第37話 因果の収束

「……さっきのは何なんだ、エンリケ。別れの挨拶のつもりか?」

「ははは、分かるだろう?」

「……そうか。君は酷い奴だ。彼女、それでなくてもぐらぐらだったよ? 駄目押ししなくてもいいじゃないか」


「いい仕掛けだろ? きっと苦しむ」


 欲に蕩けきった表情でエンリケが言った。病むほどに輝く真紅の瞳、血を吸う刃の美しさだ。

「決意の表れと思っていいのかな?」

「ああ、そうだ」

「簡単にはいかないよ?」

「分かっている。けど、欲しい物を諦めるなって、君が言ったんだろ」

「ははは、いいぞ、エンリケ。それでいい。欲望に身を任せてこそ君だ」

「ああ、悔しいが君のおかげだな」

「妙に素直じゃないか」

 ハコブは鼻白んだ。

「因果の鎖から僕は自由になったんだ。むしろ今は因果が後押ししてくれているような気さえする。素直にもなるさ」

「はは、そうか、そいつは目出度い。ああ、そういえば忘れていた。何かこちらへ持って来たい物はないか? 可能な限り叶えようじゃないか」

「そうだな、僕の可愛いペット達、元人間の巨大魚、彼らを連れて来たい。こちらの毒が彼らに及ばないような水槽を作らなきゃな」

「お安い御用だ。本当に君は律儀なんだな」

 ハコブはくすくすと笑った。

「彼らは僕に全てを預け、人間の理性と引き換えに僕を欲した。僕は彼らの望みを叶える責任がある。彼らは死ぬまで僕を見ていたいと言った。見せてやらなきゃいけない」

「君はかなり強い守りの呪いを彼らにすでに掛けているじゃないか、水槽で守ってやらなくても案外こちらの世界に適応するかもしれないよ」

「そうかもしれないが、慎重にやってくれ」


 闇の中、濃い瘴気の向こうで蠢く無数の気配がある。


「エンリケ、君を出迎えようとみんな集まっているよ」

「面白がるのは好きだが、面白がられるのは嫌いでね。胸糞悪くて最高だ」

「さあ、エンリケ、どうするんだ?」

「そうだな、手始めにまずはここを……」




「制圧してやる」




 エンリケは異形の異界の住人達を見回して言った。

「僕はペドロとその妻ニコラの息子の末裔、悪魔のエンリケだ。老いぼればかりで退屈なこの世界をかき回してやるためにわざわざ来てやった。最初に言っておく。僕はお前らが大嫌いだ。世界の均衡? そんなもの僕には無関係だ。押し付けられて非常に不愉快だったよ。事情があって自分から来たが、腸が煮えくり返ってるんだ。僕は他人に自分の行動を制限されるのが何よりも我慢ならない。退屈なんだろう? 刺激が欲しいんだろう? くれてやる! 生まれて来た事を後悔する様な恐怖、歓喜、それから狂乱を! 僕はお前らに容赦をしない。まだ僕は本当に欲しい物を手に入れていない。諦めるつもりもない」


 囃し立てる声、口笛さえも聞こえてきた。



「そのために全員この僕に跪かせて利用してやるから覚悟しろ! 有難く思え!」



 割れんばかりの歓声とむせ返るような瘴気に包まれてエンリケは迎え入れられた。




***




 エンリケが異界に去ってから冬になり、春が過ぎ、夏になった。


 私は相変わらず、ビジャ湖の畔の家に住んでいた。一階の居室の大きな窓からは木漏れ日が差し込んでいる。午睡にはもってこいの穏やかな日だった。

 まだこの沼地が魔窟だった頃は、夏はうだるような暑さに加え、ヘドロの悪臭が目に沁みるほどだったのだが、ウルバーノのおかげで沼が浄化され、今では爽やかな風が吹き抜けている。

 ビジャ湖の正統な主であるところの水龍グアルディオラがその能力を発揮し始めてから半年以上が経って沼の周囲の環境は劇的に改善された。夏は涼しく湿度も低く、冬は温暖で湖水が凍る事もない。危険な化け物達は居なくなり、結界を張る必要もなくなった。


 ディオラ杉の林業も順調だ。


 瘴気によって造られた材木は腐食耐性だけでなく魔力耐性も強かった。ディオラ杉を使って家を建てるだけで、弱い結界に相当する防御力を持つようになると分かったのだ。あれよあれよと言う間に有名になり、競り場に受け入れられるようになる頃にはすでに品薄で予約が殺到する有様だった。

 樵達ははた迷惑な悪魔との喧嘩に彼らを巻き込んだ私を見捨てる事なく、ディオラ杉の権利者のままにしていてくれた。

 借金はまだ残っているが、この分ならば少なくとも私が死ぬ前には返せるだろう。コルテスもまだぎこちないものの少しずつ私とも会話をしてくれるようになってきた。


 そして、全くもって納得いかないが、ついこの間トリスタンは領主に再任した。


 ディオラ杉によりカーサス地方の税収は倍増したので、その功績によるものだろう。彼は当然の顔で私の所へ挨拶に訪れ、私の顔を見て大笑いして下さった。もちろんすぐに蹴り出した。

