第32話 Sランク傭兵の意地
取り残されて恐る恐るウルバーノを見上げる。ウルバーノはそんな私を見て、溜息を吐いた。
「ドロテア」
ウルバーノは寝台に乗り上げ、ゆっくりと私を抱き締めた。
「……!」
壊すのを恐れるかのように、縋るかのように、そして次第に強く強く。ウルバーノの大きな手が震えている。
いけない、と思うのに、逆らえない。
身体が彼に包まれる安心感をもう覚えてしまっている。
「俺を殺す気かよ……っ」
「……ごめんなさ……っ、ごめんなさい」
咳き込みながら必死で謝った。
謝る以外になかった。私は何もかもが中途半端だった。申し開きの余地もないほどに、だらしなかった。自分の過ちに気が付いて、取り返そうと思っても、それすらウルバーノに阻まれ、守られた。助けに来たウルバーノを責めるのがお門違いだという事も嫌と言うほど分かっている。ウルバーノを欺いて自分一人で背負いこむ気なら、もっとやりようがあった。
結局エンリケの言う通り、覚悟も矜持も足りなかった。消えてしまいたかった。
「謝るな」
ウルバーノはやがてゆっくりと身体を離した。だが、腰には手が添えられたままだ。
「お前の事だ。どうせ俺が謝って欲しい事を分かって謝ってるんじゃねえんだろ? そんな謝罪は虚しいだけなんでな」
言葉は冷たいのに、どうしてこんなにも優しく私の頭を撫でてくれるのだろう。
「あのカマ野郎の屋敷に居たお前の顔は酷かったぜ。木偶みてえだった本当はもう少し休ませてやりてえんだが……けどお前、どうせ詳しい事情を聞くまでは大人しくならねえよな。大方、寝たふりでもして俺達を油断させて逃げ出して、もう一度エンリケと遣り合うつもりだろ」
しっかり見抜かれている。
「……馬鹿にするなよ」
どこか悲しげな響きにウルバーノを見上げた。
「俺は……ずっと、後悔してた」
ウルバーノは私の手を取って指を弄ぶ。子供のような仕草だった。
「お前みたいな分からず屋が素直に俺を頼る事なんてないって分かってたのに、なんでもっと早くにこうしなかったのかって」
銀色の目に怒りの色はなかった。
「お前を見てると俺の親父を思い出す。傭兵稼業でしくじって大怪我してもう余命いくばくもなくなって、やばい奴らに追われて隠棲してる親父を必死で探し出して……会いに行ったら、あの糞親父、第一声で謝りやがった! 情けない父親で悪かったってな。俺は何でもしてやるって言ったのに、俺が本気になればお袋に会わせてやる事だって出来たのに、お前に会えて嬉しい、他には何も要らない、お前に迷惑かけたくない、ありがとうって。手を握らせてくれ、頭を撫でさせてくれ、抱き締めさせてくれ、だとよ。ふざけんなよ、俺とお袋とまた三人で暮らしたくてずっと無茶してきたくせに……っ」
手を握る力が強くなる。
「最近になってようやく分かったよ。馬鹿は俺だった。なにも親父の遠慮に律儀に付き合ってやる事はなかった。何も考えずに怒鳴ってやれば良かったんだ、何弱気になってんだよ糞親父って。金にあかせて寿命の尽きた親父を治癒魔法で無理やり長らえさせて、恥知らずでもいい。道理なんか忘れちまえばいい。自己満足とでも何とでも言え。憎たらしい親戚どもを脅して、お袋の実家に殴りこんでな」
そこでウルバーノは軽く笑った。
「感動の再会ってやつをさせて、お袋と二人で親父を看取ってやりゃあよかったんだ。相手から頼って欲しいなんてのは甘ったれの言い訳なんだよ。人が人を想うのに迷惑は付き物だ。神様じゃねえんだから。誰だってしたいようにするだけだ」
