第三章 入水(ジュスイ)  7 優梨

「あ、大城さん、河原さん。今日はお見舞いに来てくれる人が多いね」

 千里は咄嗟に涙を拭って応対する。その顔は意外にも晴れやかで、心なしか美しかった。

 お見舞客が多いというのは、その前にも居たということだろうか。おそらく五百里が言っていたように高校の友達が来ていたのだろう。

「思ったより、元気そうね」率直な感想を優梨は述べた。

「おかげさまで」千里は短く答える。

「腕は大丈夫なの?」

「それについてもおかげさまで」

「ちょっと見せてもらっても良いかな」と優梨は言って、千里の腕を観察する。

「え?」千里は一瞬たじろいだ。

 千里の左手首にはリストバンドが巻かれていた。患者確認用のリストバンドである。そこには『桃原千里』という名前と患者IDおよびバーコードの他に『O Rh+』という文字列が付記されていた。

 さらにはリストバンドの下には、古傷と思われる赤い線が走っていた。思わず優梨は心を痛めた。

「腕は大丈夫そうね」と言って、優梨は作り笑顔でお茶を濁した。

「大丈夫だよ。だってレントゲンでチェックしてもらったんだから」不審そうな顔を千里は見せた。隣に居る陽花も怪訝な表情を見せていた。

「それは良かった……」

 しばらく、気まずい沈黙が流れた。陽花もどう切り出したら良いのか分からずバツが悪そうな様子だ。

「今回はごめんなさい」優梨は唐突に謝った。

「何で、大城さんが謝るの?」

「だって、意図したわけではなくても、私の言動がきっかけで、あなたは死を選ぼうとした。もし日比野くんたちが助けなかったら、あなたは本当にこの世を去っていた。罪悪感を感じないわけないじゃない!」優梨は訴えた。

「でも、あなたが悪いわけじゃない。あなたは私と正々堂々と勝負を受けて立って、勝った。それだけ。悪いのは私。それで罪悪感にさいなまれているなら、私の方こそ謝るべきだわ。ごめんなさい」

 千里は発言こそ謝ってはいるものの、その口調や態度から強がっているように見受けられた。

「それでも、ごめんなさい」

「だから、何で謝るの?」千里は眉をひそめる。

 それには理由があった。千里にはリストカットの傷があった。これは日比野が言うように自殺企図があったのだ。それを見抜けずに、自殺衝動に駆り立てさせたのは、紛れもなく自分が軽率だったと、優梨は思わざるを得なかった。

 しかも、日比野は前々から、千里に対しては感情的にはならないように、と釘を刺していたにも関わらずに、だ。

 あと、もう一点。確信を持って言える。千里はやはり義郎の遺伝子を継承していない。つまり異母姉妹ではない。ごくごく簡単な理由だ。千里がO型だからだ。それはリストバンドに記載されていたからだ。入院する患者には血液型検査をルーティンで行っているのだろう。

 義郎はAB型である。千里の母、五百里の血液型が何型であっても、O型の子供は生まれない。なお、優梨はAB型である。

 これは、優梨はまったく悪くないことだが、幼稚園で千里と同じクラスであったときに、主役のシンデレラ役を(千里の言葉を借りれば)奪ってしまったこと。それ以降、五百里が過剰に優梨を意識するようになった。五百里はきっとこれまで、千里が義郎と五百里の子供だと思い込み、単なる環境の差で、娘が優梨に劣ってしまっている、と感じ始めた所以ゆえんであるのだ。優梨と千里を取り巻く境遇の格差に嘆いたのだ。つまり五百里、そして千里も、優梨に甚だしいコンプレックスを感じながら生きてきたわけである。

 優梨は悪くないし、義郎も悪くないとは言え、やはり気分のいいものではない。もし異母姉妹であるという事実誤認にとらわれて、コンプレックスを感じながら生きているのなら、解放してあげたい。しかしその役割を、優梨がやって良いものかは疑問が残る。本当は千里の母である五百里の役割だと思うからだ。

「ところで、この先も千種進学ゼミに通うの?」どうして謝るのかという千里の質問を無視して、新しい質問を投げかけた。

「まさか。私はイメージダウンさせた張本人だから、もう居させてもらうことはできないよ」

「そっか……勝った私が言うのもなんだけど、あなたとの論理クイズの一騎打ち、楽しかったよ」

「それはあなたが勝者だからだよ」

「もし私が桃原さんに負けていたとしても、同じセリフを言っていたと思う」

「本当かな。私は生来、洞察力や勘がものすごく働くの。予知能力があるんじゃないかと思うくらいにね。まぁ、論理クイズのときにはそれが発揮されなかったけど。だから、私の鋭い勘からすればそれは嘘だよ。でも私を勇気づけるために言ってくれていることは嬉しいよ。ありがとう」

