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--回想--


 1年前の夏休み、俺は茉希や透を含んだクラスメイト達と、このみなとみらいの花火大会を見に来ていた。誰が発案したかもう覚えてさえいないこの企画のきっかけは、「花火で浮かれてるリア充を冷やかしにいく」とかそんな下らない理由だったような気がする。

 俺は正直なところあまり乗り気ではなかったけど、茉希と透も参加するということもあり、とりあえず1日くらい夏の思い出作りとして、しぶしぶではあったが参加することになった。


 俺たちにとっては、高校生活最初の夏休み。誰もが希望の眼差しで期待する、その爽やかな響き。

 人生で一度きりしかないその甘酸っぱい時期を、世間の高校生は大抵が部活や勉強、遊び、バイト等に費やす。そうした経験が、「あの頃は良かった」というような、将来的に良き思い出となるらしい。

 しかし、俺にはやるべきことがたくさんあった。夏アニメの消化、新作ラノベ・アニメ関連誌のチェック、積みゲーの攻略、夏コミへの参加……ほか、諸々。つまり、最大限に集中したオタク活動の充実を図るということである。

 見方によっては、人生で最も素晴らしい時期を、そんな風にぞんざいに扱うなんてと、そう思う人もいるだろう。しかし、オタクという人種にとっては、このような時間こそが人生を謳歌するために最も必要な時間なのである。きっと一般人に理解出来はしないだろう。そもそも、理解されたいとか共有したいとか思って始めたものではない。ただそれが好き、その気持ちだけが俺たちオタクを動かしている。

 と、そんな俺を見かねて、茉希と透は俺を誘ってくれた。

「あんたがオタク活動で忙しいのは分かったから、一日くらい私達に付き合いなさい!……もし来なかったら、あんたの部屋が私と彩絵ちゃんによって、生活感のない美しいお部屋にリフォームされるかもしれないわよ?」

 茉希のそんな恐喝とも言えるような誘いに、俺は黙って頷くしかなかった。オタクにとって部屋を勝手に片づけられるというのは、何よりも強い制裁なのである。想像しただけでもその悲壮感にゾッとする。

「行きます!行きますから、それだけは勘弁してください……」

「っていうことで、彩絵ちゃんも連れてきてね♪」

「残念だったな、暎。ま、一度くらい青春を感じておくのも悪くないと思うぞ?」

 透は俺の背中を叩いて励ます。こんなところで男同士の友情を感じるのも、少し複雑な気分だった。


 そして、花火大会当日。

 俺は彩絵と一緒に、集合場所となっている駅の改札にやってきた。

「えーっと、みんなは……」

「まだ来てないみたいだね」

 改札の周囲を見渡してみるが、知っている顔は1人もいない。

「来るのが早すぎたか?って言っても、今は集合時間10分前くらいだから、一人くらい来てても良さそうなもんだけどな……」

「お兄ちゃん、集合時間って4時でいいんだよね?」

「そう、4時で……あれ?」

「ん?どうしたのお兄ちゃん?」

「……5時だった」

「はい?」

 彩絵は目をパチクリさせて、俺の言葉を聞き返す。

「ごめん、集合時間、俺が1時間間違えてた……」

「えー!!はあ、そりゃ誰もいないわけだよ……」

「ほんとごめん!出掛けるまでめっちゃ急かしたのに」

「もー、しっかりしてよー。まあ、遅れちゃったわけじゃないし、早く着く分にはいいけどさー」

「すいませんごめんなさい申し訳ありません……」

 大きくため息を吐く彩絵に、俺は頭を下げてひたすら謝り続ける。

「いや、もういいよ。うーん、でも1時間どうしよっか?」

 彩絵が唸るように考え込む。俺は彩絵を見つめながら、ただただ反省している雰囲気を醸し出す。

「……じゃあさ!せっかくだからお買い物しない?!この辺りだったら、買い物するところもいっぱいあるし!」

 良いことを思いついたと言わんばかりに、キラキラした目で彩絵は俺に話し始める。正直言うと、その辺りで座ってゲームでもしながら待っていたいところではある。しかし、俺のミスで生まれたこの空白の1時間を、さすがに俺のやりたいように使うわけにもいかない。