 彼もさすがに私に悪いと思ったのか、工場の排水を浄化する公共事業を新たに私に任せてくれた。

 元はと言えば、ビジャ湖が汚れた原因は急激に発達した工業だ。私は私の作った汚水を浄化する性質をもつスライムだけを使って工場の排水溝に取り付け可能な浄化槽を開発する事にした。以前作った溜め池と基本的な機能は同じだ。もちろん工業廃水を浄化してもディオラ杉を育てられるような土は排出されない。魔力も瘴気も生み出さない。だが、浄化機能だけでも立派なものだろう。

 先月、なんとか実用可能な物が試作品として出来上がった。小型化が今後の課題だ。


 スライムが異界のヘドロを浄化して生み出す良質な土の供給のために私が考案した魔力プラントは、ディオラ杉の栽培のために未だに細々と稼働を続けている。安全装置は何重にも設けてあるとは言っても瘴気は危険なものなので、相変わらずビジャ湖の周囲には樵達意外に人は住んでいない。

 しかし、鏡のように澄んだ湖と巨大なディオラ杉の特異な景観を一目見ようと集まる観光客の要望に応え、魔力プラントの周辺に立ち入らないような観光道路が整えられつつある。

 おかげで町へ買い物に出るのがだいぶ楽になった。


 ダフネは相変わらずだ。

 

 ウルバーノに加担して虚偽の依頼を捏造した罪で組合長を辞したが、以前と同じように組合に併設された家に住み、たまに私の家に遊びに来る。治癒師の仕事をしながら、組合のご意見番のような事をしているようだ。


 ウルバーノは傭兵の資格を剥奪されたが、結局まだ傭兵のような仕事を続けている。

 ウルバーノはその世界ではかなり有名人だったので、傭兵資格を剥奪されたとは言ってもその名声を頼って個人的にウルバーノに仕事を頼みに来る依頼人が後を絶たなかったらしい。各地の組合で匙を投げられた依頼人が、人の評判を頼りに彼に流れ着くというわけだ。

 本来ならば傭兵資格を剥奪された彼が仕事をするのはあまり良くない事なのだが、事情が事情であるので、組合側も目を瞑っているようだ。

 今日も彼は仕事で不在だ。組合を通さないので、その報酬には上限がない。エンリケの借金は私が背負い直したので、彼にはかなりの個人資産が手付かずで残されているはずだが、その資産は増える一方だ。一体どれだけ稼ぐ気なのだろうか。


 稼ぐと言えば、意外だったのはフェリシアーノだ。

 私は雑誌に載ったフェリシアーノの写真を感慨深く眺めた。見出しはこうだ。


『死にたがりの悪魔に喝?! 死体愛好者によるニュービジネス』


 一度白雪姫になった悪魔が死への欲求を喪失する事例は今までにいくつも報告があった。私もラミラに聞いた事がある。死の契約に失敗して白雪姫として嬲り者にされた事のある悪魔は死を恐れるようになるそうだ。そしてその死への恐怖は責め苦が苛烈であればあるほど強い。しかし、悪魔が死に損なったままで居る事は通常は起こらない。


 悪魔の家族がそれを許さないからだ。


 契約のスペシャリストを自負する悪魔には死の契約の失敗を何よりも恥じる文化がある。

 契約に失敗した悪魔はたとえ本人がどんなに死にたくないと思っていても、あの手この手で説得され、どうせ放って置いてもすぐに死にたくなるはずだと諭されて、まるで贈答品を紙で包むようにしめやかにあの世へと送られてしまう。


 そんな悪魔の伝統を覆す事業がフェリシアーノ・マジョルガによって始められた。

 悪魔の強すぎる死への欲求を発散させ、生まれ変わらせるのだ。


 具体的な方法はこうだ。

 簡単に破棄する事の出来る死の契約をわざと悪魔に結ばせ白雪姫にし、とても口には出せないあれやこれや、つまり散々に嬲った後で、契約を破棄して悪魔を元に戻す。そして生き返った悪魔はもう死にたいなどと決して口にしない。新たな生に喜びの涙を流し再び生きていく事が出来る。

 悪魔にとって強過ぎる死への欲求は種族としての特性であり、恥ずべきものではなかった。だが、無限の可能性を秘めた悪魔という生き物を早過ぎる死へ追いやってしまう事が惜しいのもまた事実であった。この先長く生き続けていればどんなに素晴らしい功績を残しただろうかと思えるような優秀な悪魔達が、この死への欲求に逆らえず、何人も志半ばで死んでいった。悪魔自身も常々それを残念に感じていたのだ。

 今まで、死の契約に失敗した悪魔が生き永らえる事が恥だとされていたのは、契約の徒たる悪魔がその契約に失敗しては悪魔としての価値はないと見做されても仕方がない、という考えによるものだ。

 不備のある契約も不備があると分かった上で自ら進んで行うのならば何の問題もない。むしろ、未知に挑むのは悪魔の嗜好に合った。そしてその惨たらしいやり方はむしろ悪魔を非常に強く惹きつけた。

 ではあるものの、始めのうちフェリシアーノは全く信用されなかった。

 当然だ。

 彼が悪魔を騙して大量の白雪姫を手に入れ、闇の市場に売り捌かないと誰が言えるのか。彼自身の性癖も問題視された。白雪姫化したエンリケを彼が手に入れた事は結局公にはならなかったが、彼が死体愛好者であるのは有名な話だった。