何もかも許した清らかな笑顔だった。
「もう二度とあんな思いをするのは御免だ。俺は俺のやりたいようにやる……今度こそ。たった今、片付いたとこだ」
「か、片付いた?」
一体、何がどう片付いたのか。ホロス社が訴えを取り下げるとは思えない。むしろ、今までの罪状に器物破損や不法侵入まで盛って賠償を迫ってくる気がする。
「ああ、片付けた。全くお前、落ち込んで混乱してた上に体調も悪かったんだろうが、ちょろ過ぎだぜ? トリスタンを手玉に取ってた同じ女とは思えねえ。あんなに簡単に相手の手の内に落ちるなんてよ。まあ、俺も結局は他人任せだったがな」
ウルバーノはからからと笑った。
「お前をあのカマ野郎から攫って来るのは比較的短時間で済んだ。野郎、よほどあの屋敷の警備に自信があるらしいな。確かに公開はされてねえが、調べりゃすぐに奴の屋敷の場所は分かったぜ。ただ、管理区域に指定されていたんで、ちょっと無茶しなきゃならなかった。着いたら着いたで爆弾白苺のお出迎えだ。気味の悪い巨大魚も襲って来るしよ。あれは、たぶん元々人間だろ?」
思わず頷く。
「とんでもなく強い魔法がかけられてるな、なんだありゃ。呪いと加護の塊だ。攻撃力は大した事なかったが、怖くて触れやしねえよ、あんなもん。怪我させないようにすんのに苦労したぜ」
その時の事を思い出したのか、ウルバーノは少しげんなりした表情を見せた。呪いと加護の塊、そうだろう、魚に身をやつしてもエンリケの傍に居たいと願う人間の業と魂のなれの果てなのだから。
「お前を取り返してから考えた。お前がエンリケに逆らえない一番の理由はなんだ? どんなに虐げられて刷り込みかけられてても、お前がそれだけを理由に弱くなるとは思えねえ。お前の根っこは超が付くほどの現実主義者だ。ずばり、金だろう」
「まさか……!」
「ああ、お前の借金は俺が返した。それなりに蓄えはあるつもりだったが、やっぱり少し足りなかったんで、俺も晴れて借金持ちって訳だ……ああ、がたがた抜かすなよ。てめえの意見は聞いてねえ」
「な……っ!」
信じられない。地方財政を揺るがしかねないほどの巨額の借金をこの男は肩代わりしたと言うのか。何の得にもならないというのに。
「Sランク傭兵ってのはいろいろ制約がきつい代わりに、それ相応の権限も付与されてる。特に銀行からの信用は半端ねえんだ。国家予算なみの額でも融資を受ける事は可能だ。前にお前に言われたっけな、資格ってどこでどう役に立つが分からない、だっけか? まさに、その通りだったぜ」
おかしそうに笑うウルバーノに血の気が引くのを感じた。
なんて、馬鹿な事を……!
ウルバーノは軽く言うが、けして笑えるような金額ではない。
借金する先がウルバーノに変わっただけと言えばそうだが、億万長者のエンリケに借金するのと敬愛する恩人に借金をするのとでは重みが全く違う。
「そこから先はどうしたらいいのかさすがに俺も分からなかった。必死だったぜ。こんなにたくさん頭下げたのは何年ぶりだろうな。もう、いろいろ面倒臭くなっちまってな、樵のコルテス達に正体を明かした。傭兵のウルバーノの名前を笠に着てやりたい放題人に頼りまくった。方々に声をかけたが、法律や訴訟に詳しい奴らはみんなホロス社、エンリケと事を構えるのを嫌がった」
やはりそうなのか。みなエンリケの事は恐ろしいのだろう。
