第36話 代償

 


 気が付くと真っ白な何もない空間に居た。



 その場には私を含めて三人しか存在していない。ハコブ、そしてエンリケだ。 それ以外は何もない空間だった。余計な事を考えるのを何一つ許さないかのような。

「僕に隠れて何かしているのは知っていたけど、ハコブ、勝手な事をしてくれたな」

 エンリケは食い殺しそうな目でハコブを睨んだ。

「僕も賭けをしてみただけだ。君が今までしてきた事と一緒だよ。彼女に賭けた」

 ハコブは感じの良い笑顔で私を見た。

「賭け?」

 一体何を言っているのか。そしてここはどこだろう。私はウルバーノやホロス社の大勢の社員と共に本社の地上階のロビーに居たはずだ。ハコブの作り出した空間だろうか。

「久しぶりだね、ドロテア・スニガさん。ここは……えっと、僕が一時的に作り出した亜空間みたいなもんだね。うん、君の想像の通りで間違っていない」

 当然のように人の心を読んでハコブは穏やかに続けた。

「ドロテア、どこまで君は馬鹿なんだ? こんな化け物と会話する必要はない。あの野犬の所へ帰るといい。ハコブ、とっとと僕の奴隷になり損ねたこの惨めな女を送り返せ」

 エンリケが早口で遮った。

「酷い言いようだな。彼女は君を白雪姫から元に戻すために、もう一度君に莫大な借金をしたみたいだよ?」

「知っているが、それがどうした? 僕が頼んだわけじゃない」

 確かにそうだ。

「ははは! ごめんごめん、これは僕が意地悪だったな、エンリケ。あまりからかうのはやめるよ」

 エンリケは舌打ちしてそっぽを向く。エンリケらしくない余裕を欠いた仕草だった。

「ドロテア、君がもしもエンリケを引き止めなかったらこのまま僕は彼を連れて帰るつもりだった。けれど君がエンリケとの対話を望むなら、彼を連れ出す前に君と話をしようと思ったんだ。そして君は僕の期待通りエンリケを呼んだ。僕としてはありがたかった。ねえ、ドロテア、たくさん気になっている事があるだろう? そりゃあ、そうだよね。僕だって君の立場だったら意味が分からない。エンリケは一体何を欲しがっていたんだと思う? 知りたくないか?」


 知りたい。


「やめろ!」

「いや、やめないよ。このままだと僕も目的を完遂出来ない。燃え尽きて木偶になった君を連れ帰ってもうちの連中が納得するわけがないんだ。エンリケ、期待外れの君は八つ裂きにされる。僕らは補償を求めるよ。それが彼女に降りかかってもいいのかい? きっと彼女は期待に応えるだろうから、僕らはそれでもいいけどね。何度も言うが、僕個人としては君に味方したくなっているんだ。君にはギラギラした欲望の権化で居て貰わないとね」

「諦められないせいで僕がこの先ずっと苦しむ事になっても、か?」

 エンリケが無表情に言った。

「そんな事一体誰が決めた? 手に入らないかどうかはやってみなけりゃ分からない。そんな言葉を口にするような今の君では駄目だという事さ」

 何を言っているのかさっぱり分からない。どうやら、ハコブは異界の住人達を満足させる貢物としてエンリケでは不足だと言っているようだ。私が連れて来られたのは私が候補者のうちの一人だったからだろうか。しかし、どう考えても私がエンリケの対抗馬になるとは思えない。

 ハコブは私の考えを当然のように読んで振り返った。

「そんな事はないよ。ドロテア、君は素晴らしい素材だ。というか、エンリケが巧妙に因果に介入しなければ、君が当確だったんだよ? さっきのエンリケの演説では笑っちゃったなあ。上手い事話を作るもんだよね。僕らの世界の血と君らの世界の血が混ざって生まれた存在だって、まるでエンリケが選ばれる事こそ正当であるかのようにあの場の全員が信じただろう。けど、ちょっと考えれば分かる事さ。半分は僕らの血で出来たの生き物よりも、純粋な君らの世界産の生き物の方がよっぽど贄には相応しい。もっと言うと、僕らの世界の住人達はペドロを魅了したニコラにずっと興味津々だったんだ。君はニコラよりも友達が多いけど、魂が似ている。びっくりするぐらい無私なのに物凄く欲深で、目的のために自分を汚す覚悟がある」

