第三章 入水(ジュスイ)

第三章 入水(ジュスイ)  1 優梨

 隣の教室はどよめいていた。

 窓も扉も閉められ、エアコンの空調の音にも掻き消され、会話の内容は聞こえてこないが、ざわついているのは想像に難くなかった。

 千里の解が正解なのか不正解なのかはこの部屋からではよく分からなかった。

 この教室には日比野と陽花がいた。残っている理由はあくまで優梨の監督役だからである。

「優梨、この問題解けたの?」陽花が話しかける。

「うん。たぶん大丈夫だと思う。一見無理そうな難題なテーマだけど、順序立てて邪魔している要素を取り除けば、解決へと導かれるわ。いちばん苦労したのは、注意点その三の条件ね」

「注意点その三? あー、コイントスがどうのこうのってやつ? あれってどういうことなの? アタシには何が何だかさっぱり」

「うん、そのことについては私が隣の部屋に呼ばれたら説明するよ。この問題の最大のギミックをね!」


「大城さーん! どうぞ、入って下さーい!」

 隣の部屋から優梨を呼ぶ声が聞こえた。

 陽花と日比野にエスコートされるように、神を演じる三人の先生の待つ教室へと向かった。

 教室に入るとやや張りつめたような空気だ。何よりも千里の表情が硬かった。彼女は一体どういう心理なのか。しかし優梨のやるべきことはただ一つ。明確に決まっていた。皆の前で、自分の導き出した解答を陳述することだ。

 優梨はゆっくりとした口調で言った。

「ではこれから、正解となる質問を実演し、解説をしていきたいと思います」

 急に千里の視線が鋭くなるのを身に感じた。


「では大城さん、質問を開始して下さい」

 優梨は千里と同じく、『A』のパネルをぶら下げた宮田先生の前に立った。しかし、優梨の手は真ん中に立っている『B』のパネルの黄瀬先生を指している。

「あなたは、『「B」の方が「ラン」さんですか?』という質問をされたら、『ダー』と答えますか?」

「ダー!」宮田先生の扮する神『A』が答える。

 その言葉を聞いた優梨は、今度は『C』のパネルをぶら下げた茶谷先生のもとに向かった。そして、また『B』のパネルの黄瀬先生を指して質問を投げかける。

「あなたは、『「B」の方が「ラン」さんですか?』という質問をされたら、『ダー』と答えますか?」

「ジャー!」神『C』役の茶谷先生が少しだけ間を置いて答えた。

「では最後に。『あなたは「シン」ですか?』と訊かれたら、『ダー』と答えますか?」

「ジャー!」

 すべての質問が完了した。

「大城さん、お疲れさま。誰がどの名前か特定できましたか?」

「はい。答えは『A』が『ラン』、『B』が『シン』、『C』が『ギ』となります」

 優梨はきっぱりと断定した。

 神様役の三人はゆっくりとパネルを裏返す。

 優梨の答えたとおり、『A』のパネルの裏には『ラン』、『B』の裏は『シン』、『C』の裏は『ギ』と記されていた。

「おおー!」

「すげーよ、大城さんは」周りにいた理系EHQのクラスメイトたちは次々に感嘆の声を漏らす。

「神様の名前は正解です。ではそのように質問した根拠を答えて下さい」

「分かりました。黒板を借りてもいいですか?」

「どうぞ。自由に使って下さい」

「ありがとうございます」一言優梨は礼を告げると、チョークを手に取った。そして優梨は解説をはじめる。

「端的に言えば、この問題は、とある質問をすれば、神様が『シン』だろうが『ギ』だろうが、また『Yes』に該当するのが『ダー』だろうが『ジャー』だろうが、同じ答えが返って来る、というトリックがあります。それは『「これは○○まるまるですか?」と質問された場合、あなたは「ダー」と答えますか?』と尋ねることです。このように質問すれば、『これは○○ですか?』が正しい場合『ダー』、正しくない場合は『ジャー』と返ってくるのです。とても不思議な感じがしますが、『これは○○ですか?』が正しいと仮定して、次の四つのシチュエーションについて検証を行います。まずその一、質問の相手が『シン』、つ『イコールYes』のとき。この場合は単純で、『これは○○ですか?』の問いが正しいので『ダー』。『「ダー」と答えますか?』という問いに対して『ダー』と答えるわけです」

 優梨は、シチュエーションの一つずつに対して、黒板に明示しながらよどみなく解説を進めていく。

「そしてシチュエーションその二。質問の相手が『シン』、且つ『=Yes』のとき。このときは、『ダー』=『No』なので『No』と答えますかという問いには『No』つまり『ダー』と答えるわけです。よって、質問の相手が『シン』の場合、いずれにしても『ダー』という返事をしてくるのです。そして次は相手が『ギ』のとき。『ギ』は常に嘘をつくので、ここから少しややこしくなります」