「分かりました、今日は彩絵さんに従います……」

「よしじゃあ決定ー!うーん、どっこ行こうかなー?」

 そう言って、彩絵はスタスタと歩き始める。まあ、これで彩絵の機嫌が悪くならないのなら、それでいいか。俺も彩絵を追いかけるように、その隣に並ぶ。

「この辺りは良いよね、お買い物するお店がたくさんあって」

「確かに、店はめちゃくちゃあるよな。俺はあんまりよく知らないけど」

「じゃあ、まずはクイーンズスクエアに行こー!ほらほら、お兄ちゃん早く!」

「いや、1時間じゃそんな何個も回れないだろ……」

 彩絵は俺の腕を引っ張って、階段を上り始めた。


 施設の中は、吹き抜けを挟んだ両サイドに店がずらっと並んでいて、様々な種類のショップから活気が溢れている。みなとみらいの景観に沿ったオシャレなその造りは、いつ来ても相変わらずの貫録である。さすがみなとみらいという感じだ。

「なんかこうやって一緒に出掛けるのって、久しぶりだな」

「んー?あー、そう言われてみればそうだねー。っていうか、それはお兄ちゃんが家でアニメばっか見てるからじゃない?」

「あ、いや……ごもっともです」

 何気なく発した言葉が、ブーメランになって自分に返ってくる。

「お兄ちゃんも、もうちょっと外に出たら、面白いこともいっぱいあると思うのになー」

「面白いことって、例えばなんだよ?」

「うーん……彼女、とか?」

「残念だけど、そんなのいないから。高校生になったら彼女が出来るとか、そんなの妄想でしかない」

 俺は首を横に振って、彩絵の言葉を真っ向から否定する。

「えー?つまんない高校生活だねー」

「うっさい。俺は現状やりたいことがたくさんあるんだから、そういうのはいいの」

「……なんか、言い訳のテンプレにしか聞こえないよ?」

「そうそう、テンプレですね、分かります分かります」

 彩絵の発言を俺は軽くいなす。そんなのにいちいち突っかかってたらきりがない。というか、こいつのワードセンスはどこから来ているのだろう?俺はそちらの方が気になって仕方ない。そんな俺の疑問など気にもしないまま、彩絵は会話を続ける。

「うーん。でも、お兄ちゃんのこと好きな人、一人くらいはいそうだけどなー?ほら、茉希さんとかは?!」

「……いや、なんで茉希なんだよ?」

「ほら、お兄ちゃんと茉希さんっていつも一緒にいるじゃない?だから、なんかあったりするのかなー、って」

 彩絵は悪い表情を浮かべながら、嬉しそうに俺を問い詰めようとする。

「たまたまだよ。偶然クラスが2年連続で同じだったから、一緒にいるってだけだ。しかも、お前のその論法でいけば、透だってそうだろ?」

「ああ、BLってやつ?」

「……お前、それ間違ってもみんなの前で絶対公言するなよ。お前がそれを口にした瞬間、俺はクラスにいられなくなる。っていうか、そんな言葉どこで覚えてきたんだ……」

「ネットでなんか流れてたよ?いやあ、不思議な世界もあるもんだね。お兄ちゃんもそのBL好きって人たちも、どっちもオタクには違いないのに、よく分からない派閥があるんだねえ」

「そこは互いに相容れない関係だからな……」

 同じオタクとはいえ、理解できないジャンルというものはある。とりわけ互いに否定をするわけでもなく、認めてもらいたいとかいうわけでもなく、ただ単純に棲み分けが存在するというだけだ。もちろん根本はどちらもアニオタである点で、世間一般から見れば同じ括りになるのだが。いや、そもそも、なんで俺は妹にこんな話をしているんだろう。

「そういえば、さっき茉希さんの話をしてて思い出したけど、明日って茉希さんの誕生日じゃない?」

「え?……あー、そういえばそうだっけか」

「忘れてないくせにー?」

 BLから急激にベクトルを変えて身近な話に展開する、挑発的な彩絵の言葉を俺は軽く受け流す。

 彩絵の言う通り、明日は茉希の誕生日だ。もちろん忘れていない。けれど、別に何か祝う気など全くなかったし、何か特別な日だという実感もさらさらなかった。

「じゃあさ、茉希さんに誕生日プレゼント買おうよ!どうせまだ買ってないんでしょ?」

「いや、確かに買ってはいないけど……」

「はい、決定!何買う?」

「いや、まだ買うって決めてないから……」

「……シャーラップだよ、お兄ちゃん?もう忘れちゃった?この1時間は、お兄ちゃんに反論する権利はないの。反論したら、BLだってデマ言っちゃうよ?」

「……はい。すいません」

「じゃあとりあえず、雑貨屋さんにでもいこっか♪」

 自分の身の危険を感じ、俺は素直に彩絵に従うことにした。というかそのデマは、俺だけじゃなく、透の死をも意味するんだよな……知らない間に、今俺の献身性には2つの命が捧げられているのであった。