 伝説の偉人、ニコラと似ているとは、光栄だ。だが私より友達少ないとは相当なものだ。よほど辛かったに違いない。異界の魔物に頼るほど寂しかったというのも頷ける。

「それに、エンリケが横槍を入れなければ、いずれ君の論理を元にエンリケが開発したのと同じ自立型の動力源が開発されていたんだ。エンリケの力がなくたってね。君だって理屈自体は思いついていたんだろ? 不可能ではない。ただ時間がかかっただろうけど。そして、栄えある栄冠は君の上に」


 そうだったのか。


 だが、確かにそうかもしれない。私一人の力では無理かもしれないが、たくさんの魔法機械工と協力すれば、エンリケのような一人の天才に頼らなくてもやり遂げたはずだ。能力が限界を決めるのではない。


 そこに利用する価値のある技術がある限り、私達は決して諦めない。


「ドロテア、君はエンリケと出会ってからこれまで、ずっと彼に嫌がらせをされ続けてきた。そうだね?」

 ハコブは私に向き直ると問いかけた。

「はい」

 としか答えようがない。たとえすぐ脇に加害者が居るとしてもだ。

「普通の感覚なら彼の死を願ってもおかしくない。実際、君もそれに近い状態だった。けれど、何か変だと思っていたんだろう」

「……」

「ああ、そうだろう! 僕は君から異界へ召される栄誉を横取りするために画策していたんだから! この僕が君のごときに尻尾を掴ませるわけはないが、違和感はあったろう。認めるのは癪だが、君は僕以外の中じゃ勘がいい方だからな」

 エンリケはどこか必死に言い募る。必死なエンリケなど初めて見たかもしれない。

「栄誉と来たか! ははは、光栄だね。欠片もそんな事は思っていないくせに! だけどドロテア、もし万が一君が異界へ行くとなったらどうなっていたか考えた事はあるかい?」

「え? 私が、ですか?」

 思い出すのはハコブと沼の畔で出会った時の事だ。濃い瘴気の中で防護服をはぎ取られ、咽喉から血を流して苦しんだ。濃い瘴気の満ちる結界の中をハコブは僕らの世界と似ていると言ったのだ。

 それだけではない。こちらの世界の人間とはもう二度と会えない。ウルバーノにも、ダフネにも、ラミラやグアルディイオラ、トリスタンにコルテス、樵達、ブリサ、そしてエンリケにも。

「そう、あんなもんじゃ済まないよ。そしてあちらには瘴気以外の毒素もたくさんある。こちらの生き物はひとたまりもないだろう。君をあちらに連れて行くには君自身を弄る必要があった」

「弄る……」

「具体的に言うと、君の身体を根本から変えてしまうんだ。不老の生き物に作り直す」

 エンリケが不快そうに眉根を寄せるのが見えた。

「不老の生き物はそういうものとして生まれてくる。老いる生き物もまた然りだ。零と一は大きな違いだよ。君の頭の中を全く弄らなくたって、不死身の存在となる事で君の核は必ず歪む。そういう風に出来ているんだ。エンリケの種族が死にたがりなのは、死にたがりのペドロの病を引き継いだせいじゃない。身体はほとんど不死身なのに魂は違う。成長を欲するように出来ている。彼らの強過ぎる死への欲求はその歪みの発露だ。不死になった君はもはや元の君のままでは居られない」