 フェリシアーノは信用されるために手段を選ばなかった。

 死の契約はその性質上、悪魔以外に必要とされる事はほとんどないが、実は誰でも使う事が可能だ。フェリシアーノは自らも死の契約を行った。不備のない、完璧な。


『フェリシアーノ・マジョルガの責任の元に死の契約を結ばせ白雪姫となった悪魔が、契約期日までに蘇らない事が一度でもあったら死ぬ』


 そして彼はその契約書を公表した。

 フェリシアーノは莫大な財産をこの事業に注ぎ込んだ。悪魔の疑似死体である白雪姫はそれ自体がとてつもない貴重品である。それを何体も安全に保管しなければならないのだ。傭兵を使って護衛させるのも簡単ではない。何せ白雪姫の価値は傭兵を裏切らせかねない。

 実際に初めのうちは何例か傭兵に白雪姫が盗み出される事があったようだ。しかし、フェリシアーノは自らの命を賭しているとは思えないほど冷静かつ冷酷に裏切り者を処分して悪魔との約束を守った。

 こうして実績を積むことで、やがてその熱意は実を結んだ。

 遊びとしても刺激的、そして終われば無限の可能性が手に入る。酔狂な悪魔達がこの新しい仕組みを受け入れるのにそう時間はかからなかった。

 それを行う上での安全を保障するフェリシアーノ、彼の率いる有限会社『硝子の棺』社は急成長した。おそらくこれから需要はもっと伸びるだろう。


 フェリシアーノのインタビューが雑誌に載せられている。


『エンリケが僕の元を去って行ってから、僕はまるで抜け殻のように過ごしていました。そんな時です。クラウディオ・エストラダ、ホロス社の代表、その時はまだ副代表でしたが……僕を訪ねて来たんです。彼はエンリケがまだ僕らの世界に居た頃は僕をとても嫌っていました。僕も有能で厳しい彼が怖かった。しかし、エンリケの虜という点では僕も彼も同じでした。憔悴した彼を見て、僕はエンリケが死んでから初めて誰かを元気付けたいと感じたように思います。

 なんと彼は、エンリケからの手紙を僕に届けに来たのでした。僕の事をおぞましいと彼ははっきりと言いました。仕方ないですよね。僕も僕の性癖が厭わしい。しかし、彼はエンリケの意向に添いたかったのです。ただそのためだけに憎くて仕方ない僕のところへ愛しいエンリケからの手紙を持ってやって来た。たとえ彼が僕を嫌いでも、僕はエストラダを尊敬します。

 手紙にはこの事業の概要が書かれていました。それから僕に対する謝罪です。彼はずっと前からこの事業を考えていたらしいのですが、ある事情があってそれを僕に言うのを後回しにしていたようでした。本当にそれだけしか書かれていなかった。僕は笑いました。あまりにもエンリケらしいから。笑いながら泣きました。彼はこんな僕を世界に必要としてもらう方法をずっと考えていてくれたんです。

 エンリケは僕に対する憐憫や愛情でこれを書いたんじゃないって事は分かっています。ただ純粋に悪魔達が永らえる世の中を見てみたかったんでしょう。そして思い付いたらやらずにはいられない、それがエンリケだ。

 僕と同じ性癖に苦しむ人々、彼らは罪深い。それは僕にも否定出来ない。誰が悪いかと言えば彼ら自身が悪いでしょう。間違っているし、醜い。僕だって好きになれない。けれどエンリケはそんな湿っぽいものを何もかも無視して、僕らを使う方法を考えてくれた。

 僕はそれに報いたい。そのためには命すら惜しくはないのです』


 硝子の棺社で生まれ変わった悪魔達は次々と成果を上げているらしい。新型畜力機により動力源問題がほぼ解決された事も追い風となり、ここ一年で魔法機械の世界は格段に進歩した。

 死にたがりであるが故に他の種族から脅威とはみなされないで済んでいた悪魔だが、こうなってしまうとどこまで成長するのか想像もつかない。悪魔以外の種族、主に妖精は悪魔が他の種族を駆逐しようとするのではないかと危惧しているらしい。

 そうなるかもしれない、そうならないかもしれない。

 だが、この世の中はこれから確実に面白くなるだろう。

 悪魔にとってもそれは同じはずで、そしてその面白さはこの世界に多様性があってこそであろう。

 硝子の棺社の事業は倫理的には許されない事も多分に含まれている。現に堅物の妖精の貴族達は眉を顰めるし、硝子の棺社で死体愛好者が白雪姫を苛んでいる動画が流出して問題になった事もある。

 けれど、これだけは事実だ。

 悪魔から硝子の棺社への依頼は増え続けている。

 死体愛好者達はどんな経緯であれ必要とされている。

 実際にその現場を見れば惨たらしさに気分が悪くなるに違いないのだ。そんな事は嫌というほど分かっている。


 それなのに、私はこの記事を読んでただ浮かれている。エンリケが初めて人工頭脳の原理を発表したあの時のように。


「まさに、天才の所業か……」


 溜息を吐いて、テーブルの上に突っ伏した。本の山の間に顔を埋める。取り寄せた論文の写しが足下に散らばった。

 もうあれから一年近くが経った。

 目を瞑れば浮かんでくるのはあの真っ赤な瞳、今も耳に残る私を臆病だと詰る声。

「何なんだよ、本当にさ……」

 ハコブの招待を受けてエンリケと話す機会を得た私だったが、気が付くと、エンリケとハコブが消えたホロス社の喧噪の只中に立っていた。隣にはウルバーノが居て、呆然と立ち尽くす私を怪訝な目で見ていた。

