第11話 サイレンが鳴り響く
学校の校舎は明かりがすべてつけられていた。
自転車を降りて、ボクらは校門を乗り越える。雨はまだやんでいなかった。濡れたグラウンドを、雨音の手を引きながら歩く。
運動場は広くて、校舎に辿りつく間、ボクは空を見上げていた。
雨雲の強さや動きというのは、たぶん雨音の心の状態に左右されるらしい。ということは、あの雨雲は彼女の心の動きそのままを写しているということにもなるのか。
ボクは平屋の木造校舎を仰ぎ見るふりをしながら、ぼんやりと雨音の雲を眺めた。正面に見える、時計塔が7時半を指している。こっそり抜け出してきたのに、こんなに校舎が明るかったらすぐに見つかってしまう。
自転車を漕いできたばかりで息はまだ上がっているけれど、まだ走る体力は残っていそうだ。ボクは足に両手を触れて疲れ具合を確かめると、雨音の手を引いて駆け出した。まるで雨に向かって突進しているような気分。
校舎の玄関に入ると、背中越しに胸を押さえて激しい呼吸を繰り返す雨音がいた。つらそうにしている雨音を見るのは初めてだ。
「もしかして、走るの苦手?」
「……う、運動は少し苦手だ。実は普段もよく転ぶ」
地面に転んでいる雨音の姿が想像できなくて、ボクは噴出しそうになるのを堪えながら、下駄箱を抜けて廊下に出る。
目的は視聴覚室。あそこには、この島で唯一、映像記録を観ることができる装置がある。
自前でプロジェクターを準備できないから、そこは学校のものを使用するしかない。視聴覚室はボクらが夜の授業で使った教室のさらに奥にあった。ちょうど廊下の突き当たりで、すでに黒いカーテンが扉にかけられている。 うっすらと零れる蛍光灯の光。やや薄暗い廊下の明かりの上から覆いかぶさるようにして、床板を照らしている。
雨音に、「座って」と席に促す。
真っ白なスクリーンを降ろして、プロジェクターの準備をする。
ビデオカメラからコードを繋げばそのまま映像を写すことができる。
ドア近くにある明かりのスイッチを切る
。プロジェクターがスクリーンに光を当てている。接続したビデオカメラをいじると、やがてスクリーンが一度ブラックアウトする。
それから砂嵐の映像へと切り変わった。
座っていた雨音がこちらを向く。
「ほら、こっちじゃなくて。前をちゃんと見て」
「始めるよ」と言うと、スクリーンがぱっと輝いて映像が映し出される。
それはボクが撮ってきた、薄明橋の空から零れる薄明光線。別名を天使の梯子。雨音が最も見たかった光景だ。
ただ―――やっぱり天使の梯子というにはほど遠くて、ほとんどただの曇り空にしか見えない。しかもカメラを持って橋まで全速力で自転車を走らせたせいで、音声にはボクの荒い息が混じっていてかなりうるさい。
しかも手ぶれも激しくて、正直、美しくて幻想的な光景というよりはただの素人が雲を映している映像にしか見えなかった。
「……ご、ごめん。本当は、この前に天使の梯子がちゃんと見えてたんだけど」
ボクが言い訳めいた言葉を吐く。しかし雨音はベンチにじっと座って、食い入るようにスクリーンの映像を見つめていた。
それから映像を何度も切り替えて、綺麗に見える箇所はないかと探す。そして夕方までボクがじっとあのベンチで撮っていた薄明橋から見える空が映し出される。日没までの時間、ただボクの一人ごとと、ゆっくりと流れる雲だけがカメラの中に残っている。
けれど。映像が切れる間際だった。
「ううん、これは、天使の梯子だ。私が観たかった風景だ」
雨音は声を震わせながらそう小さく呟いた。
映像が終わったあとも、じっとスクリーンから目を逸らさないでいる。 まるでそこに今も薄明橋から観た雲が流れているかのように、雨音はすっと目尻から涙を頬に落としながら「ありがとう、本当に、ありがとう」と声をかすらせる。
ボクは蛍光灯のスイッチを入れる。雨音の言葉に気恥ずかしさを感じて、頬をかく。
「次はちゃんと撮って来るよ。このときはあんまり時間がなくってさ」
「いや、いいんだ。これで……」
雨音は涙を指先で拭い取りながらボクに笑いかけてくれた。外では静かに降る雨の声が聞こえる。