「で、駄目元で昔の依頼人に連絡を取ってみた。偏屈で無愛想な法律家の人族の男だ。変わった奴でな、誰も関わりたがらない案件ばかりを扱ってる。俺がそいつに出会った時にやってたのは、私刑も拉致も何でもありの危ない新興宗教団体の被害者家族の会の代表者だ。それで、護衛の依頼を受けたんだ。お前の依頼と同じで何人もの傭兵に断られてSランク扱いになっちまってたから俺しか引き受け手がいなかった。一緒に仕事をしてた時は礼儀がなってねえだの、なんだのと散々こき下ろされて、二度と会いたくないと思ってたんだが、プライドかなぐり捨てて頼んだら、あの野郎あっさり頷きやがった」
ウルバーノは嬉しそうに語る。
「エンリケに一泡吹かせてやると言ったら、何のためだと聞かれた」
彼はにやりと笑って私を見た。
「俺は、女のためだ、と答えた」
ぞくりとするようなきわどい流し目だった。
「奴は大笑いして言ったよ。そいつは最高だ、任せとけって」
ウルバーノは満足げな猫のように私の手をとり、口づける。
「鮮やかなお手並みだったぜ、やっぱ専門家には敵わねえな。まあ、落ち着いて考えてみりゃなんで考え付かなかったんだってくらい簡単な話だ。エンリケがお前にどう言ったか知らねえが、あの黄緑色の、おに前がお前の親父の作ったスライムを改良して作ったスライムの利権は間違いなくお前に帰属する。お前の親父のスライムもそうだ。少なくともエンリケのものじゃねえ。瘴気を魔力に変換するって能力があまりに衝撃的で忘れがちだが、お前の親父のスライムもたいがいだぜ? なんせ、既存の法則をがん無視で無尽蔵にヘドロと瘴気を撒き散らすんだからな。益か害かは別にして、十分に常識外れだと思うぜ。俺達があいつらに無断で商売してた事を訴えられるのは理屈だけ言えばおかしな事じゃねえが、それを言うならあいつらだって、いざあの紫色の瘴気を魔力に変換するスライムを商品化するとしたら、お前ら親子の作ったスライムを使わざるをえないはずなんだ。つまり、あいつらも、お前の許可なしには何の商売も出来ねえんだよ」
そうか、ホロス社に訴えられたというだけで負けのような気がしていたが、そんな事はなかったという事か。
自己嫌悪に心も目も塞がれて何も見えていなかった。
結局私は自分を罰する事ばかり考えていたのだろうか。
「実際、ナバロの野郎が、その、俺の昔の依頼人の名前だが、直接、魔法管理局に問い合わせたら、ホロス社は近々新製品を出すって話で、その新製品にはお前ら親子の作ったスライムも使われてた。お前、俺に言った事あっただろ、本当は畜力機にスライム付けちまう方が使用する側にとっては負担が少ない、みてえな。お前が言ってたあれ、ホロス社に先越されちまったみたいだぜ。お前が言ってた通りの製品をエンリケはすでに作ってた。もしかして、知ってたか?」
「はい。エンリケの家で見せられました」
「じゃあ、話は早いな。今日はナバロとホロス社の本社に行って来たんだ。俺らを相手したのは髭の妖精で、ホロス社の副代表をやってる男だ。クラウディオ・エストラダ、魔法機械工の資格はねえが、経営や販売戦略を一手に引き受けているらしい」
「エンリケじゃなかったんですか?」
「ああ、なんでだか、姿が見えなかったな。まあ、好都合っちゃ好都合だ。あのカマ野郎が相手じゃ俺も冷静に話し合いなんてする気にならねえよ。絶対に殴りたくなるだろうしな」
確かに、交渉相手としてエンリケほど恐ろしい相手は居ない。相手の怒りを手玉にとって自分に有利に事を進めるなどお手の物だろう。