 かなり長い時間が経ったように感じていたが、どうやら現実の世界では一瞬の事だったようだ。ウルバーノやラミラにはすぐに事のあらましを打ち明けた。というよりあまりに混乱していて誰かに話さずには居られなかったのだ。

 ハコブが言った事も気になった。

 家に保管してあったエンリケのプレゼントの黒いリボンの切れ端をラミラの力を借りて詳しく調べ直した。因果律の魔法の解析は人族には荷が重い。

 分かったのは、このプレゼントには条件によってどちらか一方が発動するように、二重の呪いが掛けられていた、という事だ。

 沼の瘴気とヘドロに反応して私の運気が下がるようにするのと同時に、もう一つの仕掛けがあったのだ。

 

 私の髪の毛に反応して発動するその仕掛けは、私に降りかかる不運を全て代わりにエンリケが引き受けるという物だった。


「どういう意味なの、これ……」

 笑うしかなかった。

「きっと、そのままの意味よ。エンリケは前に私に言ったわ」


『何かを得ようとする時に、僕はそれと同じぐらい大切な何かを失う覚悟をしてから動くことにしているんだ。他人から見たら、どんなに馬鹿げていても、僕にとっては常に等価なのさ。この間、僕がドロテアにした事を君は狡いと思うかい? でも、僕の中ではそうじゃないんだよ。全く正当な手続きを踏んだ上でなされた事だ』


「分からないよ……だって、それじゃ」

「エンリケにとってはあなたが自分の贈ったリボンを身に着けてくれるという事は、身代わりに災難を引き受けてもいいくらいの事だったって事でしょう。贈り物を捨てられるのは、本当は嫌だったのよ。代償としてあんな化け物を生み出してしまうくらいにね。言わなかったけど、あの頃のあなたの髪の毛は長くて、たぶんそのリボン、きっとあなたに凄く似合ってたはずよ」

「だ、だって、あんな! あんな事言われたら誰だって」

 散々醜いだのなんだのと罵られた事を思い出す。

「だから、エンリケに自由はなかったの。決してあなたに気付かれないと分かっている所にしか自分の感情を出す事が出来なかった。でもそれすら巧みに利用して因果律を歪めないようにあなたを守っていたのよ」

「そんな……」

「ねえ、ドロテア。あなたがエンリケとハコブと最後にした会話を教えてくれてから私はずっと考えていたの」

 ラミラは立ち上がり、本棚の上に置きっぱなしになっていた雑誌を私に手渡した。

「これ、読んで」

 エンリケが表紙を飾る女性誌だった。ブリサ借りた物だが、返しそびれてそのままになっていた。エンリケの長いインタビューが載っていたが、私は以前、途中で読むのを止めたのだ。

 言われるままに読み始めた。

「ここ、最後のところよ、好みのタイプは? ってところ」


『好みのタイプは? :ええ? そういう事聞いちゃう感じですか?(笑) んんー、なんだろ。え、女性誌でオッケーなラインで?(笑) あ、はい了解です。まあ、僕の初恋の相手がそうだったってだけなんですけど……』


 エンリケから滲み出るこの勝ち組感は何なのだ。妙に苛つく。しかし、そんな気持ちは次の項を捲った瞬間に霧散した。


『初恋ですか?:そう、その娘がえへへって笑う娘だったんで、なんかそうやってて笑う娘に弱いんですよねえ』


 ずっと言おうと思ってたんだけど、君、その、えへへって笑う癖、なんとかした方がいいよ


『凄く馬鹿っぽいし、下品だし、餓鬼臭いと思うんだけど、聞くと堪らない気持ちになるんです。かなり特殊な趣味の自覚はあります。たぶんあの娘の笑い声が気に入ってるなんて奴はこの世界に僕だけだろうな』




 そっちの世界に僕はもう居ないんだから……




「嘘だ……なんで、だってもしも私が読んだら……」


 もし万が一私が彼の気持ちに気付いていたら、きっと全く違う結末を迎えていたはずだ。

「そうね。私でも分かったくらいだから、いくら鈍いあなたでもエンリケの気持ちに気づくでしょうね」

「私が絶対にこの部分を読まないって分かってたの?」

「そうじゃなきゃ、こんな事しないでしょ」

「そんなの……なんのために!」

 訳の分からない憤りを抑えきれずに叫んだ。

「ねえ、ドロテア、聞いて。私はエンリケを可哀想だとは思わないけど、エンリケの気持ちを代弁出来るのはたぶん私だけなの」

「いやだ! 聞きたくない!」

 泣きながら遮るが、ラミラは止めなかった。

「駄目よ。あなたは知る義務がある。ねえ、専門学校時代のプロムの事を覚えている?」

 覚えている。エンリケに大勢が見ている前で侮辱されたのだ。

 なんとなくラミラの言いたい事の想像がついてしまった。

「やめて!」

「楽しかったわよね。私もよく覚えてる」

 

 大人しく似合わないドレスでも着て、一人で壁際に猫背で立ってればいいじゃない。そしたら、僕が背中に張り紙でもしてあげるよ。『私は惨めな処女です。誰か私の処女貰って下さい』ってね!