「私は、涼太のことが好きになった」、雨音は煙るような声で呟いた。
このまま夜が更けないまま、ずっと蛍光灯の明かりに照らされてこの空間がずっと残っていて欲しいとさえ、ボクは思った。
ぎしり、と椅子を軋ませて立ち上がる雨音を見つめていることができずにやや俯きながら、言葉を捜す。
いや捜す必要もなかったのだけれど、ボクは口をわずかに開いたまま制止してしまった。
窓が少し開いている。
ときどきふわりと風に浮く雨音の青みがかった髪の毛は、少し水に濡れて重たくなって蛍光灯の明かりで奇麗に輝いている。
ボクが何か言葉を口にするより先に、がたりとドアが音を立てた。
そこに立っていたのは、センパイだった。
「ようやく見つけたぞ」
センパイはボクの肩を一度叩いたあと、教壇に上がった。
「さて……」とセンパイは視聴覚室の真ん中に立っているボクと雨音を交互に見渡したあとで
「夜の学校、か。そうだな、話をするにはちょうどいい」
「センパイはどうしてここに?」
「この島の秘密について……謎は解いておくことに越したことはない」
センパイは腕を組んでボクを見据える。
きっと何かたくらんでいる。
眉根を寄せていぶかしむ雨音を、センパイは不遜な態度であっさりと流す。ごろごろと、雷を告げる不吉な音が外から窓を伝って響いている。それを気にも留めないまま、センパイは一枚の写真を取り出して、真っ赤なマグネットで黒板に貼りつけた。
写真をカラーコピーで引き伸ばしたもので、ここからでもよくわかる。あれは開発基地近辺を空撮した写真だ。
「センパイ、それって……」
「そうだ。これこそが、あのロケットの秘密だ。いや、この島全体の秘密と言っていいかもしれない」
そう言って、センパイはポケットから赤いマジックを取り出す。
それからチョークも持つ。
でもたしかに、センパイはあの橋の上でボクと別れる前に、ロケットの秘密がわかったと言っていた。きっと、そのことだ。
写真を見るととくに変わったものは見られない。開発基地にある建物とロケット。それから少し離れた場所にある天弓神社。
「秘密って、何かわかったんですか」
「それを順に説明していく。ではまず聞こう。ロケットを打ち上げるために必要なものはなんだ?」
突然、クイズめいたものを出されても急には答えられない。
ボクはじっと黙って首を傾げる。しかし雨音は最初から答える気もないようだった。センパイはやがて深いため息を吐いてあからさまに肩を落としてみせた。
「同志よ、打ち上げのためには、打ち上げるという指令が必要だ。そして、それはロケットの打ち上げ失敗による事故を避けるために数キロメートルほど離れた場所から行なわれる」
「はあ……」
ボクはセンパイの意図を計りかねて曖昧な返事をかえす。
「見ろ、この地図のどこに司令棟らしきものがあるというのだ。開発基地の建物は、すべてロケットから程近い場所に建っている。よって、これらは打ち上げ指令を出す条件を満たしていない。だが数キロほど離れた場所にちょうどいい建物があるだろう。よく捜してみろ」
「建物……ですか?」
「そうだ。見た目に騙されてはいけない。あの基地の外にあって、なおかつそう距離が離れていない建物だ。それは一つしか存在しない」
そう社翁山に建つ建物は開発基地のほかにはあと一つしかない。
「―――天弓神社だ。この地下に、指令室があった」
凧を揚げて空撮をしていたのは、打ち上げを行なう場所を発見するためだったのか。そしてそれに見合うものがまったくなかった。
それでセンパイは唯一、その条件を満たす天弓神社に侵入したのだ。あの、開発基地に入り込んだときのように。
窓ガラスが赤色に染まった。
黒いカーテンに隙間があって、そこから零れるように人工的な輝きがこちらを照らしている。やがてけたたましいほどのサイレンの音が鳴り響く。サイレン音は、山びことなって次から次へと音を伝えて、視聴覚室の時計の真横にあるスピーカーからもまったく同じ音が聞こえる。
ボクは思わず耳を塞ぐ。
「ふむ、さすがに見つかってしまったか。だがここまでは予定どおりだ」
「一体……何をしたんですかっ!」
