第10話 夜行文化祭

 

 薄い雲が広がっている。

 

 雲の一つひとつが太陽の日差しを抱えて、今にも膨れ上がって破裂しそうに輝いている。朝方のおかげでまだ気候は穏やか。わざわざ早くに家を出たのは、この石段を昇るためだ。

 木陰で日差しは和らぐといっても、さすがに気温の上がりきった日中だときつい。だからこの時間を選んだのだけれど、それでもきついのには変わりない。汗を拭いながら、ボクは小さなバッグを背負いなおす。

 入っているのは、昨日開発基地から勝手に持ち出したノートとカセットテープ。

 ボクはハルに伝えなくちゃいけないことがあった。

 それに、雨音にも。

 石段は頂上付近になると、石の並びがふぞろいになって道も狭くなる。そして木の根っこが石を押し上げて滑りやすくとても登りにくかった。朝方に、どこからかひぐらしの鳴き声が混じっている。もう、夏も下り坂ということなのだろうけれど、暑さはちっとも引いてくれない。     

 今年は猛暑が続いているようらしい。でも、この島はときどき雨が降っている。

 緑の葉が日差しを反射して白く輝いてみえる。木陰に零れる光の粒を足で踏みながら、一段ずつ石段を駆け上がる。

 天弓神社の石畳を踏む。ちょうど、境内のお賽銭箱の後ろで、ハルがちょこんと座っていた。竹箒を持って御庭を掃くつもりなのだろうけれど、どうやらさぼっているみたいだ。

 ボクに気づくと、竹箒を放して手を振る。でもどこか元気がなさそうだ。

「涼太お兄ちゃーんっ!」

 でもボクは石段を登りきるので精一杯だったから、ひとまず膝に手をついてから息を調える。その間にハルはボクの許にかけてきて、石段すれすれに立っているというのに、タックルをしかけてきた。避けるわけにもいかないから、おふっと腹から声を出してハルを受け止める。

「痛い」

「ハルは、痛くないの」

「そういうことじゃないよ。いつまでもチビッコじゃないんだから」

「ちびっこじゃないっ!」

「……じゃあ、やめよっか、人にタックルするのは。危ないし」

 ハルは口を尖らせて納得のいかない顔をする。

 ここ最近の巫女としての仕事が粗方終わったせいだろう。ハルはジーンズ生地の短パンにTシャツというラフな格好をしていた。

 いや、巫女服の緋袴だけ履いて上はTシャツだったときなども充分、ラフだったのだけれど、今に比べれば島ではフォーマルな服装に分類されるだろう。

「そういえば、涼太お兄ちゃんのセンパイ見たよ」

「あー……どこにいた?」

「1回そっちの家に戻るって言ってたよ。荷物、まだ置きっぱなしにしてるのがあるからって」

 あの人、この島にどれだけ荷物を持ち込んでたんだ。

 ボクは一度、家に帰ってセンパイの状態を把握しようと振り返った。でも、ボクはここに用事があって来たのだった。バッグを石畳の上に置いて、取り出したノートとカセットテープをハルに手渡す。

 これは昨日、ボクらが読むことができなかったロケット打ち上げが中止されたときのことを記した日記だ。

「これ、読んでもいいの?」

「うん、これはハルも読んだほうがいい。ハルは昨日、打ち上げの中止はハルの母親と雨音の母親が喧嘩したせいかもって言ったよね。だから自分の母親のせいだって。でも、違うんだ」

 ハルはボクを上目遣いでちらりと見ると、ノートを開いた。しかしそもそもこの三冊目はほとんど使われていない。あるのは、ロケット打ち上げ当日のことと、それから約2ヵ月後のことだけ。

 頭が割れるように聞こえていた蝉の鳴き声が引いていくのがわかる。

 じっとノートに視線を落とすハル、ボクはその旋毛ごしにノートの文章を読む。


―――7月14日

 晴れ。微風。午後にやや曇る。しかし打ち上げに影響はなし。


 打ち上げの中止を、みんなに伝えた。私だって諦めたわけじゃない。でも夜宵の能力を信じてここまできたから、最後も私は夜宵を信じる。中止、と言ってもこの開発基地がなくなるわけじゃない。まずはもう一度、ロケットの機体にミスがなかったか調べることから始めるべきだ。