「今なら分かるわ。あなたがもしも本当にドレスを着て独りで所在無げにしていたら、たぶんエンリケはずっとあなたの傍に居たはずよ。散々に馬鹿にして、からかって、でも心底楽しんで、絶対に誰もあなたに近付けないように」

 そんな事があるだろうか、けれど絶対にないと言い切る自信はなかった。

 私の中の何かが叫ぶ。


 ラミラの言はおそらく真実だと。


 ただ馬鹿にされていると思っている方がどんなに楽だったか知れない。

 こんな身の内の柔らかい部分を無理やり引き裂かれるような思いは知りたくなかった。

「ねえ、ドロテア、聡明なあなたなら私が言うまでもなく知っていると思うけど、好きの反対は嫌いじゃないって良く言うわよね」

「……」

「無関心以外の僕の全て……エンリケが言いそうな事だわ」

「……どうして私にこんな事言うの?」

 知らなければ、素直にウルバーノを想っていられた。この世界で平穏に生きる喜びに浸っていられたのに。

 分かっている。これは八つ当たりだ。

 知りたくないのなら、調べなければ良かったのだ。


 私は知りたかった。そして、知ってしまった。


「ごめんね、ドロテア、あなたは何も悪くないのに。でもね、私たぶん凄く悲しいの。悲しくて悲しくて、悔しくて、まるで自分があなたに失恋したみたいな気分あのよ」

 ラミラは悲しそうに微笑んで泣きじゃくる私の頭を優しく撫でた。

 この悪魔の親友はいつだってとても私に甘い。

 

 それもこれももう随分と昔の事になってしまったような気がする。

 今は穏やかに毎日が過ぎて行くのをただ眺めている。ウルバーノもダフネも樵達もコルテスもトリスタンも皆元気だ。カーサス地方の人々、かつて私に石を投げた彼らも。


 私も前を向いて歩き出す。そう決めた。




「ドロテア、居る?」

「……っ」

 玄関先から遠慮がちなラミラの声が聞こえてきて我に返った。

「ラミラ! いらっしゃい」

 ラミラは浮かない顔だった。

「ねえ、ダフネさんに聞いたわ」

 嫌な予感がする。

「ドロテア、ウルバーノさんにお預け食わせてるって本当?」


 ダフネさん!


 上品なはずのラミラがダフネから聞いたそのままの言葉を繰り返すのだから、堪らない。

「もう、ダフネさん、何言ってんだか……お預けってそんなまるでウルバーノさんが私に迫ったみたいな言い方して。ウルバーノさんにこの私が迫られたりするわけないよ。あるとしても逆だよ、どっちかって言うと私が迫る側だから! まあ、そんな勇気ないけどさ」

 目を逸らして早口で続けた。

「ほ、ほら私さ、凄くもてないし、その上処女こじらせてる気持ち悪い奴だから、それがダフネさんからするとそう見えるのかも……」

「ドロテア!」

 ラミラは珍しく鋭い声を上げた。

「大丈夫だよ! ウルバーノさんは凄く人間が出来てるし、傍に居てくれるだけでも本当に恵まれてるなって毎日思ってるよ」

「ねえ、話を聞いて、ドロテア、せめてこっちを見てよ」

「本当になんでもない」


「じゃあ、何でそんなにボロボロなのよ!」


 ついにラミラが激昂して大声を出した。

「……っ」

「せっかくお肌も綺麗に戻ったと思ったのに、また顔が出来物だらけじゃない! こんなに痩せて、目の下に隈作って、瘴気はもうないのに、沼がヘドロだらけだった時よりずっと酷い! それなのに私達には必死でいつも通りを装って! 自分を苛めるみたいに仕事して! もう一年近く経つのに、あなたは立ち直るどころかどんどん弱って行く。このままじゃあなた……」


 そうなのだ。私の肌の状態はウルバーノが来る前のように見るも無残な状態に逆戻りした。

 トリスタンにも笑われた。


 なんだ、また元通りの不細工じゃないか、まあ、その方が君らしい、と。


 私もそう思う。心が醜い私には醜い外見がお似合いだ。

「大袈裟だよ……工場排水の浄化装置の改善点をいくつも言われちゃってさ、売りたいならもっと効率良くしてくれって、簡単に言うよねえ」

「いい加減にして! 見てられないわ。浄化装置ですって? じゃあ、これは何よ!」

 ラミラは床の下に落ちていた論文を拾い上げて私の目の前に突き出した。

「な、なんでもない!」

 慌てて取り返す。

「召喚術に因果の魔法、悪魔、始祖ペドロとニコラ、異界、代償による魔力の増幅……浄化装置の改良にはこんなの調べる必要ないはずでしょう? 魔力の少ないあなたがどうするつもりよ?! ニコラみたいに身体の一部でも差し出す気?」

「……っ」

 分かっている。どんなに私が望んでも、どんなに身を削って代償を差し出してもエンリケはもうこちらへは帰って来ない。来られない。因果律がそれを許さない。

 彼自身が代償なのだ。対価なのだ。買い戻すには彼以上に価値あるものを差し出さなければならない。そんなものは私にはどうやっても調達出来ない。嫌と言うほど分かっているのだ。

「もうやめてよ、お願いよドロテア」

 

 ショッキングピンクの瞳に目いっぱい涙を溜めて覗き込まれ、逃げ出したくなった。

 

 何か別の話しなきゃ……駄目だ。思いつかない。

 

 ゆらゆらと視線が定まっていないのが自分でも分かった。

「私のせいよね……エンリケの事を無理やりあなたに分からせたから」

「ち、違う!」

 それは違う。ラミラが言わなくても、きっと私は確かめずにはいられなかった。ラミラのせいではない。

 エンリケがこれまで何を考えていたのか、それが明らかになるにつれ、私は混乱し沈み込んでいった。ウルバーノはそんな私を庇うように何も言わずに傍に居てくれた。けれど、私が動揺する事でウルバーノが傷付いているのが手に取るように分かった。

 それが辛くて、私は感情を表に出す事をやめた。


 毎日、独りきりになった途端、何度も何度も嘔吐した。


 ウルバーノは私に迫ったりなどしていない。ダフネのお得意の意訳というやつだ。

 美しい彼は醜い私の痩せて筋張った手を取って、静かに言った。


 苦しいか?