 そう言うと優梨は一呼吸おいた。

「続きまして、シチュエーションその三。質問の相手が『ギ』、且つ『=Yes』のとき。『これは○○ですか?』の問いには『No』すなわち『ジャー』と答えるはずなので、『「ダー」と答えますか?』という問いに対して、嘘をついて『Yes』つまり『ダー』と答えることになります。そして、最後のシチュエーションその四。質問の相手が『ギ』、且つ『=Yes』のとき。『これは○○ですか?』の問いには『No』すなわち『ダー』と答えるはずなので、『「ダー」と答えますか?』という問いには本来なら『Yes』つまり『ジャー』となるところが、嘘をつくので『No』、つまり『ダー』と答えることになります」

 優梨は大きな黒板を広く使って、チョークの音を立てていく。

「よって、この質問をすれば、神様が『シン』だろうが『ギ』だろうが、また『Yes』に該当するのが『ダー』だろうが『ジャー』だろうが、『これは○○ですか?』の問いが正しければ『ダー』、正しくなければ『ジャー』と返ってくるのです。つまり、『これは○○ですか?』の問いを『あなたは「シン」ですか』という問いに置き換えれば、正しければ『ダー』、違っていれば『ジャー』と返ってくるのでその質問をすれば良いはずです。しかし──」

 ここで再び、優梨は一呼吸おいた。ここからが肝心なのだ。

「この問題の最も嫌らしく、難しくさせているところ。それが『ラン』の存在です。皆さんは、問題文の注意点その三についてどのように解釈しましたか? もし、この『ラン』の返答が、状況に応じて『シン』の役を担ったり『ギ』の役を担ったりするということなら、相手が『ラン』であってもさっきの質問をすれば、『これは○○ですか?』という質問が正しければ『ダー』、正しくなければ『ジャー』と返ってくるはずです。しかし注意点その三は、『ラン』は頭の中のコイントスによって回答を決めるとのこと。つまり『ラン』は質問を無視して、考えることなく完全にアトランダムに『ダー』、『ジャー』と回答しているわけですので、このトリックは使えません」

「マジか……」どこかで小さく千里の悔しがる声が聞こえた。

「よって、まず『ラン』を除外するような質問をしなければなりません。そこで質問に一工夫加えます。最初の質問を、例えば『A』の神様に『あなたは、「『B』の人が『ラン』さんですか?」という質問をされたら、「ダー」と答えますか?』という質問にするのです。そうすれば、『A』が『シン』か『ギ』なら、前述したトリックが効いて、回答が『ダー』なら『B』が『ラン』、『ジャー』なら『C』が『ラン』となります。『A』が『ラン』の場合は、何も情報が得られないように思われますが、そのときは『A』が『ラン』ですので『B』『C』が『ラン』でないということになります。つまり、この質問を『A』の神様にした場合、『ダー』ならば『C』は少なくとも『ラン』ではないことになりますし、『ジャー』ならば『B』は少なくとも『ラン』ではないことになります。少なくとも『ラン』でない神様が分かったら、あとは最初に述べたトリックを使った質問で、順番に神様の名前を特定していけば良いわけです。説明は以上です」

「なるほど」理系EHQクラスの誰かが納得の声を上げた。

「完璧です。異議の唱えようがありません」

 宮田先生が拍手すると、他の先生や生徒たちからも拍手が送られた。

「さっすがー! 優梨ぃ!」陽花は優梨に抱きついた。身長の高い陽花に抱き締められるとちょっと苦しい。

「陽花、苦しいよぉー」

「あ、ごめんごめん」陽花は慌てて身体を離した。

「納得いかない!」どこかから棘のある口調の低い声が聞こえてきた。

 千里が立ち上がっていて、優梨を睨みつけている。

「桃原さんは……」

「わざとらしく訊いておいて。このみんなの反応を見れば私が不正解だったって分かるでしょ!?」

 千里の口調は攻撃的である。なおも続ける。

「大城さん。あなたどうせ、この問題知ってたんでしょ? あなたなら例えば職員室とかで先生に出題されたりしてるかもしれないし、もしかしたら私がこの部屋で回答を披露しているときに、日比野くんと河原さんに答えをレクチャーされてるかもしれないし! きっとそうよ! そうなんだよ!」

 千里の言いがかりは無茶苦茶である。それでは宮田先生が不正を黙認、あるいは促していたことになる。しかも日比野と陽花は、試験時間中ずっと優梨たちとずっと同じ部屋にいたではないか。日比野は一回外に出て行ったが、すぐに戻ってきている。

