第三章 入水(ジュスイ) 3 風岡
『もしもし、
それはまさしく唐突の電話だった。目の前には鵜飼がいる。
「そうだけど……どうしたんだ? 急に」電話の相手に訊き返した。
『桃原千里という子を知っているか?』風岡は一瞬耳を疑った。
「え? 桃原千里? 知ってるさ。しかも比較的よく……だな。クラスメイトだからな。五郎ちゃんこそ何で桃原を知ってるんだ? 俺が驚いたぞ」
衝撃だった。なぜ日比野がその名前を知っている。
『事情を説明している暇はないが、彼女には自殺企図がある』
「自殺企図って……自殺願望のことか?」風岡はそう言いながらも、訳が分からなかった。
『まあ、ざっくり言えばそんな感じだ。その自殺を場合によっちゃ今日この後図るかもしれない』
「えーっ!?」日比野はあまり冗談を言うタイプではないが、発言がにわかに信じられず、風岡は混乱する。
『それでな、実は千種進学ゼミに待機していて欲しいんだ。できれば悠の友達を連れて』
「千種進学ゼミって、予備校だろう? えっと千種だっけ? 名駅だっけ?」
『名駅にも校舎があるが、今回は千種の方だ』
「具体的にどこで待機すれば良いんだ」
『それは分からない。来てもらうだけ無駄になるかもしれない。でも来て待っていて欲しい。彼女が行動を起こしそうになったら電話をする。そうしたら阻止するよう説得して欲しい』
「分かった。でも、何があったんだ? これから自殺を図るかもしれないって」
『説明すると長くなりそうだ。実は今、試験監督中で教室を抜け出してきているんだ。これくらいで失礼する』
風岡には事情がまったく分からなかった。
日比野は同じ白鳥中学時代の友人だ。別々の高校に進学した今でも、ごくたまに電話をしている。先日は、解離性同一性障害の友人がいるという話題で、何か知っていることはないか訊いたりした。もちろん影浦という名前は伏せて、だ。日比野は、精神科疾患について造詣は深くなかったので、教えられることは何もないが、自分でも図書館などで調べてみると言ってくれた。日比野とはそれ以来の電話だった。
それが、なぜに急に、千里の自殺企図を阻止するのを協力してくれ、などという電話なのだろうか。話からして千里とは、予備校で繋がっているのかもしれない。千里は予備校でも問題行動を起こしているのだろうか。そして、今、試験監督中であることも謎である。千種進学ゼミというところは生徒に試験監督をさせる予備校なのか。意味不明だ。
話の道筋はあまり見えてこないが、自殺企図とは穏やかな話ではない。風岡はちょうど鵜飼と一緒にいた。金山のマクドナルドで、おやつ代わりのハンバーガーを食べながら、談笑していた。風岡はラグビー部を六月に退部して、暇を持て余していた。今日は土曜日で学校もないため、ラグビー部終わりの鵜飼を呼び出していた。しかも鵜飼とは家も比較的近いので、双方にとって近い金山駅付近で
「おいおい、何なんだ? 誰からなんだ? 桃原さんが自殺?」鵜飼も小声で訝しげな反応を示した。
「中学の友人からなんだけど、桃原のこと知ってるらしくて……自殺企図があるって……」
「嘘だろ? 何だよそれは?」
「俺もよく分からないけど、そういう嘘をつくような奴じゃない」
「そっか。お前が停学処分になったあと、桃原さんはどうなったんだ? お前も部活辞めちゃったし、あまり何も噂聞かなくなったよな」
「俺もあれから喋ってないからな。ってか喋りづらいし」
一か月ほど前、風岡は千里の謀略に乗せられ、直接的ではないにしろ、間接的に五日間の停学処分に処されたのだ。結果的に千里の陰謀は影浦と鵜飼の機転によって阻止されたが、その後彼女とはほぼ口を利かなくなった。
千里自身は平常どおり通学しているように見えたし、授業中も依然として秀才っぷりを披露していたが、その胸中は分からない。彼女は平静を装うのが上手そうだ。換言すれば、心の内は憂鬱にひどく
風岡は腰を上げた。
「千種進学ゼミだろう? 今から行くのか? 千種に」鵜飼は尋ねる。
