第35話 エンリケの嘘

 白亜の長い廊下を一人の悪魔がやって来る。桜貝のような淡い桃色の髪を特徴的な三本の三つ編みにし、目を閉じている。手には書類の束、簡素な丸首のシャツと洗いざらしの下履きを履いて、なぜか裸足だ。

 フェリシアーノ・マジョルガの屋敷から召喚術を使ってベゴーニャ地方の自宅へ戻ったエンリケは何かを待つようにふと立ち止まり、気高い仕草で顔を上げた。傷口よりもなお赤い深紅の瞳が開き、虚空を見据える。

「居るんだろ、出てきたら?」

 何もない空間から現れた汚泥の滴が大理石の床を汚していく。それに続いて牛の糞のように落ちてきたのは美しい黒髪の青年だ。白いシャツ、蠱惑的な赤い唇、どこまでも清潔に見えるのに、彼の裸足の足は真っ黒に汚れている。

「やあ、おかえり。意外と早かったね。王子様との逢瀬はどうだった?」

 惚けた口調のハコブだった。エンリケは卑猥な当てこすりにも動じない。

「なかなかだったよ。君も相手をしてもらったらいい。まあ、彼の好みに合うようにまずは死体にならなきゃいけないけどね」

「ははは、それはいいね。だが、用事を済ませてからだな」

「ああ、悪いがもう少し待ってくれ。僕はホロス社の首脳陣にとってはまだ白雪姫のままなんだ。僕を心配して眠れぬ夜を過ごしたはずだ。無事な姿を見せて安心させてやらなきゃ可哀想だろ。軽く引き継ぎもしたい。部屋を漁ったら昔作った魔法機械の図案が出て来た。いくつか商品化していないものがあったから、渡して来ようと思う。まあ、必要ないかもしれないが、ついでだね」

「真面目な経営者というわけかい?」

「悪いか? けちけちするなよ。もう数時間待つぐらいいいだろう? それとも僕が欲しくて我慢出来ないか?」

 すたすた歩き出すエンリケにハコブも並ぶ。ハコブは弾けるように笑った。

「可愛いところもあるじゃないか、君でも照れて多弁になる事があるんだ。こっちを見て言ってごらんよ」

「うるさい」

「彼女のためだろう?」

「喋るなというのが聞こえないのか」

「このまま去ってしまったんじゃ、君が白雪姫として永遠に囚われているとホロス社の首脳陣に勘違いされかねない。フェリシアーノがどんなにもうエンリケ・バジェステロスはこの世界に居ないのだと訴えても、君の信望者や君に心酔する部下達は信じないかもしれない。君の死の契約を破棄するために彼女が何をされるか分からないから、無事な姿を見せて彼らに君の死の契約が完全に破棄された事を知らしめたいんだ。君が誰に強制されたのでもなく君自身の意思で行くんだとね。彼女にどんな事をしてももう君が決してホロス社には戻っては来ないという事を。いや、ホロス社だけじゃない。この世界に」

「多弁は君の方だろう」

「多弁にもなるさ。意固地だな。僕は鬼じゃない。君の捨て身は応援したいと思っているよ。僕の力は知っているだろ? 頼ればいい、造作もないよ。君の望む通りに出来る」

 エンリケは心底嫌そうに眉を顰めた。

「僕の勝ちだ」

「そうだ。君は勝った。途方もない無駄を経て、彼女から君の欲しい物を勝ち取った。ならばせめて勝者らしい顔をしろ」

「口を出すな」

「知っている人間は少なければ少ないほどいい、か? 彼女に何も言わずに行く気だろう? ここぞという時に臆病になって君らしくもない。もう少し自分本位になれないのか。どこまでぬかりなく彼女を守る気なんだ。無理やり彼女から代償をせしめた事に引け目を感じているのか?」

