第9話 開発基地の地下

 

 開発基地に着く途中で、ハルと出会った。いや、示しを合わせた、と言ったほうがただしい。

 僕らは二人で何気ない会話をしていた。

 夏休みの宿題がいつになったら終わるのかとか、学校にプールがないから海で泳ぐことになるのだけれど、ハルは遠泳になると憂鬱な気分になるのだとか、そういう話を重ねていくうちに、ラムダロケットは間近に見えた。

―――明日、ハルも開発基地に行ってみない?

 そう持ち掛けた僕の言葉にハルは素直にうなずいた。

「雨音さん、来てもいいって言ってたけど、本当に大丈夫なのかな」

「大丈夫って?」

「島の人に怒られるんじゃないかって」

「それは仕方ないよ。諦めることだね」

「えー……」

 石段の途中に近道があるらしく、僕はハルの後ろについていく。

「ねえ、涼太お兄ちゃんはどうしてハルも誘ったの?」

「ハルはここの島の生まれだろ。ちゃんと見て欲しかったからさ」

 ちょうど、社翁山の中腹辺りだろうか、そこから藪のトンネルをくぐり抜けて木の根が張り出した広い自然の広場に辿りつく。さらに方角を変えて、坂道を登り続けると、ちょうど神輿が通った山道に繋がっていた。目の前は、開発基地の正門で、普段は鍵がかかっているそうだけれど、ハルの手のひらほどもある南京錠は、開いた状態で鎖とともにぶら下がっていた。

 昼に見上げる鉄条網は思っていたよりもずっと威圧的で、外部からの侵入を固く拒んでいる。

 開発基地の中には整備された道路が十字に走っている。白い壁やレーダーや鉄塔がそこらに建っている中で、1号棟だけは異様な姿をしていた。

「入り口、どこだろう」とハルが呟いた。初めて入る開発基地の芝生を踏むと、さらにハルは身体を硬直させて緋袴を握りしめている。

「一周回ってみよう」

 1号棟は六角形をした背の高いタワーで、壁は一面、苔に包まれていた。ボクが想像する開発基地とはまるで別の建物が、正面に立っていた。いや、まるで1号棟だけ時間を30年も、40年も先に進めたみたいに風化しているようだ。ひび割れた壁の隙間からは植物が枝葉を伸ばしている。

 そして1号棟の近くには、繰り抜かれたインゴット(アルミ塊)がそこらじゅうに落ちている。しかも中には土が入れられて、まるで花壇か鉢植えのようになっていた。

「これ、何だろう?」、ボクがインゴットの前にしゃがみ込むと、ハルは「きっと、人工衛星の部品を組み込む容器に使われたんだと思う。宇宙で強度を保つために、なるべく接着面をなくすの」

「……今、ちょっとセンパイと話してるみたいだったよ」

 やっぱり、ハルは宇宙に詳しいところがある。それは積み重ねた知識ではなくて、本当に好きなようだった。

 例えば、出会ったときも第二宇宙速度パンチなんて言ってたし。

「そ、そんなんじゃないのっ!」

 ハルは恥ずかしそうに手をぶんぶんと振り回す。芝生に散らばるインゴットの花壇を避けながら、ボクらは1号棟の裏手に辿りつく。そこには、巨大な金庫室のような重たい鉄扉があって、どうやらここが1号棟の入り口らしかった。

 ただ、そこは道路を挟んでちょうど2号棟の裏壁になっていて、あれがボクらのよじ登った雨どいだ。あの棟の2階窓で、なぜか着替えていた雨音を見てしまい、落ちてしまった。

 よく無事だったな、ボク。いや無事ではなかったのだけど。

 ふと、壁の手前にある、ちょこんと突き出た円筒の装置に気がついた。

「あれ……?」

「どうしたの、涼太お兄ちゃん?」とハルはボクの顔を覗きこむ。せっかく、1号棟の入り口を見つけたのによそ見するボクを丸っこい目で見つめながら、首を傾げている。

「いや、あの雨量計って、ボクらがここに黙って入ったときはガムテープで蓋を閉じられてたんだ」

 あのときのことはよく覚えている。雨量計を見たセンパイが、誰かのいたずらかもしれないと言っていたあの雨量計だ。でも今はちゃんと、ガムテープが外されて許のままになっている。

