日常

神辺 茉莉花

第1話


 コーヒーの甘い香りがフロアにふわりと広がった。

「種類変えたな。モカか?」

 幾重にも広がったドレスに似た華やかな芳香。写真集を片手にソファに寝そべっていたチャーインが惹き付けられたようにもそりと起き上がった。

 湯上がりに引っかけた、黒の緩やかなバスローブ。胸元がはだけ、ほどよく引き締まった筋肉のラインが見え隠れする。

「こら、ちゃんと着ろって。風邪ひくぞ」

 水分をたっぷりと含んだ鎖骨の上下運動をちらりと見て、アライスがたしなめるように言葉を発した。

 今夜のチャーインはどうも必要以上に扇情的だ。

「お前じゃあるまいし、そんなにヤワじゃないはずだが?」

 艶っぽい声。滑らかな歩みで喉を鳴らして笑う。

 恐ろしいほどの機嫌の良さ。

 まるで生存に必要な欲求が全て満たされた黒豹が、柔らかな絹のベッドの上で積まれたマタタビと戯れているかのようだ。

 とろりと蕩けるような瞳。

(発情期か)

 根本的にヒトとは違う種族なのだ。チャーインは。そういう時期があったとしてもおかしくはない。

 だからといって、淫靡さを振りまかれるのも体調を崩されるのも困る。

「投薬の加減難しいんだから、自己管理くらいきちんとやってくれって何度も言っているだろ。それと、媚を売ったって何も出てこねえから」

 封を切ったばかりのコーヒーの粉を白い陶器のキャニスターに入れ替え、じゃれるように側に寄ってきたチャーインをあしらう。

「処方箋の練習くらいにはなるだろう?」

 掠れた声で他人事のように笑う。

 渋面をつくったアライス。

 間違ってはいないだけにやっかいなのだ。年末で忙しいというのに、これ以上本業以外の仕事を増やしていられない。

「ほら、今年の新作だとよ」

 だらだらとした流れを断ち切るかのようにわざとぶっきらぼうな口調。

 なじみの店からお試しで百グラムだけ買ったコーヒーのブレンドだ。最初にチャーインが言い当てたように、モカがベースとなっているらしい。確か、ウィンタースペシャルとかいう名が付けられていたはずだ。

 いっこうに乗らないアライスに焦れたように鼻を鳴らすチャーイン。与えられたデミタスカップで暖をとる。

「濃いチョコがいい。この前もらったやつ、まだあるな?」

 わがままな猛禽類だ。だが、憎む要素はない。

「テーブルの上に置きっぱなしだから適当に食え」

 丁寧にコーヒーサーバーを洗ってから、テーブルに向かうチャーインの後を追う。手には同じ白磁のカップ。

 確か季節外れの白桃があったな、とアライスは独りごちて行きがけに冷蔵庫をあさった。

 まもなく見つけたずっしりとした重み。銀色のデリケートな産毛が恥じらいながら寒さに身を震わせている。

「桃か。珍しいな」

 言葉ほどには関心を寄せていないチャーインの態度。卓上で見つけたシックな長方形の小箱を開けて、アライスに断りもなく手を伸ばす。

「貰い物だ」

 食うか、と発したアライスの問いかけ。チャーインの、要らないという言葉を聞いても落胆の色は見せなかった。いずれ分かっていたことだ。

 納得したようにナイフを薄紅色の柔肌に当てる。

 傷つけたところからこぼれ落ちた透明な雫。手首を濡らす果汁に、思わずアライスは舌を伸ばしてぺろりと舐めあげる。

「はしたない奴だな」

 どっちが、だ。

 細かい金箔を乗せたトリュフを見やって、新たな一粒を選ぼうとするチャーインをちらりと睨む。ちょっと表には出せないくらい官能的な顔で固形物が溶けていく様を楽しんでいた奴が何を言っている。

