第14話 羽川⑦
それから数週間、僕は怯えて過ごした。いつ警察がやって来るかと思うと、生きた心地がしなかった。一か月が過ぎても警察が僕の所にやって来なかった事で、ようやく彼女が僕の頼みを聞き入れて、通報しないでいてくれた事を悟った。強姦行為を警察とはいえ他人に話す気にはなれなかったのかもしれない。
僕は大学にも行かず、引き籠るようになった。橋本は何度か僕の部屋を訪れた。それでも、僕は扉を開けようとはしなかった。
ある日の事、橋本は僕のアパートの部屋の前に立ち、周囲を憚ることなく大声で、僕に向かって告げた。
「俺がおまえを気に入っていた理由を正直に言うよ。俺は俺の話を聞いてくれるおまえが気に入っていたんだよ。今、おまえは俺の声に耳を傾けてはくれなくなった。だから、俺はおまえから離れていく事にする」
自分勝手な奴だなと、自分の事を棚に上げて考えた。おまえにとって僕は都合のいい話し相手でしかなかったのか。僕のためを思って一緒に居てくれていた訳ではなかったのか。
でも、思う。
もし橋本が独りでいる僕を憐れんで近づいて来ていたとしたら、僕はもっと早くにこの男と一緒に居る事を拒絶していたのではないだろうか。
結局は、僕だって橋本と居るのが、都合がいいから一緒に居ただけなのだ。別に彼のためを思って一緒に居たわけではないのだから。
最後に「いま、わたしは一人で行く。あなたがたもいまはわかれて、ひとりで行きなさい」とだけ言い残して、ついには姿を現す事はなくなった。相変わらず意味不明だったが、どこかで僕の犯した罪をどこか察していたのかもしれない。勘のいい奴だったから。
僕は大学を中退し、地元へと帰った。就職活動は続けているが、当ては全くない。このままどこかでのたれ死のうかなんて夢想したりもするけれど、結局しぶとく生き残ってしまいそうな気がする。
三笠さんを襲ったあの日から、僕は『夢世界』に行く事が出来なくなった。決定的な穢れを背負ってしまった僕を、あの美しい世界が拒絶しているのかもしれない。
そんなとき、僕はまたあの『トロイメライ』を聞いた。この曲だけが僕とあの世界を繋ぐ最後の接点。そんな風に僕は考えていた。
だが、『トロイメライ』を聞けば聞くほど、あの世界の輪郭が薄れていく様な気がした。まるであの世界が曲の中へ溶け出して消えていく様に。
僕はあの不思議な世界の事をもうほとんど思い出す事ができない。
きっと僕があの世界を垣間見る事ができたのは何かの手違いだったのだろう。神様が僕の夢を見せるスイッチを押し間違えたとか。スイッチの押し間違いに気付いた神様が慌てて、スイッチを切り替える様を夢想する。
何故かその神様は高い高い塔の上に居る様な、そんな気がした。
僕は何のために生きてきたのだろう。
そんな事を考える。
人生を振り返れば誰かの役に立った事が一度でもあっただろうか。社会の役に立った事があっただろうか。僕はただ、迷惑しかかけていない人間なのではないだろうか。
かつて見た、人が人を思いやる美しき世界に思いを馳せる。
世界のためなんて大きな事を言うつもりはない。
誰かたった一人のためにでもなる行為が出来ていたならと思った。
僕がした行為巡り巡って誰かを救っている。
そんな妄想に身を委ねて、僕は今日も眠りにつくのだ。
〈第一部完〉
美しきトロイメライ 雪瀬ひうろ @hiuro
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