「誰かが、とったんじゃないの?」

 まあ、しかし雨量計は他の装置が正常に作動していると、一箇所の誤作動なら簡単にわかる。だからきっと、すでに修理が終わって雨量計としての機能も回復しているのだろう。

 なんとなくかんじた違和感をそのままにしてボクは1号棟へと向き直った。その巨大な鉄扉を見上げる。あの夜は暗くて、周囲に目を配ることができなかったけれど、まさかこんな建物があったなんて。

 蔓やシダ植物も苔も樹木の枝も、すべて自然に建物の中から生えてきているかのようだった。そしてなにやら、夏の瑞々しさとは違う、もっと違う種類の力強さが植物にはあった。

 ボクらが扉に近づくと、重たい金属は錆びの粉を地面に落としながら音を立ててわずかにスライドした。そしてそこに立っていたのは、雨音だった。

「どこかで道草でも食っていたのか? ずいぶん遅かったじゃないか」

 雨音は、いつものように傘を背負ってはいなかった。青みがかった黒髪が、わずかな太陽の光を受けて、輝いている。もしかすると雨音が太陽の光を浴びた姿を見ることなんてとても珍しいことなのかもしれない。

「ここの、植物は? 何?」

 自分の顔がややひきつっているのがわかる。それぐらい、人工物を覆いつくす緑の要塞は異彩を放っていた。雨音は手を仰いで扉の外から降り注ぐ光をさえぎりながら、口元に小さな笑みを浮かべる。

「私は普段から湿気を帯びているらしい。そのせいで、こいつらと一緒にいるとよく育つんだ」

 そう言って、雨音は振り返った。こいつら、というのはどうやら植物のことを指すみたいだった。僕とハルは、雨音の後ろをついていく。

 木の根が地面から這い出していて、1階部分を覆っている。おかげで歩きにくく、蔓や苔に覆われていた外観と同じように、内部も植物で溢れている。しかもそのどれもが見自然に生えているように見えるけれど、人の手が加えられている。例えば、木々の葉が切りそろえられていたり、苔が種類別に集まっていたり、蔓植物も奇麗に束ねられていたり。おそらくすべて雨音によるものだろう。

「雨音は植物が好きなんだ」

 ボクが訊ねると、背中を向けて前を歩いていた雨音が困った顔でこちらに半身だけ向き直る。

「どうかな、好き、なんだろうな。私はこの場所が嫌いだ。できれば見たくない、それでこいつらの力を借りて覆っているんだよ」

「嫌いって、この開発基地が?」

「そうだ、私もここに人がたくさんいたときのことを知らない。だが、見てみろ。打ち捨てられて、廃墟となったここはまるで人を丸ごと飲み込んでしまったみたいだ。きっと、母もこの基地のどこかに飲まれてしまった。そう思えてしまう」

 たしかに、この基地には人の気配がまったくない。どこも空っぽだ。所長をしていたという雨音の母が、ロケットの中止を決断したせいで施設そのものが廃墟となってしまった。

 ハルはその言葉に唇を軽く噛んで、寂しそうな表情をしている。

 ハルが人の消えてしまったこの開発基地を、廃墟の暗い空気から救おうとしているのに比べて、雨音は何もかも覆いつくして、暗い過去のまま封印しようとしているようにみえた。

「芽衣香は、何か雨音さんに話してくれないの?」、ハルが小さな口を開いて呟く。

「いいや、あの人は私に本当のことなど言ってくれないよ……こちらに来てくれ」

 1階の広い空間には小路が出来ていて、タイルの剥がされたコンクリートが露出している。雨音は整えられた潅木の幹に触れながら歩く。たしかに内部は湿潤で、中の植物は驚くほど色濃く、特に日陰で成長するタイプのシダや苔は普段みかけるよりも大きくて、背も高い。

