勝手にそう思っているだけだし」
「あっそ」
「うん。いつか、教えて」
三千年前のこと。
話は終わりだと、シキは再び眼下の景色を見渡す。頭上から降る日差しは柔らかくて心地良く、風も寒すぎず暑すぎず、丁度良い温度でまどろみを誘ってきた。
活気溢れる城下も瑞々しい緑に囲まれて澄み渡る空気を
このまま、眠ってしまおうか。
隣でぷーっと膨れながら文句なのか言い訳なのかよく分からない呪詛を吐いている相棒は放っておき、
「おーい、シキ君! 魔王君!」
下から快活な呼び声が飛んできた。
閉じかけた瞼を開いて見下ろすと、ぶんぶんと元気良く手を振って招くアリシスがいた。隣には仏頂面を貼り付けたミカエルもいて、シキは頭を下げながらアリシスに手を振る。
「あのね! クロワッサン焼いたの! おにぎりもあるんだよー! 二人とも、一緒に食べよう!」
「あ、いいね! ミィー! 今日も愛してる!」
「死ね、クズ魔王」
心底毛嫌いして吐き捨てるミカエルだが、ルシフェルには馬の耳に念仏である。軽々と手すりを飛び越えて、弟が立つ場所へと一心不乱に飛びついた。もちろん、ミカエルは軽やかに回避し、ルシフェルは地面と熱いキスを交わしていたが。
あはは、と楽しそうに笑うアリシスに、シキは少し考えてから――勇気を振り絞って話しかけた。
「ねえ、アリシス」
「うん! なになに、シキ君!」
「オレの分のクロワッサンって、ある?」
「……、え」
深い海の瞳が丸くなる。彼女の隣でじゃれていた兄弟も、喧騒を鎮めて見上げてきた。当然だろう。シキはクロワッサンが苦手だと、彼らには知れ渡っている。
それでも、そろそろ戒めを解きたくなった。母以外が作ったクロワッサンを、食べてみたいと願いが湧いたのだ。
「アリシス。ある?」
「え、あ、……う、うん! ある、けど」
「食べてみたい」
「え、……でも」
「嫌なら、やめるけど」
「! ううん、嫌じゃないよ! 嫌じゃない! 食べて欲しい! 自信作だもん!」
畳み掛けてアリシスが全力で肯定してくる。ぐっと拳を握ってぶんぶん振り回す姿は、相変わらず元気に満ち溢れているなと感嘆した。シキには真似出来ない。
頬を紅潮させて、アリシスはしゃがみ込む。
だが、次にはおずおずといった仕草で上目遣いに見上げてきた。
「でも、無理は駄目だよ?」
「うん。無理そうなら、やめる。大丈夫」
「そう? あ、ちゃんとおにぎりもあるからね!」
「うん。食べたい」
口元が緩む。
どちらにせよ、今の段階ではクロワッサンよりおにぎりの方に軍配は上がっている。
それでもクロワッサンを食べてみたいと思った気持ちは本当で、もしかしたら過去より前に、気持ちが一歩を踏み出しているのかもしれない。
アリシスは、嬉しそうに笑って。ミカエルは、ふんと鼻を鳴らして
シキが降りるのを待ってくれている。それだけで、シキの心は子供の様に弾んだ。
「――今、行くね」
ベランダの手すりに手をかける。
三ヶ月前。家を出た時とは違う気分で、シキは今、閉じこもっていた場所から飛び立つ。
くすぐったかったけれど、未知の世界に胸を躍らせる己をきちんと受け入れながら、シキは思い切ってベランダの手すりを飛び越えた。
――自分は。この世界で、これからを生きていく。
『目覚めてから三ヶ月が経過した。
魔王である自分の遣いは、どうやら一歩を踏み出せたらしい。いつ死ぬのだろうと漫然と監視していたこともあったが、彼は生きることを選んだ。
自ら死を選ぼうとする者ほど、つまらないものはない。
だから、彼が生を自ら掴み、前を進むことを渇望する姿は自分の退屈をこれから大いに埋めてくれるだろう。喜ばしいことだ。
さて――』
日記を閉じて、ルシフェルは一人まどろむ部屋の中で頬杖を突く。
窓から差し込む月明かりが淡く彼の輪郭を照らし、その居住まいを幻想的に映し出す。この世のものとは思えぬ美麗な空気を漂わせる様は、幽遠なる一枚絵を作り上げ、その場に在る有象無象を
足を組み直し、伏し目がちにある一点を見やる。その視線の先には壁を越え、現在加護を与えている人物の部屋が位置していた。
村から帰還して以来、彼が炎を操る様子はない。嫌がらせはひとまず収まった様だ。弟のおかげだろう。誇らしい。
「ふふ。……エデンのため、か」
昼間、事もなげに言ってのけたシキの表情を思い浮かべる。
彼は、魔王になった理由は神に在ると
それが、真実かどうかも判別出来ぬというのに。おめでたい頭だ。
「魔王になった理由、か」
三千年以上前の記憶を掘り起こそうとして――中断する。