サイレンの音に負けないように、ボクは叫んだ。
雨音が、グラウンド側の窓にかかっているカーテンを開いた。赤いライトを放っていたのは、ロケットのランチャ、それから開発基地の建物群。まるで近づくなと警告を放っているかのように暗闇の中、不気味に輝いている。
あのロケットも、開発基地も、朽ちた施設にしか見えなくてあんなにライトが点滅しているところを見たのはこれが初めてだ。
「なに、あれもこの島の秘密を明かすために必要な措置だ。やや力技ではあるがな」とセンパイは眼鏡の位置を整えながら言った。
ボクは奥歯を強く噛んだ。あのロケットは、ペニテンテロケットは、ボクらが空に打ち上げようとしていいものじゃない。
あの日記に書かれていたように、たくさんの人たちの思いを乗せたままあの場所に残ってしまっている。そのことを知らない人間が、勝手に触れていいものじゃない。
「センパイ、あの場所をそっとしておくことはできませんか」
どうしてあの場所に、ずっと残されているのか。あれはボクらのためにあるものじゃない。ロケットから脱落した鉄の板。きっと、あのロケットに携わった人はみんな言うだろう。
あれに書かれていた言葉そのままに。
―――雨音のために。
そう、あれは雨音の母親が彼女のために残したロケットだ。
「気持ちだと? そんなものが何になる。ロケットは打ち上げられて初めて意味を持つ。骨董品のように大事に眠らせておくべきものでは……」
「センパイ、言いましたよね。ロケットが打ち上げられるのは人の意志だって。人の思いも乗せて初めて意味を持つって。それがないロケットはただのがらんどうのはずです」
「そうだ。だからこそ、打ち上げるのだ」
「なら……どうして打ち上げない、という意思をくみ取ろうとはしないのですか。どうして、あなたはそれがわからないんですか」
振り返って雨音を見る。
僕は今、どんな表情をしているのだろう。
センパイは知らないのだ。
あのロケットの打ち上げが中止となったときに、どれだけ雨音の母親が悩んで苦しんだのか。雨音のためにという願いのために完成を向かえて、技術者である夜宵さんに中止を求められて、受け入れられないまま当日を迎えて悩んだ末に、中止を決めたあの日のことを、センパイは知らない。
例え、夜宵さんの技術者としての勘が的外れだったとしても、仮にあのロケットがまともに打ち上がるのだとしても、それを判断するべきなのはボクらではないのだ。
きっと、それは―――そう。
雨音は顔を強張らせてこちらをじっと見つめている。止める。雨音の手を引いて、僕は視聴覚室を出た。
ボクは雨音の手を引いて、廊下を抜けて玄関を開こうとした。けれどその前に、センパイが僕の腕を掴んだ。
「待て。宮下、お前は何か勘違いをしている」
「勘違い? 勘違いってなんですか」
「オレは、この島の秘密をたしかに解いた。だが、打ち上げ実行にはいたらなかった。当然だ、あのロケットは15年も昔に停止している。燃料も朽ちて使用できるものではない。ただ……あやふやなまま真実を知らされぬ出来事を解き明かすためだ」
「じゃあ、あの打ち上げを知らせる灯りもそうだって言うんですか」
「そうだ。信じろ。オレを」
玄関から外をみれば、雨がまだ降っている。
そのとき学校の裏門から、グラウンドに一台のトラックが飛び出してきた。雨音の雲を見分けて、この場所に来ることのできる人がたった一人だけいる。
芽衣香さんだ。
「乗ってっ!」と芽衣香さんは、トラックの荷台の縁から上半身を突き出してボクらを呼ぶ。トラックにいるのは芽衣香さんだけじゃなかった。
駄菓子屋のおばあさんに、神主さんもいる。それにトラックを運転しているのは、がんちょさんだ
。校庭のグラウンドは長雨のせいで地面が水びたしになって砂はほとんど見えなくなっていた。僕は、腕を握っているセンパイを見上げた。
「あの灯りをともせば、ここへ来ると思っていた」
眉を顰めたのは、芽衣香さんだった。
灯りは天弓神社付近で赤く光ったまま、サイレンも鳴りやむことはない。そして、校舎のグラウンドに集まってくるのは、芽衣香さんたちだけではなかった。島の人々がみな、ここへ集まってきている。