 発言こそ素直ではないが、千里は感謝を意を伝えた。

「こちらこそありがとう」

 優梨は自然に右手を差し出した。少しだけ躊躇ためらいながらも千里も右手を差し出して、握手で応じた。千里は微笑みを浮かべていた。

「大城さん、一つだけ良い? ちなみに河原さんにもだけど」

「えっ、何かな?」優梨と陽花はほぼ同時に声を出した。

「信じていないかもしれないけど、私の勘って、本当に良く当たるんだ。で、大城さんと、河原さんに関することで、私のセンサーがビンビンと鳴っているんだけど……聞きたい?」千里はにこやかに言う。

「えっ、何何? 良い話? 悪い話?」優梨は気になってしまって仕方がない。

「そこまで言われちゃ、気になっちゃって聞かずにはいられないじゃない」静かにしていた陽花もたまらず言った。

「悪い話ではないと思うけど?」

「え、教えてよぉ」陽花が身を乗り出してくる。

「あくまで私の勘だから、外れてしまっても文句を言わないようにね」

「うん、分かってるって」

「たぶん、来年の夏あたりに、大城さんと河原さんにそれぞれ素敵な出会いがあるような気がするの。しかもどういうわけだか、そのお相手はそれぞれ、私が知っている人」

「えっ? 嘘? 誰それ?」陽花は動揺を見せている。

「何それ? やけに具体的じゃない?」優梨もにわかに信じられなかった。

「だから私の勘だよ。誰って言っても、あなたたちはまだ知らない人よ。名前を言ったところで分からないと思うよ」

「そ、そうなの?」

「何だか、馬が合いそうな気がするんだよね。彼らのバカ正直なほどまっすぐな性格と、あなたたちが」

「それって褒めてるの?」眉を顰めながら陽花が問うた。

「私なりの最大限の褒め言葉と受け取ってちょうだい」

「なるほどね」優梨はクスッと微笑した。


 そのあと、幾許いくばくか、たわいもない話を続けた。

 千里は精神的に傷を負ってはいるが、それでも所詮は優梨たちと同じ、今どきの女子高生である。ある程度心を許してしまえば、女子トークに花を咲かせることが出来る。

 優梨と陽花は千里に別れを告げて、病室を後にした。

 陽花が問いかける。

「そういえばさ、さっき桃原さんのお母さんと話していた内容だけど……」

 やはり陽花も気になっていたようだ。

 優梨と千里が異母姉妹ではないと考える根拠がそこにあったことを伝えると、陽花はひどく驚いていた。

「えっ? たったあれだけのやり取りの中で、それに勘付いたの?」

「まぁね。ってか、私七月生まれで学年の中でも誕生日早い方だし、あれからずっと疑問に思ってたんだよね」

「じゃあ、今日のお見舞い来たのも……」

「うん。半分は、その真偽を確認すること」

「そうだったのね。さすがだわ、優梨」

「そして、桃原さんの血液型見て確信したよ。私のお父さんがAB型で彼女がO型だから絶対あり得ない」

「えっ、でもこないだ、千種進学ゼミの講義で、先生言ってなかったっけ? ABO式の血液型の遺伝の法則に従わない場合があるって……」

「それはかなり特殊なケースでしょ?」優梨は即座に否定する。

「えっと、何だっけ? 何か爆弾みたいな、竹みたいな名前」

「そうそう、インドみたいな黒猫の品種みたいな名前」

「あの子がそれってことは……」

「まさか? ないよ。ないない!」

 陽花と優梨は、病院のエントランスのアトリウムのベンチで談笑した。


 そして、千里の予言したとおり、一年後の夏に、優梨と陽花はある男子高校生と知り合うことになる。しかも、かなり衝撃的な形で新たなる事件を生むことなど、この時はまったく知る由もなかった。