 雨音は手すりのついた、地下への階段を降りる。

 地下には植物の姿はなくて、白いタイルと壁が広がっている。こうしてみると、何の変哲もない施設の廊下だ。

 足許は蛍光灯の光に照らされている。しかし天井の照明は使っていないようだった。

 ハルはこの薄暗さが怖いのか、僕の後ろでぎゅっと肩を縮こまらせながらついてきている。地下の廊下は不思議と整備されているようにみえる。

「ね、ねえ。雨音さん……どこつれてくの?」

「雨音はなんでさんづけなんだ?」

「だ、だって仕方ないじゃないっ! ハル、会ったばっかりだから……」

「雨音でいいよ」と揺れる髪の毛が、前を歩く雨音がわずかに笑んでいることを教えてくれる。

「でも、ここはどの辺りだろう」

「そうだな、地上で言うとちょうどロケットの近くになる。もちろん、二人にやってもらうのは苔の世話じゃない。見てもらいたいものがある」

「やっぱり、何かあるんだね」

「どうしてだろうな。君がいると、私も長い間不思議に思っていたことを明らかにしたくなる」

「涼太お兄ちゃんが?」

「……僕は何の力にもなれないよ。本質的にはね」

「きっと、この島にいる人間は、ひどく臆病になっているんだ。長く触れられなくなったことに怯えている」

「ハルも、わかるよ。そんな感じ」

「外から来た人間に、そんな感覚があるわけもないか」

 歩きながらなので、わかりにくかったけれど、雨音もどこか緊張している。この張り詰めた空気は無機質な白い壁のせいだけじゃない。

 そしてボクらは右手に見える扉の前で止まった。

「この先は、管制室があった場所なんだ」

 ドアノブ、そして扉のプレートに発射管制室とだけ書かれている。ドアがきい、と重たげな音を立てて開かれる。

 目の前には何も映し出されていない、巨大で真っ暗なモニター。それから木目調の壁にカーペット材の床。そして4台のテーブルが規則正しく設置されて、その上に2台ずつPCが載っている。全面の大きなモニターさえ起動すれば、今にも管制室として使えそうなほど、ここだけすべてが当時のまま止まっているかのようだ。

 そしてドアの左側は壇になっていて、そこには使い古したチーク材の、木製デスクが一つ。地球儀やロケット、それにこの基地の模型がデスクの上に乗っている。この机に座る人の趣味が一目でわかる。本当に、まるでほんの数分席を外しているだけ、のようにも思える。

「母が、普段使っていた机だ」

「どうしてわかるの?」とハルが首を傾げる。

「どれも、私の記憶にあるものばかりなんだよ。それから……」、雨音は下段の抽斗を開けた。そこには、『ボルト・タワー』と書かれたノートが何冊も入っている。この机は管制室が見渡せる位置にあるから、きっと所長が座っていた席には違いないだろう。

「ボルトタワーって、ここのこと?」

 訊ねると雨音は頷く。

「ボルトタワーは、当時の研究員たちが使っていたこの管制塔の通称だよ。ちょうど地面に六角ボルトが突き刺さっているようにみえる」

 言われると、外から見えた管制塔はたしかに円錐状の棟に六角の帽子がかぶさっているような形をしていた。それでも植物に覆われているせいで、わかりにくくはなっているけれど。

「このノートは、きっと母が書いた日記みたいなものだ。たぶん、その当時のことがほぼ毎日つづられている」

「たぶん?」

「私も、開くのは初めてなんだ」

 そう言って、雨音はノートをデスク上に並べる。ノートそのものは古くなっているけれど、保存状態が良くて文字も問題なく読むことができそうだった。

「……怖かったんだ、読むのが」

 雨音はぽつりと呟いて、革張りの椅子に座る。そこから見える景色は、きっと15年前に雨音の母親が見ていた風景と変わりはない。でもやっぱり、そこから人がみんないなくなってしまうというのは、得体の知れない怖さがあるのは確かだ。