 エンリケは何も答えない。

「不憫でならないよ。そういえばペドロもそうだった。遺伝かな? 結局あの女、ニコラが死ぬまで兄さんは何も言わなかったんだ。まあ、彼女と違ってニコラは何もかも分かってた。兄嫁様は偉大だったな。けどさ、分かってるだろ? エンリケ、君は作り込み過ぎだよ。このままじゃ本当に君、ただの変な人だ。しかもペドロと違って君は想いを遂げられもしない」

「守る? 違う。僕はしたいようにしただけだ。勝手に話を作るなよ。あんな馬鹿にどう思われようと僕が気にするわけがないだろ。それに、想いを遂げるだと? この僕が? 気持ちの悪い事を言わないでくれ」

 不敵に笑って見せるエンリケにもハコブは真剣な表情を崩さない。

「重症だ。君は僕が何もかも承知していると分かっているはずだろう。その僕に対して安い嘘を吐くなんて、気高い君はどこへ行った? 駄目だ。そんな君には価値がない」

「何を言っている?」

「えせ聖者になった腑抜けの君で支払えるほどこの世界の負債は軽くないって事さ。向こうで待ってる奴らは君にとても期待してる。期待が大きい分裏切られた時の反動は大きいだろうな」

「……あのスライムの代償はそんなにも大きいのか?」

 エンリケの真紅の瞳が一瞬真剣な色を帯びる。

「いや、君次第だ。エンリケ、君は欲深さをもっと誇れ! その身に混じった死すべき定めの生き物の血を、有限の命にしか持ちえないがむしゃらなまでの執念を! 成長しない僕らには決して得る事出来ない強い力だ」

 ハコブはエンリケの前に回り込み、肩を掴んだ。

「気安く触るな」

 ハコブよりもエンリケの方が背は高い。エンリケは冷たくハコブを見下ろした。けれどハコブは気圧されるでもなく、底なし沼のような黒い瞳に憐憫を宿してエンリケを覗き込む。

「因果なんて、この世に人の欲望がある限り平衡に戻してもすぐに傾いて行くものだ。無視してやれ。エンリケ、君の本当に欲しい物はなんだ? それを勝ち取るために足掻く君をこそ僕らは美しいと思うんだ」

 エンリケの強い目が一瞬揺らぐ。

「……酷い話だ。取り立て屋の君がそれを言うのか」

 ふっと寂しげにエンリケは笑う。

「僕もそう思う」

 ハコブは慰めるように言った。

 

 

 ***



「お前が直接出向く必要はねえんじゃねえか?」

 ウルバーノは渋面を作っている。人型の彼がこういう表情をすると本当に怖い。ウルバーノは嫌そうに目の前のガラス張りの高楼を見上げた。顔と下半身は山羊、大きな角と蝙蝠の翼を生やし、上半身は人間の男、真っ赤な化け物のロゴマークが眩しい。

 銀行でエンリケへの借金を再び私が負う手続きを終えてから、私達はホロス社の本社にやって来ていた。 

「いえ、エンリケの契約は曖昧過ぎます。確かにウルバーノさんが肩代わりしてくれたエンリケからの借金は私が再び負う事になりましたが、本当にそれでエンリケが生き返ったのかどうか、確かめた方がいいです」

「あのカマ野郎が帰って来たらそのうち嫌でも分かるだろ。経済誌のチェックでもこまめにしてりゃ。それに、死の契約って奴は悪魔が死ににくい方向へ働くんだろ? 大丈夫じゃねえの?」

 確かにウルバーノの言う通りだ。世間的にはまだエンリケが白雪姫になったという事さえ公になってはいない。エンリケがすぐに帰って来れば、ホロス社はおそらく何事もなかったかのように通常運転を続ける。そのうちエンリケの動向は知れるだろう。

 

 だけど……

 

 何がどう、とは言えない。胸騒ぎがする。まるで大きな落とし穴の上に立っているような。しかし、それを上手くウルバーノに説明する事が出来ない。

「たぶん、大丈夫だとは思います。ですが、私は直接エンリケの契約書を見ていない。ラミラの記憶力を疑う訳じゃないけど、悪魔の契約って本当に言葉尻とか些細な事で全然意味が違ってしまったりするので」

