第三章 入水(ジュスイ) 4 陽花
日比野は急いで教室を出て行った。
訳が分からなかったが、取りあえず日比野の携帯電話の履歴を辿る。彼の電話はスマートフォンではなく『ガラパゴスケータイ』と呼ばれる携帯電話であった。
操作は慣れていないが、手探りで発信履歴の画面を呼び出した。
発信履歴のいちばん上には『ヒサシ』と書かれていた。知らない名前だ。
とにかく言われるがままに電話をかけてみる。
『もしもし?』
「あ、えっと、あのー」
『どちらさまでしょうか?』相手は訝しげな声を上げる。当然だ。日比野の携帯電話で発信しているのだから。
「桃原さんという子が今外に出てって、日比野くんが電話してくれって」
『桃原はどちらにいます?』
やはり相手は千里の知り合いらしい。
「北側の非常階段の方に向かって行きました。たぶん階段を駆け下りてるんだと」
『了解。ありがとう!』
そう言って相手は電話を切った。どこかで聞いたことのあるような声だと思ったが、今はそんなことどうでも良かった。
「優梨、アタシたちも後を追おう」
先ほど、陽花が発した言葉がショックだったのか、優梨は虚脱したような様子であった。
「優梨!」
すると我に返ったように、優梨が応答する。
「あ、う、うん。追いかけなきゃ!」
外に張り出した鉄製の廊下に出ると、千里はもうすでにそのとき非常階段のはるか下方にいた。
それを日比野が追いかけている。
日比野が大きな声で千里を止めようとしていた。二人ともおそらく全速力に近いスピードで、ジグザグ状の階段を駆け下りている。
その鬼気迫る状況を目にして、はじめて日比野の発言が真実味を帯びてきたような気がした。
「ヤバい。あの子は本気かもしれない……」思わず陽花は呟いていた。
千種進学ゼミは思えば、この鉄製の廊下も外の非常階段も、厳重に鉄の柵が幾重にも張り巡らされている。飛び降り自殺防止の柵なのかもしれない。受験に落ちて絶望的になった生徒が予備校で自殺しないようにしているのだろうか。予備校で自殺されるようなことがあれば評判は嫌でも落ちるからだろう、と今更ながらそんなことを考える。
となれば、自尽する場所は予備校の外か。車に轢かれるか、線路に飛び込むか。
そのとき跨線橋の欄干に赤毛の女子が乗り出しているのが見えた。
「キャアッ! 危ない!」
隣の優梨がそう叫んだには遅かった。
電車に吸い込まれるように、身を投げるその女子は、千里以外の何者でもなかった。思わず、陽花は目を背けた。
五秒ほどして、ゆっくりと顔を元に戻し、目を開ける。
何と、赤毛の女子は欄干からぶら下がっている状態だった。正確にはロープか何かに一人の男がぶら下がり、千里の右前腕あたりを把持している。ロープを引き上げようともう二人の男が引っ張っているようだ。
そしてさらに何秒か後に、日比野が追いつき、加勢してロープにぶら下がった二人を引き上げようとしていた。
思わず、救出の一部始終を非常階段から優梨と二人で見てしまった。
あの男たちは誰なのだろうか。そのうちの一人は、おそらく日比野の携帯電話にあった『ヒサシ』という人物に違いないのだろうが、日比野に一人の女子を自殺から守るために、急遽駆け付けてくれる義理堅い友人が何人もいるのだろうと感心してしまった。自分にはそんな友達が一体何人いることだろうか。
優梨と陽花はそのまま非常階段を駆け下りて二階に降り、駅へと連絡する歩道橋を下りて跨線橋へと駆けて行った。
そのときには、すでに千里を救った男たちはおらず、日比野と千里だけになっていた。
千里は泣いている。そして右前腕を押さえている。
「救急車を呼んでくれないか。俺は携帯電話を置いてきてしまっているから」
「救急車!? どこか怪我したの!?」優梨が尋ねる。
「桃原さんを助けた男がそう言った。口調は荒々しかったが、発言はどこか真理をついているように思えた。桃原さんは腕を痛がっているようだ。ひょっとしたら骨折しているかもしれない」
遅れて宮田先生たちも下りてくる。
「先生、救急車をとにかく呼んで良いですか?」陽花が先生に許可を求める。
「あの、事情を説明してちょうだい?」
「あ、先生、桃原さんはかなり
陽花が119番を要請し、千種区内の病院に救急搬送されることになった。
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