「俺達はこう言った。訴えを取り下げ、今まで通りディオラ杉の栽培を許可してくれれば、ドロテア・スニガ、アルバロ・スニガの作ったスライムに関しての使用料は払わなくていい。ただし、取引に応じない場合には、スライムの使用を許可しない。こう持ちかけると、副代表は二つ返事で頷いたよ。割のいい取引だとよ。あっさりしたもんだったぜ。拍子抜けだ。あの髭のおっさん、なんだか苛々しててな、それどころじゃねえって感じだった。どうでもいいけどな」
エンリケの動向は少し気になるが、元々私に嫌がらせをするためと、あわよくばさらに苛めて潰してやろうというだけだったのかもしれず、彼が興味を失ったと考えれば辻褄は合わなくはない。何か釈然としないものを感じるが、今は考えてもその理由は分からなかった。
「というわけで、お前はもう何も心配する必要はない。エンリケはお前に手出しする口実を失った。樵達がディオラ杉を栽培する権利も保証された。お前が苦労して作った魔力補充プラントはディオラ杉を育てるために最小限稼働させる以上の事は出来なくなったが、借金はもうねえし、荒稼ぎする必要もねえだろ。さて、寝る前のお話は終わりだ。風邪引きに口答えする権利はねえぜ、とっとと休め」
ウルバーノは何かを吹っ切るように立ち上がる。温もりが離れてしまい少し寂しい気がして、そんな自分を恥じた。これだけ与えられて私は他に何を期待するんだ。
それよりも私にはまだ聞きたい事がある。ウルバーノは肝心な事を何一つ言っていない。
「待って下さい。まだ、眠れません」
「……参ったな」
ウルバーノは嘆息して、ぽりぽりと頭を掻く。
「ウルバーノさん、本当に、何から何まで、ありがとうございます。けど、私は何も返せない。だから本当はお礼も言っちゃいけないのかもしれない。でも、これだけは聞かせて下さい」
ウルバーノは意図的に言わずに済ませたのかもしれない。
「それだけの事を、何の犠牲も払わずに出来るわけがないです。ねえ、さっきエンリケの屋敷に行く時にちょっと無茶したって言ってましたね? 具体的には何をどうしたんです?」
聞くのが怖かった。だが、聞かずにはいられない。
「ったく、これだからお前は油断も隙もねえ。ちょっと前までは腑抜けてたくせによ」
忌々しげに吐き捨てるウルバーノだ。
「ご明察の通りだよ。Sランク傭兵って言っても、無条件で管理区域に転送してもらえるわけじゃねえ。それなりの大義名分が必要だ。時間をかけりゃお前の奪還を正式に誰かに依頼してもらう事も出来たが、急いでたんでな。ダフネに頼んで依頼を偽造した。役人が一発で黙るようなどでかい依頼をな」
完全な違法行為だ。
しかも、恐らくすぐに発覚する。
「何で……!」
「何で、か、お前にそれ言われるときついぜ。そんなの、早くお前を取り返したかったからに決まってる。あの胸糞悪い悪魔とお前が一緒に居るってだけでこっちは気が狂いそうだったんだよ!」
「そんな、だって……」
ウルバーノは苦い表情で私に再び近付いて来た。
寝台に手を突いて私に覆いかぶさる。
「お前もあのカマ野郎も代償代償って、みみっちい事言いやがる。聞きたきゃ教えてやるよ。そうだよ、俺もお前らが大好きな代償ってやつを支払った。さっき通達が来たぜ。俺は恐喝と依頼偽造で傭兵資格を永久に剥奪された。まあ、融資の話はそのままにしてくれるらしいから、正直そんなのはどうでもいい。問題はダフネだ。俺が脅してやらせたって事にしてあるからダフネには実刑までは下らなかった。けど、俺がダフネの甥である事はちょっと調べりゃすぐ分かる。組合職員の奴らはダフネが無罪じゃない事を知ってる。ダフネは責任取って自主退職だ。暇そうに見えるのはそのせいだ。俺は一生、あの糞婆あに頭が上がらねえ」
うそ……!