「あの野郎の事より自分の心配をしやがれ。わざわざ敵陣に顔見せしてどうすんだよ。お前が奴の死の契約に関わってるかもしれないってホロス社に勘付かれるかもしれねえだろ。もし万が一エンリケが生き返らなかったら余計疑われて、お前、何にもいい事ねえぞ?」

「う……そ、それは」

 全く反論出来ない。

「っとに、気に入らねえな」

「すみません。でもどうしても行かなきゃいけないような気がして」

「ったく……まあ、いい。俺もあの野郎の酔狂ぶりにはうんざりしてる。一発殴ってやってとっとと帰るか」

 ホロス社の中は一見、通常通りに見えた。

 とは言っても初めて来たのでこれが通常通りなのかどうなのか、本当のところは私には知る術がない。しかし、少なくとも火事場のような騒がしさもなければ、異様な静けさもない。

 受付嬢に身分を告げ、エンリケに会いたいと伝えた。

 普段なら一介の魔法機械工と元傭兵など門前払いだろう。だが、数日前にウルバーノはナバロと共にスライムの利権に関する重大な契約をホロス社と締結しに来たばかりだ。すぐに要件は伝えられたようだった。

「応接室にご案内しますので、しばらくお待ちを」

 丁寧に頭を下げられ、入り口のロビーで所在無げにしていると、言い争う声が聞こえた。

「社長! 待って下さい!」

「もう、説明したろ。僕は彼と行く」

「そんな、急な……」

「悪いか? 僕は今まで散々このホロス社に献身してきた。引き継ぎもした。これ以上、僕に何を求める?」

「我々を見捨てるのですか?!」

 振り返ると、妙に懐かしい桃色の頭が見えた。なぜか裸足で広いロビーを早足で歩くエンリケだ。相変わらず、どんな場所でどんな格好でどんな事をしていようとも目を留めずには置かないほどの美しさだった。

 どかどかと荒い足音を立ててそれを追いかける髭を蓄えた妖精、クラウディオ・エストラダ、ホロス社の副代表を務める男だ。

「なんの騒ぎだよ」

 ウルバーノも驚いていた。


 な、なに? なんなの?!


 あまりの唐突さに声も出ない。

 ラミラの推測が正しければ、エンリケはフェリシアーノ・マジョルガに凌辱されていたはずだが、そんな様子は欠片も見つけられない。無事な姿を見て少し安堵はしたが、ぶん殴ってやろうと息巻いていたはずなのに、そんな気分すらもどこかへ消し飛ぶ慌ただしさだ。しかも代表、副代表が揃ってお出ましだ。受付嬢もぽかんとしている。彼らは追い駆けっこをしながら猛スピードで歩いて来た。呆然と立ち尽くしていると、エンリケが一瞬こちらに目を向けた。しかし、何事もなかったかのように真っ直ぐ前を向くと叫んだ。


「ハコブ!」


 その名を聞いた瞬間に身が竦んだ。ハコブ、極めて美しい人間のようで決して人間ではありえない、あの常軌を逸した生き物の名前だ。沼地で一度出会っただけだが、本能的な恐怖をまだ身体が覚えている。

 だが、エンリケの口からその名前が出た事には不思議と驚きを感じない。

 ただ、やはりそうか、と思うだけだ。具体的に彼らがどのような関係なのかまでは分からないが。

「出て来い、ハコブ! 説明が面倒だ。君も居ろ」

 なんとも気安い呼びかけだった。エンリケはあの化け物と対等な関係を築く事が出来たのだろうか。さすがと言うより他ない。呼びかけに応じて沼地のヘドロと良く似た汚泥と共に美しい黒髪の青年がエンリケの隣に現れる。