―――9月30日

 入院していた夜宵が無事に赤ちゃんと退院した。私もロケットの打ち上げから少しだけ解放されて、雨音と過ごす時間が多くなっている。赤ちゃんの名前は、ハルと名づけられた。ハルちゃんは女の子で、夜宵にすごく似ている。きっと頑固で譲らないところも似てしまうのだろう。

 大学の研究室で、恩師だった芝原先生がロケットエンジンの燃焼実験をするというので、ハルの顔を見せに私たちは二人で九州に行くことになった。懐かしい同期の顔ぶれも揃うらしい。ただ、雨音はこの島に置いていくことにする。やっぱり、今はまだ雨音をこの島の外に出すわけにはいかない。

 それで芽衣香にお世話を頼んだけど、ちょっと心配だ。

 芽衣香はあの子に甘い。

 夜宵もあのロケットを、ペニテンテ飛ばすのだと張り切っている。

 まだ、終わってはいない。


 最後のノートに記されていたのは、この二つの短い文章だけ。ハルはノートを閉じて、ふうっと深い息を吐いた。

「ハルのお母さんと雨音のお母さんは、喧嘩してすぐに仲直りしたみたいだね。それはハルが生まれたこともあると思うんだ」

 ロケット打ち上げの中止が決まってから2カ月ほど経って、ハルは生まれたのだろう。その間の日記がないのは、同じ部屋で暮らしていた二人に変化が訪れたこともあったかもしれない。

 二人はロケットの打ち上げができなかった原因を探るために恩師の許に出かけたらしい。

 そこで日記は途切れている。

 ハルは夏の日差しで薄く輝くノートを閉じる。

「あれで終わりじゃなかったんだね」

「これはハルが預かっておいてよ」

 風が、石畳の上に散らばった木の葉をどこかへと運ぶ。

「で、でも……」

「いいんだ。雨音にも言っておくから」

 そういい残して、ボクは石段を駆け下りる。

 ノートとカセットテープを大事そうに両腕に抱いているハルを見たら、返してというのも少し憚られる。でもきっと、あれはハルの手許にあってもいいものだとも思う。僕は振り返り、一度家に戻ることにする。

 センパイのことが気がかりだ。

「ま、待ってよ、涼太お兄ちゃんっ!」

 ハルの声を振り切った。

 あの人は、次から次に想像もできないことを頭に思い浮かべては行動に現す。石段を駆け下りながら、家に帰るとしたらバスの方がいいと判断して、天弓神社と書かれた石塔まで降りるとバス亭を探す。

 本当に、田舎はバス亭との距離が遠くて、探すのも難しい。けれど、そこは社翁山というこの島のランドマークに立つ神社、バス亭はすぐに見つかった。納屋に軒をつけたような雨避けの下にベンチとバス亭がぽつんと立っている。

 畦道を走るバスというのも珍しい。ボクの目の前を一台のバスが通過する。それを全力で追いかけて、ボクは何とかバスに乗ることができた。

 タラップに足をかけて乗り込んで、一番手前の座席に座る。乗客はボクだけ。バスは都会とは比べ物にならないくらいのんびりとした速度で扉を閉めて走りだす。

 バスは社翁山を下りつつ、県道に入り、薄明橋を渡って住宅街から学校に向かって海岸線を走ってまた社翁山へと戻ってくる環状バス。

 日差しがときどき現れるけれど、雲が時間を経るにつれて増えてきた。バスに揺られて、ボクはぼんやりと山の木々を眺める。

―――もしハルにあのノートとカセットテープを渡していなかったら、ボクは座席でバッグを開いて見逃していたかもしれない。

 夏の空に雲がたなびいている。やや雨雲よりの重たい天気。その雲の端から、光が零れている。そしてバスは薄明橋と、次の行き先を告げる。

 山々が連なっていて、緑と岩肌しか見えなかった風景に、突然ボクの目に飛び込んできたのは、天使の梯子だった。

 雲の切れ間から光が海へと降り注ぐ。山と平地の間に川が流れて、その上に橋がかかっていて、バスの窓から地上に降りた光の筋がはっきりとみえる。橋の上からだと、山の裾野と川がぶつかっていて、海が望める。光を遮る障害物が何もなく、ただ海へと光が届く景色は、震え上がるほど奇麗だった。