「ほら、何買う?化粧品?バッグ?アクセ?」

 雑貨屋に着くなり彩絵は、目についた物を何でもかんでも俺に勧めてくる。

「いや、そんなに手持ちないから」

「えー?……はあ、甲斐性のない男はいやだねー。これだからお兄ちゃんはモテないんだ」

 実の妹にお金のことで呆れられるのは、なんだか妙に切ない気分になる。確かにお金もないし、モテないというのも間違いではないのが悲しいところではあるけれど。

「そんなこと言われたって、うちの高校はバイト禁止だし仕方ないだろ……」

「ま、しょうがないか。じゃあ、とりあえず値段的にも手頃なのは……あっ、このあたりなんかどう?」

「ヘアアクセ……か」

 リボン、ヘアピン、カチューシャ、シュシュといった、いくつもの種類のヘアアクセサリーが並んでいるコーナーで立ち止まる。

「ほら、これだったら値段的にも、お兄ちゃんでも買えるんじゃない?」

 彩絵は並べてあったシュシュを一つ手に取って、俺に値札を見せる。

「……確かに、これくらいだったら何とかなるな」

「ねっ?じゃあ、この中から茉希さんに合うものを選ぼう!」

 互いの妥協点を見つけた結果、この中から茉希のプレゼントを選ぶことになってしまった。しかし、どんなものを選べばいいか、俺の中にそんな高等なデータはない。

「……選択肢って出ないのか?」

「ん?何の話?」

「いや、ごめん、こっちの話だ。無視してくれ」

 ギャルゲーなら3つくらい選択肢が出るのに。何十個と置いてあるこの中から選ぶには、情報が少なすぎる。プレゼントする物によって、パラメータに物理変化があるわけでもなさそうだからこそ、何を選んでいいか分からなくなる。

「……どういうの選んだらいい?」

 さっさと諦めて彩絵に聞くことにした。似合うとか、かわいいとか、男でなおかつオタクの俺には難しすぎる。プレゼント買うって、こんなにハードルの高いことだったのか……ギャルゲーの主人公、まず3つに絞れるのがすごすぎるだろ……

「私から言わなきゃいけないのー?はあ、女心の分かんないお兄ちゃんには、まったく呆れるよ」

「いいから、早く教えてくれ」

「簡単だよ。お兄ちゃんが茉希さんに着けて欲しいと思うものを選べばいいんだよ」

「俺が茉希に着けて欲しいもの?」

「そう。似合う似合わないなんて、二の次だよ。女の子は、そうやって自分のことを考えて貰える、それ自体が嬉しいんだから」

 女性雑誌や少女漫画にでも載っていそうな回答を、彩絵は女性を代表して頷きながら代弁する。

「……お前、女の子だったんだな」

「はい?BLの約束忘れちゃった?」

「ごめんなさい彩絵さん」

「まったく……で、どれにするの?」

 彩絵に言われ、俺は無造作に棚に並べられたヘアアクセを眺める。棚には照明がしっかりと当たっていて、どれもそれなりに綺麗に見える。

「俺が茉希に着けて欲しいもの、か……」

 言われたことを復唱して、茉希のことをイメージする。元気で、活発で、何だかんだ言っていつも近くにいるお節介。そんな茉希に着けて欲しいもの。その茉希への誕生日プレゼント。