「ここにいた研究員たちの気持ちを裏切って打ち上げを中止した母が、本当はどんな人間だったのか知るのが怖いんだよ」

 そんな雨音の横で、ハルが手を伸ばして、ノートを捲った。

「大丈夫なの。きっと、大丈夫。だって、あんなにりっぱなものを作った人だもん、この島のご神体を造った人なんだもん、きっとすごい人だよっ!」

 明るく声を出すハルだって複雑な表情をしている。

 ロケットの打ち上げを中止に追い込んだ自分の母親が、ここにいる研究員たちの夢を潰してしまったのだという後ろめたさがあるのだろう。二人の母親は、ともにロケットの打ち上げを潰してしまったのだ。

―――神籠家の預言。

 それはたしかに、島の中で通じるものであっても外部の人間に簡単に押しつけられるものじゃない、センパイならきっとそう言うだろう。

「……読むよ」とハルが呟く。雨音もわずかに首を縦に振る。二人とも、知りたいのだ。あのロケット打ち上げの中止が決定した当日。一体、何が起こったのか。

 ぱらぱらとページを開いて、気になる文章が目に飛び込んできた。


―――1月23日  

晴れ。しかし午後から突然、雲が集積して雨が降り出す。西から東へかけて、2時台には雨雲は見られた。その雲が夕方に雨を降らせたのかもしれない。島には天気雨が多い理由は未だ不明。


 結局は夜宵が出した案に決まる。

 ロケットの名前をペニテンテと名づけることになった。ペニテンテロケット。かわいい名前で私も気に入っている。ペニテンテというのは、太陽に照らされる氷が一旦溶けて、それが風に煽られて鋭く尖り、氷塔になる現象のことを言うらしい。

 スペイン語でとんがり帽子を被った悔悟する聖者という意味なのだとか。夜宵らしい。そういえば、もう大学で知り合って今年で10年目。まさか、今さら一緒に暮らすことになるとは思わなかった。次はロケットのフェアリングに格納する人工衛星の名前も決めなきゃ。

 また夜宵に相談してみよう。。


 日記の一文。気象に関する部分が多くて、ページを捲ると天気図を手書きで描いている。どうやら、この島の天気を詳細に調べていたみたいだ。

「……夜宵は、ハルのお母さんの名前」と、ノートを覗き込みながらハルが呟く。

「じゃあ、雨音のお母さんとハルのお母さんは友だちだったってことか」

 ボクはノートを先に捲りながら言う。しかも大学の同期で、年齢も同い歳ようだ。気になるのは、この日記の日づけから判断すると、打ち上げ中止の約半年前。この頃には、雨音は生まれているはずだ。

 次のページに手書きで写された天気図の下に追記がある。文字の判読も出来ないほど、小さな文字。どこか、後悔めいた文章。筆圧が高くて、文字は日記での柔らかい筆致から、尖ってしまっている。

 

―――部下に言われた。研究で自分の子を不幸にするのか、と。あんたは自分のことしか考えていないのか、と。雨音は私の子だ。でも、あの人の言うとおり、本当にこのままでいいのだろうか。寝つけやしない。


 ボクは、さらにノートを読み進める。普段の日記は何の変哲もないものだけれど、時々重要な話が差し挟まっている。


―――4月3日

 曇った。どんよりと重たい日々が続く。今朝はひどい雨が降った。夜には小康状態が続いて、やがて星が見えるほどに天候は回復している。日中、大きな雲が島を覆っていて、そこから動く様子はなかった。上空に風がないのかと思うほど、石のようにあの雲は動かない。でも、きっとあれだろう。


 雨音はその目で晴れた空を見たことがない。

 数日前だったか、ニュースの天気予報で流れる澄み渡った空を不思議そうに見ていた。それから、毎日その番組が始まるとテレビの前に座る。話も聞こえていないみたい。

 二人で外に出かければ、必ずと言っていいほど雨が降る。けれどそんなこと、誰にも言うことができない。夜宵にも。だってそんな症例聞いたことがないし、それに雨音自身は至って健康体だ。それにしても、人が天候に影響を与えるなんてこと、あるのだろうか。

