5-3


 全てを理解した俺は、あまりの驚きに声を出すこともできず、ただただ目の前に立つ浴衣姿の愛莉を呆然と眺めた。

「…………」

 そんな俺に語り掛けるように、愛莉はゆっくりと説明する。声優水沢愛莉独特の、水ような透明な声で。

「あの夜、変わるって決めた私は、その翌日すぐにコンタクトレンズを買いに行った。特にこれといった理由はなかったんだけど、なんとなくメガネを外すことは一番変化が分かりやすそうだったから」

「…………」

 相変わらず返事のできない俺に、愛莉は臆することもなく話し続ける。

「そしたらね、私もびっくりなんだけど、急にオーディションにもいくつか通るようになって。自信がついたっていうよりは、何かが吹っ切れたっていうのかな。変わった私をもう全部さらけ出してみようと思った瞬間から、上手くいくようになったんだよね」

「……見た目の印象もだいぶ変わるからな」

 正直なところ、愛莉の場合はメガネを外したその外見で興味を持ってもらえることも多いだろう。容姿が良いというのも、その人の魅力の一つには違いない。声優としてだけではなく、これは誰にでも言えることだ。

「人って不思議だね、ちょっとしたことで、世界が変わっちゃうんだから」

「……だから分かんないんだよ」

 思わずため息が混じる。

 もともと愛莉のことを知っているのであれば、記憶には残っていたんだろうけど、そのときの水沢愛莉はまだ声優としても駆け出しで、俺も水沢愛莉のことを知らなかった。

 しかも薄暗い状況の中だ。見た顔はさすがに覚えていない。本人が声優の卵だと初めから知っていれば、また別だっただろうけど……というか、そう知っていれば確実に記憶には残っていた気がする。オタクってそういうものだ。

「そうやって、それなりにお仕事も貰えるようになっていくうちに、ふと思い出したんだよね。そういえば、全部あの花火がきっかけだったんだなあって。花火と、あの人がくれた髪飾りが私に力をくれてるんだなって。だから、この花火と髪飾りは、私にとって特別な存在になったの。それでお仕事の時は、この髪飾りを身に着けるようになったんだ。私に自信をくれる勇気のお守りとして」

 それが自分の話だということは、未だに到底信じがたい。愛莉が何か一つの新作アニメの話でもしているんじゃないかとさえ思う。

 しかし、俺はそれを全部知っている。あげた髪飾りの色も、水沢愛莉が声優として一歩ずつ登っていくその姿も。

 そして、目の前にいる浴衣姿の一人の女の子も。

 

 愛莉はまだまだ話をやめない。

 これまで気付かなかった俺への当てつけのように、事実をありのまま話し続ける。

「実は、新年度になって、彩絵ちゃんと仲良くなるきっかけを作ってくれたのもこの髪飾りなんだ。校舎の中で迷っている新入生の女の子を見つけて、私は思ったの。花火の時に、助けてくれたあの人みたいに、私もこの子を案内してあげたい、って。そして、それをきっかけに彩絵ちゃんとは、こんなに仲良くなることができた」

 彩絵から聞いた話の真実とその理由を、ここで改めて再確認する。全ての始まりだと思っていた愛莉と彩絵の出会いの前に、もう一つきっかけとなる人物がいた。

「それで、彩絵ちゃんの家に行ったら、その本人がいるんだもん。もうびっくりだよね」

 愛莉はやれやれという仕草を見せ、首を横に振る。

「……びっくりしたよ。突然、水沢愛莉が家にやってきて。その直前までブログ見てた人気声優がいきなりお宅訪問とか、あの時はなんのドッキリかと思ったよ」

「彩絵ちゃんと暎くん、全然似てないんだもん。2人が兄妹なんて、そんなの想定できるわけないよ」

「いや、まあ……そりゃ確かに、昔から似てるとは言われないけどさ……」

 驚いた理由はお互いに違う。そのすれ違いが、今日までずっと続いてきた。

「でもその人は、私のことを全く覚えてなかった。がっかりするよ、本当に」

 愛莉は、再度深いため息を吐く。

 ……本当にがっかりしたんだろうな。自分のことだけど、悪気のない自分自身を申し訳なく思う。鈍感って、もしかしたらすっごく悪いことなのかもしれない。

「だから思い出してもらえるように、こっちから何度もヒントを出したのに、暎くんは全然気づかなくて。むしろ声優としての私にばかり興味を持ってる。私のことをすごく知ってくれているのに、全然知らない。そんなの全部知ってる私だって混乱しちゃうよ?」