「そんな、嫌だ……なんで、やだ」
どうしてこんな子供の我が儘のような態度しか取る事が出来ないのか。心底自分が嫌になる。私のためだという事が分かる。感謝もしている。だが、罪悪感で苦しい。目の前が真っ暗になる。
ウルバーノは私のためを思って言わなかったのに、私が言えと言ったのに受け入れられずに醜態を晒す。
ウルバーノは何でもない事のように言うが、何でも出来る彼が敢えて傭兵を生業として選んだのは父親の事があるからだろう。傭兵はけして楽な仕事ではない。綺麗な仕事でもない。人によっては蔑む人も居る。しかし、彼が誇りを持って仕事をしているのは、誰の目にも明らかだ。
ダフネもそうだ。
彼女がいかにあの組合を愛しているか、大事にしているか、みなが知っている。彼女には治癒師としての副業もある。経済的に困窮する事はないだろうが、金銭の問題ではない。そんな事情があったのに、先ほどの彼女の手はいつも通り、いや、いつも以上に優しかった。暖かかった。
私はなんて事を……
「どうしてそこまで、ウルバーノさんやダフネさんには何の得もないはずです! 嫌です! どうして……! 誰にも迷惑をかけたくなかったのに! ……分かってます、私が悪い。でも、そんなの嫌だ!」
声が掠れるのも構わず、血を吐くように叫んだ。
「お前、本当に何にも分かってねえな……」
ウルバーノが銀色の瞳に凶暴な光を宿して私を睨み付ける。声は狼の唸り声そのものだ。飢えて、低い。
「お前、なんで俺やダフネが怒ってると思う? 俺達だけじゃねえ、樵の奴らも、グアルディオラもみんなだ」
そんなの、私がしくじったからに決まっている。
一人で片を付けようと無理をして、結局、ウルバーノに心配させ、助けに来させ、彼に縋ってしまった。ウルバーノやダフネに犠牲を押し付けた。私の考えている事が分かったのだろうか、ウルバーノは鼻で嗤った。
「まだ完全に回復してねえだろうから、叱るのは後にしてやろうと思ったが、やめだ。てめえの馬鹿さ加減には我慢ならねえ!」
肩を掴まれた。
「いいか、俺達がお前を怒ってるのは、お前がトリスタンを脅したからでも、借金を俺に肩代わりさせたからでも、エンリケに出し抜かれたからでもねえ! お前が何も言わずにエンリケの所へ行ったからだ! 勝手に一人で犠牲になって奴隷になる覚悟を決めちまったからだ! 差し伸べた手を無視されたからだ!」
ウルバーノは縋るように私の肩に頭を乗せた。
「っとにお前は馬鹿だよ。こんな馬鹿は見た事ねえ。得だと? 代償だと? 迷惑だと? なんでいつもそうなんだ。どうして何か得でもなけりゃ自分のために何かする人間なんて居るわけないと決めつける。そんなもんなくなってお前を助けたいと思う人間が居る事をどうして理解しようとしない? どうして一言頼まないんだ。なぜ助けてくれと言わない!」
ウルバーノは顔を上げ、険しい表情で私を見る。
「……コルテスがお前を詰りに来た時の事を覚えてるか?」
言いたくなさそうに見えるのは気のせいか。もちろん覚えている。エンリケが開発したスライムを横取りして使っていると疑われた時の事だ。
「はい」
「あの時だって本当はな、お前はたった一言、言えば良かったんだ。お願い、私を信じてってな」
言えるわけがない。信用に値する行いをしてこなかったからこその窮地だというのに。
「そうすればコルテスは喜んでお前のために働いた。お前の友達のラミラって召喚術士も、お前が必死で頼めばきっと力になってくれたぜ。トリスタンだって、たぶんな、お前が頭下げりゃ、エンリケの言うなりになんかにゃならなかった。多少は渋るかもしれねえが、口裏合わせぐらいしてくれたはずだ」
それは、また脅す事とどう違うのか。罪を重ねるだけではないか。
「忘れたのか? トリスタンはお前の力になりたいって言ってたじゃねえか。それに俺に言わせりゃ、あんなの自業自得だ。奴もそれくらい分かってるさ。あの狡猾な領主がただの脅しに乗ると思うか? お前に協力した方が有利だと考えたんだろうぜ。……言いたかねえが、お前への好意も勿論あるだろう。ダフネもグアルディオラも……みんな、お前の一言を待ってる。堂々と言えばいい。私を好きなら私を助けて!ってな」
ウルバーノは静かに続けた。
「何も代償を払わずに何かを手に入れる事なんて出来ないって事くらい、みんな分かってる。それでもいいんだ。それでもお前を助けたい。けど、みんな常識人だからな、お前が頼らないのに余計な事は出来ねえって思うんだろ」
ウルバーノは少し俯いた。
「俺はそんなの結局は無視してやったが……」
彼の手がじっとりと汗ばんでいるように感じた。心なしか、わずかに感じる彼の吐息の温度も高い。
「だけど本当は俺だって……」
何かに耐えているような苦しげな声だった。
「お前がもし頼むなら、俺はどんな事でもする……前に言ったろ、いくつでも頼め、何でもしてやるって」
ウルバーノがようやく顔を上げた。
「お前、あの……あれは本当か?」
「え?」
「飛び出していく前、俺に髪の毛触らせろって言ったその後の……」
あれ? あれって何だ。
いつも鋭い知性の光を宿す銀色の目が、とろりと潤み、それでいて飢えたようにぎらついている。彼の目尻は赤く色づいて殺人的な色気を放っていた。
そこで、ようやくエンリケの屋敷に向う直前に彼に打ち明けた事を思い出した。
「う、あ……!」
口をパクつかせながら自分も顔が真っ赤になるのを感じた。
そうだった、もう二度と会えないかもしれないと思って言っちゃったんだ。
好きですって!
