第三章 入水(ジュスイ)  5 風岡

 後日風岡は、桃原千里が入院したとの連絡を受けた。

 場所は千種区内の市立の総合病院だ。『千種総合病院』というらしい。

 日比野から聞いた所在地によると、おそらく千里が住んでいるだろう覚王山から、ほど近いようだ。

 日比野から聞いた話によると、腕の外傷自体は大したことはないらしい。ちゅう関節かんせつだっきゅうと言って、肘の関節が外れることを指すのだが、その応急処置は見事に夕夜の手によってなされていたらしい。しかし大したことはないと言っても、骨折も否定はできない。結果的にレントゲンでも骨折していなかったという話だ。

 しかし、彼女は入院している。これは千里自身が精神的に憔悴しきっていて、とても帰宅できる状態ではなかったためである。自殺しようとしてそれを助けられたのだから無理もなかった。心の安静を取り戻すための入院だった。


 自殺未遂の騒動があってから二日後のこれから夏真っ盛りの暑い日。

 まだ彼女の情緒は安定いないかもしれないが、何となく居ても立ってもいられなくなった。彼女の家庭環境や性格から考えて、ひょっとしてかなり孤独なのではないかという可能性に行き着き、自分でもお節介だなと思いつつも千里の入院している病院へとおもむいた。その日は月曜日であった。ラグビー部を退部して暇になったので、学校帰りにお見舞いに行ったのだ。一人で行っても良かったのだが、影浦瑛に声をかけると「一緒に行くよ」と言ってくれた。

 影浦のその左腕は、例によって内出血で腫れていた。千里を救助した際の後遺症だろう。本人は痛くはないと言う。骨折しているというわけでなくて、おそらく腫れやすい体質なのだろう。医学的知識に造詣の深くない風岡はそう解釈した。

 地下鉄東山線の沿線であり、通学の定期券の区間であったため、お金を払うことなく行くことができた。

 覚王山駅の近くのスーパーマーケットで買ったりんを持っていった。聖飢魔Ⅱのミサの映像を観た影響で、『紅玉』をついつい探してしまうが、見付からなかったので『ふじ』にした。


 千里は、病棟の個室に入院していた。

 季節は夏だが、風が薫り、窓から入り込む空気は温かく穏やかだ。

 個室内には母親と思しき女性がいた。いや、千里には兄弟姉妹がいるとは聞いていないので、状況からして母親しか考えられないが、高校生の娘がいるようにはまったく見えないほどの、美しい女性であった。

「こんにちは。この度は娘がご迷惑をおかけしました」と女性は深々と頭を下げて礼を言った。

「あ、いえ。とんでもないです。ご無事で何よりです」

 やはり母親であった。この人が、千里の成績に厳しい人なのだろうか。一見物腰は穏やかそうだが。

さと、何かゼリーとかプリンとか、欲しいもの買ってこようか?」

「ありがとう。お母さん」千里は小さく答えた。

 千里の母は、クラスメイト同士の会話をしやすい雰囲気にするために、敢えて理由を作って出て行ったのだろう。

「お母さん、綺麗な人だな。優しそうだし」

「そんなことないって。お母さん、外面そとづらだけは良いんだから」

 風岡の素直な感想に、千里は不景気な顔で答える。

「まあ、そんな顔しなさんな。せっかくの美人がもったいない」

「何よ、約一ヶ月間、目すら合わせなかったくせに」

「それはだな。俺の停学処分の件があったから、話しかけにくいだろう?」

「そんなことないわよ」

「そんなことあるよ」

「ないわよ」

 これでは水掛け論になりそうだ。もうこの話題はやめよう。

「今更こんな話をしちゃいけないかもしれないけど、何で飛び降りようとしたの?」

 影浦瑛は、風岡の訊きにくかった質問を、意外にもさらりと訊いた。

「……」

「ひょっとして、目標にしていた女子生徒に敗れたのかな?」

 風岡は、影浦の単刀直入な質問に、思わずたじろいだ。

「……そうよ。ある一問の論理パズルに負けたのよ。あなた、いや夕夜くんの力を借りられなかったおかげでね」

「夕夜の力でも何とかなる保証はないよ」

「でも、私は夕夜くんの能力を借りたかった。最初はあの子が不正をしただなんて負け惜しみしたけど、分かってた。あの子に不自然な動きなんてなかった。複雑な解説に一切のよどみはなかった。ガチの実力勝負に負けた。私だけの力では勝てないのよ。あなたの力ももし借りられていたら、たとえクラスメイトの面前で負けてももうちょっとスッキリしていたかもしれない」

 千里はあくまでも夕夜の頭脳に拘泥こうでいしていた。

「その勝負は大事な勝負だったかもしれないけど、今でも大事な勝負だったのかな?」

「何よく分からないこと言ってるの? 私の中では人生を賭けるくらい大切だったのよ」

「そっか。でも正々堂々負けてスッキリしたんじゃない?」

「何よ。悔しかったに決まってるでしょ?」千里はしきりに反論する。

「悔しいだろうけど。自分の実力を発揮してまっすぐぶつかって負けた。少し自分の中でストレスが緩和したんじゃない?」

「え?」

「勝つことに自分の中で強い使命感とプレッシャーを感じていたかもしれないけど、正々堂々戦って負けたんだ。負けることは悔しいことだけど、まったく恥ずべきことじゃない。負けたからと言って劣ってることにはならない。しかも、最初は自分なんて生きる必要なんてないって思ったかもしれないけど、こうやって見舞いにきてくれる人もいる。お母さんだって優しくしてくれている。桃原さんを心配している人だっているんだ」