 後日、いつも通り千種進学ゼミに行くと、そこには千里の姿はなかった。最初は入院しているから当たり前なのだが、日比野から退院したと聞いた後も、結局姿を見せなかった。

 優梨や陽花、日比野、それに宮田先生たちを大いに巻き込んだ千里であったが、それでも急に居なくなると、寂しさを感じてしまうものだ。


 夏休みの直前、一学期最後の通常講義の日。

 講義が終わって、いつも通り陽花と帰宅しようとすると、日比野が優梨を呼び止めてきた。

「大城さん、ちょっといいかな」

「何? どうしたの?」

「あ、河原さんとこれから帰るところだったか?」

「いいよ。時間はあるから……」

 そのように言うと、「じゃあ、今日はちょっと急いでるから先帰るね」と陽花は手を振って帰っていった。

「うん、ごめんね、じゃあね」

「すまん……」日比野は陽花と優梨に謝った。

「大丈夫だよ。私たちは夏期講習も一緒に取ってるから」

「そう言ってくれると助かる。一応夏休み入っちゃう前に伝えたいことがあって。しかもそんなに大それた話でもないんだけど」と言って、日比野は一度咳払いする。

「何かな?」

「大城さん、まだ志望校決めていないって言っていたよな」

「うん、まだ考え中だよ」

「是非とも、医学部を狙って欲しいんだ」

「それは、お父さんにも言われたりするけど、自分ではまだ決意が……」

 優梨は、なぜ日比野がそのような提案をするのか疑問に思いながら答えた。

「もちろん、強制じゃないし、俺が強制する権利もないからな。嫌なら嫌で無視してもらえば良い。ただ、一度、意図していないとは言え、一人のクラスメイトがああなってしまうところまで、結果的になってしまった。もちろん、それは君のせいじゃないけど、もし少しでも罪悪感を感じているなら、その罪滅ぼしは医者になって、一人でも多くの人を救うことだと思う」

「……」

「余計なお世話な話かもしれない。でも、大城さんには医師になれるだけの充分な頭脳がある。まだ、明確な夢を持っていないのなら、半分は俺の願望でもあるんだけど、医学部を目指して欲しい」

「急には決められないよ」

「早計に決めることじゃないよ。でもこれだけは伝えたい。能力を持った者は、その能力を行使する責務があると思うんだ。世の中には、医師になりたくてもなれない人はいっぱいいる。入れても四浪、五浪くらいしてやっと入れる者もいる。何しろ最難関の学部だからな。しかも受かったところで国家試験に合格できない者もいる。しかし、君には優秀な医師に適った頭脳を持っていると思うし、人格的な適性も兼ね備えている」

「何で人格的な適性も兼ね備えているって言えるの? 私、すぐ感情的になる悪い奴かもしれないじゃない」

「それはな、君が桃原さんのところにお見舞いに行って謝ったって聞いたからだ」

「え?」優梨は日比野の発言が意外で、内心驚いた。

「しかも、異母姉妹ではないという状況証拠を提示して、桃原さんのお母さんにそのことを伝えてもらうようにしたそうじゃないか。桃原さんが大城さんと同じ遺伝子を受け継いでいるっていう呪縛から逃れさせるために」

「……買い被ってる」と、静かに優梨は呟いた。

「そっか。でも大城さんならそうするだろうなって、俺思ってたよ。だから医師になるための人間的な資質を君は持っていると思う」

「ありがとう……ちょっとは自信がついたわ」

「出過ぎたことを言ってごめん」日比野は謝った。


 それから優梨は、医学部を目指すことに決めた。

 と言っても、学力は非常に優秀なので、大学受験の勉強についてはこれまで通りで良い。その勉強の間に父の書斎から医学書籍を漁って読んだり、インターネットで調べたりした。

 取りあえず、興味のあるところと言えば、精神科領域だ。父は元整形外科、現在は救急科の医師であるので、精神科の書物は多くはないが、数冊あったので、手始めに読んでみたりしている。


 優梨は未熟だ。

 勉強はできても、まだ十六歳になったばかりの少女である。人格的にはまだまだ高校生そのものである。

 しかし今回の一件でちょっとだけ人間的に成長できたのだろうか。自分本位だったところから多少人を思い遣れるようになったのだろうか。優梨自身にはよく分からない。

 日比野は、優梨のことを医師の資質を持っていると言う。

「能力を持った者は、その能力を行使する責務があると思うんだ」

 この言葉が優梨の胸にずっと響いていた。良い言葉だ。日比野も医学部志望だと以前聞いたことがあるが、彼もきっと良い医者になることであろう。

 私が、誰かに求められていることがそういうことであれば、それに徹したい。誰かに必要とされることとはこの上ない幸せだと思う。二度と、自殺企図なんて起こさせないような、もっと言えば生き方に迷った人たちに道を差し伸べられられるような、そんな一助になれれば本望だ。

 誰かに希求されているから医師になる。これだけ聞くと消極的で受動的な理由に聞こえるかもしれない。しかし、優梨の中でそれはもうただのきっかけであり、今や積極的で能動的な理由になっていた。純粋に困っている人を助けたい。困っている人に必要とされる医師となりたい。

 これから夏休みに向かう。

 学校の授業は一度これでお休みになり、必然的に心が浮かれる季節だ。しかし、目標ができた優梨は、違う意味で心が浮かれていた。この成績を維持できるように勉学にいそしみ、そして無事に医師になるのだと、優梨は固く心に誓って前に歩み始めた。


(了)

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慧眼の少女(けいがんのしょうじょ) 銀鏡 怜尚 @Deep-scarlet

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