第34話 太陽の下で
「もう一度聞くわよ、ドロテア。本当にいいのね」
翌朝、服を着替えて階下に降りた私にダフネが詰め寄った。
風邪はだいぶ良くなった。頭痛も嘘のように消えている。
窓から差し込む光は透き通り、神の使いでも舞い降りて来そうなほどに清らかだ。
「はい……」
ダフネが溜息を吐く。
「すみません。ダフネさんに組合所長を辞めさせてまでエンリケから助けて貰ったのに……」
それを思うと申し訳なさに身が細る。
ウルバーノさんが来るのがあと少し遅かったら……
考えたくもない。だが、ダフネは首を振る。
「それはいいのよ。関係ないわ。あなたをエンリケの屋敷から救い出す事と、ウルバーノがあなたのエンリケからの借金を肩代わりしたのは全く別の事よ。私だってあなたを助けたかった。後悔はしてないわ」
ダフネのターコイズブルーの瞳が心配そうに私の顔を覗き込む。気前の良過ぎるダフネに苦笑する。
甥も伯母も揃って、この人達は。
「ダフネさん……本当にありがとうございます」
「だから、もういいって言ってるじゃないの、そうじゃなくて……」
そこでダフネははっと口を噤む。
ダフネとそっくりの銀色の髪をした大男が居間の長椅子から起き上がる。
穏やかな朝には不似合いな凶悪な形相だ。
「ドロテア、決めたのか」
声は唸り声のように低い。
「はい」
だが、硬質な光を放つ目はどこか優しい。
「そこの婆あが何を言うつもりだったかは知らねえが……」
ウルバーノは伯母のダフネに視線を遣る。
ダフネは先ほどウルバーノに気を使って言葉を切った。おそらくウルバーノの捨て身の献身に報いろと私に諭すつもりだったはずだ。余計な事を言うなと言いたいのだろう。
「半端な答えなら、てめえを監禁する」
「はい……っ、ええ!?」
か、監禁!?
寝起きとは思えない物騒な単語を口にされて頓狂な声を上げてしまった。
「本気だ。あのカマ野郎のとこにゃ、行かせねえ」
「よく言ったわ、ウルバーノ!」
「ダフネさん!?」
そうだった、私はこの二人に軟禁状態にされかけていたのだった。こんな時だけはそっくりな顔で私を睨む二人に、いつもならば気圧されてしまうところだが、私の考えはもう決まっていた。
「ウルバーノさん、心配かけてすみませんでした」
首を振って静かに切り出す私をウルバーノとダフネは黙って見ている。長くなるが、言わなければ行かせてもらえないだろう。
「まずはお礼を。ウルバーノさん、ありがとうございます」
ウルバーノの座る長椅子に近付いて跪き、彼の美しい銀色の瞳を見上げた。許してくれるだろうか。こんな私を多大な犠牲を払ってまで救い出してくれたのに、それを無に帰すような事をして。彼はきっと、許してくれる。私にはそれが分かっていた。だからこそ苦しい。
「私は、やっぱりエンリケへの借金を自分で返したい……!」
喰いしばった歯の間から絞り出す。
「エンリケを白雪姫のままにしておくことだって何回も考えました。彼は勝手にそうなったんじゃないか、もしかしたらそれが彼の望みかもしれないじゃないか、何を遠慮する事があるって。コルテスさん達もみんな、エンリケやホロス社に怯えなくて済むようになるじゃないかって……だけど」
胸のあたりで服を握りしめる。
まるで心臓を抉り出してウルバーノに捧げようとするかのように。
「エンリケをそのままにしたら、私が私では、なくなってしまう」
「……」
「エンリケに何を言われても、かろうじて守り通して来たものが、本当に消えてなくなっちゃうから」
なんて、自分勝手で傲慢なのだろうと思う。
けれど、エンリケが私に何をしたとしても、誰かが私のせいで無抵抗のまま嬲られているのを知りながら素知らぬ顔で生きて行くなんて無理だ。