「……」

「だから、もう死ぬなんてバカな選択はよせ! この野郎!」

 瑛らしくない発言に風岡は驚いた。千里も目を丸くする。

「……夕夜ならこう言うんじゃないかな?」

「ビックリしたよ。影浦くんの発言が急に乱暴になったからさ」

「僕は、桃原さんと同じくらい弱い人間だから、こんなたくを並べられるほど偉そうな人間じゃないよ。これまで言ったことも、ほとんどは僕の中に居る夕夜の発言の受け売りなんだけどね。でも夕夜自身は滅多なことがない限り表に出てこないさ」瑛は微笑んだ。

「そうなんだ。残念。ああ、私にも弱い自分を支えてくれるイマジナリーフレンドが居たらな」

「居たら居たで、かなり鬱陶うっとうしいもんだよ。僕なんていつも夕夜に全否定されてばかりなんだから」

「そうなんだ。それも厄介だね」

 千里は、どこか諦観ともとれる晴れやかな表情を見せていた。


 しばしの沈黙の後、出し抜けに千里は話を切り出した。

「あの、私ね、学校変わろうと思ってるの」

 思いがけない告白に、風岡は動揺する。

「えっ、何で変わるの?」驚きのあまり風岡は尋ねざるを得なかった。

「表向きは、学力が高いのに、今の高校ではその能力を十分に発揮できないという理由。でも本音を言えば、今までの自分をここでリセットしたいからという理由。嫌味に聞こえたかな」

「別に嫌味ではないけどな……」

 成績の芳しくない風岡にとって嫌味に聞こえないと言ったら嘘にはなるが、それよりも千里が学校からいなくなるということに一抹の寂しさを感じてしまった。千里の計略にはまりそうになり、一ヶ月間険悪な雰囲気のまま過ごした仲にも関わらず、いざ離ればなれになろうものなら寂寥感や喪失感に襲われるとは、皮肉なものである。

「でもそんなに簡単に変われるものなの?」今度は影浦が質問する。

「公立高校って欠員募集が出れば、変われるみたい。だって親が遠くに引っ越した場合だって転校の理由になるでしょ?」

「そ、そうだけどね」

「影浦くんこそ、頭良いんだから、学校変わった方が良いよ」と、今度は千里が提案してきた。

「僕は児童養護施設で、高校に行かせてもらっている身だから、贅沢は言えないよ。しかも風岡くんがいるからね。転校する理由なんてどこにもないよ」

「そっか。いっそのこと一緒に偏差値の高い高校に転校して、また止社高校のよしみで影浦くんとタッグを組もうと思ったけど無理か……」

「あれ、今までの自分をリセットするんじゃなかったの?」

「そうなんだけど、私、向学心は変わらず高いんだから」

「まあ、リセットとか言わず、また何か困ったこととか寂しいことがあれば、いつでも止社のクラスメイトに連絡を取ればいいよ」

「……」

「お前は、決して一人じゃないんだからさ」今度は風岡が言った。

「そんな綺麗事なんか通じないよ……」千里は窓の外を見ながら弱々しく言った。風岡たちへ顔を背けたので分からないが、泣いているようにも見えた。


 それなりに長い時間が経過したように思える。千里の母は、気を遣ってかまだ帰って来ていないようだ。

「そろそろ、おいとまするか。お母さんには一言伝えておいた方が良いのかな」

「いいよ。別に」

「じゃあよろしく伝えといてください。じゃあまたな」

 風岡はそう告げて、影浦とともに病室を辞去しようとした。

「……ありがとうね、今日」

 千里は小さい声で言った。風岡が振り向くと、千里は涙を両目に浮かべているようだった。窓からのそよ風でなびいた蘇芳色の髪と、淡い光に照らされた千里の顔は、息を呑むほどに美しく、艶やかであった。

「……ああ、こちらこそな。顔が見れて良かったよ」そう言いながらも風岡は千里の顔を直視できなかった。これ以上見てしまうと、余計に別れが名残惜しく感じられるような気がしたからだ。

「おかげさまで。ちょっとは気楽になったよ」千里は最後の最後に元気な声を出してくれた。

「元気に退院しろよ、じゃあな!」

 風岡と影浦は手を振って病棟を後にした。


「思ったより元気だったね」

「ああ」

 影浦瑛はそのように言うが、風岡に言わせれば、瑛が千里を勇気づけたのだと思っている。本当に瑛という男はどこまでお人好しなのか。風岡は夕夜も含めて、影浦という男を改めて見直している。

 風岡は、ある疑問を口にした。

「影浦は、千里が自殺を図ることを予期していたのか?」

「予期まではしていないけど、兆候はあったと思う。手首にリストカットの傷もあったし、たぶんだけど境界性パーソナリティー障害かなって」

「境界性パーソナリティー障害?」

「簡単に言うと気分の波が激しく感情が不安定になったり、強いイライラ感が抑えきれなくなったり、好きだった人を些細なことで毛嫌いしたり、衝動的行動を取ったり……そう言う人は自殺企図があることがあるんだよ」

「影浦が診断したのか?」

「あ、いや、足達先生にこの前ちらっと話したら、そう言ってたんだよ」

「そっか」

 そう言いながらも、おそらく瑛自身がそのように分析していたんだろう。瑛は謙遜する性格だから、きっとそうだ。


 本人が言ったように、この後千里は、高校を転校することになる。どこの高校か分からない。母親と一緒に県外に引っ越したという噂もあるが、詳細は分からない。何の挨拶もなしに去っていった千里に、寂しさを感じるも、どこかで元気なリスタートが切れていることを切に願った。

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