途端にこの距離の近さにまごつく。大変な事があり過ぎてうっかり失念していたが、私はウルバーノに愛の告白をしたのだ。自分でしでかしておいて、忘れるなどとんでもない話であるが、許して欲しい。本当に生きるか死ぬかの覚悟をしていたのだ。
「お前、俺がどんな気持ちだったか分かるか? 突然、あんな事言われて逃げられて、帰って来たら寝込んじまって襲えやしねえ……俺が今、どれだけ我慢してるか見せてやりたいぜ」
「が、我慢!?」
「何だってしてやるって、さっきも言っただろ。お前が、お願いって、ウルバーノさん大好きって言ってキスでもしてくれれば、俺は、本当にどんな事だって……それこそこの世界を滅ぼせでも、何でも……」
「……な!」
あまりの言いように二の句が継げない。
「なあ、お前さ、どうせ早く俺に借金返さなきゃ、とか思ってんだろ。違うぜ。エンリケが返せなかったら奴隷って言った借金を俺は肩代わりしたんだ。奴隷ってのはつまり、お前の全部を所有するって事だろ。それを俺が引き継いだ。そして俺はお前に金を返させる気はねえ。お前には借金なんかさせてやらない」
赤い顔のままどこか気弱にウルバーノは自嘲する。
「あんな、はした金でお前を本当に俺の物に出来ると思ってるわけじゃねえ。だけど、それでも、どんな大枚はたいたっていい。お前がエンリケに所有されるのは我慢出来ねえ!」
肩を掴む手に力が籠る。
「お前を助けたって俺には何の得もない? お笑い種だ。俺は自分が欲しい物のためにしか動かない」
ウルバーノは小さく言った。
「お前が好きだ」
まるで罪の告白でもするように。
「お前が欲しい」
「ずっと傍に居てくれ。もう、どこへも行かないでくれ。この沼に何もなくたって、お前が飯もろくに作れなくたって、お前が魔法機械工ですらなくなって、何の役にも立たなくなっても、俺にはお前が必要なんだ。お前を助けに行って怪我したのも、傭兵の資格を剥奪されたのも、金の事も、全部俺の我が儘だ。お前が欲しくて堪らなかったから、勝手に無茶しただけだ。ダフネも俺が頼むから協力してくれただけだ」
どうして、ウルバーノさんは、いつだって私が一番欲しい言葉をくれるんだろう。
どうして、この人はいつも、簡単に私を泣かすんだろう。
「お前、良く泣くようになったな。出会ってすぐの頃はこいつ絶対に泣いたりしないんだろうなって思ってたのによ」
そして、少し困ったように苦笑した。
「ああ、くそ、参ったな。お前が弱ってるから、我慢しようと思ってたんだぜ? お前、凄えいい匂いするよな」
「ええ!?」
匂い!?