「うーん、難しいな……」

「そんなに難しく考えるものじゃないの。茉希さんのために悩むことが大事なんだから。お兄ちゃんの直感でいいんだよ」

「そういうもんなのかなあ……あっ、これなんかどうだろ?」

 俺は棚の一番奥にあった、隠すように置かれた赤い髪飾りを手に取る。

「ほら、これなら茉希がつけてても違和感ないんじゃないか?」

「ふーん。お兄ちゃんは茉希さんにそういうのを求めてるんだ」

 彩絵はこっちを見て、ニヤニヤと笑う。

「いや、単純に俺は、これを着けてる茉希が見たいなと思って!あいつ髪の毛も長いし、ちょうどいいだろ?」

「はいはい分かりましたわかりました。うん、いいんじゃない?私もそれだったら茉希さんに似合うと思うよ」

 彩絵の承諾を貰い、ひとまず俺も安心する。せっかく買うんだから、どうせなら本人に喜んで貰いたい。

「ほら、決まったらさっさとレジで会計してきなよ。早くしないと、集合時間間に合わなくなっちゃうよ?1時間も早く来てたのに遅刻とか、笑えないでしょ?」

「分かったよ、買ってくる」

 そうやってレジで会計を済ませた俺と彩絵は、集合場所に向かった。色々言いつつも、結局しっかりとギフト用の紙袋にオシャレなラッピングをしてもらって。


 駅に戻った俺と彩絵は、透達を含めたクラスメイトと合流した。もちろん茉希もその中にいた。茉希を見た瞬間、彩絵は茉希に抱き付く。

「まきさーん!おひさしぶりですー!わー!茉希さん浴衣だー!」

「おー、彩絵ちゃん、ちゃんと来てくれたんだー?元気してた?」

「はい!受験生として、必死に勉強しながら頑張ってます!その浴衣すっごいかわいいですね!髪も全部上げちゃって、なんだか妖艶ですっ!」

「へへー♪今日はちょっと頑張ってみたの。彩絵ちゃん、ありがとっ」

「私も浴衣着てこればよかったなー」

 茉希と彩絵は、久々の再開を楽しんでいる。この2人、いつの間にこんなに仲良くなったんだ。これまでも、茉希や透たちと遊ぶとき、何度か彩絵を連れていくことはあった。それ以降、茉希はこうやって可愛がってくれている。

 茉希は彩絵の頭を撫でながら、俺の方を見る。

「よっ、暎。元気にしてた?って言ってもまだ夏休み入ってから一週間くらいしか経ってないけどさ」

 ニカっと笑いながら、茉希は真っ直ぐに俺の目を見て話しかける。いつもとは違う浴衣姿へのギャップと、さっき誕生日プレゼントを買ってしまったことで、非日常感がいつにも増して、なんだか気恥ずかしくなり、俺は茉希を意識してしまう。もちろん茉希の方は何とも思っていないだろうけど。

「あ、ああ。元気にやってるよ。ほとんど部屋から出てないけどさ」

 笑い方やしゃべり方はいつもと全く同じなのに、浴衣をまとったその外見はやっぱり新鮮で、思わずドキッとして、さっと目を背けてしまう。いつもは長いその髪の毛が、浴衣に合わせしっかりと結われていて、普段見せることのないうなじが露わになる。

「はー、相変わらずオタクしてんのねー。ま、言わなくても分かってたけどさ」

 やれやれと首を横に振りながら茉希が鼻で笑う。いつもだったらそんなことを言われた瞬間に、すぐに屁理屈を返すんだろうけど、なんだか今日は躊躇してしまい、結局何も言えなかった。俺がそんな風にためらっている間に、茉希と彩絵は他の女子のところへ行ってしまった。

「……なんか調子狂うなあ」

 色々な要因が重なったせいで、なんだか上手く話せない。浴衣くらいで、何で俺はこんなに意識してるんだろう。それに、夏休みに入ってから、彩絵以外の人とほとんど話してなかったからか、いつもよりなんかやけに疲れる……こんなんで、今日乗り切れるのか……?そんなことを考えていると、透が近づいてきた。ちなみに透は普通の私服だ。

「よ、元気にしてるか?おっ、ちゃんと彩絵ちゃん連れてきたんだな」

 そう言って透は俺の肩をポンと叩く。夏休みが始まって一週間ほどしか経っていないが、学校があるときは毎日会っていた分、なんだかすごく久しぶりな感じがする。

「ああ。茉希が絶対連れて来いって半分脅しみたいな感じで言ってきたからな。でも、そうやって彩絵に声かけたら、あいつも花火行きたいって言ってくれたから、ちょうど良かったよ。これで別口でまた花火に駆り出されることもなくなる」

「そういうことか。相変わらず彩絵ちゃんに振り回されてるんだな……ま、でも暎が元気そうで良かったよ。お前部活入ってないだろ?だから、夏休みになって一回も学校に来てないから、どうしてるかなって心配してたんだよ」

「ああ、それなら大丈夫。しっかりアニメ見たりしてるから、心配しなくていい」

「そこは心配してないっての。っていうかそういえば、さっきお前の携帯に電話鳴らしたんだけど?」

「えっ、うそ?ごめん、全然気付いてなかった」

 俺はポケットからスマホを取り出し、ホームボタンを押す。が、反応はない。何度ホームボタンを押しても、スリープボタンに押し変えても、スマホは一向に暗い画面のまま冴えない自分の顔を映している。これはまさか……

「……充電なくなった」

「は?マジで?」

「うん、マジっぽい……」

「お前これからこの人ごみの中に突撃するってのに、なかなか図太い神経してるな……っていうか、幸先悪すぎだろ?」

「ごめんて……」

 充電切れの原因には心当たりがある。家ではスマホで常にまとめサイトをチェックしてたし、電車に乗っている間もずっと録画したアニメをスマホで見ていた。加えてこの外気温である。充電の減りが著しく早くても、なんらおかしな話ではない。もちろん、普段あまり家から出ない俺は、もちろん予備バッテリーなんて持っていない。よって、今日はスマホなしで行動することが決定された。

