第2話


 雲一つないと言ってもいい青空。淡い色をしたバラが咲き、涼しい風がさわさわと芝生をたなびかせている。バラのアーチをくぐればそこには白亜色のパラソル、テーブルにおしゃれな椅子。

 バラ園に、どこからともなくヒバリの鳴き声が聞こえ、春風がやさしいバラの香りを運んでくる。

 めかしこみ、たっぷりとしたドレスを身にまとった婦人たちがお茶会を楽しみ、上品に笑いながらおしゃべりをしている。そしてハーブティの良い香りと焼き立てのクッキーの香ばしさを存分に楽しむ。

「ほほほ」と口元を手で覆いながらクッキーを指先でつまみ、婦人たちはオシャレの話に花を咲かせる。

 あくびが出そうなほど暇で、退屈で、平和的な午後である。


 そこに似つかわしくない、エンジン音が鳴り響く。やわらかく穏やかな雰囲気を壊す爆音だ。

 ぐおんっと庭園を越え、弧を描いてふっとんだ中型トラック。美しく咲くバラをタイヤで踏みにじり、ことごとくタイヤ痕を残して荒れ狂うように去っていく。

 婦人たちは手元のティーカップをひっくり返し、クッキーを落とし、呆気にとられて上を見るばかり。

 続いて二台、三台と同じ軽トラックが庭園を突っ切っていく。

「きゃあっ」

「一体何なの?」

 穏やかな午後は一瞬にして騒然としたものになった。遠ざかるエンジン音の中、お茶をかぶった婦人たちはあんぐりと口を開けてしまった。


ハンドルを右に左に乱暴に振り回し、フロントガラスに飛び散る葉をワイパーで振り払っていた。

「西に五百メートルで川に出るよ」

「西ってどっちだっつーの!」

「五時の方向」

「逆じゃねぇか!」

今方向転換なんてしてみろ。敵(やっこ)さんと正面衝突だ。

走行し続けさら地に出た。舌打ちしながらもどこか楽しげに、セミロングの麦色の髪を風に浴び、セタンダは口角を上げてバックミラーに手を伸ばす。割れた窓ガラスと黒い短髪の女の凛々しい顔が映し出された。

「セタ、もう少し引き付けろ。狙いが定まらない」

後部座席でロゼがライフルに弾を装填した。

 バックミラーには突進してくる二台のトラック。わずかながら距離がだんだんと縮んでくる。

「挟み撃ちにされる前にタイヤを狙う」

「そいつは遠距離用だろ? スコープに映らんのじゃないか?」

囲いを破壊し、途端にガタガタと揺れる車体の中、フィンは体育座りをしてされるがままに揺れていた。

「少し試し撃ちだ。今やっておかないと後で苦労するだろ。フィン、耳を塞いでおけよ」

「もう塞いでるよ」

ロゼの瞳が獲物を捕らえ、さらに細くなる。割られた窓から銃口を出し、カチリと引き金に指をかけた。十字のスコープは絶えず動くタイヤをとらえていた。

―――――バン

弾けた音がしたものの、変わらずに追いかけてくる。

 セタンダは訝しげに、

「外したか?」

とミラー越しに見た。

「当たったよ」

抑揚がなくあくまで冷静なフィンの声。どうやらそれは本当らしく、弾けた音がしたものの、変わらずに追いかけてくる。

 対銃弾性のタイヤだ。しまったとピストルを下ろした時にはすでに遅く、相手はすぐに発砲してきた。座席にロゼとフィンは身を隠し、いち早く察知したセタンダはステンレス製のなべを頭にかぶっていた。

 続く発砲の雨が車に放たれる。すでに蜂の巣だらけのこの車で前回と同じように容易に回避できるわけもなかった。

「小ざかしい連中だ」

セタンダはペロリと舌を出し、ハンドルを思いっきり右にひねって林の中へ突っ切った。枝と葉をワイパーで吹き飛ばし、木の根でボコボコとした細道さえ気のもせずにただ走る。