「やっぱり居なきゃ駄目かい?」

「当然だ」

 ハコブは赤い唇に困ったような笑みを乗せ、齧りかけの白い林檎を手で弄んでいる。

「だ、誰だ、貴様……」

 クラウディオ・エストラダは親の仇でも見るように突然現れた彼を睨み付けた。

「なんだありゃ……化け物か」

 ウルバーノは沼地にハコブが現れた事を知らない。ウルバーノを見上げると一筋の汗が秀麗な白い頬を伝っていた。戦闘能力が高ければ高いほど、相手の力も良く分かる。おそらくこの場で最も脅威を感じているのはウルバーノのはずだ。例えるなら捕食者と被捕食者の関係に近い。一般人の私ですら歯が鳴るほどの寒気を感じている。おそらく周りのホロス社の社員達も同じだろう。

 ハコブを睨み付けるエストラダを無視して、エンリケは後ろを向いて顎をしゃくる。

「撮影! ライブで発信して」

 おそらくホロス社の社員と思われる、見る間に機材を抱えた男達がやって来てエンリケとハコブを取り囲む。

「しゃ、社長?! なんでここに?」

「何、どしたの?」

「誰だ、あの男は」

「エンリケ社長だ!」

「副代表まで来てるぞ! 何かあったのか?」

「なんだ、あの人? 何で足があんなに汚いんだ?」

「撮影するのか?」

 騒ぎを聞きつけたのか、いつの間にか大勢のホロス社の社員達が見物しにロビーへと集まり、そしてハコブを見てぎょっとしている。エンリケがフェリシアーノに慰み者にされていた醜聞は一般の社員達には明らかにされていないのだろう。突然の騒ぎに対する戸惑いはあるようだがエンリケの無事を喜ぶ声は特に聞こえない。

 あっという間に私とウルバーノは群衆に紛れてしまった。

 だが、エンリケとハコブの周りには誰も近寄る事が出来ない。ハコブの危険さは生物としての根幹に揺さぶりをかけるような類のものだ。

 その見えない壁の中でエンリケは咳払いをして話し始める。

「あー、仕事中のところを邪魔して済まない。この件は後に正式な文書で発表があるだろう。今ここで聞いていなくても君らにとって何ら不利益は生じない。手が離せない仕事をしてるんなら、すぐ仕事に戻れ。聞きたいんならこのまま聞いていても止めはしない」

 序盤から喧嘩腰だ。一体エンリケは何を言うつもりなのか。

「待って下さい、社長!」

 どうやらクラウディオ・エストラダはエンリケが言うつもりの内容を知った上で反対しているようだ。

「黙れよ、クラウディオ、誰に向って口を聞いてる?」

 冷たく命じるエンリケの声には絶対的な支配者にしか出す事の出来ない強制力があった。

「し、しかし」

「未練たらしいなあ、しつこい男は嫌われるよ?」

 婀娜っぽく笑ってハコブの首にしなやかな腕を絡ませるエンリケだ。

 

 エンリケ、それはずるいよ。

 

 おそらくクラウディオ・エストラダとしては嫉妬に狂うべき場面に違いないのだが、あまりの色気に素直に赤くなるしかないようだ。髭の紳士は初心な少年のように押し黙った。エンリケの目的が何なのかは分からないが、クラウディオ・エストラダに少し同情する。

 エンリケに抱き着かれているハコブは相変わらず、少し困ったような顔をしている。それが妙に涼しげで、余計にクラウディオ・エストラダの神経を逆撫でするのだろう。

 エンリケはそんな熱い視線を楽しむかのように、唇を触れんばかりに近付けてハコブの耳元に何か囁く。ハコブは諦めたように溜息を吐いて、そのまま黙っている。

 エンリケは満足げに微笑むと話し始めた。

「魔法機械製造業であるホロス社の社員として働く君らには改めて話すまでもないかもしれないが、遠い遠いお隣の世界の事をまず話そうか。大気には瘴気が満ち、化け物が跳梁跋扈する魔境、それが異界だ。どういうわけか僕らの住むこの世界には異界の痕跡がそこかしこにある。ガトス山、魔竜、魔生物、瘴気、かくいう僕ら悪魔の始祖も異界に住む魔物だったという。この世で最初の錬金術師と言われる人族の女、ニコラが呼び出した異界の魔物、始祖ペドロ。赤い林檎を齧る赤い魔物。彼らが人と交わって生まれた種族が僕ら悪魔だ」