「ま、もしはぐれても、勝手に楽しんで帰ってくれ」

「いや、そんなフラグ立てるなよ……」

 透とそうこう話している間に、いつの間にかメンバーが全員集合していたらしく、合図もないままみんなはスタスタと歩き始め、最後方にいた俺達2人はいきなり置いて行かれそうになった。

 彩絵は集団の前の方で、久しぶりに再会した茉希にくっついて、楽しそうに女子達の中に交じってニコニコと話している。……いくら俺のクラスメイトで茉希のことを知っているからとはいえ、まがいなりにも他のメンバーは初対面の先輩だぞ。それであれだけもう溶け込んでいることに、妹ではあるが俺は少し尊敬する。BL発言だけはわりと本気で心配だが。彩絵が口を滑らせないことを願うしかない。


 駅の階段を登り切ったあたりで、さらに一段と人の数は増えた。道路はすでに歩行者天国と切り替わっていて、道路沿いにはたくさんの屋台が出ており、賑わっている。見渡す限り花火を目的にした人ばかりで、少し気持ちが悪くなる。夏休みに入ってからはほとんど家にいたので、これだけの人を見ると、体調を悪くするのも無理はない。

「……コミケの予行練習だと思おう」

「ん?何か言ったか?」

「いや、何でもないよ……これも一つの準備だなと思っただけだ。行こう」

「はあ……?」

 不思議そうにこちらを見る透に気付かない振りをして、俺は人を避けながら、前を歩くクラスメイトを見失わないように付いて行く。道路を対岸に渡りきり、人ごみを抜けたところで、茉希と彩絵が待っていた。

「あんたたち遅い!みんなとはぐれちゃうじゃない!」

「お兄ちゃん、この年になって迷子とか恥ずかしいからやめてね?」

「分かってるよ。ちゃんと付いてくから心配しなくて大丈夫だよ」

 茉希と彩絵の2人から軽い説教を受ける。

「まったくもう……とりあえず、しばらく自由行動だって。他のみんなはもう出掛けちゃった。屋台見たり、海見たり、カップル冷やかしたり、花火が始まるまで好きにしろってさ」

 茉希が俺と透に連絡事項の伝達をする。いや、冷やかしなんてしたところで、自分が哀れで悲しくなるだけなんじゃないか?っていうか、当初の企画目的ちゃんと忘れてなかったんだな……

 彩絵との買い物と、これだけの人の量に少し疲れた俺は、ぐーっと背伸びをする。伸ばした背筋があくびを誘発した。

「ふゎーあ……」

「……ねえ、暎」

 あくびをした情けない顔を茉希に見られる。少し恥ずかしかったが、茉希は気にもしていないように話を続ける。

「へあ?ん、なに?」

「今日、さ……花火が終わったら、ちょっと話せる?」

「んー、別にいいけど、今じゃダメなの?」

 変な前置きをする茉希に、俺は素朴な疑問を投げかけた。

「だ、だめ……!今はこれから彩絵ちゃんと屋台巡りするから忙しいの!っていうかまだちょっと明るいし……」

 もじもじしながら茉希が話す。浴衣を着ているせいもあって、なんだかその姿がちょっと色っぽく感じる気もする。やっぱり衣装って人に与える印象の上で大きいんだな。

「ふーん、まあよく分かんないけど、とりあえず分かったよ。じゃあ終わってからな」

「うん、よろしく!」

 浴衣を着ているところ以外は、またいつもの元気な茉希に戻る。気温のせいか、その顔が少し赤いように見えた。

「ほう……」

 そのやり取りを見た彩絵がニヤニヤしながら頷く。

「彩絵、なんだよ?」

「いや別に、なんでもー?お兄ちゃん、タイミング分かってるよね?」

 考えていることを訴えるような目付きで、彩絵は俺にアイコンタクトする。

「……分かってる。その時でいいんだろ?」

 その時に誕生日プレゼントを渡す。さすがにそれくらいは俺にだって分かる。

「じゃあ茉希さん、行きましょうか!こんなお兄ちゃんの相手してたら、焼きそばが売り切れちゃうかもしれません」

 彩絵は茉希の腕を組んで、屋台の方を指差す。

「いや、さすがに売り切れないと思うぞ……?」

「じゃ、お兄ちゃんまた後でねー♪」

 そう言って、茉希と彩絵の2人は嵐のように屋台に向けて去っていった。

「慌ただしい奴らだな……さて、じゃとりあえず俺たちも行くか」

 振り返って透に呼びかける。が、そこに透はいない。

「……あれ?透さん?」

 周囲を見渡してみるが、知らない人々が行き交うだけで、そこに透の姿はない。

「どこいったんだ?とりあえず電話してみるか……って、できないんじゃん」

 スマホの充電はすでにお亡くなりになっている。自業自得なのだが、こういうときに自分の運を呪いたくなる。透が言ってた幸先が悪いっていうの、めちゃくちゃ当たってるじゃん……