 ハコブは悲しげに微笑む。


 そういうものなのだろうか。

 死すべき定めに生まれついた私には感覚的な理解が難しい。だが、悪魔についての考察はおそらくその通りだろう。彼らがその歪みを克服し成長し続ければ一体どれだけの可能性を秘めた存在になるのか、夢想して空恐ろしくなった事もある。

 親しい人間と一切別れ、自分の身体すら変えられて魑魅魍魎の蠢く魔境へ連れて行かれる。まともな神経の人間では耐え難いに違いない。それこそ、エンリケでもなければ自分を保ったままで居るのは不可能だろう。


「つまり、答えは一つ、君が君のままで居て欲しいと願う存在が居たって事だよ」

 

「……え?」


「僕は驚いたよ。そして同時に嬉しかった。僕らの種族は本当に、ええっと、こちらの言葉で分かりやすく言うと、人でなし、でね。エンリケは僕らの種族の能力をほとんど欠ける事なく受け継いでいるのに、その類まれな能力をたった一人のために使っているんだ。もう永い事」

「たった一人のため……?」

「兄のペドロが去ってから僕はずっと考えていたんだ。僕らの世界を見捨てて、兄さんは何のためにここへ来て、何を得たのか。ただ死に場所を求めて出て行ったわけじゃないはずだって。その答えを見た気がしたよ。不死の僕らには目的が必要なんだ。いずれ死ぬと分かっている命なら生きる事そのものの意味を問う必要なんかない。僕らは不死であるが故に、生きるのにはいつだって理由を必要とする。兄は死ぬために来たんじゃない。この地へやって来てようやく生きる理由を見つけたんだ。そして、それを遂げたから終わりにした。羨ましいと思った。応援したいと素直に感じたよ」 

 ハコブは慈愛に満ち溢れた顔で微笑んだ。

「エンリケはずっと世界を敵に回して戦っていたんだ。なんせ相手は因果律、この世の大いなる辻褄合わせだ。神という言葉は好きじゃない。もっと無機質な何かだ。何かを得るには代償が必要だというシンプルな絶対法則だよ。わずかに捻じ曲げるだけでも莫大なエネルギーが必要で少しの油断も許されない。そして彼はやり遂げた」

 ハコブはエンリケを見た。エンリケは苦虫を噛み潰したような顔で黙っている。

 

 聞きたくない。


 続きを聞くのが怖かった。

 それなのに咽喉が詰まったように声が出ない。


「誇っていいと思うよ。なのにずっと彼はあんな調子でね。見てるこっちが悲しくなる。ドロテア、君とエンリケの関係について僕が口を出すのはずうずうしいとさすがの僕でも良く分かるよ。だけど、言わせてくれ。繰り返すが、彼は少しの油断も許されなかったんだ。自分自身も含めて。相手は人じゃない。物理法則と同じようなもんで嘘は通用しないんだ。それがどういう意味か分かるか? 君に何かを与えるために、彼は同じだけの何かを君から奪う必要があった」


 だって、それじゃ……


「そうでなければ因果は覆せない。君がエンリケに引け目を感じたり、自己犠牲の精神を発揮したりして、きっと破綻しただろう。どんな形で辻褄合わせがやって来るのか僕でも予想は難しいが、とにかく君が僕らの世界に召される未来を変える事は出来なかったはずだ」


「やめろ」


 弱々しい声でエンリケが言うが、ハコブは無視した。



 それじゃ、まるで……



「ドロテア、君はこの数日間が無駄だと思ったかもしれない。けど、エンリケにとってはこの数日間こそが最後のチャンスだったんだ。君から何かを貰うための」

「何か?」

「ぎりぎりだったけど、君はエンリケが目的を達するのに必要な物を与えたんだ。エンリケにとっては不本意だろうけど、彼の予想通りにね」

 予想通り、エンリケは一体いつからこうなる事を知っていたのだろう。悪魔の勘、というのはジョークの類だと思っていたが、ここまで来ると、エンリケに関しては本当にそれを持っているとしか思えない。