 聴衆は静まり返っている。

「知っての通り、召喚術は今でこそ物流に欠かせない道具として使われているが、元々は異界から魔物を呼び出すために発達して来た。だが、異界の魔物は桁外れに強く、狡賢い。また、ペドロのように高い知性を持ち、我々と意思の疎通を図る事の出来る存在を呼び出すのは至難の業と言われてきた。記録に残っている範囲ではペドロの同族を我々の方から呼び出すのに成功した事例は僕の先達である初代錬金術師ニコラの偉業以来、一例もない」

 エンリケはちらりとハコブを見遣る。ハコブは手持無沙汰になったのか、白い林檎を齧っている。

「さて、諸君。かの始祖は古い伝承によれば、赤い林檎を手に持って描かれる事が多いね。そして僕ら悪魔もそれを引き継いで果物が大好きだ。僕も苺が好物だ。もうお気付きだとは思うが、ハコブ、彼は異界からやって来た」

 ざわりと群衆がどよめく。


「こちらの世界では誘惑者と呼ばれる一族だ。始祖ペドロの弟だそうだ」

 

 なんとなく、そうなんじゃないかと思っていた。


 彼は私を差して、言ったのだ。ペドロの妻の兄弟の末裔、と。ペドロの関係者でなければ出ない言葉だろう。

 何も知らないウルバーノは唖然としている。さすがの彼も声が出ないようだ。

「君達もよく知っての通り僕はついこの間、新型畜力機を開発した。瘴気を出す魔生物と瘴気を魔力に変換する魔生物を利用して、自然界に存在する魔力にほとんど頼る事なく半永久的に魔力を供給し続ける事が可能となったんだ。これが何を意味するか、我が社の優秀な社員の君達なら分かるだろう。動力源の安定供給の確立、僕らには無限の可能性が広がっている。世界が変わる」

 どこからともなく拍手が沸き起こる。

「しかし、どんな物にも代償は付き物だ。がしかし、誤解を恐れず言おう。その代償こそ僕が求めるものだった」

 拍手をぴたりと止ませるに足る、どこか冷たい響きだった。

「瘴気は魔物、異界の生き物にとっての魔力だ。僕は瘴気を大量発生させるこの魔生物を発見した時からこの生き物の本質が分かっていた。こいつは瘴気を発生させているんじゃない。喚んでいるんだって。異界からやって来た魔物が、こちらの生物と交わり、時に人為的な変化を加えられながら、気の遠くなるような時間をかけて、瘴気をこちらの世界に大量に運び込むための通り道を身の内に作り出したんだ」

 これだけは、なぜかエンリケは私に向って言っているような気がした。

 

 君の危惧した通りさ。本当に君は馬鹿だね。

 君は父君の作り出したスライムを使うのを怖がった。不気味なほどに効率が良いからだ。

 心のどこかで、分かっていたんだろう?

 このスライムは世界の均衡を崩すって。

 

 衝撃のあまり動けない。猛烈な寒気に襲われた。


 私は、私はなんて事を!

 

「異界では今、大きな環境の変化が起きているらしい。こちらで言うと、世界規模で魔力が急に品薄になったような物だろうな」

 つまり、ハコブはその変化を食い止め、異界の崩壊を防ぐためにやって来たという事なのだろうか。しかし、エンリケは続けた。

「異界の住人達は寛容でね。僕らとは全く違う価値観で生きている。そんな事はどうでもいいらしい」

 では一体何だと言うのか。

「環境の変化はむしろ歓迎するそうだ。彼らはほとんどが不死だ。皆退屈を持て余している。そして、僕らと違って馬鹿みたいにしぶといから、瘴気を根こそぎ吸い上げられても、ある程度以上の生き物にとっては痛くも痒くもないらしい。まあ、彼ら自身が瘴気を生み出し続けているわけだから、瘴気が全くなくなってしまう事はないだろう。彼らが求めているのは」