「ヒント……?」

 え、そんなのあったか? そんなのがあったら、いくら俺でも何かしら気が付きそうなものだけど……

「はあ、やっぱり気付いてなかったんだね……」

「ご、ごめん……」

「いいよ、別に。瑛くんのことだし。気付かないのが普通」

 さりげなく嫌みが飛んでくる。とはいえ、自分自身全力で否定できないのが辛い。

「前に、誰かに覚えていてもらうためには、思い出を上書きしないことだって話したこと……覚えてる?」

「えーっと……ああ、カフェでの?」

 愛莉がコクリと頷く。

「あのとき、私が言ってたことの意味。今ならきっと、分かると思うよ?」

「意味……?」

 シンキングタイムスタート。

「……」

 10秒経過。顎に手をあてて、まだまだこれから。

「…………」

 20秒経過。腕を組んで、あせらないあせらない。

「………………」

 30秒経過。額に手をあてて、もうそろそろ出るはず。

「……………………」

 40秒経過。眉間にしわを寄せて。も、もう出るから!もうちょっとだけ待って!

「…………………………」

 50秒経過。切迫感に冷や汗をかいて。ほ、ほんともう喉まで出てるから!あとこの口を開くだけだから!

「………………………………あ」

 と、1分手前で、俺はようやく理解し、下に向いていた視線を上げる。

「……もしかして、俺に去年の出来事を忘れさせないために……?」

 そう訪ねると、愛莉が一度、ふうと深く新呼吸をした。

 そして、表情を変えることなく、無言でゆっくりと頷く。

「声優としての水沢愛莉も、私自身のはずなのに、なんだかその自分に嫉妬しちゃったりね。だから、少し不機嫌になったりもしたんだけど」

「カフェでの件は、本当にごめん……反省してる」

「あーあ、期待した私がバカだったなあって。花火のときはあんなにかっこよかった人が、まさかこんな人だったなんて、正直ちょっとだけ幻滅はしたけど……」

「……ごめんなさい」

「本当だよ、まったくもう」

 一度だけ怒ったような表情を見せ、すぐに愛莉は優しい顔に戻る。

「でも、事実は変わらないから。私を助けてくれたあの花火は、1年越しにまたこうしてやってきた。きっとこれも、この髪留めのおかげだと思うんだ」

 愛莉の黒髪が夏風になびく。晴れた空の下でシーツを干すときの、ふわりとした感覚を思い出す。

「それでね? さっきの、思い出を上書きしないって話の続きなんだけど」

 相槌の代わりに、俺は小さく頷いてみせる。

「私ね、今は書き足したくて仕方ないんだ。これまでのことが思い出せなくなるくらいに、たくさんの思い出を作りたい。私の声を、もっともーっともーーーっと!みんなに届けたい!」

「……そっか」

「……だから、私はまた言うよ」

 それは、初めて見る表情だった。決意に満ちたその顔は、きっとこの特別な日だけに見ることのできる特別な感情を秘めていた。きっとこれは他の誰も見ることが出来ない、あのとき花火を一緒に眺めた俺だけが見られる表情。つまり、俺にしか出来ないことだ。

「あの時、暎くんが助けてくれて、私は私自身としても、声優としても変わることができた。アニメが大好きで、ゲームが大好きで、他の人から見るとどうしようもないあなたのおかげで、今私はここにいることができています」

「……なんか褒められてるのかどうか、よく分かんないんだけど……」

「褒めてはいない……かな?」

「……なら良かったよ。自分の読解力が正しくて安心した」

 愛莉がクスっと笑う。夏独特の生ぬるい風が、空気を読まずに俺と愛莉の間をゆっくりと通り抜けていった。風が過ぎて行ったのを確認して、愛莉は再度表情を作り直す。

「だから、もう一回。……改めて友達として、よろしくお願いします」

 そう言って微笑んだ瞬間、腹に響く音と共に、愛莉の後ろでオレンジ色の花火が上がった。周囲の観客も、どよめくような歓声で花火に拍手をして盛り上がる。

 夜空に舞う美しい火薬たちへの思いを各々が述べる中、愛莉も振り返り、キラキラと落ちてくる白い火花を眺めて言う。

「……始まったね」

「うん。2回目の花火……だな」

 花火の大きな音の間を縫うように、俺たちは声を交わす。

 最初で2回目の光景。なんて不格好な表現だろう。

「そういえば、今日は髪留めは着けてないんだね?」

「うん、だって今日は仕事じゃないから。でも……」

「でも……?」

 そう言って、愛莉は背中を向けて、俺から見えないようにゴソゴソと何かを探す。

「はい!……これで、両方の私……かな?」

 振り返った愛莉の頭に、見覚えのある髪留めが黒髪の上に飾られている。暗闇の中、花火が照らす光が、その髪留めの色を改めて確認させてくれた。

 2.5次元と現実がようやく1つになる。

 

 俺は今、ようやくスタートラインに立ったような、そんな気がした。

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大抵の場合、2.5次元と現実はかけ離れている。 涼月タカイ @takai513

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