今更だ。どんな理由があったとしても、魔王になった事実に変わりはない。エデンも真実がどこに根差そうと、自分の行動を許しはしないだろう。
そして。魔王になるために背中を押した、己自身のことも。
「ふふふ。……シキもだけど。エデンも本当に、お人好しだよね」
今回の事件の本当の黒幕は、
理性を四六時中保てるのは、堕天使を食らった人間。それと、堕天使本人だけだ。
力だけを与えられた人間では、土台無理な話なのだ。堕天使に精通した魔王でなければ知らぬ話である。三千年経とうとも、表面しか見れなかった天使では知識は欠落したままであるだろう。
ハルとミリーと言ったか。あれは最近生まれた堕天使の様だった。元は人だったという。堕ちた天使と同化し、悪戯っ子として
彼らが、シキの父に出会って家に出向いたのは気まぐれだったのかもしれない。
だが、幸か不幸か、それが彼らの未来を決定付けた。
シキだ。シキの存在が、全ての始まりだった。
何が、そんなに彼らを惹き付けたのか。想像しか出来ないが、
どんなに苦しい状況でも愚痴を一つも零さず、かと言って何も感じていないわけでもない。それでも母を支えることを止めず、父を尊敬し、弟と妹となった二人を可愛がり、立ち止まりながらも今を生きる彼が気になってしまった。そんなところだろう。
死んだはずの父が生き返って、挙句の果てに二人は殺されてしまい――とは言え、二人は仮死状態だったらしいが、復活するまでに一週間を要してしまった様だ――、だからこそシキの状態に気付くのに遅れた。
ただでさえ父が死んで生きる気力を失いかけていたシキは、生き返った父が家族を殺したことに気付いてしまい、静かに死ぬ決意をしてしまった。
死に向かうシキを何とかしたいと、彼らは願った。
そうして生まれたのが、あの死人の村だった。
父も一度は逃げ出したのに、全てを承知であの村に住むことにした。父を捜しているのならば、いつかシキは来る。そう確信していたのだ。
そんな風に、父と彼らは共犯者となった。シキを、何としてでも生き残らせるために。
「賭けに勝ったのは君だね、エデン」
村で決着をつけに行く前に、エデンのところに寄って賭け事を放り投げてみた。気まぐれではあったが、神にとっては重大な
子供は、果たしてシキをそのまま引きずり落とすのか。はたまた殺すのか。
エデンは、神らしく救う方に賭けた。
そして見事、子供達はシキを励ます方へ、救う方へと必死に誘導した。シキを送り出すために死んでいく演技といい、なかなか堂に入っていた。すっかりミカエル達も騙されていたのだから、笑い
最後に全ての元凶と偽って、
ルシフェルにとってはどうでも良い。ありふれた美しく、滑稽な家族愛でしかなかった。
ただ、わざわざシキに知らせてやる必要はないだろう。時がくれば、もしかしたらまた二人に出会うかもしれない。
その時に、どう足掻いて説明するのか。せいぜい苦悩すれば良い。
「その時が楽しみだね」
少しだけ成長したシキは、これからも前を進み続けるだろう。また過去を振り返ることがあったとしても、今度は立ち止まらずに前を向くはずだ。
見限る時がくるのか。それとも、長い付き合いになるのか。それはシキ次第ではあるが。
――せっかく、シキ自身に呼ばれたのだ。出来ればそれなりに長く持って欲しい。
儀式の時、シキの元に有象無象の天使が集まってくるのを、ルシフェルは眠りながら感じ取っていた。
あの時、例えどの天使が付いたとしても、即彼らは闇堕ちしていただろう。シキの心は天使には猛毒にしかなりえない。
誰よりも闇を色濃く抱き、けれど時に
幼き頃より闇を抱くのを当然としながら、誰かのために光となり、道標となり得る存在。
父親は、堕ちた。
だが、二人の子供は光を見出した。
薬にも毒にもなり得る存在。闇でありながら光にもなる。そんな厄介な能力は、魔王であり光の天使であるルシフェルにしか扱いきれないだろう。
だから、目覚めた。
これからの世界が、どんな風に転がっていくのか興味が湧いたのだ。
「三千年も眠っていたんだもの。これくらいの楽しみは、許されるよね」
シキは帝国にとって、天使にとって、神にとって、どの様な存在になるのか。
あの子供達は、改心するのか。再び堕ちるのか。
それも含めて、今はただ見守ろう。
「同じ趣味を持つ者同士、ね」
仲良く出来たら面白いね。
魔王使いの監視日記 和泉ユウキ @yukiferia
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