第33話 死の契約と白雪姫

 ラミラの表情は硬く、暗い。玄関先に立つ彼女は、今にも倒れそうなほどに疲弊していた。

 身体の怠さ、咽喉の痛みも忘れて駆け寄る。

「ら、ラミラ!」

 動いた途端にとんでもない頭痛が脳天を直撃するが、歯を食いしばって耐えた。

「……っつ、ラミラ、どうしたの?」

「ドロテア、ごめんなさい、体調が悪いのよね」

 寝巻のままの、いかにも病人然とした私を見て、ラミラはいっそ悲痛と言ってもいい表情を浮かべた。

「ドロテア、また痩せて、ああ、やっぱり帰るわ」

 この世の終わりのような顔をして去ろうとするラミラを必死で引きとめた。彼女の様子は尋常ではない。

「待って! ラミラ、このままじゃ気になって休めないよ! 私なら大丈夫」

「そうね、逃げたところで私の身勝手さは変わらないものね」


 身勝手?


 遠慮と自己卑下の塊のようなラミラにはあまりにも不似合いな言葉だ。

 彼女は不機嫌そうなウルバーノを見上げてふっと笑う。

「ウルバーノさん、まずお礼を言わせて。ドロテアを助けてくれてありがとうございます」

「ああ? んなのお前に礼を言われるような事じゃねえ」

「私じゃ力になれなかった」

「そのようだな。行けない、と言ってた割にゃ、随分簡単に会いに来たもんだ」

「ウルバーノさん!」

 ウルバーノの嫌味に慌てるが、ラミラは意に介した様子はない。苦しげに笑う。

「ウルバーノさん、ドロテア、先に言っとくわ。たぶん、私は一生あなた達に恨まれる」

 ウルバーノが眉根を寄せた。

「殴りたかったら殴ってもいい。お願いです。私の話を聞いて下さい」

 ラミラは象牙色の豊かな髪を乱れさせながら頭を下げた。


 結局、私は皆に問答無用で寝台に押し込まれ、濡れ布巾を額に乗せられ、ちり紙と吸い飲みと屑入れを枕元に配備した上で、ラミラの話を聞く事となった。

 部屋にはウルバーノもダフネも居る。

「ドロテア、肝心な時に力になれなくて、本当にごめんなさい」

「いいんだよ、忙しかった?」

「いいえ、違うの。忙しいわけじゃなかったの。珍しく暇だったくらい。何度もこの辺りに来たわ、でも勇気が出なかった」

「この辺りに?」

「ええ、そう。あなたが心配で堪らなかったの、自分で私に手助けを求めるあなたを拒絶したのに、私は中途半端な駄目女よ、虫けら以下よね……」

 ラミラはいつものように自嘲する。

「私の事はどうでもいいわね。本題に入りましょう。ねえ、ドロテア、あなたは寝込んでいたから知らないかもしれないけど、今、経済界では大変な事が起きているの。ホロス社が出す新製品、もしかして、もう知ってるかしら」