「あのライトを見るのは15年ぶりじゃの」と駄菓子屋のおばあさんが呟いた。
トラックはタイヤに纏わり着いた水や砂を吹き上げながら裏門へと向かう。芽衣香さんがトランシーバーで誰かと連絡をとっている。
「手違いだ。ただし、誤作動の可能性もある。すぐに来い」
それだけ伝えて無線機を肩から背中へと回した。そしてトラックの荷台から降りた。さらにどこかと連絡を繋いでいる。
「あんたか。あの警告音を鳴らしたのは」
「ああ、そうだ」とセンパイが呟いた。
「……まあ、よくできている。まさか、私たちが騙されるとは思わなかった」
駄菓子屋のおばあちゃんは腰に手を当てて、
「だが……もう15年も昔の話だ。あの音を忘れてしまっていたのだろう」と寂しそうに言う。
「この島はな、ロケット打ち上げ計画の以前には無人島だったよ」
そう言って芽衣香さんはトラックの助手席のドアを閉めた。
トラックは県道を通って薄明橋に向かうために、島の中心部をとおる畦道へと向かう。
「こ、この島がですか?」
芽衣香さんの話を引き継いだ神主さんがこくりと首を振る。
「15年前、この島はたしかに何もなかった」
「だからねえ。そう、この島のほとんどの人間が、あの当時の開発基地でロケット打ち上げに携わっていた研究員たちなんじゃ。神籠は管制官をしておったし、がんちょは組み立て棟の現場主任。わしは駄菓子屋じゃのうて、プログラマーをしておったよ。芽衣香は所長の助手をしておった」
駄菓子屋のおばあさんは呟いた。
雨が降りしきる中、誰もがあの山の頂上を見上げていた。グラウンドに集まった人々もみんな。そして、おかしなことはそれだけではない。そのみんなの格好だ。
駄菓子屋のおばあさんは白衣を上着にしているし、神主さんはスーツ姿で、がんちょさんは灰色の作業服に身を包んでいる。
「どうして……」、神主さんが唖然としているボクの肩に手をかける。
「雨音のために―――。ただ、それだけだよ。本当は、打ち上げの中止が決まった時点で我々もこの島を離れるはずだった。しかしまだ、この島の人間は二人が残したあれを見守り続けている」
「全員ではないが……残った者が多かった」と島の誰かが呟いた。
雨音は空を見上げて、自分の雲の行方をその目で追いかけている。
その手で髪の毛をかきあげる。さっと水しぶきが風に流されるのを見遣りながら雨音は呟いた。
「教えて欲しい。私の母は、霧島茜は今、どこにいる?」
そう、あの日記は途中で終わっていた。この島に、当時の研究員たちが今も残っているなら、あの二人は―――開発基地の中核を担っていた二人はどこへ行ってしまったのだろう。
「二人はハルの預言を聞いたことがあるかい?」
でこぼこ道に入って、トラックはさらに大きく揺れた。神主さんはボクらに向かって、少し悲しそうにしながら言った。
「ボクは、あります」
センパイを自転車で追いかけていたときだった。チェーンが外れてどうしようもなくなっていたボクに向かって―――いや、あれはボクに向けたものではなかった。どこか遠くを見ていたのだ。そして何かとてつもない痛みに耐えていた。
ハルはまるで現実世界にいないかのような虚ろな表情でロケットが落ちると突然、ボクに告げたのだ。
「君たちに伝えたね、島の歴史がすべて嘘だったように、ハルの預言もまた偽りなんだ」
「でも、あれは嘘をついているとは思えませんでした」
「そうだね。ハルは嘘をついている自覚はないはずだよ。ハルはちょうどこの島で我々が生活し始めて生まれた子だからね。あの子は神社の娘として生きてきた。もちろん、雨音も。まだ開発基地が出来上がったばかりのころは、二人とも生まれていなかった、だから二人が知っているのはこの島のみんなが研究員としてではなくて、島で暮らすために―――研究者であることを捨てた姿だよ。我々は、研究員であることを隠して生きてきた。ハルは我々が造り上げたこの島の歴史を信じて、自分が預言者の娘だということも信じていた」
無人島に、開発基地を作った彼らは、そこに住まいを設けた。