「そうだ。エンリケの能力は兄のペドロや僕と近い。君の父君が僕らの世界から瘴気を呼ぶ性質を備えたスライムを開発したのは君が魔法機械工の専門学校に入学してからだったね。それからじゃないか? エンリケがやたらと君につらく当たるようになったのは」


 そういえば、そうだ。


「エンリケは気付いていたんだ。君が世紀の発明の祖となりやがて僕らに連れて行かれる定めである事を」

「は?」

 思わず口が空いた。

 一体何がどうなってそんな予想が可能だったのだ。しかもハコブの言を信じるならエンリケはかなりの確度をもってその荒唐無稽とも思えるような自分の予想を信じたという事になる。

「物理学の世界ではすでに否定されているが、有名な思考実験があるよね。然るべき高度な知性体に然るべき情報を与えれば、正確な未来予測が可能となる、っていう。あれと似たようなものかな。ああ、理解する努力は無駄だから止めた方がいい。僕らと君では元の作りが違う。そういうものだと思ってくれ」

 まさに悪魔、という訳か。

「エンリケは速やかにその予想を覆すために行動を開始した。君に嫌がらせをして、君から尊厳や女としてのプライドやそういった物を次々と奪って君から徹底的に嫌われた。間違ってもエンリケが君のために何かするなんて思われないためと、君をこれから助けるにあたり少しでも不公平が是正されるように保険の意味もあったんだろうな。そうしながらも、そこかしこに君から何かを貰う罠を仕掛けて、本当に矛盾しているけど、君がその気になればいつだってエンリケの思いに気付けるようにしてあったんだよ。けど、それが全て無駄に終わる事も知っていた。なんせ彼はかなりの精度で未来が分かる。万が一、万が一を期待して、同時にそれが叶えられる事を恐れていた。君からそれが手に入ってしまえば、きっとエンリケは自分が何もかもどうでも良くなって、目的を達せられなくなると知っていたんだ。そして鬱屈を紛らわしながらあの瘴気を魔力に変えるスライムが出来上がる日を待っていた」

 それが、本当ならあのエンリケの嫌がらせの数々は全て計算づくという事になる。私を罵る彼はあまりにも生き生きとしていたので、俄かには信じがたいが、ハコブが嘘を吐くとは思えない。


 そうだ、ハコブは嘘を吐かない。


 圧倒的な力を持ち、何でも自分の思い通りにする能力がある存在は嘘を吐く必要などない。自らを偽って貶める必要がない。

 

 それなのに、ハコブほどとは言わないが、それに近い能力を持っているはずのエンリケはずっと嘘をついている。


「そこからは、エンリケがさっきみんなの前で言った事とそう変わらない。エンリケは大急ぎで新型畜力機を完成させ、無理やり君の因果を肩代わりした。誰だって無理やり違う世界に連れて行かれるのは嫌だよね。エンリケだって本当はまだこの世界に居たかったはずだ。でも君を奪われるくらいならと自ら身代わりになった。それでもまだ、足りない物があった。君からの対価だ……」

 ようやく分かって来た。因果律の恐ろしさが。

 それが見えてしまうが故にそれを相手取って戦わざるを得なかったエンリケは一体どれほどのものを差し出したのだろう。

 このまま私だけがエンリケに一方的に助けられて終わり、にはならないのだ。エンリケに何かを貰うからには私もエンリケに何か返さなければならない。そうでなければ、私はそれ相応の報いを受ける。おそらく、身体を作り替えられ異界に連れて行かれるのと同等、いやそれ以上の苦しみを伴う報いを、別の形で。


 それが因果律だ。


「因果律は誰にでも平等に代償を要求する。それを見届けずに異界へ渡るのは怖かった。代償として君がどんな物を奪われる羽目になるはずだったか挙げてみようか、エンリケの狂信者に嬲り殺しにされる、畜力機の開発中にスライム達に飲み込まれる、予想ではどの可能性も惨たらしいものだった。それほどまでに因果の力は強い。それを未然に防ぐために、エンリケはどうしても君に何かを貰わなければならなかった。そのためだけに、彼はフェリシアーノを傍に置いていた」