 ボクは思わず、降車ボタンを押した。少しだけ、薄明橋を過ぎていたけれど、「今降りますっ!」と無理を言って、バスを降りる。薄明橋に立つと雲は空で揺れ動きながらも、切れ間を崩さずにゆっくりと流れている。

 これが、雨音の母親が見せたかった風景ではないだろうか。

 そしてこれが、今もずっと雨音が見たい景色だ。

 ボクはそしてすぐに、バッグにほとんど荷物を入れてこなかったことを激しく後悔した。こんな場面に出会えるのだったらカメラを入れてくるべきだった。

 そしてそれを雨音に見せたら、どんなに喜んでくれるだろう。

「……でも、まだ。まだっ!」

―――まだ間に合うっ!

 ボクは走った。バスはとっくに行ってしまった。ちらりと、薄明橋のバス亭の時刻表を確認したけれど、次のバスは1時間後。

 そんな悠長にしていたら、すぐにこの景色は失われてしまう。たまたま幸運だっただけだ。でも、あとこの風景がどれだけボクを待ってくれるだろう。

 走る、橋を過ぎて山を駆け下りて、平地に出て、それから畦道から県道に入ると自分の家が見えた。標高の高い、この場所からは一望できるけれど、住宅街はまだまだ遠い。

 雲は風に流されて一秒後にはまったく別の姿に形を変える。移動する。

 頼む、とボクは願った。あの景色を、雨音に見せてあげたかった。

 ちょうど、県道に入ったころに、細い田んぼ道を歩く背の高い男の人を見つけた。一目でわかる。センパイだった。そして、センパイは自転車に乗ろうとサドルにまたがって、ペダルを二度三度踏んで車輪を回しただけで転んでいた。

 きっと、自転車の荷台に乗せて人がいないから自力で漕いでいるのだろう。ボクは県道から田んぼ道に入って、畦道よりもはるかに狭いでこぼこ道を走る。

「セ、ンパイっ!」、呼吸が苦しくて、何度も唾を飲み込む。「センパイ、セン、パイっ!」、ようやく気づいて、センパイはこちらを見遣ると、なにやら不気味に微笑んでずれた眼鏡の位置をしきりに直す。

「おお、どうした? いい加減、ロケットの調査に明け暮れる気になったか。しかしだな、もう遅い……」

「そんなことはいいですからっ! 自転車、貸してくださいっ!」

 その自転車は、チェーンが外れて社翁山のガードレールのところに置いてきたものだった。

「……待て待て。言っておくが、この自転車は我々が共同で使用していたものだろう。今はオレの番だ。使用は認められない」

 というか、それは元々芽衣香さんが使っていたものだ。

「そんなことはどうでもいいんでっ!」、センパイはボクに気圧されて珍しく戸惑っている。

「いや、だから。そろそろ、行動を共にする気は……」

「ボールペン」

「なんだ?」

「だったら、ボールペン貸してください」

 ふむ、とセンパイは背中に背負った巨大なバッグを地面に降ろした。もちろん、ボクは素直にセンパイに対してボールペンを求めるつもりなんてさらさらない。

釈迦堂センパイがそのバッグを開けた瞬間を狙って、その身体に体当たりをかました。さっき、ハルにくらったばかりの体当たり。センパイはハルのパンチも交わしきれなかったくらいだから、この体当たりだってまともに食らってくれるだろう。

 予想どおり、ボクの肩と肘がちょうどセンパイの胸と腹部に激突してセンパイは尻餅をついた。その隙にボクはセンパイのバッグから荷物を全部出す。狙っていたのは、センパイが凧揚げのときに使っていたカメラだ。 あの凧は上空から写真を撮るためのもので、もちろんその凧にはカメラがつけられている。そのカメラさえ奪えれば。