 エンリケはおどけた仕草で手を広げた。


「暇潰しだ」


 身も蓋もない言い方にハコブが苦笑する。

「かの始祖ペドロがこちらへやって来て、ニコラに知識を伝え、そして僕ら悪魔が生まれ、召喚術が乱用された副産物として、いくつかの魔生物達がやって来て、僕らの世界はとても賑やかになった。ずっと羨ましいと思っていたそうだよ。僕らの世界よりも彼らの世界の方がずっと時の流れは早いというのに、あちらは何も変わらないまま、皆永遠の命を持て余している」

 軽やかにエンリケは言ってのけた。

「そして、瘴気がどんどんこちらの世界に流れて行くのを見てついに思いたったらしい。そうだ、我々も何かもらいに行こう、とね」

 にっこりと笑うエンリケは輝くように美しい。

「彼らは負債を回収しにやって来た。淀んで老いた世界に新しい風を吹き込む存在を求めて。そして求められたのがこの僕だ」

 誇らしげにエンリケは宣言する。

「異界の住人とこの世界の住人が交わって出来た産物であり、異界から瘴気が激減した元凶で、全ての因果を背負う存在。そして僕の能力は始祖のペドロと極めて近いレベルに達しているらしい。世界の不均衡を是正するために召し上げられる者として僕以上に相応しい人間はいない!」

 芝居がかった高笑いがロビーに響き渡る。

「悪魔は因果律やこの世の大いなる辻褄合わせには他の種族よりもずっと敏感なんだ。そして僕は誰よりも悪魔らしい悪魔だと言われてきた。始祖のペドロほどではないにしろ、この世界が不安定な状態にある事は生まれた時から感じていたよ。多様性に富み、常に変化し、どんどん進化していく。若く、勢いがあり、退廃を知らない。いつか異界からの使者が代償を求にやって来ると知っていた。ずっと待ち侘びていたんだ」

 うっとりと呟くエンリケには病的なまでの渇望があるように見えた。それなのに、どこか嘘くさい。どうしてだろう。言動自体はこれ以上にないくらいエンリケらしい、そのはずだ。付き纏うこの違和感は一体何だ。

「つまらないんだよ! 君達もこの世界も! 実に退屈だ! 愚鈍で、主体性がなく、導き手を見つければすぐに考える事を止めてしまう」

 誰も何も言えなかった。

 その通りだ。エンリケが魔法機械工としての頭角を現してからのこの何年かの間にいくつもの革新があったが、それらはほとんど全てエンリケ独りの力によるものだった。

「もう、飽き飽きだよ。ここにはもう僕の興味を引く物なんて何一つ残っていない」

 吐き捨てたエンリケはしばらく黙っていた。面罵されたホロス社の社員一同は皆俯いている。

「だから僕はハコブと行く。行きたいんだ。異界が見たい。もっと広い世界が欲しい。欲望と好奇心を糧に、危険を顧みず未知へ挑む。荒れ狂う海の波打ち際で遊ぶ子供、深淵を覗く愚者であれ、それが僕らの誇りであったはずだ。この世界から異界へ行った事のある人間は僕が知る限り有史以来皆無だ。上等だよ。とてもいい」

「社長……」

 クラウディオ・エストラダもここまではっきりとエンリケに決意を見せつけられてはもう引き止める事など出来ないだろう。

 エンリケが初めに言った通りだ。

 エンリケはもうずっとホロス社に尽してきた。一方的に甲斐性の無さを詰られても誰も反論出来ない程に、ホロス社は、いや私達の世界はエンリケから様々な物を賜っている。魔法機械を量産するための仕組みや、人工頭脳、数え上げればきりがない。