「ああ、いくら悪戯みたいな電話でも、そんなことを聞いておいて放っておくわけにもいかないだろう」
「そうだよな? 風岡の性格からして」
「でも、その前にあいつを呼びたい」
「ひょっとして……」鵜飼はそう言うと、風岡はひとつ頷いた。
「影浦だ」
影浦は、今日はアルバイト中だろうか。マクドナルドの外に出て、取りあえず電話をかけてみる。数回のコール音が鳴り響き、繋がらないかと諦めかけた時に繋がった。
「おう、もしもし? 影浦、今バイト中か?」
『もしもしお疲れさま。あ、いや、バイトは今ちょうど終わって帰ってきたところだよ』
「そっか。悪いが今から大至急金山まで来れないか?」
『え? 僕はもう暇だから良いけど。どうしたの?』
「詳しいことは分からないけど、桃原がヤバいらしい。何か自殺の気があるって」
『そっか。そんな兆候は見せてたよね』
「えっ? 分かってたんか?」風岡は素直に驚く。影浦の洞察力も侮れない。
『まぁ何となくだけどね。取りあえず急いで金山に行くよ。金山のどこに行けば良い?』
「ありがとう! 金山総合駅側の地下鉄の改札でいいよ」
十分もしないうちに影浦が到着した。影浦の最寄りの駅が金山から二駅しか離れていない六番町駅なのですぐだ。影浦と、風岡と鵜飼が迎え入れる。
「悪いな。急に呼び出して。しろとり学園の方は大丈夫なのか?」
「それは大丈夫だよ。ちゃんと外出するって届け出たから。それよりも桃原さんを何とかしなきゃ」
「ありがとうな。影浦も桃原に思うところがあるだろうに」
「それとこれとは別だよ。そしてあの子の自殺企図はたぶん本当だと思うよ。なぜなら彼女も精神的な病気を患ってると思うから」影浦はきっぱりと言った。
「さすがだな」
「僕も精神疾患患者だから……」と言って、影浦は苦笑いする。
「そっか」風岡は若干リアクションに困った。
「それで桃原さんはどこなの?」
「千種だ」
「千種? 何でそんなところに……」
「予備校らしいんだ。千種進学ゼミって」
「ああ! 千種進学ゼミって、あの、広告に
風岡はピンと来なかったが、影浦が言うのならたぶんそうなのだろう。
「どうやって行く? JRが早いか?」隣にいた鵜飼が言う。
「JRでしょう。ここは」影浦にしては珍しく断言する。
「じゃあ、さっそく改札に向かおうか」風岡が上りエスカレーターへと足を運ぶと、鵜飼と影浦もついてきた。
「こんなものを持ってきたんだけど」影浦は鞄から太いロープを取り出した。
「何、これは?」
「ロープだよ。いや、何か人助けに使えるものはないかなって。適当に施設の倉庫の中を漁っていたら出てきたんだ」
「用意周到だな。使わなくて済むのなら良いんだけどな」
「そうだね」
金山駅から千種駅はJRを使うと早い。ものの五分くらいだ。いつの間にか到着していた。どこで待機していたら良いか分からない。千種進学ゼミは駅から近いが、三人とも校内には立ち入ったことがなかった。
改めて塾舎を見上げてみると、要塞のように巨大でどこか無機質な背の高い建物だった。十階建て以上はありそうだ。
「本当に来るのかな?」鵜飼が言う。
「分からない。俺も半信半疑だからな」風岡もそわそわして落ち着かなかった。
影浦は黙って建物やその周辺を見回している。
二十分以上は建物の周りをうろついたりして待機していたが、いっこうにアクションは起こらなかった。予備校生もちらほら見かけるだけであまり多くない。もう夕方だ。土曜日なので多くの生徒は帰ってしまったのかもしれない。
「やっぱり取り越し苦労だったのかな?」
「まぁ、これだけ待っていて何もないんだからな」
「じゃあ、その友達に電話して確認してみてくれるか」
鵜飼と風岡が安堵の声を漏らす。そのときであった。
「うわぁああああああぁあ──!!!」
建物の
「桃原だ!」
急いで声のする方へ走り出す。しかし建物は迷路のような構造で、行き止まりにぶつかったり同じところに戻ってしまったりで、思うように辿り着けない。
