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 イオリは否が応でも義郎と祥子の交際を知るところとなった。

 イオリは荒れ狂った。

 女性コメディカルの間でも『最優良物件』と評されていた医師、義郎との交際は、イオリにとって誇りだった。将来の保証性、ハンサムな容貌、温厚で優しい性格、三拍子整っており、そんな義郎と恋人として携えることは、最高級ブランド品を装着するようにイオリの自己顕示欲を満足させた。イオリは自らの美貌に絶対的な自信を持っていたが、それでもそのライバル多さゆえ、義郎の獲得はイオリの大きな悦びとなった。イオリはそのとき幸せの絶頂であり何もかも上手くいくと思っていた。

 しかし、そんな時間は儚くもすぐに崩れ去っていったのだ。イオリの美術品にも劣らない美しい裸体を前に、義郎が寝てしまったときは、イオリのプライドがへし折られた。思わず、手が出てしまったのだ。逃げるように義郎は去って行き、三行半を突き付けられたのだ。もちろん義郎とは結婚はしていない。しかしイオリは義郎を手放す気などなかったので、あのポケベルの無機質な文字列は実質離縁状と同じであった。

 しかしイオリは、義郎が松堂祥子を新たな恋人として迎え入れていることを知ると、その嫉妬心ゆえ、二人を傷付けたくなった。

 イオリはストーカー行為、無言電話、二人に対する誹謗中傷、極めつけは義郎の子供を身ごもると偽りの噂まで流してみた。しかし二人の関係が揺らぐことはなかった。そればかりか、義郎は名古屋の大学病院に異動になるという。整形外科部長の先生と繋がりが深いのだろうか。それは良いとして、それに祥子まで一緒についていくという話だ。何しろ、異動を機に、沖縄でお世話になった人や家族に対して結婚式を挙げてから、名古屋に移り住むというのだ。

 イオリの嫌がらせが裏目に出てしまったのか。却って二人の結束力を固めて、結婚への階段を踏み出す契機としてしまったのだろうか。イオリは悔しかった。酒と男に慰みものになってもらう日々が続いた。しかし義郎に代わる者など現れることはなく、悶々とした日常を送っていた。

 とうとう我慢できなくなり、イオリも名古屋へ発つ決意を固める。男に不自由などせず、常に男の方から言い寄られてきたイオリが、はじめて男を追いかけるのだ。しかも昔別れを告げられた、現、既婚者に。

 牧志記念病院の看護師の情報を伝って、義郎と祥子が名古屋市の覚王山という場所に住んでいることを突き止めた。イオリはすぐに辞表を提出し、荷物をまとめて引越の準備を整えた。考えてみれば、イオリは那覇市に何も未練などなかった。親は沖縄県内に住んでいるが、イオリは親に充分愛されてこなかったと思っている。友達もいないことはないが多くはなく、また数少ない友人もイオリの顔色を窺っては距離を置いて付き合う者ばかりだ。心の底から親友と呼べる者など誰ひとりいない。

 引っ越すことで心が少しでも晴れるのなら、もっと早くこうするべきだった、とイオリは悔やんだ。と言っても引っ越した先で具体的に二人の関係をどうするつもりもなかったのだが。それまでのうっくつした生活と自分にけつべつする意味も兼ねてのしゅったつであった。

 名古屋の街は那覇よりも人口が多く発展していた。気候的には過ごしやすいとはいえないが、地下鉄が張り巡らされ暮らすのに不自由しない街だ。そしてイオリはとにかくモテた。もともと身長が高く、彫りの深い、日本人離れした顔つきだ。沖縄ではさほど珍しくない顔貌も、名古屋では珍しいようで、栄や名古屋駅を歩くものなら、常にナンパやスカウトの男性に声をかけられた。

 環境も変わり、新しい刺激がイオリを楽しませた。あれほど尾を引いていた義郎との想い出も、名古屋での充実した新生活で、少しずつではあるが忘れ去ることができつつあった。

 新しい就職先も簡単に決まった。やはり看護師という手に職を持っていると、こういうところで有利だ。今度は総合病院ではなく、当時まだ少なかった不妊治療専門のクリニックに勤務した。

 そしてイオリは一人の男性に出会う。職場恋愛でも何でもなく、ナンパしてきた男の一人であった。しかし一流とまではいかないがそこそこ名の知れた企業に勤務する、いわゆる『三高(高収入・高学歴・高身長)』の条件を兼ね備えた男性であった。名を伊藤といった。伊藤と意気投合し、交際へと発展。彼は優しくイオリを包容した。イオリも義郎のときの反省を胸に刻み、優しい女性を演じることに徹した。夜の生活もまたイオリの身体を熱く興奮させた。

 やがて二人は結婚することになった。彼からのプロポーズであった。義郎への未練がまったくなかったわけではなかったが、それに目をつむればイオリに断る理由などなかった。

 身内だけの簡素な結婚式を挙げた。彼は、美しいイオリのウェディングドレス姿を見てもらいたいと言って、もっと盛大にやらないかと提案したが、イオリには職場以外に呼べる友達もおらず、結局新婦側の列席者は少人数の披露宴であった。

 結婚してからしばらくして、お互いに子供を授かりたくなった。しかし、イオリはこれまで通り仕事を続けた。比較的給料が良く、寿退社をするには惜しい収入源であったのだ。

 現在で言うと『妊活』をしながら、仕事をしていた。そのときに運命の悪戯が訪れる。イオリの勤務する不妊治療クリニックに義郎と祥子が受診したのだ。

 受診したということは、不妊で悩んでいるということに違いないだろうが、大学病院でそれを行わないというのは、やはり院内での体裁を気にしてのことだろう。自分の精液検査のデータなど、間違っても同僚に見られたくないはずだ。

 義郎と祥子自身はイオリがこのクリニックに勤務していることは知らないだろうし、たぶん気付かなかっただろう。イオリが気付いたときにはもう受診を終えていた。そして目の前には採精したばかりのスピッツが置かれていた。ラベルには『大城義郎』と書かれている。

 一方で、イオリは周期的に排卵日だった。『妊活』しているので基礎体温も測っていたから、ほぼ確実であった。

 イオリは魔が差した。決してやってはいけない行動に出る。

 それが幸せな生活を破綻させるとも知らずに。禁断の果実に手を出したのだ。

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