 雨音が外に出ると、冬には冬の雨が、春には春の雨が降る。夏は、一体どうなるだろう。あの、夏の低気圧がもたらす猛烈な雨。雨音が外に出るたび降るのだろうか。

 それまでに何とかしなければ。本当は、みんなもう気づいている。でも、言うべきか迷う。誰かに話してしまうことは、ただ私を楽にしてしまうだけなのかもしれない。それで本当に雨音は幸せになるのだろうか。あの子のためになるのだろうか。


―――5月10日

 快晴。この日はほとんど雲が見られないほどの快晴だった。しかし午後6時を境に、天候が急変。この時期にはありえないほどの積乱雲が島を覆って竜巻のような渦を作り、それがダウンバーストとなって島の木々をなぎ倒した。雨音に、みんな怯えている。


 今日は1日、雨音の面倒を見る時間ができた。夜宵のおかげだ。雨音と二人で部屋にいて、ボール遊びをしていた。晴れた空の下、散歩にでも行きたい気持ちもあるけど、それは次の機会。ただ、(ここから余白ののちページが変わっている)

 夕方、本州からこの島に着くフェリーで来た人が突然、自宅を訪れる。夜宵の知り合いかなと最初は思ったけど、その人は気象学者を名乗った。この島に、つい最近現れた不思議な雲と異常気象について調べているらしい。

 どうして、ここに? 追い返してしまったけれど、そのときに声を荒げてしまって、雨音を怯えさせてしまった。もう限界なのかもしれない。隠しとおせやしない。

 それから1時間後に、突然の大雨。降りだしたきり、なかなかやむことはなかった。


―――5月15日

 曇り。久しぶりに雨がやんだ。どこも水浸しで、みんな対応に追われている。


 雨音の様子が落ち着いてきたので、私は先日完成したばかりの薄明橋に行くことにした。あの橋は、島の真ん中に道を通すために造られたもので島のみんなが切に願っていた。それがようやく完成して、海沿いを走る車も減っているみたい。

 雨音も3つになった。薄々、自分の体質について感づいている気がする。自分が外出するときに、必ず雨が降ることが今後、雨音をずっと苦しめることになる。それだけは嫌だ。どうにかしてあげたい。そして気持ちが昂ぶると、さらにひどい荒天をもたらしてしまうことにも、きっと気づいている。

 雨音と外出するために買った、おそろいの雨合羽をおろす。奇麗なグリーンで生地が丈夫なものを選んだ。雨音が好きな色。でも、雨音はどうやら傘のほうが好きみたいで、一緒に出歩くときに合羽を着ていても、傘を持ち歩きたいと言って聞かない。雨音、合羽を着てるなら無理に傘を差さなくてもいいのよ、と言うと傘にしがみついて離そうとしない。

 傘が好きって、変わった子だ。

 薄明橋にはね、雲の隙間から光が零れる薄明光線っていうすごく奇麗な風景が見られるのよ。そう言うと、雨音は目をきらきらさせて早く行こうとせがむ。

 困った。本当に困ってしまったけど、嬉しかった。

 それからバスに乗って、薄明橋まで出かける。天気は少しずつ崩れているけれど、まだ雨は降ってこない。

 でも、私にはわかってた。

 バス亭から降りると、さっきまで薄曇りだった空が重たい雨雲に飲まれていく。ぽたぽたと、雨が降りだす。私と雨音は、二人でバス亭のベンチに座って、薄明光線が見られる場所で、ずっと空を見上げていた。

 バスの中から見られたらいいんだけど、そんなチャンス滅多にないし、車の中にいたからと言って完全に雨音が天候に影響を与えないとも限らない。

 雨音は顔をくしゃっと歪ませて、私の合羽の袖を握ったまま、動こうとしない。帰ろうと言っても、晴れるまで帰らないと私の言うことを聞こうとしない。こんなに聞き分けのない雨音を見たのは、初めてだった。