そのとき、風岡はポケットの中が振動しているかのような感覚を覚えた。ファントムヴァイブレーションシンドロームかとも思ったが、振動している感覚はいっこうに収まらない。と、同時に日比野が、桃原がアクションを起こしたら電話をすると言っていたことを思い出した。
風岡のスマートフォンは、やはり日比野からの着信を示すものであった。
「ちょっと先行ってて!」
そのように風岡は二人に伝えて、電話を取った。「もしもし?」
『あ、えっと、あのー』
女性の声だった。何が起こっているのか分からなかった。間違い電話か。いや確かにディスプレイの表示には日比野の名が表示されていた。一方でどこかで聞き覚えのある声のような気もした。
「どちらさまでしょうか?」若干
『桃原さんという子が今外に出てって、日比野くんが電話してくれって』
なるほど。この女性は日比野の予備校のクラスメイトか。そう察した。
「桃原はどちらにいます?」時間がとにかくないのでいきなり本題に入った。
『北側の非常階段の方に向かって行きました。たぶん階段を駆け下りてるんだと』
「了解。ありがとう!」
電話を切って、ちょっと先の方にいる鵜飼と影浦に伝えた。
「北側の非常階段を下りているらしい!」
「じゃあ、跨線橋ってとこか!? 行くぞ!」影浦の表情はいつの間にか『瑛』から『夕夜』のものになっていた。千里の
三人は跨線橋の方へと走って行った。先ほど乗ってきたJR中央線の線路を
いた。千里の姿を確認した。しかも橋の欄干に足を掛けようとしていた。
「やめろ!」と風岡の叫ぶ声は、空しくも傍を走るトラックのクラクションに掻き消された。
千里の行動は早かった。まったく迷いが感じられなかった。
夕夜は鵜飼と風岡にロープの一端を持たせた。
「しっかり握っとけ!
と同時に、凄まじい負荷が風岡たちの腕にかかる。
「何やってんだ!? この大バカ野郎めが。手間取らせやがって!」
陸橋の下から、夕夜の怒号が聞こえる。鵜飼と風岡は重みでずるずると引っ張られそうになる。
「こら! しっかり握れ! お前ら!」夕夜は再び怒鳴る。
千里と夕夜の身体の下には列車が通過している。通過しきるまでは
「あっ! 桃原さんっ!!」
日比野の声だ。すぐに駆け寄って、一緒にロープを握り締める。
千里と夕夜の体重分を引き上げるのは、いくらラガーマンとは言え鵜飼と風岡でも厳しい。ラガーマンではないが体格のいい日比野が加勢したおかげで引き上げることができた。
千里は泣いていた。右肘の関節あたりを押さえている。
「まったくよ! どんだけ世話焼かせりゃ気が済むんだ」
千里は嗚咽のあまり声にならない。
「もう、バカな真似はこれ以上するなよ」風岡は優しく声を掛ける。
「その肘を見せろ!」と言うと、夕夜は千里の右手首と肘関節を把持して伸ばしたり曲げたりをしている。千里は痛いのだろうか。嗚咽が悲鳴になる。
「こんなもんだろうか」と夕夜は独りごちた。
「ひょ、ひょっとして今整復したのか?」鵜飼がおそるおそる訊く。
「ああ。だが一応、救急車を呼んでおけ。応急処置はしといたが、腕を痛めとるからな。骨折もあるかもしれんからな」
夕夜はそう言って、その場を立ち去ろうとした。風岡と鵜飼も付き従う。
「もう、良いのかい?」日比野は問いかける。
「そいつに俺たちゃたっぷりと貸しがあるんだけどな。いつかは返してもらわんといかんが、こんな泣いてるザマじゃ用はないさ。むしろそっとしてやった方が良いだろう。あとよろしく頼む」
そう言って、夕夜は立ち去ってしまった。
「ごめんな。急に呼び出して」
「いや、俺は良いんだ。あとでしっかり事情を説明してくれよな」
「ああ」
日比野の返事を聞いて、風岡と鵜飼もその場を立ち去った。
そのあと、予備校の方から何人もの女子生徒や教職員と思われる人たちの駆けてくる足音と声を感じた。千里のクラスメイトか。取りあえず今は、これ以上自分たちの出る幕ではない、と思った。
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