 エンリケの発明した新しい型の畜力機は今までの動力源事情の常識を覆すと言っても過言ではない。財界はホロス社の話題で持ちきりだろう。

「うん、エンリケに聞いたから。ちょっと事情があってさ」

 あと少しで私はエンリケの奴隷になるところだったのだ、などと言えばこの優しい友人はどう思うだろうか。

「そう、そうだったわね。あなた、エンリケの家に行ってたんですものね」

 しかしラミラはあっさりと頷く。だいたいの事情もすでに知っている様子だ。ダフネに聞いたのだろう。

 ラミラは経済の雑誌を取り出してウルバーノに渡す。

「ん? なんだ?」

「株価でしょ! ちょっと貸しなさい!」

 ダフネは強引に横から雑誌を奪った。

「凄いわねえ! 予想はしてたけど、ホロス社の独り勝ちじゃないの! 私も買っておけば良かったわ」

 能天気な伯母を甥は睨み付ける。

「……おい」

「冗談よ」

「ねえ、ラミラ、新製品の事は知ってるよ。それがどうしたの?」

「そうね、じゃあ、その裏で起きている事は?」

「裏?」

 まあ、知るわけないわね、ラミラは悲しげに笑う。

「ダフネさん、ホロス社の株、買っておかなくて正解です」

「え?」

 ダフネはぽかんとラミラを見つめる。

「その株価、数日中には大暴落します」

「どういう事だ」

 ウルバーノが唸り声を上げる。

「エンリケがホロス社代表の座を辞したの」

 ラミラが厳かに告げる。

「は?」

 信じられない。

 契約以外の何物にも縛られないエンリケだが、ホロス社に対しては人並の愛着を感じているものだと思っていた。

「ホロス社の開発部は優秀な人材が多く集まっているわ。でも、それでもなお、あの会社はエンリケ一人の力に頼っている。エンリケとホロス社開発部は同義よ。それは揺るぎない事実。財界にとっても、ね。つまりエンリケに何かあればあの巨大企業は簡単に窮地に立たされる」

「な、何かあればって、代表を辞職しただけ、でしょう?」

 まるでエンリケが危険に晒されているかのような言い方に違和感を覚える。エンリケは悪魔だ。最高と言っても許される水準の魔力と頭脳を持った。まともに遣り合えるのはそれこそウルバーノのような桁外れの強者だけだろう。さらに彼は稀代の錬金術師でもある。彼が本気で罠をしかければ、おそらく彼を害する事は誰にも出来ない。

「違うの?」

 ラミラは苦しげに眉根を寄せた。

「ねえ、ドロテア、思い出して。エンリケは悪魔よ。契約の徒、この世で最も強く、最も脆い種族」

「契約」

 悪魔が口にする契約、という言葉の重みは他の種族とは全く異なる。

 とてつもなく、嫌な予感がする。

「そう、この世でただ一つ私達、悪魔を殺せるもの、死の契約。どんなに強い力を持つ悪魔もこれには逆らえない」

 ラミラは何かに耐えるように目を閉じた。

「この事はまだ極秘。私も親戚という事でホロス社の副代表のクラウディオ・エストラダに聞かされなければ、こんなに早くは知りえなかったわ」

「ちょっと待て、エストラダって、もしかして髭の妖精の男か?」

 ウルバーノが聞き返す。ラミラが意外そうに答えた。

「ええそうよ。ウルバーノさん、知っているの?」

「ああ、今日の午前中に会ったばかりだ。神経質そうな野郎だった。ああ、ここにも写真が載ってるな」

 ウルバーノはダフネから雑誌を奪って私に見せる。痩せぎすで鷹のような目をした壮年の妖精だ。豊かな髭を蓄えている。

「こっちをまともに見ようともしねえで、交渉が済んだらとっとと帰れとばかりに追い払われたぜ。まあ、こっちは交渉成立すりゃ、んなのどうでもいいがな。やっぱり、ホロス社で何かあったのか?」

「何かどころじゃないわ」

 ラミラは再び私を見た。

「ドロテア、マジョルガ銀行は知っているわね?」

「うん、さすがにそのくらいは」

 世界的な大銀行だ。

「その代表のヘラルド・マジョルガの息子、フェリシアーノ・マジョルガについては」

「ああ、一応、知ってるよ。ホロス社の筆頭株主……だっけ?」

 エンリケの隣に座り、取材陣に囲まれている様子を思い出す。無名だったエンリケへの金銭的援助を行い、ホロス社の立ち上げに携わった時代の寵児、総資産額では偉大な父親もエンリケをも凌ぐ。その巨額の資産故に誰も彼を無視出来ない。たとえ彼が経営にも魔法機械にも全くの素人だったとしても。目の前の雑誌にも小さく写真が載っている。華やかなエンリケの陰に隠れるように小さく。