 確か、フェリシアーノとエンリケが出会ったのは専門学校に在籍している時だったと思う。そんなにも昔から彼はこの事態を予想していたというのか。私に自分の窮地を救わせるためだけに、白雪姫になった自分を好きに嬲っていいなどという酔狂な契約を彼と結んだのか。

「誰がどう見ても、君がエンリケに助けられるに相応しいだけの行いを君にさせる必要があったんだ。そして君はエンリケがしてきた数々の狼藉、果ては奴隷にしようとするなんていう暴挙すらも関係なく、自分で道を選び取り、莫大な借金を再び背負ってエンリケを助けた。そして今、エンリケと本気で向き合う事を選んだからここに居る。さすがニコラの眷属だ。個人的な恨みつらみなんて軽く無視して正解を掻っ攫う」


 混乱していた。


 ずっと私はエンリケに疎まれていると思っていた。

 何がしかの事情はあるに違いないとは感じていたが、それだけは疑った事がなかった。ハコブの言を信じるなら、エンリケはずっと私を異界に連れて行かせない、ただそれだけのために行動してきたという事になってしまう。

 なんという自己犠牲だろうか。エンリケには全くそぐわない。


 そんなの、嘘だ。

 

 ありえないが、それが真実だとすれば一つの事しか意味しない。


「エンリケ……私のためだったの?」


「……」


「どうして……!」


 私達の間には何もなかった。

 あったとすれば彼からの一方的な嫌がらせ、それを訝しむ私の心、そしてそれは結果に過ぎない。

 彼からそんなにも大きな物を貰う謂われも価値も私にはない。

 

 詰め寄る私の横でハコブはにやりと笑った。

「でもねえ、まあ、君も知ってるだろうけどエンリケはそんなたまじゃないよ」

「え?」

 まだ、さらに何かあるのか?

「彼が本当に欲しいものがそんなお綺麗なものであるはずがない」

「やめろ!」

 エンリケが出したとは思えないほど大きな声だった。力強く吠える声に女性と見まごうような嫋やかさはどこにもない。

「それを素直に欲しがらないから、さっきまで彼の目は死んでいた。けど、もう逃げられないよ。エンリケ」

 エンリケは盛大に舌打ちした。

「変なお涙頂戴話にされちゃ堪らないからね。自分で言う。ハコブ、後で覚えていろよ」

「感謝して欲しいくらいだけどね。でもいいさ。エンリケ、いい目になったじゃないか。きっともう僕の世界に君では満足しないなどと言う奴は一人も居ないだろう」

 私はエンリケを見た。エンリケもこちらを見ていた。そして彼は小馬鹿にしたように私を鼻で嗤う。

 そして、ついに彼が語り出した。

「生まれてからずっと、僕には分からなかった。僕にとっては当たり前の事が周りの人間にとっては当たり前ではないんだ。例えば、テーブルの上でグラスが倒れる、グラスが転がる。グラスはテーブルの淵までやって来て、誰も気付かない。グラスは転がるスピードを上げていく。そんな状況で次に何が起きるか、誰だって分かるだろう? グラスは落ちて割れる」

 ハコブはもう何も言わなかった。

「それはみんな分かるのに、一週間後に隣の家で人死にが出る事や、明日、ある政治家が汚職で家宅捜索を受ける事や、年内にある地方で大規模な水害が起きる事、笑って和やかに食事をしている人間が自分以外の毒殺を企んでいる事なんかを、どうしてみんなは分からないんだろうって」

