第三章 入水(ジュスイ)  2 千里

「私なんてもう生きている価値はないの」

 千里は建物の北側にある外の非常階段を駆け下りながら、小さく独りごちた。千里にとって絶対的な憧れであった優梨に平手打ちされた。完膚なきまでに負かされた上に、全否定された。

 その瞬間、桃原千里という人間を構築する大きな屋台骨が瓦解したかのような感覚に陥った。もっと言えば、自らの存在を掻き消されたのだ。

「桃原さん、待て、早まるんじゃない」

 誰かが何か叫んでいる。声色からして日比野だろう。朴訥な彼がこんな大声を出すことは意外なことだし、察しの良さには舌を巻くものがある。ある意味で優梨に匹敵するかもしれない。でも、今の自分にはもう関係ないことだ。人生に訣別という選択肢が与えられるのなら、それを今行使するタイミングだ、と千里は思う。


 思えば、千里は不遇な半生だった。半生という言葉は正しくないかもしれない。なぜなら今から訣別しに行くのだから。

 生まれてこの方、親も含めて誰かに強く愛されてきたことがあっただろうか。見せかけの『愛情』はいっぱいあった。しかし、母親は自己満足を満たすアイテムとしてしか千里を見ていなかった。育ての父親は千里が自分に似ていないという理由で、無視したり冷たい態度を取ったりした。生まれつき察する能力に長けていた千里は、父親とも距離を置くことになる。そして幼稚園のクラスメイトであった大城優梨という人物に、子供ながらに羨望の念を抱いた。その当時は、顔が似ていると漠然と思っていただけで、母親と優梨の父親の関係性など知る由もなかった。

 父親と母親は小学校一年生のときに離婚した。父親は自分に似ておらず、それによって寄り付かない娘に愛想を尽かしたのだ。母親は元来、物を棄てたり人間関係を切ったりすることに、迷いのない人であった。それは夫に対してもそうだったのだ。千里の事情など関係なく、いとも簡単に離婚した。親権は当然母親のものだ。

 そして、母親は人生二回目の訣別を決めた。一回目は沖縄を発ったときだ。そのときは、千里がまだこの世に生を受けていないときの話だ。

 二回目の訣別によって母は苗字を変えた。私の呼び名まで変えた。『せん』という呼び名は、母の『五百里いおり』に因んで、離婚した父親が名付けたものらしい。それが気に入らなかったのか『さと』という名前にした。

 苗字も旧姓に戻したのだが、それまでの『桃原とうばる』ではなく『桃原ももはら』に変えた。『桃原ももはら五百里いおり』、『桃原ももはらさと』として二人は再出発したのだ。

 しかしそれから、母は再婚することはなかった。母の欲求は、聡慧な娘の頭脳に託された。『一番を取ること』という目標を常に課せられて生きてきた。しかし実際に『一番』を取り続けても、母は心の底から喜んでくれなかった。

 あるとき、何で喜んでくれないのか、褒めてくれないのか尋ねたとき、先ほど優梨に暴露した事実を突き付けられる。『大城優梨』という名は千里もよく憶えていた。なぜなら、幼少の頃からの千里にとっての羨望の的であり、千里からシンデレラの座を奪い母親を幻滅させた張本人でもあったからだ。

 異母姉妹であることを告げられたときは、千里の存在を根底から覆すくらいの衝撃を感じた。まさか、あの天才少女と同じ遺伝子を共有していたなんて、と動揺のあまりまっすぐ立っていられなくなったほどだ。

 と同時に、千里の境遇を怨んだ。一歩間違えて、もし自分が大城家の人間として誕生していれば、有り余るほどの愛情を受け、持て余すほどの天賦の才と美貌を携えて、悠々自適に生活できただろう。その一歩が途轍もなく大きかった。

 優梨とは幼稚園以来会っていないのに、彼女への羨望と嫉妬は日々募る一方だった。重ねて、母親からの充分な愛情も受けられず、中学校でやさぐれてしまった。


 高校に入ってやっと優梨に近付いた。そして長年の目標を果す時が来たのに、あっけなく敗北した。そして、さらには存在自体も否定されてしまった。

 自分の存在意義なんてない。高校では風岡や影浦に愛想を尽かされ、予備校でも邪険に扱われ、自分のことを本当に必要に思ってくれる友達も親もいない。人は誰かに必要とされているから生きていられるのであって、誰からも必要とされなければ生きている価値を失うのだ。千里は少なくともそう思っていた。

 教室を飛び出した千里には人生との訣別を選択できることに、いささかの喜びもあった。やっとこの疲れきった人生、不遇だらけの人生に終止符ピリオドを打てる。そしてりんてんしょうした先で、新たな恩恵に満ちた人生を所望するのだ。


 階段はもうすぐ歩道橋へと連絡する二階に辿り着こうとした。

「頼むから待ってくれ!」

 日比野が相変わらず叫んで追いかけてくる。彼は意外といい奴だったかもしれない。今更ながら気付いたのだが、その今更になるまで気付かなかった自分の洞察力のつたなさをちょっとだけ怨んだ。

 千種進学ゼミの外に出て歩道橋を下りると、そこはすぐに跨線橋だ。JR中央線が行き交う名古屋の動脈。そこで華々しく散りたいと思った。

 さあ、電車が来る。同時にどこかでトラックがクラクションを鳴らしている。千里を引き止める声が聞こえたような気がしたが、もう決意は揺るがない。欄干に足をかけていざ全体重を重力に委ねた。万有引力の法則に従い、加速度をもって地面へ身体が引き寄せられる。そこに快速列車が舞い込んでくる。桃原千里という名前を持った肉体が、名前を持たないタンパク質の塊になるまであとコンマ何秒という時だった。

 千里の肉体は無情にもふわりと浮いた。万有引力の法則に反して、代わりに何かに強い力に引っ張られたときの強い痛みを感じた。

「何やってんだ!? この大バカ野郎めが。手間取らせやがって!」

 どこかで聞いたような悪態口が、千里の聴覚を刺激した。

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