 雨音にとって、その目で太陽の光を見ることは奇跡に近いことなんだろう。風が強くなって、雨音の顔が少し濡れている。私は、雨合羽のフードを深く被せながら、雨音のことをみんなに話そうと決めた。ごめん。


―――5月16日

 晴れ。

 このごろ、雨音は前ほど感情を表に出さなくなった。ずっと塞ぎこんでいる。自分の心や行動が島のみんなに迷惑をかけるとわかっているのだろう。

 雨音は雨女らしい。こんな迷信のような言葉を、雨音に当てはめるのも癪に障るけど、ほかにいい言葉が見つからない。

 雨音は、天候になんらかの影響を与える。

 この島にもたらされた猛烈な雨は、雨音が原因だ。

 本当は、ずっと前から気づいていたけれど、みんなに伝えることが遅れてしまったことをまず、謝った。   

 みんなに全てを話したあと。偶然ロケットの組み立て棟を覗いたときに、機体に傷が見つかった。ちょうど、ロケットの最下部、ノズルの端。

―――雨音のために。

 そう書かれてあった。その傷が誰によるものか、わからない。けれど、その言葉にどれほど私は救われただろう。どれほど私の背中を押してくれただろうか。

 誰かが、私と同じようにこの気象観測衛星を、宇宙へと送ろうと言ってくれているのだ。諦めるわけにはいかない。

 雨音の体質が医学的根拠に基づくものなのか。それはわからない。しかし、天候における膨大なデータを集めることが、雨音の体質を科学的に説明する一助になるかもしれない。

 誰かがそう考えたことはたしかだ。そして私もそう思っている。


―――ボクはここで一旦、ノートを閉じた。

「ハル、覚えてる?」

一冊目のノートはここで終わっている。そしてボクは右ポケットに手を突っ込んで、鉄の板を出した。それはボクらが『雨のために』と読んだもの。あれにはたしかに、いくつか文字の欠損があって想像で読んだ結果、雨が降ったせいでロケットが打ち上げられなかった、という意味にとってしまった。けれど、それは違ったのだ。

「覚えてるよ。雨音のために、って読むんだね」

「これに、続きなんてなかったんだ。あのロケットは、雨音の母親が、雨音のために打ち上げるはずだったんだ」

「私の、母が?」

 雨音は、何か現実感のない、不思議なものを目の当たりにしたかのように、ボクがデスクの上に置いた鉄の板に触れる。指先についた錆。きっと、あの鉄板は、ロケットが風化していくうちに、どこかでかけ落ちてしまったのだろう。そしてボクは、引き出しの中にあるもう一冊のノートに手を伸ばす。

「でも……ロケットは打ち上げられなかったんだよね?」

 ハルは俯きながら呟く。これほど、雨音の母親が切に、打ち上げを願っていながら、そして周りの研究者たちに助けられながら、作り上げたロケットが今、誰の手にも触れられないまま風化している。

 そしてこの日記に記されている、当時この開発基地にいた人たちは残っておらず、雨音と芽衣香の二人だけだ。

「何か、あったんだよ。それ以外、考えられない」

 そしてボクは次のノートを捲る。ハルも雨音も、身体を強張らせたまま、デスクに開いたノートを覗き込む。


―――7月7日

 晴れ。まるで雨音が外に出てこないことを喜んでいるような快晴。いっそ憎い。


今日は雨音の誕生日だった。けれど、雨音が熱を出してしまって、私は芽衣香に雨音の面倒を見てもらうことにした。雨音は、芽衣香にとてもよくなついている。しかし研究所を早退した。

 早退する前に、夜宵に明日話があるから時間をくれと言われる。

 努めて時間を作ると了承する。

 熱を出した雨音を芽衣香にまかせっきりで放っておくわけにはいかなかったから、すぐに管制塔を出る。それから雨音の好きな夏みかんの缶詰を買って、家に帰る。

 けれど中は真っ暗で、寝ているのかもと暗がりのまま寝室に行ってみたけれど、誰もいない。電気をつけるとテーブルに書き置きがあった。芽衣香の字。

雨音がどうしても茜さんに会いたいというので連れて行きます。行き違いになったらごめんなさい。行き違いだ。こんなにわがまま言うなら、夜宵に面倒見てもらったほうがよかったかもしれない。あの子、夜宵がちょっと怖いようだから。