 エンリケは遠い目をしながら続けた。

「やがて、悟った。僕はみんなと違うってね。かなり正確な未来予想が可能だっていうのは便利なようでちっとも便利じゃない。何もかもがつまらないし、未来を知っている僕は因果律にとっては鬼子のようなものでさ、いつ因果のタブーに触れて消されるか分からなかった。悪魔は大なり小なりみんなそうだけど、奪われた以上に奪わないように、特に神経質になったよ。それで僕はこの美しさだろ? みんな形振り構わず僕に執着した。面倒臭いったらないよ。僕は因果を乱す要素の塊じゃないか」

 エンリケは溜息を吐いた。

「みんな僕を恐れ敬った。敵愾心を剥き出しにされた事もある。けれど、誰一人として僕の事を理解しようとする強者は現れなかった。同じ悪魔でもそうなんだから、人族や妖精、獣人に至っては、僕をまるで違う生き物であるかのうように見ていたよ。別にそれ自体は悲しくもなんともなかった。彼らが僕を同じだと思えないように僕も彼らを自分と同じ種類の生き物だとは思えなかったからね。お互い様だ。なのに憎しみはあるのさ……僕は誰の事も等しく憎んでいた。そして、ひたすらに死を希んでいた。だけど、君が」

 そこでエンリケは一度言葉を切った。

 私が一体どうしたというのか、私もその他大勢と何も変わらない。

「僕が人工頭脳の原理を最初に発表した時の事を覚えているかい?」

「……うん」

 短い論文だった。魔法機械の論文としては珍しく、ほとんど数式で埋め尽くされ、理解するのにかなり時間がかかった。紙と鉛筆を脇に置き、手計算を繰り返し、ようやくその最初の部分を理解した時には、凄い天才が現れたものだと素直に感心した。

 その頃はまだ、エンリケの顔すら知らなかった。

「図書館で僕の論文を片手に一心不乱に計算をする君を見た」

 見られていたのか。恥ずかしい。

「頭を何度も掻いていたね。髪型がぐちゃぐちゃで、なんてみっともない女なんだと思ったよ」

 エンリケは上品に笑った。

「君は僕とは違う。脳みその性能も貧弱で暗愚だ。別に美しくもなんともない、どこにでも居る人族だ。けど、計算を終えて君は思っただろう。ああ、この魔法機械が欲しい、私もこんな物が作れたら、いや、これ以上の物が作りたい、と。この天才の僕に、劣等感も忘れて、ただの普通の人族の君が、勝ちたいと思った。それで子供みたいにえへへと声を上げて笑った」

 思った。強く思った。これがあれば今まで不可能とされてきたいくつもの事が可能となると。その可能性の光に打ち震えた。新しい世界に胸が躍った。


「その瞬間、どうしてか分からないけど、僕は……」


 エンリケは何か尊い物でも見るように私を見た。

「本当にいまだにどうしてなのか分からない。ありふれた話さ。勝手に君が僕と同じ光を見てくれたとでも思ったのかもしれない。僕と同じ場所に立ってくれるかもしれないと。あるいは、すでにこの時、君の背負った膨大な業を感じ取っていて悪魔の本能で惹かれたのかな。まあ、どうでもいいな、そんな事は。とにかく君を見てからは、あんなにも僕を苛んでいた死への欲求からいつの間にか自由になっていた」

 エンリケはどこか悔しそうに言った。

「君を見たタイミングは関係ないのかもしれない。君以外にもあの原理を理解してくれた魔法機械工は山ほど居たはずだ。なのに君を見るのを止められなくなった。ほどなくして、僕は君がこの世界を去る定めを背負っている事に気付いてしまった」

 エンリケは忌々しげに美しい桃色の髪を掻き上げた。

「冗談じゃないと思ったよ。この退屈で面倒な世界にようやく面白い物を見つけたのに、それがあと十年もしないうちに奪われると分かってしまったんだ。けれど、同時に僕がどう足掻いてもこの流れは止められないという事も分かっていた」

 エンリケはちらりと私を見た。そして不器用に笑った。

「おかしいだろう。誰よりも悪魔らしい悪魔だと言われるこの僕が、君と出会ってからは死にたいと思った事なんか一度もないんだよ。どんなにこの世界が僕に優しくなくても、僕の未来がどんなものでも……」