「これは決定事項だ。僕ですらももう止められない。ハコブにはこの世界の誰も勝てないだろう。純血は伊達じゃない。血の薄くなった僕ら、こちらの世界の悪魔じゃ太刀打ち出来ないよ」

 清々しくエンリケは言った。

 つまり、エンリケはこの世界に退屈し、さらなる刺激を求めて異界へ行きたかった。その機会をずっと伺っていた。そのためにどうしても、あのスライムの使用に関して私に引けを取るわけにはいかなかったのだ。エンリケの欲しい物、つまり異界へ行く事。そうだとすると今までのいつくかの事は説明が付く。

 ハコブは私に候補者だと言った。異界に連れて行くべき人間の候補者の中にこの私も含まれていたのだろう。私があのスライムの開発に関わっていたからだ。本来ならば父アルバロも候補者に含まれて然るべきだが、彼はもうすでにこの世を去った。実の娘である私はアルバロの因果も背負っているという事だろう。そうでなければ、私のごときがエンリケと両天秤にかけて貰えるわけがない。


 だけど、おかしい。


 それならば、エンリケはなぜあんな死の契約をしたのだろう。フェリシアーノに資金援助の恩を返し良い思いをさせるためだけならば、わざわざ私を巻き込む必要がない。もっと簡単な方法がいくらでもあったはずだ。

 異界へ移住する事が目的であれば、新型畜力機の開発が済んだのなら、もう手間暇を割いて私を殊更に貶める必要はない。均衡を崩した栄誉は完全に彼のものだ。現に異界からの使者、ハコブは彼を選んだ。

 私を奴隷にするなどと言う必要もない。エンリケに自尊心をずたずたにされていた私は、ウルバーノがあと少し遅ければ、本当に奴隷になる事を承諾していたかもしれないのだ。そうなれば、エンリケは永遠に死ぬ術を失う。これから異界へ行き、不死身の化け物達と渡り合わなければならないエンリケは、元々永遠の命を受け入れる用意があったのかもしれないが、自ら進んで自由度を下げなくても良いはずだ。逆に死の契約を利用して完全な不死になる事が目的ならば私を関わらせるよりもよっぽど確実な方法がある。


 分からない。何を考えているんだ、エンリケ。


 ほとんどの辻褄は、合う。

 だが、この最後の数日間だけが恐ろしく無駄だ。それ以外が実に周到に練られているように見えるから余計にその落差が目立つ。エンリケが異界へ召される事は決定事項でエンリケにも覆せないとエンリケは言った。


 ハコブはなぜ今まで待っていた?

 どうして、新型の畜力機が完成した時点でエンリケを連れて行かなかった?

 エンリケも言ってたじゃないか、エンリケでもハコブには太刀打ち出来ないって。


 ハコブが待つのなら、それはハコブの意思だろう。

 混乱して頭が上手く働かない。何かがおかしい事は分かるのに、それが何なのか分からない。

 エンリケはハコブを振り返る。ハコブが頷く。


 ああ、もう行くんだ。


 二度と手の届かない、遠い所へ行くのだ。

 エンリケはこちらを見ない。私が居る事には気付いているだろうに。

 

 エンリケは何かを私に隠している。ずっと前から。

 

 それを私はもう何年も無視してきた。

 禍々しい真紅の瞳、誰もが求める完璧な悪魔、なのに彼はどうしていつも孤独に見えるのだろう。

 ハコブとエンリケが淡い光に包まれる。


「駄目」


「あ?」

 私の微かな呟きにウルバーノが訝しげな声を上げる。

 ウルバーノが隣に居るのに、もうエンリケは白雪姫ではないのに、私はやはりエンリケの事を考えるのを止められずに居る。なんて不誠実なんだろう。罪悪感もある。

 だが、それ以上に焦燥感が強い。

「いやだ……」

 

 このまま行かせてしまえば、私はもう二度とエンリケに……


 気が付けば叫んでいた。


「待って、行かないでエンリケ!」





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