 お前の中のエンリケを俺がいつだって消してやる。お前さえ、許可してくれれば、すぐにでも。


 私はそれに即答出来なかったのだ。

 それが、拒否と同じ意味を持つ事は私にも分かっていた。

 

 何様なんだ、私は……

 

 こんなにも優しい人を傷つけて一体何をしているのだろう。エンリケの本心に動揺する自分が情けなくて、消えてしまいたかった。


 私はウルバーノが好きなのだ。ウルバーノが大好きなのだ。


 一人の悪魔を忘れたくないと一瞬でも思ってしまった、ただそれだけで自分の濁りが許せずに、捧げるのを躊躇してしまうくらいに。

 自由になるためにエンリケを助けたつもりでいた。けれど結果は逆だった。私はどうしようもないくらいに彼に囚われてしまっている。

 どんなにウルバーノを想っても、私の代わりに異界へ召された赤い目の錬金術師を片時も忘れる事が出来ない。この想いが恋や愛ではないのは分かっている。けれど、こんな状態でウルバーノの手を取る事など出来るわけがない。


 いや、本当は出来るはずだ。


 人間の心など、所詮、移ろいやすい物でしかない。

 覚悟を決めて選択をすればいいだけなのだ。ウルバーノと居る未来を。誰も咎めはしない。割り切ってウルバーノに身を任せればきっと楽だ。肌も綺麗になるし食欲も戻るだろう。

 それは嫌というほど分かっているのに、出来ない。

 結局のところ私はエンリケをまだ過去にしたいと思っていないという事だ。



 決して、もう二度と帰って来ないと分かっているのに。



「エンリケ……」



 気が付くとずっと口に出すのを自ら禁じていた名前を口にしていた。


 ウルバーノは今、傍に居ない。だからこそ余計にその名を呼ぶのに背徳感を感じる。けれど自分でもどうしようもなかった。膝が勝手に崩れ落ちた。


 たった一言、そのたった一言で。


 濁流に押し流されるようにしてどんどん自分が最低な人間になって行くのが分かった。

 それでも構わなかった。

 血のにじむ吹き出物に涙が沁みた。

 夏の日差しに照らされてきらきらと輝く湖面も、雄大な森の木々も何も見えない。

 閉じた瞳に映る色は真っ赤な血の色だけだ。


 口の中いっぱいの涙と甘い罪の味。




「呼んだ?」






「……へ?」






 忘れがたいあの声、しかし記憶にあるものよりも少し低く、深い。涙に滲む目を見開いてもすぐには焦点を結ぶ事が出来ない。

「な、なんで……」

 ラミラの驚愕に裏返った声が聞こえる。

「なんでって、まあ準備が出来たからさ。タイミング良く呼ばれた時に来られたのは……たぶん因果がもう僕を邪魔しないから、かな?」




 エンリケだった。



 

 私の家の居間にあの悪魔が現れた。

 あまりにも唐突だった。

 全くなんの気配もしなかった。

 そよと風が吹く事さえなかった。

 しかし、間違いなくエンリケだ。ぺたんと床に座り込む私の前にエンリケが片膝を突いている。

 桃色の髪、禍々しい力を帯びた真紅の瞳、異常に美しい悪魔の男、これほどまでに危険な気配を漂わせる存在は他にない。間違いようがない。

 しかし、記憶にある姿とはまるで違っている。


「エンリケ、なの……?」


「なんだい? いくら君でもさすがにこの僕が僕である事ぐらいは分かるだろ?」

「だって、なんだか全然前と……」

「ああ、育ったからかな?」

 特徴的な三本の三つ編みにしていた桜貝色の髪の毛は短くなり、無造作に流されている。身体付きも変わってしまった。少年、もしくはとても背の高い女性のようであった柳のようにしなやかな身体にはしっかりと筋肉が付いている。ありふれたシャツと上着を着て、裸足の足が泥で真っ黒に汚れている以外は、休日にその辺の図書館で読書を楽しんでいてもおかしくはない恰好だが、纏う気配は戦士以外の何物でもない。

 傾国の美貌はそのままだが、もうどう見ても女性には見えない。齢の頃は人間で言えば、二十代後半と言ったところだろうか、異界に召される前のエンリケと比べると年嵩に見える。

 そして、最も特筆すべきはその右腕だ。

 風に揺られるシャツ袖の中身は空虚だ。

 