「それに、エンリケを白雪姫のままにしたら、結局、私は一度もエンリケに勝てないで一生を終えるんです。いいように手の平で転がされて、憎しみだけ残って、本当の意味では一度も彼と対決しないままになる。みんなに迷惑をかけるのが怖いからって、エンリケに傷つけられるのが怖いからって、エンリケを白雪姫にして放って置いたら一生罪悪感から逃れられない。私の魂はやっぱり一生エンリケに傅いたままなんです……それって奴隷とどう違うんです?」
そうなのだ。
どんな場所に住み、どんな風に生活し、どんな人間に愛されても私の魂はそれだけでは自由になれはしない。
金銭的な問題ではない。権利や義務も関係はない。
エンリケを怖がって、蓋をした事実が私を奴隷にするのだ。
「どんな経緯でそうなったにせよ、血みどろの蹂躙を誰かが受けていて、それを終わらせる術を私は持っている。それなのに我が身可愛さにその状態を放っておく……エンリケが実際どう思っているかを確かめる事が出来ない以上、私はそんな私が許せない」
生まれつき心に備わっている倫理観に素直に従う事も出来ず、自らを偽り他者を犠牲にする、これを不自由と言わずしてなんと言う。
正面切って対決する勇気を持てなかった過去が私を貶める。
さすが、ラミラ、私の事をよく分かっている。
この事実を知らないまま人生を終えていた可能性を考えると虫唾が走る。悪気はなくても、都合の悪い事実を隠され、守られてて生きて行くなんてまっぴらだ。たとえ悪意の海の底で窒息死する事になっても、私は真実と向き合っていたいのだ。
どんなに辛くても私は私である事を手放したくはない。
「奴隷のままなんて、そんなの、嫌だから」
ふっと笑った。
「私が私であるために、私はエンリケを元に戻したい。私自身の魂が欲するままに動きたい」
銀色の目を見つめた。
「それで、元に戻ったらエンリケを思う存分ぶん殴ってやるんです! お前何考えてるんだって、人を巻き込んで仮死状態になって何がしたいんだって、そんなに死にたいなら独りで死ね、私を巻き込むなってね。今までの事も全部全部ぶちまけてやる! 酷い事ばっかりして許されると思うなよって」
へへへっと笑って強がって見せた。
「これは、完全に私の我が儘です。誰のためでもなく、私自身のために私が願う事です」
ウルバーノの手を取ってもう一度彼を見上げる。
「ウルバーノさん、あなたのおかげです。私がこんな風に思えるようになったのは」
目が合うだけで涙がこみ上げてくるなんて、一生にもう二度とないだろう。
「あなたは私の太陽だ」
臭かろうが、なんだろうが知った事ではない。きっとこの台詞を最初に思いついた人も同じ気持ちだったに違いない。他に言いようがない。
「あなたの隣で胸を張れるぐらいの気高さが欲しいんです。侮辱されたら怒りたい。自分を好きでいたい。あなたのために生きたい。そのために私は私で居たい。誰にも魂を支配されたくない!」
ウルバーノはしばらく黙って私を見ていた。そして俯くと、肩を震わせた。どうやら笑っているらしい。
「本当に馬鹿だなお前は」
顔をあげたウルバーノはまさに太陽そのものの明るい笑顔で私を照らす。
手を引かれて、ウルバーノの膝の上に倒れ込んだ。
「わわ……」
「そういう台詞はな、跪いて言うんじゃなくてよ、抱き着いて甘えながら言え!」
「それじゃあ……」
「ああ、それじゃ銀行行くか。とっとと手続しちまうぞ。やるなら早い方がいい」
「ええ!? ちょっと、待ってよ、ウルバーノ、アンタ本当にそれでいいの!?」
そこで今まで黙ったままだったダフネが声を上げた。不安げに眉を顰めている。
「っせえな、いいんだよ! だいたいな、あのラミラって女悪魔の話を聞いた時から、俺はもともとエンリケは生き返らすつもりだったんだよ」
なんだと!?