「ああ、これは『買い』だな」

 チョコレートかコーヒーか、どちらともとれる話の流れで目を細めるチャーイン。

 そりゃよかったな、とおざなりな返事をするアライスに少しだけ険のある眼差しをしてから、漆黒のコーヒーを一口含んで息を吐き出した。

 深い、呼吸。顎に手を当てて何事か考える姿勢をとった。

 次いで聞こえてきたのは、消え入りそうに細い月のような言葉。

「……独りは、寂しいな」

 誰かを想う心。

 媚薬でごまかそうとしても駄目なのだと、声にならない声が唄う。

 静寂。

 俯いたチャーイン。表情は悟らせず、ただ切なくなるくらいの眼差しで虚空を見る。

 静かな時計の音。

 全てを見破ったアライスが不機嫌な声をあげた。

 慰める言葉ではない。

 そんな言葉をかけたなら、それこそチャーインの思う壺だ。

「ばれてるんだから下手な芝居、うつなっての」

 通常では考えられないくらいの色気も、そのあとで急激に落とした感情も、全て相手の興味を引き寄せるためのテクニックだ。長い間一緒にいるおかげで、そのくらいの嘘は看破できてしまう。

「やはり騙されてはくれないか」

 ふ、と苦笑して顔を上げるチャーイン。言葉に反して残念そうな様子は見せない。

 あっという間にいつもの冷静さを取り戻して、澄まし顔でコーヒーを味わう。

「こんな単純な仕掛けで引っかかるのはブレスレスくらいだって」

 意図的に吠えて渋面をつくる。

「遊んでいる時に他の男の名前出すな。醒める」

 涼しい表情で傲慢なことを口走るチャーイン。先程までの浮かされるような熱情はもう感じられない。

 こくりと最後の一口を飲み干して、アライスは意地悪く唇を持ち上げた。

「わざとやってるの。気がつけって」

 いや、チャーインも薄々は気がついていたに違いない。

 今夜のおふざけはもうこれで終いだと言外に伝えて、アライスは席を立つ。

 無言。

 二秒だけチャーインの視線がまとわりついて、反応がないことを知ると諦めたように離れていった。

 小さな足音。

 振り返って、視線が場所を移動したチャーインを捜してわずかにさまよう。

 やがて見つけた、すらりとした後ろ姿。

「おい、ソファで寝る気か」

 本気で呆れた声。

 寝られない大きさではないが、チャーインの自室として与えている部屋が二階にあるのだ。わざわざそんなところで眠らなくてもいいではないか。

 習慣でチャーインのカップも片付けてやってから辛抱強く彼の返事を待つ。

 ふわぁ、と大きなあくび。

「ここでいい」

 いかにも眠たそうなチャーインの声。先程まで広げていた冊子を頭の下に敷いて、まどろむように目を閉じる。

(ああ、もう!)

 ローブ一枚では、いかに平熱が高めのチャーインと言えども冷えるはずだ。

(毛布、持ってきてやらないとな)

 体調管理の甘さに毒づきつつも、結局世話を焼いてしまうのはなぜだろう。

 手を伸ばせば触れられる距離でうとうとし始めたチャーインを起こさないように、忍び足で一度、居間を出る。

 足はゲストルームへ。

 急に誰かが来て泊まることになってもいいように、日頃からベッドの準備だけは欠かしたことがない。今はそこから厚めの毛布を何枚かひったくってくればいい。

 心にもない溜息をつきながら、アライスは客室の扉を開けた。

 目の前に広がる青みがかった暗闇。

(チャーインがこんなに簡単に感情を晒け出すはずはないだろう?)

 誰に向けたものでもない問いかけ。

 限界まで我慢して、極限まで押し殺して、それでも隠す。

 そういう男だ、チャーインは。

(そう簡単に懐くわけはねぇよなぁ)

 今度は深い嘆息を漏らして、アライスは脳裏に眠るチャーインの姿を思い浮かべた。

 消えていきそうな生への欲求。

「オレが繋ぎとめてやるよ。だから、一緒に生きよう」

 淡いバリトンに揺るぎない意志を滲ませて、アライスはもう何度も繰り返した誓いを空中に溶け込ませた。

 窓の外、満天の星だけが静かにその宣誓を受け止めていた。



 ~fin~

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

日常 神辺 茉莉花 @marika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