 がさごそとバッグの中身を漁ると、必要のありそうなものから、どうでもいいものまで大量に出てくる。その几帳面なセンパイの性格が災いしているのかなんなのか、ポケット収納からちょっとした隙間まで道具がねじ込まれている。

 バッグに発煙筒すら仕込んでいる人だから、軟式ボールやコーヒー豆が詰め込まれていることにいちいち言及していられない。

「センパイ、カメラをお借りします」

 さらにバッグの底を漁る。すると、カメラどころかこの人はビデオカメラまで用意していたらしい。静止画像よりも、動画の方がきっといいだろう。でも時間がない。とにかく、早く薄明橋に戻らなければ。

「いや、ちょっと待て。オレはな、ついにあのロケットの秘密を突き止めたのだ」

「あとでじっくり聞きます。今は時間がないんです。雲は待ってくれません。センパイは待てるでしょ」

 ボクはそう言い残して、自転車に跨ると、勢いよく走りだした。センパイが暴いたというロケットの秘密なんてどうでもよかった。それよりも、あの風景をビデオカメラに収めるほうが大事だ。

「オレの話を聞けえぇーーーっ!」

 背後から、センパイの叫び声が聞こえる。

 センパイは散々ボクを振り回してきたのだから、今日くらいは、今日この瞬間くらいは、ボクの言うことを聞いてくれたっていいはずだ。

 車輪は回る。

 ぐるぐると、空気を巻き込んで、蝉の鳴き声も、夏の暑さも、じっとりしたボクの汗までも巻き込んで激しく回る。やがて、社翁山に入る畦道につく。今度はチェーンが外れないように。それだけを祈って無心でペダルを踏む。

「はあ……はあ……」、畦道が少しずつ上り坂に変わると、自転車は速度を落とす。ボクは息を吸うためにぐっと空を見上げた。ボクが見た、あの雲たちはとっくに風に流されて、新しい雲が空に横たわっている。そして不安定に形を変えて、わずかな光の筋を地上に届けていた。

 立ちこぎで、グリップを固く握りしめて漕ぐ。

 喰いしばる歯に、汗がかかる。

 風はじっとりと暑く、髪の毛は水を被ったみたいに濡れていた。肩にかけたカメラを壊さないように何度も位置を整える。ちょうど右肩から紐をたすきがけにして左太腿あたりにぴたりとつけて走る。

 薄明橋はさっきと同じ姿でボクを迎えてくれる。社翁山も、橋の名前がかかれた石柱も、緑の木々も、バス亭も、ベンチも同じだった。ただ。

 ただ、雲だけが。違っていた。

 あのとき、ボクがバスから降りた風景は、崩れて失われていた。自転車から降りて、カメラを回す。薄明橋にかかるあの光は―――天使の梯子と呼ばれるあの風景にはチャンスなんて滅多にない。

 それはわかっていたけれど、本当に一瞬のことなんだ。

 雲は形を崩して、光の筋はかろうじて残っているけれど、あのときの美しさは失われている。

 でもまだ、雲の動きによってチャンスがまためぐってくるかもしれない。夕暮れになって日差しが落ちるまでボクはじっとベンチに座って、天使の梯子を待った。

 ベンチは暖かく、座っているとバスが止まるので位置を変える。一瞬たりとも、雲の切れ間から目を離したくなかった。

 けれど、ボクがカメラに収めることができたのは、到着してすぐに回した、あのときの風景だけ。崩れて、光を失って、それでも木漏れ日のような淡い光が海や川に降り注いでいる、まるで幻影のような天使の梯子だけだった。

 ベンチに座って日差しが弱まった海を見下ろす。汗が乾ききって、寒気がしてきたので自転車に乗ってまた社翁山を登る。

 雨音はどこだ。ふつうなら、彼女は外に出られないから、開発基地か。

 見せなくちゃいけないものがある。聞かせなくちゃいけないものがある。

 不安を抱えながら、ボクは夕日に照らされたロケットを見上げる。

 ペニテンテ。夏のペニテンテロケットは、オレンジ色に染まって、山稜のなだらかな曲線の中でたった一つの輝きを放ちながらあの場所に鎮座している。ちょうど山の中腹辺りで、雨が煙るように降り始めた。