「……とりあえず近くの屋台にいないか、探してみるか。そんな遠くには言ってないだろ」

 そう思って、歩行者天国の道路に出た瞬間だった。

「……あっ、わあっ?!」

 後ろから甲高い声が聞こえた。その瞬間、背中に鈍い衝撃が走る。力としてはそれほどの強さではなかったが、弱い衝撃でも不意打ちとなれば話は別で、それなりにダメージも大きくなる。よろけて前のめりになった俺。その背中には柔らかい、何か抱き付かれたような感触を感じる。

「いたた……え、いま何が起きた?」

「ごっ、ごめんなさい!」

 返事をするように謝罪の言葉が返ってきて、その柔らかい感触は慌てて背中から離れる。

 呼ばれた声の方を振り向くと、少しパニック気味になった浴衣姿の女の子がいた。長い黒髪に赤縁のメガネが印象的な、決して派手とは言えない同い年くらいの子だった。

 微かに残った良い匂いが漂う。俺は背中をさすりながら、先ほどの感触を確かめる。さっきの感触は、この女の子のもの……ということになるんだろうか。不意に起きた出来事に心臓の鼓動は高ぶる。

「本当にすいません……浴衣なんて着るの初めてで、慣れない下駄に躓いてしまって……それでぶつかってしまいました」

「ああ、それはもういいんだけど……ケガはない?」

「は、はいっ!大丈夫です!」

 女の子は謝った後、ぶつかった衝撃で着崩れた浴衣の位置を直そうとする。浴衣を直すその手つきは、お世辞にも上手いとは言えず、確かに浴衣慣れしていないことが分かった。一通り浴衣を直し、ひとまず落ち着いたその子にもう一度声をかける。

「浴衣も、もう大丈夫?」

「ええ、すいません、気を遣わせてしまって」

「いや、気を遣ってるわけじゃないけど……」

「そ、そうですか。なら良かったです」

 目の前のその子は、なんだかまたそわそわしているように見える。何か言いたげというか、そんな感じだ。俺は一応その子に問いかけてみる。

「どうかしました?」

「あ、いえ、あのー……」

「……?」

「……私、友達とはぐれてしまって……それにあまりこの辺りには来ないので、どこに行ったらいいか分からないんです」

「そっか、あれ?携帯は持ってないの?」

「それが……準備をする際に、携帯をいつも使っているバッグに入れてしまって……それに気付かず、こっちを持ってきてしまいました」

 そう言って彼女は持っていた巾着袋を少し掲げ、俺に見せる。

「……つまり、家に忘れたってことでいいんだね?」

「そういうことです……」

 なかなかのドジっ子である。まあ確かに言いたいことは分からんでもないが。

「って、俺も人のことは言えないか……」

「……?どういうことですか?」

 不思議そうな表情で、彼女は俺に質問する。

「いや、俺も携帯の充電がなくなっちゃって、友達と連絡が取れなくて困ってるんだよね」

「そ、そうなんですか?……ふふ、それじゃ私とあんまり変わらないですね」

 深刻そうな顔をしていた彼女が、表情を和らげる。やっぱり派手さはないけれど、笑うとそれなりにかわいいじゃないか。赤縁の眼鏡がより映える。だったら、そのままの笑顔でいてもらった方が良い。

「……じゃあ、一緒に迷子しますか?」

「へ?」

 その子はぽかんとした表情で、俺の顔をぼんやりと見つめる。

「いや、お互いに迷ってるわけだし、一緒に動いた方が心強いかなと思って」

「いいんですか?」

「ええ。俺も一人じゃ寂しいですしね」

「はいっ!よろしくお願いします!」

 こうして俺は、見知らぬ女の子と共に迷子をすることになった。


 歩行者天国となった道路沿いには屋台がひたすらに並んでいて、この終点がどこにあるのか今いる場所からは見えないほど、ずっと先まで続いていた。人の数も、打ち上げの時間が近づいてくるにつれ、さらにどんどんと増えていく。