 色白で頭の禿げあがった温和そうな若い男だった。つぶらな瞳は白鳩にどこか似ている。

 彼に関するある噂さえなければ、人畜無害にすら見える。

「それじゃあ、彼の性癖に関する噂も?」

 ラミラは憚るように付け加える。

「……」

 知っている。その噂はあまりにも有名だ。世間に疎い私でも耳にした事がある。


 フェリシアーノ・マジョルガは死体愛好家である。そして、死の契約に失敗した仮死状態の悪魔、『白雪姫』の収集家でもある。

 そして彼は共同経営者である世にも美しい悪魔、エンリケ・バジェステロスに劣情を抱いている。


 この手の噂は好きではない。なぜ、ラミラは急にこんな話を始めたのだろう。黙り込む私にラミラは畳み掛ける。

「一昨日から、エンリケと連絡が取れないそうよ」

 嫌な予感ほど、当たるものだ。

「最後にエンリケを目にした社員が言うには、エンリケはフェリシアーノとどこかへ出掛けたって」

「まさか……!」

「エンリケに心酔している副代表のエストラダはフェリシアーノをこころよく思っていなかった。ただ、今まではエンリケがフェリシアーノを庇うから手出しが出来なかったの。エンリケが行方不明になってエストラダは真っ青になったわ。必死でフェリシアーノとエンリケの行方を追った」

 ラミラは目を瞑る。

「見つかるまでに大して時間はかからなかった」

 皆が固唾を飲んでラミラの言葉を待った。


「エンリケはフェリシアーノの私邸に居たわ」


「エストラダは直接確かめたわけではないの。フェリシアーノの使用人がそう伝えたそうよ。隠す気もないらしいわ。エストラダはエンリケを取り返す事は出来なかった。フェリシアーノは温和な男だけれど、彼の財力は本物よ。何人もの傭兵を雇って自宅を警護させてる。それこそ一国の軍をもってしても、制圧には時間がかかりそうなほどの徹底的な篭城作戦ね」

「エンリケは……それじゃ」

 ダフネが戦いた。

「ええ、彼は『白雪姫』になった。フェリシアーノの代理人の言葉を信じるなら」

 部屋が静まり返る。

 指が冷たい。頭が割れるように痛んだ。


 そんな、嘘だろう。あのエンリケが。


 禍々しい笑みを浮かべて私を罵倒した姿を思い出す。彼は私の矜持をへし折り、どん底まで叩き落とした。そして、打って変って甘い声でお前のような輩は奴隷になった方が幸せなのだと嘯いた。

 全てを見透かした上で徹底的に悪意を行使し、どこまでも傲慢に愉悦と狂気に猛る、まさに悪魔、その彼が。

 ラミラは声を震わせて続けた。

「元々そういう約束だったそうなの。もしも自分が白雪姫になる事があったら自分を好きにしていい、その代りに融資をしてくれと、社を立ち上げた当初、エンリケはフェリシアーノに頼んだらしいわ」

 ラミラは指の先が真っ白になるほど強く、両の手を組んで握りしめている。

「フェリシアーノの屋敷の中で、実際、彼が、彼らがどんな行為に耽っているか、それは誰にも分からないわ。けど、噂ではフェリシアーノが愛した後の白雪姫は原型も留めないほど滅茶苦茶に破壊されているって」

 ラミラはみなまで言わなかった。

 なぜだか私はエンリケの白く冷たい指先を想い出していた。血の気の薄い真珠色の肌。それから彼の真紅の瞳、血の色を。

 私の魂を穢すために手足を切り落とす事も辞さないとまで言った彼だ。私が身を削って築き上げたと思ったものを、紛い物として嘲笑った彼だ。私にしようとした事を今度は自分がされる羽目になったわけだ、皮肉なものだ。

 

 そうだ、私は何も悪くない。


 ラミラは大きく息を吸い込んでさらに言った。

「もちろん、白雪姫は悪魔の身体だから時間が経てば元通りよ。けどね、白雪姫になっても悪魔には意識があるのよ。痛覚も。私は一度だけ仕事で、白雪姫になった経験のある悪魔と話した事があるの。手違いで白雪姫になった彼は死体愛好家の加虐趣味の男に拾われた。偶然にも契約が破棄されて逃げ帰って来たの。彼は死の契約を恐れていたわ。仲間から蔑まれ、唾を吐きかけられ、生き恥を晒して、それでも死の契約を嫌がった。あんなにも死を渇望していたのに。私に仕事を頼んだのは彼の息子よ。父に安らかな死を与えてやってくれ、死の契約を手伝ってやってくれと……血縁に対する執着が薄い悪魔とは言っても、身内の不始末は嫌なものだから」

