第七話

「葉月、お風呂上がったよ」

「ふん!」


 リビングにあるコーナーソファに座って雑誌を読んでいる葉月へと声を掛ける。夜、いつものように夕飯を食べ、その後の入浴時間になっても、葉月はずっとご機嫌斜め。学校ではまだ会話してくれていたけど、二人きりになってからは、会話の8割くらいが『ふん!』で片付けられていた。


「なんでそんなに不機嫌なの?」

「なんでそれが分からないのよ!?」


 ようやく答えてくれたと思ってもこの調子だし。

 両親の都合で二人暮らしな僕たち、こういう時は本当に気まずい。だからと言って、適当に機嫌を取ろうものなら、余計に怒られそうだし。


「俺、なんかマズいことした? 初日にしては結構しっかりやったつもりなんだけど」

「お兄ちゃんはアレでしっかりやったつもりなの!?」

「え? しっかりしてなかった?」

「ぐぬぬ……」


 僕の答えを聞いて、喉の奥からひねり出したような呻き声を上げる。


(女の子がそんな声出しちゃダメだよ)


 なんて言ったら、間違いなく火に油……どころか、石油あたりを注ぎかねない。そう思って静かに見守っていると、食ってかかるように勢いよく口を開いた。


「大体っ! どこの教師が初日にあんなこと言うのよっ!?」

「あんなこと?」

「ホモのことよっ!!」

「あー、それねー」


 なんだ、そんなことで不機嫌になっていたのか。だったら良かった。僕、もっと取り返しのつかない発言でもしたのかと思っちゃった。


「だってそれは仕方ないよ。俺の個性なんだから」

「個性だからって何でもバラしていいわけじゃないでしょ!?」

「だからって隠すわけにもいかないよ。俺、先生なんだし」

「先生ならなおさら隠しなさいよ! このホモ!」


 吐き捨てるように言ってそっぽを向く。やっぱり葉月くらいの年頃だと、兄がゲイっていうのは嫌なんだろうか? それとも担任がゲイっていうのが嫌……とか?


「あ、でも南野さんは応援してくれるって言ってたっけ」

「遥ちゃんは特別よ!」


 つい口を出た独り言にまで勢いよく突っ込まれる。でもおかげでまた葉月がこちらを向いてくれた。


「特別ってどういう意味?」

「あの子は腐女子なの!」

「ふじょし?」


 言葉の意味が分からずオウム返しになってしまった。


「婦女子なのは当然だよ、女の子なんだから。葉月だってそうでしょ?」

「そっちの意味じゃないの! 腐るって字を書いて腐女子!」

「葉月……漢字、間違えて覚えてるよ。曲がりなりにも兄が現国教師なんだから、そんな簡単な漢字くらいは……」

「だから違うってば! あーもー!」


 普通に会話しているつもりなのに、何故か葉月のイライラメーターが目に見えて上昇していく。

 もしかして僕、知らないうちに石油……いや、天然ガスあたりを噴出してる?


「腐女子って言うのはBLとかが好きな女の子のことよ!」

「BL? BLってなに?」

「ボーイズラブ!」

「……?」


 出てくる単語全てが理解出来ず、完全にお手上げ状態。そんな僕へ葉月が丁寧に説明してくれた。


「ボーイズラブっていうのは、いわゆる男性同士の恋愛とかカップルのこと! 遥ちゃんはそういう話が好きなの!」

「なーんだ、じゃ、俺の考え方で合ってるよ。ゲイの人を応援してくれてるんでしょ?」


 BLっていうのが男性同士の恋愛で、それが好きな女の子が腐女子なんだったら……間違ってないよね?


「はぁぁ……お兄ちゃんは何も分かってない」

「えー、そうかな?」

「そうよ!」


 ぴしゃりと断言された。そうして読みかけていた雑誌を閉じ、ガラステーブルの上に置く。


「まぁ、いいわ。別にお兄ちゃんがホモなのは今に始まったことじゃないんだし。私、お風呂入る」

「あ、待って葉月。明日休みだからさ、今日ってちょっとくらい夜更かし出来るよね?」


 立ち上がって背中を向けた葉月を後ろから呼び止めた。ぴたりと立ち止まって一秒。ゆっくりと振り返った表情に、今の今まで浮かんでいた怒りの色はない。


「……なに? 何かしてくれるの?」

「うん。せっかくだからさ、あとでDVDでも観ないかなーって。どうかな?」

「っ……ふ、ふーん、まぁ、私も時間あるし? お兄ちゃんが観たいなら……一緒に観ても……いいけど?」


 少しだけ頬を染めてくれているのは機嫌を直してくれた証拠。仲が良いっていうのは喧嘩しないことじゃなくて、喧嘩してもすぐに仲直り出来るってこと、だよね。

 そんな葉月は頬を染めたまま、どこか中空に視線を漂わせつつ、


「それじゃ、お風呂上がったらTSUTAYA行く? 私、西友にも寄りたいし」

「いいよ。あ、でもどうせならこれ観ようよ。教師びんびん物語」

「びっ……」


 僕が何よりも好きなドラマ『教師びんびん物語』。テレビ横のラックからそのDVDを取り出すと、せっかく穏やかな色を保っていた葉月の表情が一瞬にして赤信号に変わる。


「もうっ! そのDVD何回観たと思ってるの! トシちゃんの台詞、全部覚えちゃったわよ!」

「あはは、俺だって覚えてるよ。当たり前でしょ?」

「知らない! 勝手に一人で観なさいよ! このホモ!」

「あ、葉月っ!」


 今度は僕の呼びかけも空しく、すたすたと廊下へ出て行ってしまった。しかも結構激しくドアを閉めて。やっぱりあの年頃の女の子って難しい。


(びんびん物語、何回観ても面白いのに)


 トシちゃん扮する徳川龍之介先生は、僕が世界で一番憧れている人。このお話がなかったら、僕は教師になろうなんて思わなかったかもしれない。


(いつか僕も……徳川先生みたいな教師になりたいな)


 今までに何度も何度も繰り返した思いを今日もまた心の中で呟きながら、僕はDVDをセットした。

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