 この島は雨が多い。

 ボクはなんとなく、この雨が自然に降ったものなのか、雨音の力のせいなのか区別がつくようになっていた。

 雨雲をよく観察してみればわかる。不穏な動きをする雨雲は、きっと雨音の居場所や気分や状況を教えてくれる。

 雲は開発基地の真下から、少しずつ西に流れている。

 風が強く吹いて周りの雲のスピードは速いのに、その雨雲だけはゆったりと動いていた。

 開発基地から進路を変える。

 行き先がわかった。

 僕と雨音が初めて出会った、ロケットのランチャだ。

 打ち上げられずに朽ちたロケットの下で、雨音は何をしようと云うのだろう。

 登り坂を越えて、一気に社翁山の裏手へと降る。

 ロケットは夕暮れに染まっていた機体を雨で濡らしている。雨は次第に強まっている。ボクはロケットの麓で風に揺れるレインコートの青色がはっきりとみえた。

 またあのときのように、たくさんの雨傘を背負って、不意の雨に困った人たちに傘を与えられるように。きっと、それは自分があの開発基地の棟の外に出る際に、雨音にできる精一杯の償いなのだろう。

 自分のせいで雨に濡れてしまう人に出会ったら、せめて傘だけでも差し出せるように。

 雨粒がボクの身体を激しく叩く。

 自転車は山道の一本道を抜けて下り坂が平たくなると、ランチャに乗った巨大なロケットが見える。

 雨の日に見えるロケットは、真っ暗な空に向かってまっすぐ伸びていて、神木にかける幣帛としめ縄がかかっていた。きっと、ハルか島の人が巻いたものだろう。

 樹木の枝から落ちる雫は、雨粒よりも大きくてぼたぼたと大きな音を立てている。蝉の声は森の水音にかき消されて、この山全体で雨が生きて飛び跳ねているようだった。

 自転車を横倒しにして、ボクはロケットに近づく。雨音はこちらを振り返って、ボクに薄く微笑んだ。

「あんなに芽衣香に怒られたのは、初めてだよ」

 きっとそれは昨夜のことを言っているのだろう。雨音の手には、ボクがハルに預かっていた鉄の板が握られていた。

 ちょうどノズルの上部が欠けている。きっと、もともとそこに鉄の板はあったのだ。

「せっかくロケットの一部だったんだ、許の場所に返したほうがいいだろう」

 そう言って、雨音は雨合羽のフードに隠れた髪を指先で触れた。

 膝を曲げて少しだけ屈むとノズルの奥へと手を伸ばす。鉄の板は、ノズルの欠けた部分にうまく嵌まった。

 雨音が立ち上がるのを、雨に降られながら待つ。しかし以前に雨音が降らせた雨よりも静かで穏やかな音に満ちている。

「ねえ、雨音。お願いがあるんだ」

「どうかしたのか、傘ならあるぞ」

「ううん、傘を借りたいんじゃないんだ。今から、ボクと一緒に学校に来て欲しい」

 雨音は首を傾げる。しかしすぐに困ったような笑みを浮かべて両手の平を空に向ける。

「これを見てみろ。私が降らせる雨だ。これ以上、長い間外にいるわけにはいかない。芽衣香にも心配かけるから」

「いいよ、1日くらい。それに自転車で行けば、大丈夫だよ」

「涼太ももう、そんなに濡れている」

 雨音は肩を竦ませて呟く。

 ぐっしょりと靴も濡れて、つま先から髪の毛までずぶ濡れだ。

 でも普段の雨に濡れるくらいなら、雨音の降らせる雨に濡れたほうがいい。雨音の合羽を雨粒がばちばちと叩いている。

 森に草木の濡れる篭ったにおいが漂っている。

「でも、雨は……雨は、好きなんだ」

 雨音はボクの言葉を聞くと、自分の真下にいつもある雨雲を見上げた。 雨は普段、雨音が外出しているときよりもずっと小康状態で、不思議と穏やかだった。あの、巨大なスーパーセルになって森の木々すらなぎ倒していたときよりも。