 呪詛のようなラミラの声だった。


 もううんざりだ、聞きたくない。だから何だって言うんだ。


 そう思うのに、声が出ない。

「フェリシアーノの代理人はエストラダに金庫の鍵を渡したそうよ。エンリケから託されたものだと言って。金庫には辞職願とエンリケが温めてきた魔法機械の構想や設計図が山ほど入ってた。エンリケの酔狂なお遊びである可能性に一縷の望みを賭けていたのに、否定されたってわけ。エストラダは半狂乱よ。もちろん他の役員も。まだ一般の社員には知らされていないけど」

 知られたら一体どんな事が起きるのか恐ろしくて考えたくもない。強烈な個性と悪魔的な求心力を持つエンリケには熱狂的な支持者が数多く居る。

 その彼が、死体愛好家の銀行家の息子の億万長者に嬲り者にされていると分かったら。

 下手をすると暴動が起きる。

「彼の設計図さえあれば、本来ならホロス社が傾く事はないわ。でも駄目なの。ホロス社の社員だけじゃなく、世界中の人がエンリケ自身を求めている。どんなに優れた魔法機械が発売されても、それだけじゃ満足出来ないのよ。奇矯な振る舞いをしていても彼の仕事ぶり、魔法機械の開発に懸ける熱意には誰だって感服せざるを得ない。すでにホロス社の代表という立場を置き去りにして、エンリケ自身に皆が価値を見出しているの。悔しいけど、エンリケの人望は本物よ。実際、彼の行動は社の代表としては非の打ちどころがなかった。今までは。どうしてこんな事になったのか誰も理解出来ず、ホロス社の首脳部は今、大混乱に陥っている」

 ラミラは悲しげに目を伏せた。

「クラウディオ・エストラダは私に尋ねた。どんな事でもいい、彼の死の契約について心当たりはないか、それが分かれば、エンリケを生き返らせる事が出来る、と」

 ラミラは小さく笑った。

「私は嘘を吐いたわ。知らないと言ったの。普段は人を見下した態度を隠そうともしない妖精の男が、泣いて頼んだっていうのに」

「嘘を……? じゃあ、ラミラは……」

「ええ、私はエンリケの死の契約を知っている」

「え!」

 驚いた。

 悪魔はめったな事では他人に死の契約を明かさない。ごく親密な関係、夫婦や親子であっても秘密にするのが普通だ。エンリケとラミラは従姉弟同士だ。赤の他人よりは近しいとは言え、もちろん通常ならば死の契約を明かすような間柄ではない。

 ラミラがエンリケの秘密をわざわざ暴き立てるとは思えない。おそらくエンリケがラミラに教えたのだろうが、一体なぜ。

「知っているけどエストラダには教えなかった。教えれば、ドロテア、あなたの身が危ないと分かっていたから」

 耐えかねたようにラミラは両手で顔を覆った。

「私? どういう事?」

 声が震えた。


 いやだ、聞いちゃ駄目だ。

 

 心のどこかが叫ぶ。

 けれど聞くのを止められない。

「エンリケが白雪姫になったのは、ドロテアをウルバーノさんが取り返してくれてから間もなくの事よ、そう、ウルバーノさん」

 ラミラは顔を上げ潤んだ瞳でウルバーノを見た。

「あなたが銀行を介してドロテアの借金を全て肩代わりした日、ドロテアとエンリケの繋がりを断ち切った日」

「なん……だって?」

 ウルバーノは硬直したまま呻いた。

「エンリケの死の契約の内容はね」

 ラミラは微笑んだ。


「ドロテア・スニガが自分以外の物になったら、よ」


「な……っ」


 なんだ、それは。


「たったそれだけ」


 なんなんだ、それは!