 ぎゃぎゃっとタイヤは石畳をこすり車道へと降り立った。一瞬の浮遊感の後、セタンダはブレーキとアクセルを巧みに使い分けてすぐに車を走らせた。

「へん、どうだ」

やんちゃな子どものようにセタンダは笑い、バックミラーを手慣れた手つきで正す。

が、車の陰がミラーに映ると動揺して声をあげた。

「おいおい、追いつかれんぞ」

悠長にもロゼは喉を鳴らして楽しげに言う。

「うるせっ」

あまりにまっすぐな車道が不安を一層募らせる。身を隠すこともできぬただまっすぐな道だ。

「セタ、建物あるよ」

それを聞くなり、ロゼもセタンダもニッと笑う。

気味が悪い子どもっぽい笑みだ。


 爆発炎上。


 遠くなる一本道から青空へ黒煙が雲のごとくうねらせて昇っていく。

「うわあ、もくもくしとる」

「フィン、顔出すんじゃないよ」

あれくらい派手にしなきゃ、敵さんを撒くことはできない。

 相手はなんせ、軍一小隊に相当する連中なのだから。

 さっきの建物はバイク屋。拝借していた車にロゼが一発打ち込み、ガソリンに点火して爆発。囮にはならなくとも充分時間稼ぎにはなるはず。

 そしてまたバイク屋から、もちろん無断で一台盗み走り出した。

足元のフィンがひょっこりと顔を出すのを、セタンダは両膝でおさえた。

「あと四キロちょいでバレッドだ。今日はそこに泊まるか?」

銃に装填しつつ、ロゼが後ろで呟く。エンジン音でかき消される彼女の質問に、セタンダは否定した。

バレッドは道路沿いにところどころ設置された避難場所。未だ戦火の中にある時代には欠かせないものだ。いわゆるシェルターのようで、誰でも隠れられる食料も水も寝袋まである。何度となく三人はそこに厄介になり、切り抜けてきた。だが、あまりに利用しすぎれば、追手だっていつか気づいてしらみつぶしに探り始めるだろう。そうすれば逃げ場のないバレッドでは逃避は不可能だ。相手から、それこそ完全に逃げ切らなければバレッドの利用は避けるべきなのだ。

 ばっさりと切られたロゼの黒髪がミラーに映る。短くなったら子どもっぽさがなくなり、タバコでも咥えたら似合うのではないかとセタンダは常に思っていた。

「それよりセタ。お前の鬱陶しい髪が口に入って嫌だ。前後変われ」

「そんな器用な真似できるわけないだろ。とりあえずガソリンが切れるまで遠いところ行った方がよさそうだ」

 セタンダの麦色の髪はロゼにとことん嫌われており、しかし若葉色の瞳だけが鏡に映ったように二人はそっくりであった。

 フィンは似ているようで似ていない二人を兄妹のようで夫婦みたいだと変なことをよく言う。フィンの「似ているものは皆家族」という持論は仕方ないだろう。国を捨てた二人に片時も離れることなく、それもまともな生活を送ることなどしていないのだから。

「お出ましだ」

時間稼ぎにすらならなかったどころか、相手は怒り狂って猛スピードでエンジンを唸らせている。まさに火に油である。

「セタ、ヘルメット貸して」

「了解」

セタンダはひょいとヘルメットをフィンの頭にかぶせた。大きすぎるヘルメットの重さにフラつきながらもフィンは踏ん張って立った。

 この三人の行動を見たら、気でも違ったのかと思われても仕方ない。

 子どもを楯に。

そして女は両手に銃を持ち、黒髪をなびかせる。

フィンはゆっくりと目を閉じ、深呼吸をする。道路を走るエンジン音も、風の音も意識の外へと追いやられていく。自分の呼吸の音しかしない、静寂である。

 だが追手の車からお構いなしに銃弾の雨が降る。

 相手は当然蜂の巣になったのだろうと、銃を振りかざし、嫌味な笑みを浮かべる。


 パリン

 

 だがその気色悪い笑みもすぐに消えた。曲がりくねった道から現れたそれ。目を凝らせば、バイクはまだ変わらず走り続けているではないか。

 ガラスが割れる音がしたかと思えば、銃弾の時間が止まったようにポロポロと落ちていく。フィンの視界に写った弾は全て力が失われている。銃弾を手も武器も使わずに防いだというのだ。

「正当防衛だ」

装填した二丁の銃を両手に持ち、ピシリとロゼは腕を伸ばし構える。こともあろうか彼女は仁王立ちである。いい標的には違いない。

「う、撃てぇ!」

命知らずな彼女の行動に、恐怖で声を震わせつつも、追手は発砲を続ける。両者の銃弾の連射だ。

 空気が歪み、波紋を作ると銃弾はフィンによってビー玉のように音を立てて落ちていく。まるで小さなバリアーをフィンは作っているのだ。それも瞬きせずにじいっと銃弾だけを見ている。

 追手にみごとな攻守を見せつけた。

しかし相手もさることながら、しきりにバイクのタイヤを狙ってくる。

セタンダの巧みなハンドルさばきでかわしているものの、それも限界が訪れる。

「おい、さっさとやれって。てか俺、あんまバイク上手じゃないんだけど」

ミラーは銃弾で粉々に。これで体に当たらないのが本当に不思議でならない。

「タイヤに当てても無意味なんだよ。ありゃ銃弾が効かないやつだ」

ロゼはケースから別の銃、ライフルを取り出して再び応戦し始める。

 しかしこのまま逃げ続けられるほど、勝利の女神は優しくなかった。

 断水のためこの先工事中。

「…………」

「…………」

「……ねえ、あれなんて読むの?」

 蛍光色の目立つ標識にフィンは純粋に疑問を持つが、二人はタラリと冷や汗を流した。

こんなところで引き返せば間違いなく穴だらけになる。かと言って工事中の道路に突っ込むのも、規模によっては大惨事になりかねない。

 なんとかせねば、とセタンダは歯を食いしばり周りを見渡す。木に飛び移るには距離がありすぎる。こちらは一方通行。しかも追手がチャンスだとばかりに、速度を上げてきている。

