第三章 入水(ジュスイ) 6 優梨
飛び込み自殺未遂騒動明けの月曜日。
陽花と優梨は、千里が入院しているという市立千種総合病院に向かった。
もちろん意図していなかったものの、おそらくは優梨の発言と平手打ちが、自殺へのトリガーになってしまったのだろう。間接的とは言え、結果的には自殺教唆に近い形になってしまったのだ。もし本当に死んでしまっていたら、優梨の心の傷は一生癒えないものになっていたであろう。
日比野と、彼の呼びかけによって集まって千里を救命した数名の男子生徒たちに、心から感謝していた。
しかしいくら命が助かったとは言え、優梨の言動によってあのような行為に至ったことは揺るぎない真実だ。否が応でも千里に会って話をしなければならない。
学校帰りに、親友の陽花に付いてきてもらい、入院しているという病室に向かった。何号室かは日比野から教えてもらっている。
最近改修工事でもなされたのか、病院の建物は比較的綺麗な造りであった。優梨自身は父がセンター長を務める大城医療総合センターにしか行く機会がないので、他の病院に行くのは新鮮な気分であった。
病棟に入ると、廊下の突き当たりの部屋から出てきた、一人の四十歳くらいと思しき女性が歩いてきた。病院職員には見えない。四十歳というのはその女性の纏う落ち着いた雰囲気から察したものであり、顔立ちは極めて整った美しい淑女であった。
優梨はその女性が千里の母のような気がした。と言うのも、その女性が出てきた部屋番号が、日比野から教えてもらっていた千里の入院する病室の番号だったからだ。
そんなことを考えながら、思わずその女性を見てみると、向こうも何か気付いたように優梨たちに声を駆けてきた。
「あの、ひょっとして、あなた大城優梨さんかしら?」
優梨は驚いた。その女性は優梨の顔を見ただけで名前を言い当てた。優梨はその女性にはじめて会ったのに。
「そうですが。えっと、ひょっとして……」
「
やはり千里の母親だった。
「あ、こんにちは。はじめまして」優梨は少し慌てて頭を下げた。
「優梨、あ、大城さんの友人の河原です」と、同じように陽花も挨拶をする。
「ちょうどね、今、千里の高校のお友達が入ってきちゃったんだ。もしお時間があるなら、こんなところで立ち話もなんだから、病棟の外のソファーで話でもしない?」
「はい」
優梨はどこか気まずい話になりそうだな、と思いつつも、ひとつ頷いた。
病棟の外と言っても、その入り口付近に真新しいソファーやテーブルが配置されたエリアがあった。ウォーターサーバーまで用意されている。そこに、千里の母、陽花、優梨の三人は腰掛けた。
「改めて、千里の母の
目前の女性は『五百里』と名乗った。義郎からあのとき聞かされた名前だ。しかしあくまで、姓は『
「こちらこそ、すみませんでした」
今回の騒動は優梨にもいくぶん非があると思っている。と言うのも、日比野に感情的な接し方をしては大変なことになるかもしれないと、釘を刺されていたのにも関わらず、千里の言動に逆上してしまったからだ。五百里がどこまで聞いているのか分からないが、取りあえずお詫びをした。でも、優梨は五百里に訊きたいことはいろいろあった。
「ところで、私のことをご存知なんですか?」優梨はおそるおそる聞いてみた。
「ええ。千里から、いつもあなたのことを聞かされていたわ。予備校にすごく美人でめちゃめちゃ頭の良い生徒がいる、ってね。千種進学ゼミの広告を飾ってるって、その写真まで見せてきて、この子のようになりたい、ってよく言ってたわ」
「そうなんですか」
と、表面上は納得しつつも、たぶん違うと思った。五百里は義郎と以前関係を持っていた女性だ。さらには母の元職場の同僚でもある。優梨の存在は娘の千里から聞かされていたかもしれないが、五百里は、優梨の顔に義郎と母、祥子の面影を見出したに違いない。そんな憶測が渦巻いていた。
そのあと、五百里とあまり意味のない世間話や、千里の話などを聞かされた。そして、ある核心に迫るキーワードを聞いた。
千里(五百里はあくまで『ちさと』と呼んでいたが)は、母の『五百里』という名に因んで名付けられたようだが、一方で七草粥を食べる時期に生まれたということで、春の七草の一つ『せり』から『千里』という漢字をあてたと言う。
七草粥と言えば人日の節句、つまり一月七日である。五百里の情報が正しければ、そのあたりが千里の誕生日だ。
そして五百里も同じことを考えたのだろうか。優梨に質問をしてきた。
「ちなみに、あなたは何月生まれなの?」
「私は七月一日生まれです」
「あら、そうなの」
この際、月と日の数字がひっくり返っているという偶然などどうでも良かった。問題は生まれ月である。
千里の証言から考察する。不妊治療専門クリニックで義郎から採取した精子をこっそりと五百里の膣内に注入したのなら、千里の方が誕生日は先になるはずだ。一般的に、精子の寿命は二日から数日と言われている。もし千里が義郎の遺伝子を継承しているのなら、そのとき五百里の排卵日が近くであり、採精した直後に注入していなければならない。もちろん液体窒素で精子を凍結すれば、精子バンクと言って二十年経過しても受精能力はあるが、まさかそんな特殊なこともないだろう。
しかし、実際は優梨の方が誕生日は早い。採取した義郎の精液で五百里が妊娠し、且つ不妊治療であれこれ試行錯誤の末にやっと祥子が妊娠したのなら、普通に考えて優梨の方が誕生日は後になるか、せめて同時期になるはずだ。
千里は義郎の娘ではなく、れっきとした実の元父親の娘だと、示唆される。優梨と顔が似通っているのはまったくの偶然である。もともと顔が整っていれば、自ずと顔立ちも似通うものかもしれない、と頭の中で優梨は結論を出した。
そして、その事実に五百里も気が付いたのかもしれない。長年勘違いしていた事実に気が付いたようにも受け取れる。
「ありがとう、じゃあ私はこのあたりで一旦失礼しようかな」五百里は立ち去ろうとする。
優梨は若干慌てた。どうしても言わなくてはならない言葉を、五百里に伝えたい。
「あの、もし今の会話に意図があって、それで何かを察されたのなら、正確な情報を千里さんに伝えて頂けると嬉しいです。それはお母さんから言った方が良いと思って」
「そうだね。考えておきます」五百里は静かに言った。
「差し出がましいことを申しまして、すみません」と、優梨は頭を下げた。陽花も後に続く。
病室に入ると、お見舞いにきていたと言う高校の友達は帰っていったのか、もうすでにいなかった。
「桃原さん、こんにちは」
千里は、なぜか両目にうっすらと涙を浮かべていた。
病室内のテーブルに美味しそうな赤い林檎が置かれていた。
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