 でも今さら言ってもしょうがないから、芽衣香を追いかけることにした。二人に会えたには、会えたが、雨音は鼻水をたらして私に抱きついてくる。わんわん泣かれるし、謝っても許してくれない。そもそも何に怒っているのかもわからない。今日の天気は不機嫌だ。


―――7月13日

 管制室で夜宵と口論になる。

 普段、感情をあまり表に出さない彼女が、あれほど声を荒げたことが今でも信じられない。ペニテンテは打ち上げられない。そう告げられた。

 夜宵は、私に打ち上げの中止を迫った。

 理由を聞いても、技術者としての勘、としか言ってくれない。原因は。故障している部位は。

 ここまできて、諦めるわけにはいかない。

 雨音が生まれてから、私はあの子の力に誰かが気づくたびに、土地を変えてきた。ようやく、ほんの少しだけ希望が見えてきたのに、信頼してきた夜宵に裏切られるなんて。

 技術者の勘がどれほど当てになるというのか。

 しかしあのロケットは夜宵なしではありえなかった。その彼女が打ち上げに躊躇している。管制室でこの話をするべきじゃなかった。他の研究者たちも、打ち上げ中止が持ち出されたせいで戸惑っている。

 ここまできたのに。

 最終的な判断は、私に委ねられている。あのロケットを打ち上げたい。


 ページにはまだ続きがある。

 そっと、ノートに触れようとしたとき、地下に降る階段がこつこつと音を立てていることに気がついた。ヒールの高い音から、降りてきているのは女性だとわかる。足音は速度を増して、こちらの部屋へ近づいている。その音に表情を一変させたのは、雨音だった。

「早く隠れてっ!」

 雨音は声を押し殺してボクらに言う。ボクは急いで、引き出しにノートをしまおうとする。けれど、引き出しの中にはまだ手をつけていないノートが一冊。それからカセットテープが一つ残されている。

 このまま置いていけば謎は残ったまま。ボクはとっさに三冊目のノートとカセットをズボンのベルトに挟んで固定して、Tシャツで隠した。ハルが緋袴に足を取られて転びかけるのをなんとか助け起こして、ボクらは管制室の奥へと走る。

 目の前に備え付けられたモニターに近づいて、隠れられる場所を探す。眼球がぐるぐると辺りを見渡す。早く、早くと脳がボクを急かす。

 靴の音は階段から廊下を踏む音へと変わる。ボクらは管制室のPCが置いてある台の下に隠れた。雨音はその間、引き出しやデスクの上を片づけている。

 管制室の前で、靴の音がやむ。静まり返った扉の向こうから、「雨音ちゃん?」とくぐもった声が聞こえる。芽衣香さんだ。

 雨音はドアノブを自分で開いて、芽衣香さんを出迎える。

 しかしドアが開かれると、ぱしん、と乾いた音が管制室に響いた。芽衣香さんが雨音の頬を叩いた。

「ここには、入るなって言っただろ」

 芽衣香さん独特の甲高い声が、怒気をはらんで響き渡る。

「ごめんなさい」、ボクらは二人の会話を聞きながら、モニターに一番近いデスクの下で身体を丸めて固まる。動くと、それだけ音を立てるリスクが生まれる。だからハルと二人でただじっと身体を強張らせる。

 叩かれた雨音は、頬を押さえる仕草も見せず、彼女の母親が昔座っていた重厚なデスクの椅子に腰を降ろした。

「でも芽衣香、私は知るのが怖かった。だから、まだ……読んではいない」、その嘘がとおるのだろうか。

 そう言って、自分から引き出しを半分だけ開けた。ノートの一冊目がちらりと引き出しから覗いて、すぐに閉めてしまった。

「雨音ちゃん、今はまだ知るべきじゃないから言わないんだよ。それだけはわかってくれ」

 けれど雨音は芽衣香さんの言葉に首を振る。

「私は本当のことが知りたいんだ」

「わかってる。わかってるよ、雨音ちゃんの気持ちもわかってる。でももう少し時間をくれ。ほんの、少しでいいんだ」

 そう言って、芽衣香さんは雨音の頭を撫でたあと、背中に両手を回してぎゅっと抱きしめる。そして芽衣香さんが「行くぞ」と少しはにかみながら言い、二人は立ち上がると管制室のドアを開いて外へ出た。