「ちょっと待て、どういう事だ? 俺は確かにドロテアの借金を肩代わりしたが、本気でこいつを金銭で縛って奴隷にしようだとか思ってねえぞ!?」

「そ……そうだよ、おかしい! 曖昧過ぎる! それで成立ならどうとでも解釈出来るじゃない!」

 あまりの理不尽さに、声が掠れるのも構わず怒りに任せて叫んだ。

 つまり、エンリケの理屈では私は今までずっと彼の物だったという事なのか、返せなかったら奴隷と言われて借金をしただけで? そしてその借金をウルバーノが肩代わりしたから今、私はウルバーノの物? そんな馬鹿な話があってたまるか。

 いや、重要なのはそんな事ではない。一体彼は何を考えている。私に契約の発動条件を預けて、どうしようと言うのだ。

「そうよ、それこそが重要なの。穴だらけよ。ドロテアがもう一度エンリケのものになると決意したら簡単に覆る。誰が読んだってこんな死の契約じゃあ、まともに死ねないって事が分かるわ。そして、死の契約は常に悪魔が死ににくい方へ死ににくい方へ働く。曖昧でも言葉尻だけでも何でもいいの。死の契約が履行されず、不完全に終わる隙を意地悪な死の契約が見逃すはずない。実際、この契約はエンリケが返せなかったらドロテアを奴隷にするって口約束の借金をウルバーノさんが肩代わりしただけで発動した。エンリケは白雪姫になってしまった。あのエンリケがその事を分かっていないはずがない」

 ラミラは静かな口調で言った。

「こんな死の契約、聞いた事ないわ。むしろ、白雪姫になるためのような。きっと、エンリケはこうなる事が分かっていたんでしょうね。いえ、むしろ最初からこうするつもりでフェリシアーノを傍に置いた。それで、エンリケが何を得られるのか、一体何がしたいのか、私には分からない。けど一つだけ、はっきりしている事がある」


 いやだ、どうしてだ。

 私は関係ない。

 私のせいじゃない!


「彼が理不尽になるのは唯一、ドロテア、あなたに関わる時だけ」


 口調は抑えたものだったが、ショッキングピンクの瞳に宿るのは紛れもない懇願の色だった。それなのに私は何も言えなかった。


「ドロテア、あなたにこんな事を言うのは本当は違うって分かってる。あなたがどれだけエンリケに酷い目に遭わされてきたか、私が一番良く知ってるもの。エンリケは本気であなたを壊してしまおうとしているとしか思えないくらいに苛烈よ。エンリケを生かしておけばこの先あなたに一体どんな嫌がらせをするか想像もつかない。でも、誰がどう見たってそうなの。エンリケはいつだって、引き金をあなたに預けてきた。巧みにあなたを操って、自業自得みたいに思わせてるって面もあるかもしれないわ。それでも、おかしいじゃない。たかが嫌がらせでここまでする?」

 ラミラに言われて、私は動く事が出来ない。それこそ、ずっと私自身が疑問に思い続けてきた事だからだ。しかし、エンリケが私に執着する理由を彼の加虐心を刺激するからという以外に見つける事も出来ず、彼を心から閉め出した。

 いや、閉め出せてはいなかった。

 本当に心の中からエンリケを閉め出せていたのなら、彼が言う事にいちいち傷ついたりはしない。

 

 エンリケ、何を考えているんだ。

 お前のせいでこうなったのだと言いたいのか?

 私に罪悪感を味あわせてそんなに楽しいか?

 どれだけ私を苦しめれば気が済むのだ。


「それにね、この契約にはもう一つ恐ろしい点があるの。悪魔じゃないあなた達にはその恐ろしさを少し理解するのが難しいかもしれないわ。私も悪魔らしい悪魔とはとても言えないけど、悪魔の考え方はあなた方よりは分かるつもりよ」

「そうか、契約内容が永久に実行不可能になった場合かったく、どっちに転んでも悪趣味だぜ」

 ウルバーノが忌々しげに呟く。

「その通り」

 ラミラが言っても私にはまだ分からない。

「ピンとこないみたいね。いいわ、教えてあげる。この契約はね、実行不可能にする事が出来るのよ」

 つまり、それは。

「私が、エンリケの所有物のまま死んだ場合?」

「そう、あなたは未来永劫エンリケのものよ。そして、その場合には死の契約は本来とは逆の意味で完全に有効になる。エンリケは死ぬ術を失うの。永久に。誰よりも悪魔らしい悪魔、死への欲求だって人一倍強いに違いないエンリケが。正気の沙汰じゃないわ。けれど、エンリケがあなたを手放そうとしているように見えた事は一度もない。むしろ、ずっと、ずっとあなたを自分に縛り付けておくために行動しているように見える。つまりね、エンリケはあなたが死ぬまであなたの所有者で居続ける事が出来たなら死への欲求という苦痛に耐えながらずっと生きていたって構わないって思ってたって事よ」


 永久に、生き続ける?