「わかった、行こう。こうやって誰かと雨に降られるのもいい」

 雨音はくすりと笑って、一度ロケットを振り返ると歩きだした。

 ボクも駆け足で自転車を置いた場所に戻る。上空の雨雲は、ふらふらとなにやら愉快そうに小刻みに揺らいでいる。

 うねりながら、ぐるぐるとアイスのような形を取ったり、レンズのように分厚くなってみたり、ぐるりと一回転して見たりと風に流されるだけの雲にはありえない動きをしている。

 その間にも、雨はボクの身体を叩いている。横倒しにした自転車を立て直して、ボクはサドルに乗る。

「雨音は、自転車に乗ったことはある?」

「いいや、初めてだ」

 雨音は自転車の目の前で、棒立ちになってじっと車輪辺りを見つめている。ボクはそんな雨音に、自転車の荷台に乗ってボクの肩に捉まるようにと乗り方を説明する。雨音はふむ、と一度頷くと、背負っていた傘と真っ青の雨合羽を脱いだ。

「え、ちょ、ちょっとっ!」、もちろん下にセーラー服を着ているのだけれどいきなりばんざいをして脱がれるとどきっとする。お腹がちらりと見えた。真っ白のセーラー服に、紺色のスカートという学生服を下に着ていた雨音は、青みがかった髪の毛を、雨にさらしてさらに輝かせる。

「全部、置いて行くの?」

「もう、いいんだ」

 雨音はロケットの麓に合羽と傘の束を置くと、自転車の荷台に座った。 よし、とボクは一呼吸おいてペダルを踏み出す。自転車はすぐに坂に差し掛かる。すぐにスピードを上げないと、雨音を乗せた自転車だと坂を越えるのは難しい。

 かと言って、降りてもらうのもなんだか情けない気がして、ボクは山道のでこぼこした小路の中迷わないよう、とにかく前だけを見て自転車を走らせる。

 もうきっと、センパイも準備を終えているころだろう。あの人が、ボクの言ったとおりに動いてくれたら、の話になるけれど。雨雲もボクらの上を風とはまるで反対方向に流れている。

 ボクは雨音を荷台に乗せてずっと追ってくる雨雲から逃げようとしている。そしていつか、振り切れるかもしれないとボクは懸命にペダルを漕ぐのだ。

 自転車は坂にさしかかる。

 ボクにとっては一番大事な局面で、この坂を乗り切れれば、あとは下り坂と平坦な道ばかりだ。グリップをしっかり握って、自転車の車体をやや揺らしながら坂を登るための力を振り絞る。これが最後、これが最後と思いながら、肺一杯に息を吸い込む。

 やがて坂と雲との境目が見えて、そこに身体から突っ込むように前のめりになる。

「変わろうか?」

「まさ、か、あともうちょっとなんだ」

 でもきっと、雨音は自転車の乗り方も知らなかったくらいだし、すぐに乗れるとは思えないし、それに自転車を漕ぐのはセンパイのときからのボクの役目だ。足が震えてもう体重を乗せても動かない、そんなときにふっ、と荷台が軽くなった。すぐに地面に足がつく音が聞こえたかと思うと、自転車は勝手に前へと進む。

 後ろを振り返ると、雨音が自転車を降りて荷台を掴んで押してくれている。

「い、いいよっ!」と声を上げながら軽くなったペダルを踏む。

「いいんだ。これくらい」

 ようやく、坂を越える。雨音はボクの肩を掴むと腰を荷台に当ててそのまま自転車に乗る。体重がぐっと後ろにかかってバランスを崩しそうになるけれど、坂道でぐんぐん加速して自転車は体勢を立て直す。

 雨音も、ボクも雨に濡れながら自転車で坂を降る。せっかくだから薄明橋を通る。それから住宅街の高い壁の道をくぐって、竹林の畦道や、暗いトンネルを潜って……ボクらはあの時計塔を目指す。









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