ある男の話。
雨月うぐいす
ある男の話。
僕は工場に勤めていた。
マイナス何十度の冷凍庫の中にフォークリフトで荷物を運び入れる仕事。着膨れするオレンジ色の防寒服を着ていても寒い。更に冷凍庫の中はとても乾燥している。荷物の品質を保つ為だ。手はガサガサのボロボロ。僕にふさわしい手だな、そう思って自虐的に苦笑する。
なんでこんな仕事を続けているかというとそれなりに給料が良いからだ。高校を出てから僕は、ずっとこの会社で働いている。貯金もそれなりに貯まった。
僕は死ぬまで此処で仕事を続けるだろう。
冷凍庫で僕の手をボロボロにしてお金を稼ぐ。6畳1間のアパートに帰りコンビニで買った出来合いのものを食べる。あとは、シャワーを浴びて、布団に入って……。
日常がルーティン化されていく。変わり映えのしない日々。変わっていくのは僕の年と見た目だけ。
いつしか僕は30代目前になっていた。
冷蔵庫で手をボロボロにしながら働いた。今日は特に寒く感じた。
もう12月だからだろうか? 倉庫の中の温度と湿度は一定に保たれているから関係ないか。
僕はまるで生産性のない思考をしながら事務所に戻る。
事務所は暖かくて、防寒服を脱ぐと、僕はふぅ……、と一息つく。
「お疲れ様です」
そう、声をかけてくる事務の職員さんが居た。
中途採用で入ってきた僕と同じ年ぐらいの人だ。
美人ではない。どちらかというとパッとしない顔立ち。
でもまつげは長くて目は大きいと思う。
「お茶です」
彼女はそういってお茶を差し出してくる。
僕は受け取る。このお茶、すごく熱い。
いや違う。僕がずっと寒いところにいたから相対的に熱く感じているのだ。
いわば錯覚なのだが……、熱いものは熱い。
僕は恐る恐る、少しずつ、ズズッ、ズズッ、っと飲んだ。音を立てるのは下品な気がしたが熱くてそれどころじゃなかった。
またある日。僕が暖かい事務所に戻ると。
「お疲れ様です」
彼女はそう声をかけるのだった。
「お茶です」
彼女はそういってお茶を差し出してくる。
僕は受け取る。今日は熱くなかった。
僕は口をつける。ちょうどいい暖かさだ。
体に染んでいくような、そんな暖かさだった。
ありがとう。
僕はそういって彼女に飲み終わったお茶を渡す。
そのとき手が触れた。
彼女の手は、妙に温かく感じた。
僕の体温が低かったせいか……、それとも……。
それから、なにかが劇的に変わったわけじゃない。
同じような日々、それを僕は繰り返していた。
でも繰り返す日々の中で積み重なっていくものもあった。
それはきっと彼女がもたらしたものだと僕は思う。
「僕」が「僕ら」になった頃。
僕らが事務所で会うだけでなく、一緒に夜景を見たり、食事をするようになった頃。
日常はルーティン化されたものではなくなった。
朝、起きて、昼、仕事して、夜、彼女に会って、寝る。
こう考えると同じことの繰り返しのようだが、変化というものは必ずそこにあった。
もしかしたら僕が気付けるようになったのかもしれない。
新しいものを食べたし、新しいものを見た。
そして、僕自身変わったのかもしれない。
“キレイな景色を見れた時、キレイだなって思う前に、貴方にこの景色を見せたいなって思うようになった。自分の為に生きてきたのに、貴方の幸せが私の幸せになったんだ。”
彼女の好きなロックバンドの1曲にこんな歌詞があった。
以前はロックなんて聞かなかった。
こんなにも歌が心をうつものだと知らなかった。
彼女との日々は幸せだった。
「私と、結婚してくれませんか?」
彼女にそう言われた。
もちろん僕は。
こちらこそよろしくおねがいします、と。そう言いたい。
でも。
でも僕は、まだ彼女に言っていないことがある。
僕はそれを、言わなくてはならない。
僕は天涯孤独の身なんだ。
僕は、はっきりとした声でそう言った。
君と結婚式をしても、僕には出席してくれる親も、親戚もいない。
更にいえば、僕は孤児だから学生のころは疎まれていたし、いじめのようなものもあった。
僕には出席してくれる友達もいない。
君にも、君の親にも、申し訳ない結婚式になるだろう。
僕は彼女を見た。
彼女は目をぱちくりさせながら、長いまつげをパタパタと瞬きをしていた。
「そんなの関係ないじゃない」
彼女はそう言い切った。
「問題は、私と結婚してくれるかどうかよ」
僕らはケーキ屋に行って少しいいホールケーキと、いいワインを買った。
部屋に戻って一緒に包丁をもつ。
「普通の包丁だから、2人じゃ持ち辛いね」
彼女はそういって笑った。
でも、初めての共同作業だよ。
僕らはホールケーキを一緒に切って、一緒に食べた。
彼女は事務職を辞めた。
彼女のお腹が膨らんでいる。
僕はますます働いた。
帰れば、彼女がいる。
それだけで頑張れた。
いつしか僕らは3人になった。
僕、彼女、娘。
僕はますます働いた。
帰れば、彼女と娘がいる。
僕はそれだけで幸せだった。
同僚と飲みに行った。
薄い焼酎を飲み、ツマミを口に運びながら話をした。
「幸せか?」
あぁ、幸せだよ。
これ以上ないくらい。