 そんなもの、死への渇望を持たない悪魔以外の種族にとっても恐ろしい。酷い冗談だ。一体、なんのつもりなのだ。


 もし、ウルバーノが助けに来なかったら、私が完全にエンリケの奴隷になってしまったとしたら。


「エンリケが私に自分の死の契約の内容を見せた時から、エンリケが何か企んでいるのは分かってた。私を介して、ドロテア、あなたに何らかの働きかけをするために見せたんだって事も」

 ラミラはふいと横を向く。

「エンリケの手駒に使われるのは絶対に嫌だったわ。私はあなたに会ったらあなたの選択に何らかの影響を与えてしまう。だから、あなたには絶対に会えないと思っていた。だって、エンリケが何か仕掛けてきて、あなたやウルバーノさんが動いたその結果、何が起こるか私は知っているのよ」

 私がエンリケに対抗しようと策を講じる事でエンリケが白雪姫になってしまうという可能性をラミラに示されたとしたら、果たして私は思う通りに行動する事が出来ただろうか。

 彼女は公正であるために、私と接触しない事を選んだ。だから、ホロス社に訴えられた時に協力を頼んだら、すげなく断られたのだ。

「結局、エンリケの思う通りに動いてしまったけどね。さすがエンリケよね。私がエストラダに何も言えない事までお見通し。だってそうでしょ? 私はあなたが大事だもの。エストラダがもしも契約の内容を知ったら手段を選ばずあなたにエンリケを助けさせるばず。きっとあなたは危険に晒される」

 ラミラは苦笑した。

「こんな事なら最初から打ち明けておくべきだったわ。私のエンリケに対する敵愾心まで巧みに利用されたって訳ね。意地を張ってすぐにはあなたに何も言わないだろうって、そのせいでこんな残酷な状況になってからあなたに選択を迫る結果になった」

 少し首を振ってラミラはまた私を真っ直ぐ見た。

「エンリケが何を考えて、白雪姫になって死体愛好家で加虐趣味のフェリシアーノの所へ行ったのかは誰にも分からない。もしかしたら、エンリケは究極の被虐趣味でフェリシアーノに滅茶苦茶にされる事それ自体が目的だったのかも、なんて仮定すら誰にも否定する事が出来ない」

 エンリケの悪意以外の感情はいつも華麗な毒舌に覆い隠されて曖昧だ。彼ならあるいは、いや、彼に限ってそれはない、どちらもエンリケならば成立しうる気がした。

「けど、これだけは事実。エンリケを蘇らせる事が出来るのは、この世界でたった一人、あなただけ」

「私が再びエンリケの物に、エンリケに借金をすれば、エンリケは白雪姫じゃなくなるの?」

 ウルバーノに多大なる犠牲を払わせて返した借金をまたし直せ、というのか。

「ええ、そのはずよ。それで、死の契約は無効化する。それか、あなたが死ぬのを待つか、ね。その場合にはあなたがエンリケのものになる可能性はなくなり、エンリケは白雪姫から蘇る事なく、そのまま完全な死体になる。彼の苦痛は終わる。馬鹿らしいけど、悪魔の契約ってそういうものよ。屁理屈が何より大事なの」

 そこで、ラミラもウルバーノを見た。

「ウルバーノさん、あなたは私を恨む権利があるわ」

「ああ、そのようだな。知らせないでくれりゃあ良かったのによ」

 言いながらもウルバーノの言葉に責める響きはない。

 ラミラが知らせてくれなければ、私はエンリケが白雪姫になった事実さえも知る事は出来なかっただろう。たとえそれを知ったとしても、理由までは分からなかったはずだ。釈然としないものを感じながらも、エンリケの新しいお遊びだと勝手に解釈して、とんでもない悪魔に目を付けられて苦労したものだと、いつか昔話にするのだろう。