「私はそんなことしていない!」

「アタシたちは何もしていないって!」陽花も反論する。

「さぁ、どうだか? はじめから分かっているか教えてもらわなきゃ、こんな超難問、大城さんでも解けっこないわ! こんな茶番まっぴらよ!」千里は極めて断定的な発言を繰り返してくる。優梨はまったくもって、この問題を聞いたことがなかったし、もちろん不正を働いてもいない。

「だから私は、この問題を今日はじめて解いたし、何も知らないって言ってるでしょ!」優梨も思わず感情的になる。

「何よ! あなた頭いいからって、いい気になってさ!」

「二人とも止めなさい!」宮田先生が仲裁しようと前に出る。しかし千里は聞く耳を持たない。

「あなたね! 何で私とあなたが似ているって囁かれるくらい似ているのか知ってる!?」

「えっ!?」唐突に何だろうか。優梨は飛躍した話題についていけない。

「ふん、知らないよね!?」千里はせせら笑いの表情を浮かべた。

「何なの?」

「考えるまでもない。簡単な話。あなたと、私は同じ遺伝子を共有しているんよ!」

「!?」優梨は驚きのあまり一瞬言葉が出なかった。三、四秒ほどしてしてようやく声を出せた。「ど、どういうこと?」

「大城さんと私は、異母姉妹ってこと!」

「えええええ!?」優梨もそうだが、周りにいた全員が驚愕した。

「ふっふっふ。笑っちゃうよね? あなたは知ってるか知らないか分からないけど、私のお母さんはね、大城さんのお父さんと元恋人だったの。でもあなたのお父さんは、お母さんをフった。そして沖縄から名古屋に移り住んだけど、私のお母さんも追いかけたのよ。でも大城さんの両親は子供に恵まれなかった。藁にもすがる思いで、私のお母さんが勤務していた不妊治療外来を受診した。そして大城さんのお父さんから採精したものを一部頂いたの。その精子で体外受精によって生まれたのが私。感謝してるのよ。あなたのお父さんの超優秀な遺伝子をもらってるんだからね」

「何よ、その出鱈目は!」

 教室内がひどくざわつき始めた。

「お母さんが言ってたのよ。私は人工授精。そしてあなたも同じく人工授精。でも、その種の出所は一緒。笑い話にも程があるわ。でもこの家庭環境の差は何? あなたは院長の娘としてのうのうと生きてきて、うちは離婚したから大した愛情も恩恵も受けられずに育った! 同じ父親を持ちながらそれはひどくない? だからあなたに幼稚園のときに主役を奪われたときから、ずっとあなたに嫉妬していた。あなたの美しさと頭脳に憧れながらも、どこかで逆転して一泡吹かせてやりたいと。見事に返り討ちにあったけどね。あなたの不正行為によってね」

 パシッ、と乾いた大きな破裂音が教室に鳴り響いた。一瞬にして教室内のざわつきは止んだ。

 優梨は千里の頬を右手で平手打ちした。そしてその目は、眼光鋭く千里を睨みつけていた。

「あなた、何が言いたいのよ! 本当のことかどうか分からないけど、私とお父さんの名誉を毀損して、変な噂を流して評判を落とすつもり!? 無茶苦茶よ! あなたが正々堂々勝負したいと言ったから受けて立ったのに、負けたら何の根拠もない言いがかりをつけて、負け惜しみするの!? ちゃんちゃらおかしいわ。この卑怯者が! あんたなんか、さっさとここを辞めて、遠くで私を一生妬んでなさい! それがお似合いよ!」

 優梨には到底似合わない非難の言葉で千里に言い放った。しかし、千里の眼球は細かく泳いでいた。

「何よ……何よ! 何よ! 何よ!? ナニヨ!!? うわぁああああああぁあ──!!!」

 千里は完全に錯乱状態となり、大声を上げながら教室を勢い良く飛び出していった。

「いかん! と、止めなきゃ!!」日比野も大声を出す。日比野の携帯電話はそこにおいたまま、後を追うように飛び出そうとする。飛び出し際に日比野は告げた。「河原さん、大至急、俺のその携帯電話の発信履歴のいちばん上のやつに電話をかけてくれ! かけてくれたら相手は話が分かるはずだ!」早口で日比野は一方的に告げてまた再び教室の外に出た。

「陽花! 何なの?」優梨は状況が飲み込めなかった。

「アタシもよく分からないけど、日比野くんがさっきこっそり言ったのよ。桃原さん、自殺企図があるかもしれないって」

 優梨はぜんとして、しばらくその言葉が受け入れられなかった。

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