第二章 入塾(ニュウジュク) 15 千里
一時間という時間がもう終わろうとしている。
過ぎてみるとあっという間だったかもしれない。それはこの問題に全精力を傾けていたからであり、至って単純な理由だ。他のテストでもそれは同じである。
しかしながら、頭脳の疲労度は普段のテストの比ではなかった。それは、衆人環視という奇異な状況であったこと、非常に難題であったこと、そして相手が他ならぬ優梨であるからだ。
そのような極度のプレッシャーに見舞われたが、千里は確からしい解答を導いた。これを例えば火事場の馬鹿力などと形容されるとすれば不本意だ。これはこの状況がなければ得られた解答ではなく、正真正銘、不正も第三者の力が働くこともなく、自力で得られたベストの解答なのだ。しかし自分の解答を振り返ってみると、何ともシンプルな解答である。これを導くために難渋していたかと思うと、若干の気恥ずかしさまで感じられる。
しかしながら、これでまず少なくとも優梨に負けることはないのだと、早くも武者震いしていた。千里は自分の導いた解答に絶対的な自信を持っている。宮田先生が一時間で解けたら天才と称する、その境地にいよいよ達することができるのだ。
「はい、やめー!」
宮田先生が再び号令を発した。
一時間という試験時間が終了した。
結局、優梨も途中で挙手することなく時間を一時間みっちり使い切ったようだ。それだけ彼女も悩み抜いたということか。
「どうでしたか? お二人さん。答えは出ましたか」宮田先生は二人を労うかのように声をかけた。
「難問でしたが答えは出ました」と千里は答えた。
「私も出ました」優梨も短く答える。やはり天才少女だけあって解答を用意しているようだ。負けることはないが、まだ勝ったとは宣言はできない。彼女はどんな解答を出して来るだろうか。
「では、どちらかから順番に一人ずつ、隣の部屋で解答を実演してもらって、その根拠を提示してもらいましょう。どちらからにしますか?」
宮田先生がそう告げると、千里と優梨は見合った。
「私は……どちらでもいいよ」優梨は臆することなく言う。
「じゃあ……私から行かせてもらうよ」千里は立ち上がって、隣の部屋に向かった。それにつられるようにオーディエンスの多くの生徒が隣の教室へと一緒についていった。試験監督である日比野と陽花は、あくまで不正防止ということで同じ教室に留まっていた。
隣の部屋には、宮田先生と数学の若手の男性講師二名が立っていた。数学の男性講師は、身長の高い
「ではさっそく、質問を開始して下さい」宮田先生は千里に解答を促した。
「分かりました」
千里は頷くと、宮田先生の前に立ってさっそく質問を切り出す。
「『あなたは「シン」ですか?』と訊かれたら、『ダー』と答えますか?」
「ダー!」と宮田先生の扮する神『A』が答える。
千里は位置を変えない。そのまま神『A』に質問を続ける。
「では『神「B」は「ギ」ですか?』と訊かれたら、『ダー』と答えますか?」
「ジャー!」
決まった。千里の中で解答が出そろった。ただし質問権は三回ある。もう一度確認で質問をしてみよう。再び宮田先生の扮する神『A』に質問を行う。
「最後に。『神「C」は「ギ」ですか?』と訊かれたら、『ダー』と答えますか?」
「ダー!」
勝った。千里は心の中で確信した。
「どうですか? 特定できましたか?」
「はい。分かりました」千里の応答に迷いはみられない。
「すげー!」
「今のでどう分かったんだ?」オーディエンスの生徒たちも口々に詠嘆している。
「では、解答とそれに至った根拠を説明して下さい」
「はい」千里は興奮で浮かれる気持ちを一生懸命隠して抑えて、あくまでも平静を装った。そして解説をはじめた。
「この問題は、非常に難しそうに見えて、実はあることに気付いてしまえばとても単純なんです。そのあることとは、これです。『これは
そう千里が答えると、オーディエンスの生徒たちもざわめく。
「えーっ!? それって本当なの?」
「嘘でしょ? ちょっと検証してみましょ」などと、驚きの反応が続いた。
千里は続ける。
「よって、解答は『A』の宮田先生が『シン』、『B』の黄瀬先生が『ラン』、『C』の茶谷先生が『ギ』。以上になります!」
教室内はざわめきが小さくなって静まり返った。数秒間の静寂の中、宮田先生が口を開いた。
「残念ですが、惜しくも不正解です!」あくまで残念そうな表情で結果を伝えると、三人の先生はパネルをひっくり返した。『A』、『B』、『C』のパネルの裏には、答えとなる神の名前が記されていた。
「えっ! 嘘! 何で!? 何で何で何で!?? 信じられない!」
千里の解答した答えと確かに違っていた。何故だ。論理的な検証を何度も何度も繰り返して、正しいことを確認したはず。
「桃原さん。あなたの着眼点は良かった。途中までは当たっているのです。しかし問題文の読みが足りなかった。結果的に自分に都合のいい解釈になってしまった。答えは間違っていたけど、敢えて点数化するならば八十点の点数はつけてあげたいわ。それくらいいい線はいっています。一時間というごく短時間でこのメカニズムに気付いただけでも評価されるべきです」
しかし、どれだけ励まされても千里の耳には入ってこなかった。致命的なミスをどこかで犯しているというのか。しかもよりによって優梨との一対一の対決で、これに勝てば、多数の証人の前で『優梨に勝った』という事実を手に入れることができる絶好のチャンスだ。これまで完璧に検証してどこが違っていたのだろうか。千里はパニックになりそうであったが、理性が何とか押しとどめていた。
「では、大城さんの解答も聞いてみましょう」と、宮田先生が言った。
そうだ。まだ分からない。優梨の解答を一言も聞いていないのだ。彼女が千里とまったく同じ思考回路で同じ結果を導き出しているかもしれない。あわよくばもっとレベルの低い誤りだってしているのかもしれないのだ。落胆するには早すぎる。冷静になれ、と千里は自分を諌めた。
「大城さーん! どうぞ、入って下さーい!」宮田先生が廊下越しに優梨を呼ぶ。
隣の教室から日比野と陽花に導かれて、静かに優梨が入ってきた。その炯眼は周りの人を射るほど鋭く、そしてすべての真理を達観しているかの如く澄み切っていた。
千里ははじめて優梨という人物に畏怖を感じた。
落ち着け、私、と千里は強く打ち付ける鼓動を鎮めながら、自らの感情の
優梨は落ち着いた声で言った。
「ではこれから、正解となる質問を実演し、解説をしていきたいと思います」
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