 片腕がない。


「久しぶり」

 エンリケは穏やかに笑った。

 異界へ召される前と比べて格段に丸くなった。

 つい何でも話してしまいそうになるような包容力のある笑顔だ。けれど私にはなぜか以前よりもさらに危険さが増しているように見える。

「君は酷い顔だな。嬉しいね、僕のせいだろ? 寂しかったんだ、そうだね?」

 エンリケはますます美しくなっていた。

「お待たせ。本当はもう少し早く来れたはずだったんだが、引き止められちゃってなかなか説得するのに時間がかかった」

「ど……どうして……」

 もう二度と帰って来ないと思っていた。

「いや、苦労したよ。せっかく呼び寄せた大事な火種を奴らが簡単に手放すわけがないと思ったんで、僕は奴らを残らず従わせる事にした」

「従わせる?!」

 何でもない事のようにエンリケは言った。

 しかしとんでもない事のような気がする。つまり彼は、こちらの世界に帰ってくる、ただそれだけのために海千山千の化け物達蠢く異界を制圧した、そう言いたいのだろうか。

 しかし頭が混乱し過ぎて理解が追いつかない。私の動揺を楽しむかのようにエンリケは滔々と語り始めた。

「大変な騒ぎだったな。あちらの生き物の数は一気に三分の一にまで減った。その後、十数倍に増えたと言えば、どれだけ大変だったか分かるかい? 僕があちらの世界を制圧するだけだったらそこまで犠牲は出なかった。半分以上は僕を奪い合うための争いだ。気が逸って枕営業を安売りし過ぎたせいかな、失敗だったね」

 はにかむようにエンリケは笑った。

「ま、枕営業……枕営業?!」


 それは……つまり?


「そうさ、僕も必死だった」

 エンリケは微笑む。途端に甘い蜜が滴り落ちるような危険な色香がエンリケの唇に蘇る。

「こっちじゃ使わなかったけど、色仕掛けもハニートラップも全部使ったよ。案外役に立ったなあ。持てる全てを使わされた」


 エンリケはどこか誇らしげだった。

 何者にも貶められる事のない矜持を持っている者の揺るぎない強さがあった。


「きっとこちらの世界が生まれてから今までに死んだ人間の数よりも犠牲者はずっと多いだろう」

 エンリケが居なくなった後もこちらの世界はエンリケによってかなり変わったと思っていたが、それでもお釣りが来るぐらいにあちらの世界には大変革が起きていたらしい。彼は一体どれだけの業を背負っているのだろう。

「あちらの世界はこちらと比べて恐ろしく時間の流れが速い。こちらの世界では一年にも満たない間に、向こうでは途方もない時間が流れているんだ。僕ら悪魔はこちらの世界では不老不死だと思われていたが、それは死の契約が存在するせいと、その他の生き物が短命過ぎるが故の誤認だよ。正確には僕ら悪魔は不老ではない。気が遠くなるような長い時間をかけて老いる、少しずつ少しずつ。それでも向こうの奴らは皆不死身だから、老いる生き物というのは得難い貴重な存在だ。老いる、つまり死ぬまで成長をし続けるって事だからね」

 エンリケはにかっと快活に笑った。こちらの世界ではした事がないような力強い表情だった。

「成長するというのはとてつもない強みだ。死ぬその瞬間まで無限の可能性がある。事実、僕は強くなった。大抵のあちらの生き物が太刀打ち出来ないくらいにね。この僕に不可能はない」

 不遜な言葉もエンリケが言えば不遜ではなくなる。

「そちらから召喚されずに異界へ渡る方法はハコブが苦労して編み出した技らしくてね。生粋の彼でも習得するのに途方もない時間がかかったらしいんだが、僕はそれすらも手に入れた」


 掬い上げるように笑みを含んだ甘い瞳で見つめられて、動けなかった。


 ぐっと逞しくなり、もう決して女性的には見えないのに色気が増すとは一体どういう事なのか。彼を巡って壮絶な争奪戦が起きたというのも頷ける。


 そのエンリケが近づいてくる。

 瞬く羽のようなまつ毛が私の前髪に触れそうだ。


「……っ!」


 が、その瞬間エンリケは舌打ちして振り返る。

 私を背に庇うようにして腕を広げた。一体どうしたというのか。


「ハコブ、なんなんだい? 付いて来るなって言っただろ。こっちの世界にそんな奴を連れてきてどういうつもりだ?」


「……な、な……」

 ラミラが家の外と見て立ち尽くしている。

 次から次へと一体どうしたというのだ。しかし窓の外を見た私は途端に凍り付いた。


 そこに現れたのは家ほどもある巨大な蠅だった。


 桁外れの大きさと鮮やかな緑色と黒の複雑な文様が描かれている他はこの世界の蠅と変わらない。

 不吉極まりないが、どこか優美な姿で湖の畔に鎮座している。

 その隣には黒髪の青年が居る。ハコブだった。彼もまたとてつもない力の持ち主であるはずだが、巨大な蠅の隣では彼も小さく見える。

「仕方ないだろ? モスカがあまりにも寂しそうだから、周りがうるさくてさ。君も知っての通り、僕らの世界の時間の流れは早い」

 ハコブがやれやれと首を振りながら家の中に入ってくる。こちらはエンリケと違って少しも変わっていない。

「すまない」

 思慮深く理知的な声がどこからともなく聞こえて来て、思わず周りを見渡してしまった。

「君の意思を尊重したかったが、君の不在が私にとってこんなにも辛いとは思わなかったんだ。君は私達と違って日々変化していく。全ての君を見られないなんて耐え難い苦痛だ」

 どうやらその声を発したのが、家の外に止まっている巨大な蠅らしいと気付いて、再び度肝を抜かれた。

 

 喋るんですか!