 扉が閉められる前に、雨音はちらりとこちらを見て、軽く顎で廊下の奥を指したようにみえた。ボクらは階段を踏む音が高く響くまでじっとPCデスクの下でじっとする。やがて、靴の音が聞こえなくなるとごそごそと這い出して、そっと管制室を出る。

 廊下は足許を蛍光灯が照らすだけでほの暗く、管制室の扉からさらに奥に進むのには勇気がいったけれど、やがて非常灯がみえると、どうやら地上に繋がる別の階段があるみたいで、ほっと胸を撫で下ろす。

 しかしハルはボクの後ろで、ずっと口を閉ざしたまま俯いていた。

「ハルの、お母さんは、神社の巫女じゃなかったの? じゃあ、ハルは何?」

「ハル?」

「お母さんは、ロケットを作る人だったの?」

 もし、あの日記に書いてあったとおり、ハルの母親が技術者だったとしたら。ハルが見る預言は一体なんなのだろう。

 ハルの母親は、技術者としてロケットの打ち上げが失敗すると予測を立てたのか、それとも神籠家の預言として―――いや、おそらくハルの母親、夜宵は、預言として打ち上げの失敗を霧島茜に伝えたとしても信じてくれないことをわかっていたのだ。

 だから技術者の立場として、打ち上げの中止を迫ったということなのだろうか。わからない。

「ハルは、君の母親が開発基地の技術者だったって知ってた?」

「ううん、知らない。そんなこと、お父さんだって一度も言わなかったの」

 ボクはハルに手を伸ばして立たせると、そのまま手を繋いだまま、非常灯の示す廊下を歩く。やがて重たい鉄の扉が現れて、そこを開くと地上へと昇る階段があった。夏にしては冷たい空気が流れている。

「ねえ、涼太お兄ちゃん。ハルのお母さん、悪いことしたの? 雨音さんが外に出られないのは、ハルのお母さんのせいなの?」

「わからない。今はまだ、何とも……とにかく早く外に出よう」

「う、うん」

 無心で階段を駆け上る。いや無心なんてことはあり得なかった。

 考えないようにすればするほど、ぐるぐると思考が駆け巡る。

 扉を開けたときには、足許を照らしていた蛍光灯の明かりも切れていて真っ暗なばかりだった。

 ハルが転ばないように、手を握ってあげながら階段を登り終わると、穴の開いた引き戸が見える。そこから光が漏れていて、そこが地上なのだと教えてくれる。引き戸を開けると、目の前にあったのはランチャに乗ったままのラムダロケット。開発基地の地下はロケット発射場に繋がっているらしい。階段を隠していたのは、ほんの小さな掃除用具箱ほどの大きさの納屋で、ひしゃげた引き戸に鍵はかかっていない。

 いや、むしろ鍵はかけられていたはずだ。鍵穴があるけれど、的確に破壊されている。それにこの引き戸のひしゃげ方……蝉の声を全身に浴びながら、冷や汗を背中に感じていた。

 このやり口、どうもセンパイのような気がしてならない。しかし辺りを見渡しても、その姿は見えなかった。

(忍び込んだな……)

 やや不穏な空気を感じながらも、ハルと一緒に天弓神社へ戻って、そのままボクは社翁山を降りて帰路につく。ベルトに固定しておいたノートとカセットテープは無事だった。

 そして自室に篭って、ボクはノートを読んだあとでカセットテープを再生した。

『ロケットの打ち上げを中止しようと思う―――』、それは当時のまま残った、霧島茜と思われる、肉声だった。



 

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