 そんな中、隣を歩く赤縁メガネの女の子は、さっきまでの不安そうな顔は晴れ、少しウキウキしたような様子で、通り過ぎる屋台を1つずつしっかりと眺めていた。

「屋台とか出店って良いですよね。昔ながらの風情があって、お祭りに来たんだなーって実感ができるっていうか」

「うん。祭りに行くと、持って行ったお金を全部使っちゃって、親によく怒られたっけ」

 すれ違う少年たちが走り抜けていくのを見て、小さいころの懐かしい思い出が蘇る。俺にもあんなかわいい時代があったんだよな……

「あはは、みんな小さいころにやっぱりそういう経験あるんですね。私も財布の中全部使って、ベビーカステラをたくさん買って持って帰ったら、お母さんにすっごい怒られました」

「ベビーカステラが好きなの?」

「はい!それはもう、大好きです!お祭りでしか食べられない、あの特別な感じがたまらなくて」

 彼女はこの上なく嬉しそうな表情で話す。これだけテンションが上がるってことは、本当に好きなんだろうな。

「……じゃあ、食べる?」

「えっ?いいんですか?」

「うん。ほら、ちょうどそこにあるし」

 俺はバターの独特な甘い匂いを香らせている屋台の前で、おっちゃんにベビーカステラを一袋お願いする。おっちゃんから受け取った紙袋を、そのまま彼女に渡した。

「はい、どうぞ」

「あ、ありがとうございます……いいんですか?」

「うん、いいよ。これくらい」

「すいません……あれ?食べないんですか?」

 ポケットに手を入れた俺の方を見て、彼女はきょとんとする。

「ああ、俺はいいよ」

 軽くお断りする。単にそれほど食べたいと思わないだけなんだけど。

「ダメです!そんなの、私が食いしんぼうみたいじゃないですか!」

「え?」

「ほら、口開けてください」

 そう言って彼女は、紙袋の中から1つベビーカステラを取り出し、強引に俺の口元に突きつける。真剣な顔で俺を見つめるその眼差しは、どうやら食べるまで許してもらえなさそうだ。諦めて俺は口を開き、その細い指からベビーカステラを口に含む。バターの香りと、女の子の良い匂いがカフェオレのように混ざって、鼻の中に入ってくる。

「どうです?」

「……うん。おいしい」

「そうですか、良かった」

 彼女はほっとした様子で、胸を撫で下ろす。昔懐かしい香りが口の中いっぱいに広がり、水分の大半を持っていかれた。そんな俺を見て満足げな彼女に、俺もどこか安心する。

「……いこっか」

「はい!」

 道路脇に雑然と並ぶ屋台の間を、俺たちはまた歩き始める。カツカツと鳴る彼女の下駄の音と、ギュッと握りしめた紙袋の擦れる音が、人ごみの中にそのまま溶けていく。

「……大分暗くなってきましたね?」

「うん、もうそろそろかな」

 そう言って確認した道路沿いにそびえる街頭時計が、ちょうど花火の開始時刻を示していた。

 周囲がざわつき始める。その直後、ヒュルヒュルと大きくか細い音が空に向かって伸びていくのが聞こえた。

「……ッパーン!……」

 薄暗さを残した夜空、観覧車の隣に赤い大きな光が花開く。その瞬間、一斉に拍手と大きな歓声が広がる。歓声を受けながら、空にキラキラと輝く火花が静かに落ちて消える。

「……花火、始まっちゃいましたね」

「うん。花火なんていつぶりだろ……たまに見ると、結構きれいでいいもんだな」

 中学に入って、アニメに興味を持ち始めてからは、外に出る時間が圧倒的に減ったため、まだ小学生くらいのときに家族で行ったのが最後だったと思う。

「……戻らなくていいんですか?」

 彼女は不安そうに俺に問いかける。

「いや、これだけの人がいたら、今日はもう多分会えないよ。それに、連絡も取れないしね」

「そうですか……」

 薄暗い中、僅かに伺うことのできたその表情は、何かを考えている様子だった。その直後、彼女は何かを思いついたようにふっと俺の顔を見て、また笑顔を見せる。

「じゃあ、せっかくなので、一緒に花火を楽しみましょう!ほら、そこに座って!」

「……え?」

 俺の返事を待たずに、彼女は俺の手首を握って、道路脇へと駆け出す。下駄の音が花火の合間を縫って響き渡る。

「いや、走ったらまた転ぶよ?!」

「大丈夫!今は支えがあるから!」

 そう言うと、一層俺の手首にかかる力は強くなった。手を引っ張られながら、俺は道路脇の石垣で作られた階段に連れていかれる。その瞬間、その強引さに、ふと茉希のことが頭によぎる。外見の全く似ていないその女の子が、一瞬だけ茉希に見えたような気がした。