いつかしっぺ返しがくるんじゃないかと不安になるくらい。
ときどき僕がこんな幸せになっていいのかと思ってしまう。
でも彼女が笑ってくれる度に、僕はこれでいいんだと思えるんだ。
彼女が迎えに来るらしい。
酒を飲んだ自分をわざわざ迎えに来てくれるらしい。
育児で疲れているだろうに。
今度何かケーキでも買っていこうか。
雨が降り出してきた。
あれから彼女は来ない。渋滞しているのだろうか。
シャッターが閉まった店の軒先で僕は雨宿りをする。
あまり雨を防げていないが、しょうがない。
雨は激しくなっていた。
寒い。
彼女は来ない。
歩いて帰ろうか。そう思いケータイを開き、彼女にメールを打つ。
やっぱり、歩いて帰るよ。
送信しようとしたとき、雨音の中でケータイの着信が鳴り響いた。
僕はびっくりしてケータイを落としそうになる。
僕は耳をあて、電話に出る。
僕はあの時ほど、前後不覚になったことはないように思う。
彼女は来ない。
僕は黒い服を着て娘の手を引く。
彼女は、箱の中にいる。
自家用車とタクシーの衝突事故。
運転席側横のドアにタクシーが衝突した。
彼女は亡くなった。
僕らは2人になった。
帰っても彼女はいない。
僕はもう、頑張れない。
娘がママはどこ?と言って毎日泣く。
ママはもういないんだよ。僕はこの言葉を言うときが一番辛い。
それでも娘はママはどこ?と言って毎日泣く。死、なんてものはまだ、理解できない。
僕も理解したくない。
彼女はどこ?と、僕は静かに泣いた。
僕は仕事を辞めた。
僕はぼーっとしながら生きた。
娘をあやし、昼飯を食わせ、風呂にいれる。
毎日がルーティン化されていく。
日常は極限まで薄くなっていた。
なにもかも。
なにもかも、終わらないかな。
なんでもいい。
隕石でもいい。
噴火でもいい。
全てを終わらせて欲しかった。
幸せは続かないくせに、苦しみは続く。
僕は何かしたのだろうか。
苦しみから逃れることはできない。
死ぬことは許されない。
そうやって僕を死ぬまで、彼女の喪失感で苦しませる。
僕が幸せになろうとすれば、例えば僕がお酒の力に頼って苦しみを紛らわせても、朝に目が覚めれば、苦しみは縁取られたようにはっきりと僕を苦しめるんだ。
僕がぼーっとテレビを見ている横で、娘は絵を描いていた。
娘が“でけたー!!”と声を上げる。
僕は横目にそれをみる。
男の人と女の人……だろうか。
ねぇ、パパ見てー。
娘が僕の前に絵を持ってくる。
「この絵はね、パパとママだよー!」
そういって自慢げに絵を見せる。
……もう、ママはいないんだよ。
お願いだから、もう分かってくれ。
娘の頬に手を置く。
ママはね、もういないんだよ……。
僕は静かにそう言った。
「いるよ」
娘はそういった。
「絵本で読んだの。ペットはしんじゃってもちゃんと飼い主のそばにいるんだって。仲良しをわすれないんだって」
「だから、ママもパパの側にいるよ! パパとママ、仲良しだもん!」
娘はにぱっと笑った。
『お疲れ様です』
『私と、結婚してくれませんか?』
『そんなの関係ないじゃない』
『問題は、私と結婚してくれるかどうかよ』
『普通の包丁だから、2人じゃ持ち辛いね』
僕は彼女の笑った顔を思い出す。
心が暖かくなる様なそんな顔。
ポタ……ポタ……。涙がこぼれた。
娘の絵に落ちた。
そのせいで彼女は滲んでしまった。
でも。
たとえ見づらくなっても確かにそこにいるんだ。
僕の隣にいるんだ。
「パパ? どこかいたいの? いたいの、いたいの、とんでけー!」
娘が僕の顔を撫でる。
あぁ、暖かい。体温を感じる。
「これでもう痛くないよ、パパ」
娘は、彼女のように、優しい子に育っている。
「ありがとう……、ありがとう」
涙は止まらなかった。
でも、流れ落ちた涙の分だけ、僕はこれから笑えるのかもしれない。
「ごめんよ……、ありがとう」
それから。
純白のドレスに身を包んだ娘がいた。
「どう、パパ? あたし綺麗?」
綺麗だよ、母さんに似て。
僕はそう答えた。
「パパ、まだ泣かないでよ? パパ、すぐ泣くんだから」
娘は今日、嫁に行く。
多くの出席者が参加して、結婚式は執り行われた。
娘の知り合いもいるし、僕の知り合いが出席してくれた。
壮大な結婚式だ。
僕と彼女との結婚式とは全然違うけれど、幸せなのは変わらない。
「なぁ、君。見てるかい……」
僕は声に出して言ってみた。
もちろん返事はない。
「あの子は……、娘は綺麗になって、優しい人に貰われていったよ。」
教会のベルがゴーン、ゴーンと鳴る。
「きっと、絶対幸せだ」
娘と新郎が笑顔で話している。
僕は、やり遂げたのかな……。
僕はゆっくり目を瞑る。
「お疲れ様でした」
彼女の声がする。
「はい、お茶です」
彼女はそういってお茶を差し出してくる。
「ありがとう」
僕は受け取る。
僕は口をつける。ちょうどいい暖かさだ。
体に染んでいくような、そんな暖かさだった。
ある男の話。 雨月うぐいす @uguisu_hy
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