 自分達を脅かす存在が消えた事を無邪気に喜んで。


 我知らず、唇を噛みしめていた。

「黙っていようかとも思ったわ。けど」

 ラミラはそっと椅子から立ち上がる。

「勝手だけど、知った上で選択して欲しかった。私が知ってるドロテアっていう人は、都合の悪い事実を知る事から免れるのを潔しとしない。もしも事実を知ったらきっと自分を責めるわ」

 ラミラは美しく微笑んだ。

「あなた、変な人よ、ドロテア。人と関わるのを怖がるくせに、迷惑かけるのを嫌がるくせに、人に責められるのは本当はどうでもいいのね。この辺りの住民達に迫害されてた時もそう。あなたがあんなにも苦しんだのは酷い目にあったからじゃない。樵達の生活が困窮してしまった責任の一端が自分にもあると自分で知っているから。あなたが恐れるのはいつだって真実だけ。この世界に誰一人あなたを責める人が居なくたって、自分の罪を知っているのなら自分を許せない。それが一番あなたを苦しめる。今だって、聞かない方が苦しまないで済んだはずだと分かっているのに、耳を塞ぎたいはずなのに、さっきから一度も私に『もうやめて』と言わないわ。本当に、根っからの魔法機械工、真理の徒」

 そこで彼女は声を詰まらせ逃げるように踵を返した。

「ラミラ!」

 寝台からはい出した。

 頭痛など構うものか。

 額から布巾が滑り落ちる。

「おい!」

 ウルバーノの静止を振り切って、ラミラを追いかける。

「待って、ラミラ!」

 ラミラは玄関の扉の前で私に腕を掴まれて俯いた。ラミラは首を振る。

 きらきらと滴が零れる。象牙の髪の毛に水滴が跳ねて水晶のように光る。綺麗だった。彼女は本当に美しい。

「ラミラ!」

「ごめん、ごめんね、ドロテア」

 彼女の象牙色の頭を抱き締めた。痛々しくて見ていられない。


 私の大事な、大事な悪魔の友達。


「ドロテア、あなたが好きだわ。真実に忠実な心に雁字搦めにされて苦しむあなたが。それでも人を嫌えないあなたが。偽りに守られるあなたを見たくなかった。あなたに嘘を吐く事がこんなにも辛いだなんて思わなかったわ」

 ラミラはようやく嗚咽を漏らした。話す間、ずっと泣くのを堪えていたのだろう。

「謝る事なんて何もない」

「エンリケの言いなりになるのが癪で、なんて言い訳にもならないわ。それならずっと黙っていればいいものを、私、自分の理想をあなたに押し付けた」

「そんな事ないよ。ラミラはいつだって私に真剣に向き合ってくれた。私がそれを嫌がると思う?」

「思わない。だからこそ私は卑怯なのよ。あなたが真実を求めるのをいい事にあなたが苦しむと分かっていながら望む物を与える。私も結局は悪魔って事ね」

「卑怯じゃないよ。ラミラは私が好きで、私に誠実でありたい、ね、そう言う事でしょ?」

 少しだけ笑って言った。今だけは自惚れたって構わないだろう。難しい事を言っているようだが結局はただそれだけだ。なんて生真面目な友人だろう。

「ふふ、そうね、そう、その通りだわ」

 ようやくラミラも笑った。ボロボロと涙を零しながら。

「私ね、エンリケとはある部分が凄く似ているの。だから分かる。エンリケの真意を引き出す事の出来る人間が居るとしたらそれはあなたよ、ドロテア」

 ウルバーノもダフネも何も言わず、抱き合う私達を見ていた。いつの間にか夕方になっていた。

「ラミラ、ありがとう。本当の事を教えてくれて」

 ウルバーノは静かな表情で私を見ていた。彼の銀色の瞳はどんな時でも私に力をくれる。


 こんな私に、何の価値がなくてもお前が必要だ、と言ってくれた。


 ふいに気持ちが楽になった。


 答えはもう決まってる。迷う事なんかないじゃないか。

 たとえ、どんな事があったって、


 私の魂は



 私のものだから。




                               

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