そして打ち上げの中止が決まったあとも、その場所で暮らすために管制官は神主として、現場主任は農家として、プログラマーのおばあさんは駄菓子屋と喫茶店の店主として、さまざまに顔を変えて―――そんな中でハルは育った。
「ハルの預言は、あの子の記憶が形を変えたものなんだ。事故の後遺症というのかな、たぶんあのときの事故がフラッシュバックして、それが預言のもとになっていると思うんだ」
「事故、ですか?」
「打ち上げが中止になって、すでに我々は次の計画のために動いていた。開発基地に最低限の人員を残してね、島を離れることが決まっていた」
「……短いようで、長い長い、この島の、本当の歴史だ」
駄菓子屋のおばあさんが白衣の袖で目元を拭う。
「神籠夜宵という技術者がかんじた違和感。その原因を探るために、霧島茜と二人でとある実験施設に向かった。ロケットエンジンの燃焼実験を行なうためにね。夜宵はそこへハルを連れて行った。雨音も行きたいとずいぶんせがんだようだが、雨を降らせるわけにはいかなかった。だから芽衣香に預けた」、とスーツ姿の神主さんが芽衣香さんに目をやる。
あの日記で途切れていた話と同じだ。
霧島茜は、夜宵と一緒に恩師の許に行くと日記に書いていた。ハルを連れてきたのは、どうしても夜宵がハルの顔を恩師に見せたいからだ、と。
「当時のロケット研究は失敗の連続だった。成功した数の方がはるかに少ない。エンジンの燃焼実験もまた、失敗して実験場で爆発が起きてしまった。ハルはね、そのときの事故でたった一人、生き残ったんだよ」
「ハルが……」
「つまりハルの預言はその実験場で見た事故の刻印だ」と神主さんは言った。
自分のことを預言者だと信じることで、ハルは心のバランスを取っていたんだ。そしてハルがたった一人だけ生き残ったということは、二人はもう―――。
「もちろん、ボクらが神籠夜宵のことを預言者だと言っていたのは半分本当だ。それほどロケット機体に関してそれほど彼女の感覚は預言者めいていた」
「すばらしい、メカニックだったんじゃよ」と駄菓子屋のおばあさんが言う。
「ああ。そして霧島茜という人間の行動力と統率力、それに彼女は元々優秀な物理学者だったしね。それに優秀な技術者―――だからあの開発基地は存在することができたんだ。今の、今まで」
「そう、ですか」
それがこんな形で崩されてしまうなんて。やはり、あのロケットは僕らが勝手に触れていいものじゃなかった。
―――15年。
この島の人たち、つまりあの開発基地の研究員たちは、霧島雨音と神籠夜宵の幻影を追いかけ続けて、打ち上げ中止となってしまった原因を突きとめるためにここでずっと暮らしているのか。
そしていつか、雨音のために打ち上げると誓ったあの日の約束を果たそうとしているのかもしれない。
「いつから、気づいていたんだい?」
管制官としてぴしりとスーツを着こなした神主さんが呟く。
「えっ?」
「天弓神社の管制室だよ。あそこに気づくってのはそう簡単じゃなかったはずだ。普通は天弓神社地下の総指令室なんて見つけられない。君たちが初めてだったんだ、この15年間、あのロケットのライトが灯ったことはなかった」
いつ、この島の違和感に気がついたか。たしかにこの島はロケットと開発基地がある、ということを覗けばなんの変哲もない島だ。
神主さんの問いに、センパイは答えた。
「当然、開発基地の配置を観たときから―――」
僕だったら、島民と開発基地側の衝突によってロケットの打ち上げが中止になって、研究者たちは出て行ったと言われたら信じてしまうだろう。
神主さんや芽衣香さんの嘘に騙されていたのもたしかだ。
「君は?」と神主さんが僕に訊いた。
「おかしいな、と思い始めたのがいつからか、という話なら、きっと僕は―――」、僕ならなんて答えるだろう。
「たぶんそれは、ロケットランチャの下で雨音に初めて会ったときから」
もし霧島雨音に出会わなければ、きっと霧島家と神籠家の対立など余計な話を持ち出さなくて済んだだろう。
雨を降らせるという特異な能力を持っていた雨音を、この島の人たちは隠し続けていた。
それは明らかに不自然なものだった。雨音は一人孤独に開発基地の内側で暮らしていながら、実は島のみんなに守られていたのだ。