「堪え性の無い糞虫が……そんなに僕のお仕置きが欲しかったのか?」

 蠅に応えるエンリケは蕩けるような表情だったが、口調は氷のように冷たい。

「君が寂しくないように、僕の右腕を置いて来てやっただろう? まさか、我慢できずに食べてしまったのかい?」

「食べたりなどするものか、毎晩君の代わりに愛でていた」

 どうやら本気で言っているらしい真面目な声に怖気が走る。この巨大な蠅がエンリケの右腕をどのように愛でるのかなど想像もつかない。

「まあ、いい……」

 エンリケは目を眇めて低く唸った。

「そこでおとなしく見ていろ」

 エンリケは宣言通りに巨大な蠅を完全に無視して私に向き直る。

「ドロテア……」

 肩の下まで伸びた私の茶色い髪の毛を一房取ってエンリケは口付た。

「僕に会いたかった?」

 エンリケは私の答えを待たずに言い募る。

「僕は会いたかった。どんなに時が経っても君を忘れた事はない。君があの狼と一緒に居るところを思い浮かべると眠れなかった。こんな世界は滅ぼしてやると何度も思った、だけど」

 エンリケは私の髪の一房を唇に付けたまま実にいやらしく微笑んだ。



「ありがたい事に君はまだ処女のままみたいだな」



 かっと頬に熱が上った。そこへ、銀髪の男が駆け込んで来る。

「……ってんめえ、エンリケ! ドロテアから離れろ!」

 銀髪が怒りに逆立っている。ウルバーノが騒ぎを聞きつけて帰って来たようだ。

「ウルバーノさん!」

「相変わらず君は威勢がいいなあ。これから探しに行こうと思っていたんだよ。手間が省けた。お祈りは済んだか? 犬ひき肉にしてやる」

「はっは! おい、元もやしっ子。馬鹿言うんじゃねえよ。強くなったのがお前だけだと思ったら大間違いだぜ。元が弱けりゃ弱いほどちょっと強くなると簡単に浮かれるもんだってな!」

 剣呑な光を目に宿し、背中から黒い愛刀を引き抜くウルバーノだ。

 家の中だという事はもはや忘れられているような気がしてならない。

「野犬は無駄吠えが多くて困るよ。まあ、お預けをきちんと守ってたみたいだから飼い犬か? もしかしてもう去勢も済んじゃってるのかい?」

 当てこすられて居た堪れなくなった。

 ウルバーノは一瞬、目を殺意にぎらつかせたが、すぐに不敵な笑みを浮かべる。

「そうやっていい気になってられるのも今のうちだぜ。いいか、教えてやる。お前を待ってたのは俺の方だ、カマ野郎。ドロテアを縛り付けたままでいたいなら、お前は欲望に負けてドロテアに会いに来るべきじゃなかったんだよ! 今この瞬間にお前は俺と同じ土俵に落ちてきたって事だ。俺もドロテアに遠慮してやる必要はもうねえしな!」

 凶暴な流し目を喰らって思わず胸を押さえた。臓に悪過ぎる。

「とっととそこの化け物ども連れておうちに帰れよ、お姫様」

「同じ土俵か! ははは! 君、一度はドロテアに心を貰ったんだろ? 何でそんなに余裕がないんだい? 僕に教えてくれよ」

「……糞野郎」

「まあ、君は今度ゆっくりいたぶってやる。楽しみにしててくれ。今は時間がないみたいだ。面倒臭い僕のファンが着いて来ちゃったからなあ……」

 ちらりと外の巨大蠅を見てから再びエンリケは私に向き直る。剣を抜いたウルバーノに無防備な背中を見せて。


「ドロテア」


 顔を上げて真正面から彼を見た。


「僕を呼んでくれてありがとう」


「……」

「僕は君とまだまだ勝負がしたい。因果の介入なんて野暮なものに邪魔されず、この身を賭けて! ただひたすらに、それだけを夢見て帰ってきた」

 無邪気な子供のように。

「君はどう?」

 宝物を捧げるように。

「本当はね君が何人の男の物になろうと関係ない。いや、貰えるなら貰いたいけど。かなり欲しいけど。でもね、それが大事なんじゃないんだ」

 尊い何かを告げるように。

「今僕はとても楽しいんだよ。こんな気持ちは初めてだ。きっと因果がほとんど平衡に戻ったせいだね。僕にはここから先の未来が全然分からない」

「分からないの?」

「ああ」

「私にも分からない」

「つまり僕らは今、完全なドロー、何物からも自由だ」

 ウルバーノが険しい表情でこちらを見ている。

 エンリケは照れたように小首を傾げた。

 

 私はどうすればいいんだろう。

 いや、どうすればいいかではない。

 どうしたいんだろう。

 

「ドロテア、僕と遊ぼうよ」


 心臓が早鐘のようにうるさい。


 ああ、お腹が空いた。私は今、飢えている。

 食欲がなくて昼飯を抜いてしまったのが嘘のようだ。

 エンリケの挑戦を受けて、食欲だけではない、恋でも愛でもない、罪深く何かとてつもなく大きな欲がむくむくと私の中で鎌首をもたげる。

 それは牙を剥き、思う存分暴れたがっている。

 

 だって、私はまだ一度もこの悪魔に勝てていない。

 理由なんかそれで十分だ。


 目の前には私と同じ種類の獣が居る。


 力の差は歴然、それでも喰い合いたいと望むこの心、私の魂。


 この悪魔と私の勝負はまだまだ終わりそうにない。

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沼地のドロテア 八鼓火/七川 琴 @Hachikobi

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