「ど、どういう事ですか?!」
思わず目を剥いて叫んだ。
「ちっ、ちょっと考えりゃ分かるだろうが。どんなに隠したってな、お前がエンリケの死の契約に関わってる事なんてどうせそのうちすぐばれるぜ」
確かにそれはそうかもしれない。今回のスライム開発だけでなく、これまでも幾度となくエンリケは私と関わって来た。ホロス社の首脳陣が本気を出して調べれば、私とエンリケになんらかの歪な関係があった事などすぐに分かる。
現にブリサですら少なくともただの同窓生という以上の何かが私達の間にあると信じて疑わない。
「あのカマ野郎の熱狂的な信望者どもが黙ってねえよ。ちょっとでも生き返る可能性があるってんならその手がかりを血眼になって探すはずだ。そうなりゃお前……」
ウルバーノは眉根を寄せただけで何も言わない。
確かにそうだ。
大挙して訪れ、私を尋問するホロス社の関係者達が目に浮かぶようだ。尋問で済めばまだいい。下手をすると拷問される。
「死の契約は解除に失敗すると取り返しがつかねえからな。すぐにお前をどうこうっていう浅はかな真似をする奴はホロス社にゃいねえだろうが、トチ狂った信望者は何するか分からねえ。お前を殺そうとする奴だっているかもな」
銀色の目が剣呑な光を宿して眇められる。尋常でない寒気が襲って来た。
「それにな」
ウルバーノが急にそっぽを向いた。耳が赤い。大の男のキュートな仕草に私の寒気も吹き飛ぶ。
「お、俺だって、本当の意味でお前を取り戻したい」
「え?」
「だから! あのカマ野郎が白雪姫で居る限り、お前はエンリケの事を考えるのをやめられねえんだろ?! ふざけんなよ、お前は俺の事だけ考えてりゃいいんだ!」
低い怒鳴り声が朝日を浴びて輝く沼地に響き渡った。
***
明るい朝日の中、贅を凝らした部屋で、白い肉の塊が裸で腰を振っている。
だぶつく肉を揺らして細く白い何かを組み敷いているその男はホロス社の筆頭株主のフェリシアーノ・マジョルガだ。
屋敷の外では凄腕の傭兵達が何百人も配備され、彼らを守っているはずだが、それを感じさせないほど、しんと静まり返った部屋に肉のぶつかる淫靡な音だけが響く。
フェリシアーノ・マジョルガは今人生で最高の悦びを味わっている、はずだった。
「エンリケ……エンリケ、なんで……っ」
汗とともに涙を撒き散らしながら、造作自体は愛くるしいとさえ言えるような童顔を獣欲で歪める。
彼の下敷きになっているのは物言わぬ白い身体だ。
大理石のように滑らかな肌はどこか植物に似た優雅さを持ちながら、滴り落ちるほどの色気を失わない。
疑似死体、白雪姫となっても変わらぬ美しさのエンリケ・バジェステロスであった。
品の良い唇からは白い歯がわずかに覗き、真っ赤な瞳を縁どる桜貝色の睫毛が朝日に煌く。暴力的な揺さぶられ方をしていても、彼の動きに従って揺れる艶やかな髪は花弁のように繊細に舞う。
だが、白い身体には殴打の跡が無数に残っている。数日間にわたる、無慈悲な責め苦の結果だった。美しい顔には苦痛の色はまるでないが、首はあり得ない方向を向き、彼の紅玉のような眼球は陥没している。
「ねえ、エンリケ! 返事をしてよ!」
フェリシアーノは悲痛な声で叫ぶ。どこか幼く、甲高い響きではあるが、聞く者の神経を痛めつけるような慟哭だ。
彼は悲しんでいた。
死体愛好家であり、下半身は隠しようもなくエンリケが白雪姫となるのを待ち望んでいたとしても、彼にとっては不幸な事に、彼はまっとうな恋心も持ち合わせて生まれてきた。
死体しか愛せない事、それは誰よりもフェリシアーノ自身が最も厭うている。愛する人を失う悲しみの最中にありながら、彼の中心は猛々しくそそり立ち、雄としての本懐を余すことなく楽しんでいる。
自分がおぞましくて堪らない、それでも止められない。
彼にはエンリケに対する恨みもあった。エンリケは自分がどうなるか知っているかのようだった。おそらくフェリシアーノの全く与り知らぬ誰かのために彼はこうなる事に決めたのだ。
仕方のない事とは思う、フェリシアーノは弁えていた。本来ならば、自分など彼の視界に入る事すら出来ない。
それでもエンリケが目をかけてくれたのは、一重に大銀行家の息子として生まれた自分の財力があったからだ、と。それでも、いいと思った。盲しいた卑屈さからではない。エンリケがフェリシアーノの財産を必要としている事を隠さなかったからだ。その上でフェリシアーノを取引相手として対等に扱い、尊重したからだ。
金銭的には何一つ不自由する事無く育てられたフェリシアーノだが、その性癖と生来の気質のために、誰よりも軽んじられてきた。吃音症のために愚鈍と思われがちなフェリシアーノだが、表面上は媚びへつらう人々が、裏では唾棄すべき出来損ないとして自分を謗っていると分からないほどには愚かではなかった。
初めてだったんだ。エンリケ。
そんな彼を一人の人間として尊重した悪魔、エンリケ。美しく強いエンリケ。どんな理由で必要とされているにせよ、気高い彼の傍にある事はフェリシアーノの誇りでもあったのだ。
出会った時から、いつかはエンリケが白雪姫になる事は分かっていた。しかし、頭では分かっていても感情は納得してくれない。
あんなに、あんなに、楽しそうだったのに、全部どうでもいいって事なのか、エンリケ!