 案内された階段に腰掛けて、俺たちはひたすら下から上空に舞い上がるその花火たちを眺める。

「……口、開いてますよ?」

「えっ?あっ、ごめん!」

「ふふ、いえ、別に謝ることじゃないです」

 彼女は俺の顔を見て微笑む。知らない女の子とこうやって花火を見ているのは、なんだか不思議な感じだ。彩絵にいつも注意される。ぼーっと考え事をするとき、俺はいつも少し口が開いてしまうらしい。今頃みんなは、どんな気持ちでこの花火を見ているんだろう。帰ったらきっとまた、彩絵にがっつり怒られるな。ま、それもこれも、全部自業自得だけど。

 でも、ただ1つ、茉希との約束を守れなかったことだけが悔やまれる。茉希は一体俺に何を話そうとしたんだろう。幾度となく打ち上げられるその光を眺めながら、俺はぼんやりとそんなことを考える。次に茉希に会うのは、おそらく夏休みが明けてからだ。その時に聞いたら、今日話そうとしたことを教えてくれるだろうか。せっかく買った茉希への誕生日プレゼントも、どうやらもう渡せそうにない。自分の間の悪さに嫌気がさす。俺はいつもみんなに迷惑かけてばっかりだ。

 パラパラという音と共に、空に舞い上がった赤い光の粒が夜空に消えていく。

「あの、さ……もしよかったら、これ貰ってくれない?」

 そう言って俺は、鞄の中にしまっていたその小さな紙袋を手渡す。彼女はきょとんとした面持ちで、その袋を自分の手の平に乗せて眺める。

「……ベビーカステラですか?」

「違うよ!どう考えても袋の種類もサイズも違うじゃん!」

「ふふ、冗談です」

 花火の光で、お互いの顔が何色にも照らされる。いたずらに成功した子供のような屈託のない笑顔。この子、こういう表情も出来るんだな。

「開けていいですか?」

「……いや、開けないで」

「え?」

 俺の顔を二度見する。

「ごめん、それを今開けちゃうと、俺多分面倒なことになるから」

 花火の後に話がしたいと言った茉希を、本意ではないとはいえすっぽかしてしまう。花火が終わるその時が近づくにつれて、その罪悪感は増した。それだったらいっそ、全てリセットした方が良いように思った。

「……もしかして、失恋しました?」

「え?」

 不意を打つその言葉に、俺は驚いて目を丸くする。

「いや、特に理由があるわけではないんですけど、そうなのかなって私が勝手に思っただけです」

 俺は知らないうちに失恋というものを経験していたのだろうか。告白もしていないのに?失恋って、こんなあっさりとしたものなの?というか、誰に?

 でも、そう言われて、否定も肯定もできない自分に気が付く。

「……実は、私も少し前に失恋したばかりなので、なんとなく分かるんです。だから、私みたいだなって思っちゃいました」

「え?そうなの?」

「はい。告白はしてないんですけど、その先輩に彼女が出来ちゃって。だから、私は諦めざるを得なかったんです。その人と私との表面上の関係性は何一つ変わっていないのに、それこそに一番悔いが残っているんだから不思議です」

 大きな音とともに闇夜に表れた白いしだれ花火の柳が、空気と溶け合って消えていく。

「でも、今日この花火のおかげで、一歩前に進めました」

 彼女は立ち上がって、俺の前に立つ。……過去形?まあよく分からないけど、前向きに進めるなら何よりだ。

「私、頑張ろうと思います」

「うん……俺なんかが言うのもなんだけど、きっと見てくれてる人はいると思うよ」

「はい。そうだと私も嬉しいです……お互い頑張りましょう」

 屈託のないその笑顔は、皮肉にも俺と対照的だった。

「またどこかで会えるといいですね」

「あ……うん、そうだね」

 俯くように小さく頷き、相槌以下の返事をする。風鈴にも似た彼女の涼しげなその声は、脳内には届いていなかった。


 そこからどうやって彼女と別れたか、もう俺は覚えていない。そのとき俺の頭の中は、茉希に対する罪悪感で埋め尽くされていたから。

 ただ一つ、茉希を想って買った髪留めは、あの女の子に渡ったという事実だけを残して。


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 そんな1年前の花火と、名前も聞かなかった女の子との出会いを、俺はようやく思い出した。

 水沢愛莉との、本当の初対面を。

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