 胸が軋んだ。

「君に置いて行かれるのは、嫌だった」

 血を吐くような告白だった。

「それだけだ」

 深紅の瞳が真っ直ぐ私を見ていた。

「じゃあ、今まで言われた酷い言葉もみんな……」

「ああ、違うよ。あれは全部本音さ!」

 にっこりと笑われた。

 

 えええ


 いつの間にかいつものエンリケらしい明け透けな態度に戻っている。

「君は卑屈で、馬鹿で、臆病で、誰も信じられないで居る。保身ばかり上手くなって、なのに他人を助けようとするのを止められない。覚悟の足りない子供だ。君を見ていると苛立ってしょうがないよ。無茶苦茶に罵って泣かせてやりたいし、自我が崩壊するまで苛んでやりたい! 絶望させて永遠に閉じ込めてみたい。あのまま僕の奴隷にしてやれたらどれだけ気持ちがいいだろうと思ったよ! 僕のために死にたくなればいい。僕のためだけに笑えばいい。僕だけしか見えないようにしてやりたい。本当は誰にも触らせたくない! あの狼を殺してやりたい!」


「無関心以外の」




「僕の全てだ」




 彼の真紅の瞳には私だけが映っている。

「ハコブ、これで満足か?」

「うーん、本当にそれだけでいいの? もっといろいろあるよね? 細かいとこがさ、あのリボンとか、雑誌とか」


 雑誌?


「うるさい、本当にうるさい奴だ君は!」

「ああ、はいはい。ごめんね」

 案外、ハコブとエンリケは良いコンビになるのかもしれない。叔父と甥のような関係でもあるわけだ。

「それじゃ、そろそろ本当にさよならだ、ドロテア」

「……っ」


 何を言えばいいのか分からなかった。


 ただもう大き過ぎてそれが悲しみなのか喜びなのかすらも分からない感情の塊が胸につかえて言葉が出ない。

 エンリケは先ほど熱烈な言葉を吐いた同じ口とは思えないほど冷やかに付け加えた。

「僕を憐れむのはお門違いだ。僕の吐いた嘘は意外と少ないよ。ホロス社を去りたいのは本当だ。あいつら、本当は僕なんか居なくても何だって作り出せるくせに、僕が居るといつまでも成長しない。それに、異界に行くのは本当に楽しみなんだ。ふふふ、目に物を見せてやる。この僕に何かを強要するという事が一体どれだけの代償を必要とするものか、分からせてやって来るよ」

 エンリケの目には禍々しい生気が満ち溢れており、少し異界が心配になった。

「ほどほどにしてくれよ」

 ハコブも顔を引き攣らせている。あんなにも異質だと感じていた彼が今では少しも怖くない。

 エンリケはすっと腕を差し伸べて私の頬を指の背で撫でた。


「笑わないのかい? いつもみたいに、えへへって」


 こんな状況でなんて事を言うのだ。


「わ、笑えないよ……笑えるわけ……!」

 つるつると頬を涙が流れ落ちて行く。

「ははは、残念だなあ。君を馬鹿にするのもこれが最後だと思ったんだが」

 エンリケは憑き物が落ちたように明るく笑う。いつでも美しい彼だが、今まで見た中で最も美しい笑顔だった。

「ずっと言おうと思ってたんだけど、君はえへへって笑う癖、いい加減なんとかした方がいいよ」


 酷く優しい声だった。


「凄く馬鹿っぽいし、下品だし、餓鬼臭い」

 その優しい声で最後の最後だというのにエンリケは私の心を的確に抉る。

「そっちの世界に僕はもう居ないんだから……」

「え?」

 どういう意味だ。

「じゃあね」

「エンリケ、待っ……」


 白い光に包まれて、今度こそエンリケとハコブは去って行った。

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