ホロス社や、僕らの事なんてもう……っ
フェリシアーノはぶるぶる震える手で傍らに落ちている血塗れた刃を握りしめ、エンリケの白い腹に勢いよく振り下ろした。エンリケの白い腹が見る見るうちに青黒く膨れていく。フェリシアーノはさらなる斬撃を加えようと、引き抜こうともがくが、ままならない。刃は大動脈を突き破り、脊椎に噛んでいた。体内では動脈から血液がほとばしり、エンリケの白くやわらかな腹部を水風船のように膨らませる。
ついにフェリシアーノは両手で柄を掴み、エンリケの身体から刃を引き抜く。白い腹から勢いよく飛び出した血液が、フェリシアーノの白い禿頭を真っ赤に染め上げた。彼は体勢を崩し、彼のいきり立った一物も、エンリケの尻からまろび出る。
涙と涎に塗れながらも愛しい人の血を浴びて、悲しむ心とは裏腹に、ひ弱な上半身とは比べ物にならないほどに雄々しく張りつめたそれが間抜けに揺れる。
嗚咽をもらしながらも、再びエンリケに這い寄り、引き裂かれた腹の中にそれを埋め込もうとしたフェリシアーノだったが、動きを止めた。
「……エンリケ……?」
桜貝色の美しい睫毛がわずかに震えた気がした。
床一面に広がった赤くぬめる液体に足を取られながら、フェリシアーノはエンリケの顔を覗き込んだ。
陥没したままの瞳が微笑みのような形を作る。
唇が開き、真珠のような小さな歯が覗く。
大輪の睡蓮の花がひっそりと開くように。
「おはよう……フェリシアーノ、僕の王子様」
エンリケが息を吹き返したのだ。
「……!」
真紅の瞳に禍々しいほどの力が蘇る。
「え、エンリケ!」
わっと泣き咽んでフェリシアーノはエンリケに抱き着く。数秒前までの暴虐を微塵も感じさせない、無邪気さだった。
「はは……だいぶ楽しんだみたいじゃないか、派手にやったね」
自らの腹に無造作に手を突っ込んでエンリケが軽やかに笑う。起き上がり、フェリシアーノの禿げ上がった額に接吻した。
「ごめんよ、フェリシアーノ」
これだけの事をされておきながらエンリケはまるで裏を感じさせない口調でフェリシアーノに謝罪した。
「なんで、ぼ、ぼくの、ほう、こそ! ごめん、ごめんなんておかしいけど、だけど、こんなに、ああ、エンリケ!」
エンリケが蘇った喜びと後ろめたさにフェリシアーノは泣きながらぶるぶると震えた。
「何を言ってるんだ……僕が自分で君の好きにしろって言ったんじゃないか」
エンリケは血塗れの臓物を腹から垂れ下げたまま、流れるような動作で立ち上がる。
「で、でも」
「君の恥じらいは尊いが、これについて君が謝る必要はない。君のその性癖とその結果について僕は何も責任が取れないからコメントは避けるが、少なくとも僕にした事に対しては、ね。僕が君こうされる事のは必要な事だった……僕の極めて個人的な願望を叶えるために。全ては僕の責任の範囲内でした事だ」
喜びの涙を流しながら、フェリシアーノはエンリケに縋りつく。
「き、君の? 願望? 一体ど、どういう」
フェリシアーノの問いには答えず、エンリケは慈しみに溢れる微笑を返した。
「よ、よく分からない、けど、嬉しい、嬉しいよ! また君に会えた! ゆ、夢みたいだ!」
すでに、彼の中心はしなびた青菜のように力をなくしていたが、フェリシアーノは真実、喜んでいた。
「ありがとう、君には言いつくせない恩がある。それから謝罪も必要だ」
「い、いいんだ、そんなこと、全然ないよ、エンリケ! ぼ、僕の方こそ……」
「僕は行かなきゃいけない。フェリシアーノ」
「……え?」
だぶつく顎の肉を細い指で持ち上げ、エンリケは優しく微笑んだ。
「悪いが、少し休んでいてくれ」
途端に、フェリシアーノの瞳に霞がかかる。
エンリケは頽れるフェリシアーノの巨体を軽々と支え横たえる。
規則的な寝息を立てるフェリシアーノは満たされて眠る赤子のようだった。
「さよなら、フェリシアーノ。僕は行く」
エンリケは裸のまま立ち上がった。
股の間を伝う白い体液を拭う事もせずに、みずからの赤い血だまりの中を歩く。
気だるげに髪を掻き上げる間にも彼の青黒く変色した肌はもとの真珠色に輝き始め、落ち窪んで潰れた眼球もふっくりと形を取り戻す。
「フェリシアーノ、哀れな僕の王子様。血塗れの白い鳩、悪魔達の救世主。君の苦しみを長引かせたのは僕の我が儘だ。君はこの世界に必要とされている。大丈夫だ、いつか分かる時が来る」
エンリケは静かに立ち去った。
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