 試行錯誤するが行き止まりも追手ももうすぐそこまで迫っている。

 セタンダはゆっくりと目を閉じ、足元の刀を肩にかけた。そして――――


 消えた。視界から突然、奴らは消えた。バランスを失ったバイクが道脇に転げおちているだけ。さっきまで撃ち合いをしていた女も子どもも忽然と消えた。

「テレポートができるなんて聞いてないぞ」

 ようやく追い詰めたのに、あと一歩のところでまた奴らを逃した。車を止めて、ただ転がるバイクを見つめることしか彼らにはできなかった。

神隠し。テレポーテーション。

 少なくとも追手にはそう思う他になかった。

「くそ、また逃がした」


我ながら完璧な逃げ方だ。

「間一髪」

刀が深く鍵穴に刺さったおかげで助かった。

「今回はやばかったな」

と言いつつも上機嫌で誇らしげにロゼは笑い、フィンも笑みをこぼした。

 通り過ぎるトラックに目を付けたセタは二人を抱え、タイミングを見計らって飛び乗ったのだ。こんなことは戦時中では手足を動かすことのように身につけていたのだから、セタンダにとっては造作もないこと。ましてや身軽さを重視されていたのだから。

 ただ汚点があったとすれば荷台の鍵穴を壊して中の荷物が道路にばら撒かれたこと。新鮮な魚介類が冷凍されていたようで、発泡スチロールがごとんごとんと道路に投げ出されてしまった。申し訳ないと思ったが回収なんぞできるはずもない。運転手はきっと口笛でも吹きながら気づかずにずっと走行しているのだろう。

「わあ、海だ」

フィンの淡い灰色の瞳にくっきりと青色が映る。キラキラと無垢な子どもそのもの。さっきまで戦闘に加わっていたものとは違う。


 五歳になったフィンは癖毛のある白髪で、女の子のような顔立ちをしていた。五歳にしては体が小さく、肌は驚くほど白い。

 もう理解できると思うが、フィンはごく普通の子どもと言うにはあまりにもかけ離れている。確かに普通に食べたり、話したり、笑ったりはする。しかし、世間は彼を異質とみなすだろう。

遥か十キロ先のものが正確に見える視力。遠くの音を拾いいち早く察知する聴力をもっている。そして物理攻撃をものともしない斥力。

「しょっぱいにおいがしとる」

 ただ言葉はあやふやだけど。


 数年前、友人シャルルの死をきっかけにこの逃亡生活は始まった。彼は研究所から赤ん坊を抱えて逃げ出した。今も目に焼きついて離れない彼の最期の姿。研究所の爆発と彼の死があまりにもタイミングよくあった。結局赤ん坊を連れてそのまま国を出たのだから、彼の死の真相は分からないまま。国の家族や仲間に連絡を取ればいいのでは、という案が何度か頭をよぎったがそういうわけにはいかない。いや、そうしたくない。

 思い返せば昔は不気味なくらい真っ赤な世界に染まっていた。町を焼き尽くす炎と国を染めた血。

 戦場で生きた二人にとって見慣れた色だ。

国を出てフィンを連れて逃げたはいいが、追手がひどく多かった。

国の機密情報にまで触れていたセタンダやロゼたちを追うのは当然と言えば当然だった。だがどういうわけか、賞金稼ぎのような輩までもがしばしば襲ってくるのだ。国を抜けて数年のうちに国際的な指名手配犯の扱いを受け、賞金首になり、懸賞金を懸けられたようだ。

 先ほどの追手は賞金稼ぎ。前々からしつこく追ってきているあたりからすれば、相当に高い賞金が二人にはかかっているようだ。しかも撒くために相手のトラックを拝借、いや盗んで逃げたために逆上したのかもしれない。

乾いた風が吹き、フィンは耳をすませていた。聴力のいい彼にはカモメの鳴き声も、波の音も聞こえるのかもしれない。

「フィン」

「なあに、ロゼ」

短い黒髪に若葉色の瞳、気の強そうな凛とした顔立ち。首元に巻かれた黒いマフラーと灰色一色の服。そんなロゼの姿がフィンの灰色の瞳いっぱいに映る。

「この景色を忘れるんじゃないよ」

これが世界の本当の姿なんだ。人が手を加えればあっという間に塗り替えられてしまう、脆い世界だけど。


 フィンは子犬のように首をかしげてまた海を見た。

 夏の訪れを告げる入道雲が、太陽に照らされる海原の上をゆっくりと進んでいく。

 今年の夏は、暑そうだ




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逃亡見聞録 @kinako0512

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