「そう、か……」
「だが、確信を持ったのは雨量計を見たときだった」とセンパイが呟く。
「ああ、あれか」と神主さんは濡れた頭を掻いた。
「開発基地に黙って入ったときに、雨量計にガムテープで蓋をしてあった。あれは明らかにおかしい」
「あれはね、外部に雨音の存在を悟られないようにするため、仕方なかったんだ。彼女が雨を降らせてしまう雲は異常気象として検知されやすい。昔、気象学者がやってきたこともあったしね。だから、ボクらは雨音が雨を降らせてしまうときには雨量計に蓋をしてあくまで記録上は雨が降っていないことにしていた」
たしかに、雨音が降らせる雨は、彼女が外出する時間のみ。豪雨だけど短時間でしかない。島の天気は本州海岸線からも見えにくいし、雨音の雲は海まで広がることはない。
ただ、この島にだけ降る雨。もっと言えば、雨音の近くだけ。だから、記録さえなくしてしまえば、降っていないことになる。ただし、それには島全土の雨量計を塞がなければならない。
「だからね、雨音が外に出るというときなんて、島中大騒ぎになる。みんながそれぞれ近くの雨量計を塞ぎに行くんだ」
少し恥ずかしそうに、神主さんは頭を掻いた。
グラウンドは島の人々でいっぱいになった。
芽衣香さんらが、打ち上げ警告音は間違いだ、と説明している。
しかし誰もが、日中の仕事を放棄してこの場に向かい、家の用事をほったらかしに来たのがわかる。ボクらがこの島に来てから見かけた人たちだ。
開発基地を、そしてあのロケットを見守ってきたという意思が顔に現れていて、いつもよりずいぶん違ってみえた。漁師もいれば、バスの運転手もいる。住宅街の隅にある商店が立ち並ぶ一角から来た、おもちゃ屋に花屋、肉屋や銭湯の番台さん、この島で暮らしてきたみんなが、研究者や現場作業員としての顔をして、ボクらの前に立っていた。
芽衣香さんが無線機を肩から降ろしてみんなに呼びかける。
「来てくれてありがとう。みんな、忘れてはいなかったのだな」
―――忘れるものか。
いくつもの快活な声が、グラウンドに響く。
芽衣香さんはぐっと拳に力を込めた。その言葉を引き継いだのは、現場主任だったというがんちょさん。雨は少しずつ強まっていた。しかし橋に集まった島の人たちは彼の言葉を聞き逃すまいとじっと立ち尽くしている。
「みな、霧島茜所長の言葉を受け継いだ者たちじゃ。そしてわしらには、神籠夜宵技術統括の血が流れておる。あの二人が決めたことを、ずっとわしらは守り通してきた。それを、15年ぶりに確認できたのだから、今日は感謝しよう」
そうだな、と島の誰かが呟いた。そしてこの島に最後の車輌が到着した。
「ハル、ハルはっ?」と駄菓子屋のおばあさんが呟いた。白衣を着ていて長い白髪が透けるように溶け込んでいる。
そういえば、僕も天弓神社でノートとカセットテープを渡してから、ハルの姿を見てない。
雨音が降らせる雨が、次第に強くなっている。
ハルはきっと、打ち上げ警告音の意味を知らない。だからもし仮に、この騒ぎに気がついたとしても、校舎のグラウンドに集まることを知っているとは限らないはずだ。
島の人々が、行動を開始したのは、僕が口を開くよりもはるかに迅速だった。みんな、校舎に乗りつけた車に乗り合い、ハルの捜索を開始しようと動き出したとき―――。
誰かが止めない限り、鳴りやまない警告音が、ぴたりと止まった。
警告音は島に等間隔で設置されているスピーカーより発せされている。
止んだスピーカーから、雑音がしたのは、警告音が止んで少し経ってからだった。
『―――ハル、ハルだよ』、そう声が聞こえた。
その声を聞いて、芽衣香さんが、「スピーカーの操作は、天弓神社の地下しかない」とトラックの荷台に乗った。
『ハルは大丈夫だから。こちらに来ないで欲しいの』
ハルの消え入りそうな声が、スピーカーから島全体に広がっている。
一体、何をしようとしているのか。島の人々が、雨に降られながら心配そうにその声に耳を澄ましている。
『ずっと前から、気づいてたの。この島のこと。ハルのこと。ハルのお母さんのこと』