ヘドロの匂いにずっと悩まされてきたせいか、匂いと聞くと身構えてしまう。
汗をかいて寝込んでいたし臭うかもしれない。
「く、臭いですか?」
「馬鹿、何聞いてんだよ。違げえよ。いい匂いだっつっただろ。初めて会った時から、どうしてこいつこんなにいい匂いがするんだって思ってたんだ。ヘドロの匂いが酷えから余計に、本来のお前の匂いだけが際立っててな……すげえそそる。たまんねえ」
囁く声は何もかも蕩けさせるような良くない魔法でも込められているのかと思うほどに、甘く熱く響く。
「なあ、ドロテア、涙を舐めるだけじゃもう足りねえ」
「俺に全部……くれよ」
ウルバーノが私に覆いかぶさろうとしたその時だった。扉を叩く音がする。
「ウルバーノ! ドロテア! 服着てる? 開けていい!?」
なんとも直截的な台詞を言うダフネの声だった。服を脱ぐような事をしていると思われているらしい。間違いではない、かもしれない、が恥ずかしい。
い、いつから知ってたんですか、ダフネさん……!
ウルバーノはしばらく、動かなかった。そして一言。
「…………いいよな、無視で」
「いやいやいやいやいやいやいや!」
私が慌てた。慌ててまた咳き込んでしまった。
「おい、大丈夫か?」
「だ、……っ大丈夫、なので、返事を……」
「ちっ、しょうがねえな」
心の底から嫌そうに、ウルバーノは扉を開けた。
「ったく、なんだよ」
不機嫌だ、と顔に書いてある。
ダフネはひょいと私が居る寝台を覗き見ると驚いたようだった。
「あら、綺麗なもんね。あんたまだ手出してないの! 呆れた! 若い男女が大きな寝台の上で仲良くお喋りしてただけ?」
「うるせえな! っとにてめえは下品な婆あだぜ!」
「ダフネさん……」
私に巻き込まれて組合所長の職を辞したというのにダフネはいつも通り明るい。謝るのも、お礼を言うのも何か違う気がして、なんと声をかければいいのか分からなかった。私の視線だけでダフネは私の考えている事がだいたい分かってしまったようだ。繊細な作りの褐色の長い耳を少し下げて、苦笑した。
「全く……馬鹿な子ね、ウルバーノ。あんた、しょうもない事喋ってて時間切れになっちゃったわけ? とっとと押し倒せばいいのに……」
「俺だって言いたくなかったぜ。けど、しょうもない事じゃねえよ」
ダフネに対する時はいつも反抗期のような態度のウルバーノだが、この時ばかりは殊勝だった。
「そんな事気にするたまじゃないでしょ? いつも通り、糞婆あが勝手にやったって言えばいいじゃない。それにドロテア、あんたには感謝してるのよ。この子は馬鹿でガサツで気が利かないけど、私のたった一人の可愛い甥なの。今までずっと辛い目に遭ってたのに、何にもしてやれなかった。だけど、これでようやく伯母らしい事がしてやれたわ。どうせ、あと数年で定年だったし、これからは、ただのちょっと裕福な未亡人よ。ウルバーノばっかりに構って遊んでくれなかったら泣いちゃうからね!」
「いいから、要件を言え!」
「ああ、そうだった。ドロテアの友達のラミラさんが来てるの」
ラミラが?
寝台の上で思わず半身を起こした。
「今更、何の用だよ。ドロテアが頼った時は無視したくせに」
「何か事情があるみたい」
最近姿を見せないと思っていたが、ラミラと何かあったのだろうか。
「……追い返せ、ドロテアは病人だ」
「その病人に無体を働こうとしてたのは誰かしら……って、ちょっと睨まないでよ! 私だって悪いと思ってるわよ、本当に! むしろすでに二三発やった後だったらいいなって思ったくらいよ!」
「……ってめえ! いい加減にしねえと本当に殴るぞ?」
「怖いわね、応援してやってんのに! まあ、そう言わないでやって。泣いて土下座して、会わせてくれるまで動きませんって構えなのよ、無下に出来ないわ」
「どうする、ドロテア? 身体が辛かったら、無理すんじゃねえぞ」
「まあ、どの口が……」
「茶化すな!」
私の答えは決まっている。
あのラミラがたいした理由もなく、我を通そうとするとは思えない。
嫌な予感がする。
「ラミラに会いたいです。通して下さい」
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