「―――ハルっ!」と神主さんの声が強まる雨の中、聞こえた。
『本当は涼太お兄ちゃんたちがこの島に来る前から、あのロケットの欠陥を、島の人たちは解明していたの。つい最近のことだけど。打ち上げが失敗する原因はね、ロケット内部のコンピュータと管制室とを繋ぐコネクタが、ロケットの打ち上げ時の衝撃によってショートしてしまうの。そしてコンピュータ内部に雑音が生じて誤作動を起こしてしまう。それが原因で、第一制御姿勢と第二制御姿勢が入れ替わって、ロケットは打ち上げ直後に、衛星軌道上の姿勢を取ろうと傾いて落ちてしまう。そうでしょ? 芽衣香さん』
その声に従って、僕やセンパイは芽衣香さんを観た。もちろん雨音も。
芽衣香さんは頷くこともなく、その話に黙って聞いていた。
『涼太お兄ちゃん。ハルに、カセットテープを渡してくれたでしょ? あれ、今ここで流すね。みんなにはもう一度、聞いて欲しいから。ううん、本当に聞いて欲しいのは、雨音さんに―――』
それから、再びサイレンの音は高くうねる波のように島に響きわたった。避難を告げる音はここから打ち上げ直前まで鳴り止むことはない。
そのはずだった。しかし次に聞こえてきたのは、拍手と笑い声。それから、女の人の穏やかな声色だった。
『1970年、7月14日をもって……鳴神島宇宙ロケット計画を中止いたします。ロケットの打ち上げはしないことにしました』
島の各所に備え付けられているスピーカーから聞こえてくる声。それは15年前の同じ日にロケット打ち上げの中止を決めた、霧島茜の肉声だった。
テープ録音のため、ときおり雑音が入る。しかし声そのものは、当時そのままに島全体に響き渡っていた。中止を告げた瞬間、不満の声が少しずつ強まる。しかし霧島茜の咳払い一つで、再び静寂が戻った。
『それから……みんなにはずいぶん、苦労をかけました。素敵なものだけを見ていたい。私は素敵なものだけを抱えて生きていたい。そしてそれを叶えてくれるのは、私にとって夜宵とここにいるみんなだけ。だから、私は信じるの。夜宵だから信じられるの。信じたから、ここでやめるの。
本当は、みんなでこの島で暮らせたらいいんだけど―――ごめんなさい、私たちは研究者ですもの、だから、雨音。もう少し待っててね。きっと、いつかあなたの頭上にある雲を真っ青で広い空にしてみせる。だからもう少しだけ。もうずいぶんここの暮らしも長かったけれど、それも終わりです。さあ、ロケットの打ち上げは中止になりました、この島を……離れましょう』
テープの音声はここで止まって、グラウンドに静けさが戻った。
しかし雨音はボクの背中に頭をつけてぐすぐすと泣いていた。母親である霧島茜の声を、雨音はどれほど聞きたかっただろうか。
社翁山に突き刺さって見える、錆びて朽ちたロケット。
15年前からずっとこの島を見届けてきたロケットには蔓が這い、地面にしがみついているようにもみえる。相変わらず、頭上では雨雲が広がっていて、静かな雨が身体を濡らしていた。
―――ありがとう、声を聞かせてくれて。
雨音の声が、背中で聞こえた。そして上空の雨が弱まり、おぼろげに月が見えていた。それは幸福そうな雨のような気がした。
「明日、薄明橋に行こうよ」
「でも……晴れてないと天使の梯子が見えないんだ」
僕は俯く雨音に向けて、首を二度振る。
夏が素晴らしいのは、何も晴れているときだけじゃない。
そんなこと、太陽に顔を上げている向日葵だって知っている。
「ううん、いいんだ。雨の日も、好きだから」
ひたひたと地面を打つ雨。
雨音は僕の言葉を聞いて、顔を上げてくれた。
そして、島の人がたくさんいるところで。
少しだけ、恥ずかしそうにしながら。
僕に耳打ちをするようにして、口元を手で隠して―――僕の頬にそっとキスをした。
―――僕は雨雲に笑いかける
空は暗く曇っているけれど
僕の心にはお日様が照ってる
新しい恋にはぴったりだ
『雨に唄えば』
おわり
雨女さんと廃墟のロケット 東城 恵介 @toujyou
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