第31話 ダフネの看病

 小さな頃に一度だけ、ずる休みをした事がある。


 何が理由だったかは忘れてしまった。

 その頃の幼年学校の男の妖精の担任が剽軽な人気者だったのに、私だけには少し意地悪だったからからかもしれない。体位測定で背の高さを同じ組の男の子達にからかわれるのが嫌だったからかもしれない。女の子達がお弁当を食べる時に、今日仲間外れにする子は誰にしようか相談するのが怖かったからかもしれない。隣の席の獣人の男の子が、私の机と彼の机の間にまるで破ってはいけない掟のように必ず少し隙間を作っていたからかもしれない。


 とにかく私はずる休みをした。


 苦痛から逃げるためだけに義務を放棄した。


 父は私の友達など一人も知らず、私が何組かも言えないくせに、お腹が痛いと言う私の嘘はあっさり見抜いた。おそらく、私がもう覚えてもいない些細な動機さえも。

 

 結局、私達親子は似ているのだ。


 私も父に嘘を見抜かれたのだという事がすぐに分かった。

「そうか……」

 父は嘘を吐くなとも、学校へ行けとも言わなかった。

 ただ一言、


「情けない奴だ」


 と言った。

 父は工房へ向かい、静まりかえった家の中に私は独り残された。

 ずる休みの理由は忘れてしまったのに、その時の布団の暖かさと部屋の冷たさ、そして安堵と自己嫌悪と後悔の念が複雑に入り交じった気持ちは今でもはっきりと覚えている。

 今さら学校へ行く気にもなれず、泣きたいのに泣けず、眠りたいのに眠れず、夜になり、夜が明けて、いつも通り学校へ行った日の翌日よりも疲弊した状態のまま次の日は学校へ行った。

 幼いながらに理解した。

 私は父に軽蔑された。父は私に失望したのだと。

 どんなに幼かろうとも、父は私の無責任を、甘えを許さなかった。

 二度とするまいと心に誓った。


 なのに…… 


 ウルバーノに抱えられ、風を切ってベゴーニャ地方の山中を移動しながら、私はずる休みをして布団の中で丸まっていた時と同じ気分を味わっていた。

 泣きそうなほど暖かく、心地良いのに、胸の中は罪悪感でいっぱいで吐いてしまいそうで、叫び出してしまいそうで、なのに、ここに居たい。


 どこへも行きたくない。


 ああ、寒い。熱い。頭がぐらぐらする。

 ウルバーノさん、怪我してるのに、私を運ばせてすみません。

 こんな私でも強くて綺麗なあなたを思い出せば、何かを守れるかな、と思った。

 でも結局、戦えなかった。

 迷惑ばっかりかけてます。

 あれ、どうしたんだ。

 声が出せないし、顔を上げられないし。

 きちんと謝りたいのに。

 布団の感触がする。

 本当にずる休みをしたあの時みたい。

 もしかして、これ、夢?

 息が、息が苦しい。

 咽喉が痛い。

 口の中がなんだか不味い。


「ぅ……」


 目を開けた。

 見慣れない高い天井に驚いて起き上がろうとするが、少し首を動かしただけで、再び目をきつく瞑らずにはいられないほどの拍動性の頭痛に苛まれた。

「……ったあ」

 なるべく頭を動かさないようにしながら横を向いて状況を確認する。大きな寝台だ。シーツが少し足りないほどに。

 窓の外には見覚えのある深い森。


 ああ、なんだ、そうか。


 ここは、ウルバーノのために掃除した一階の空き部屋だ。無駄に広く、物置以外の使い道もなかったので、私にはほとんど馴染みがなかったのだ。

 しかも、ウルバーノがここで寝起きするようになってからは、気を使ってほとんど入らないようにしていた。

 そして、今度は鼻呼吸が全く出来ない事に気が付く。完全に鼻が詰まっている。しかも両方。今まで散々口呼吸をして眠っていたはずなのに、目覚めた途端に私の肺は贅沢にも鼻呼吸が出来ない事に不便を感じるようになってしまったようだ。

 慌てて身を捩りちり紙を探す。動くたびに襲う頭の痛みに軽くのたうち回りながら、寝台の脇に置かれた小さな机の上を探る。鼻をかもうと思いきり息を吸い込むと、がさがさに荒れ果てた咽喉の粘膜が悲鳴を上げ、咽込んだ。

「……っ……!」

 ちり紙を目の前に鼻をかむ事も出来ず、げほごほと咳き込む。動くと頭が痛い。しかしどうにも咳が止まらない。たった一人で大騒ぎもいいところだ。涙目になりながらも肉体の苦痛で徐々に頭がはっきりしてくる。


 無事に帰れた?

 じゃない、ウルバーノさんは?

 エンリケは……!?


 確か、私はディオラ杉の栽培を続けさせて貰う代わりにエンリケの奴隷になる事にしたのだった。それをウルバーノに助けられて、その後の記憶がない。


 何やってんだ、私! 馬鹿か!


 助けに来てくれたウルバーノに後先考えず縋り付いてしまった事も同時に思い出す。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう。


 体調のせいだけでなく真っ青になった。コルテス達に会わせる顔がない。私を連れ去られ、家を壊され、あのエンリケが黙ったままで居るとは思えない。こうしては居られない。すぐにエンリケに謝罪して取引をもう一度してもらえるように頼まなければ。

 だが、エンリケは彼の顔に泥を塗った私を許すだろうか。もう二度と交渉に応じてくれないかもしれない。相変わらず強烈な頭痛がある、身体の節々も痛む。だが、そんな事に構ってはいられない。ちり紙を握りしめ、ふらふらと寝台から抜け出した。

「ドロテア……!」

 扉が開いて顔を出したのはダフネだった。ターコイズブルーの美しい瞳が驚きに見開かれる。

「ちょっと駄目よ、何してんの! まだ寝てなきゃ!」

 彼女は駆け寄り私を支えてくれた。

「だ…ダフネ……さん?」

 絞り出した声は自分のものとは思えないほど掠れていた。

「酷い声ね、無理に話さなくていいのよ」

 そういう訳にもいかない。

「飲み物を持ってくるわ、食欲は……まだ、ないかしら、用も足したいわよね? 一緒に行きましょう」

 いっぺんに言われるが、今はとにかく事情が知りたかった。なぜダフネがここに居るのだろう。

「どうして?」

「ウルバーノに頼まれたのよ」

 心なしか誇らしげにダフネは笑う。

「あの子にしちゃ頑張ったわ」

 ダフネは私にコップを差し出した。爽やかな甘酸っぱさ、林檎の搾り汁だった。大きな器にいっぱいの。これだけ搾るのは手間だったに違いない。礼を言って受け取った。身体が水分を欲しているのが分かる。一気に全て飲み干してしまった。

「そう、出来るだけ水分をたくさん摂ってね。ドロテア、心配したわ。凄い熱で……ここ二日、寝込んでいたのよ。傷だらけのウルバーノが物凄い剣幕で組合に来て、何事かと思ったら、熱でぐったりしたあなたを抱いて、看病を頼むって。まあ、このところいろいろあったし疲れていたんでしょ。しかもベゴーニャでしょ、あんな寒い場所……風邪もひくわ」

 そして、ウルバーノは怪我の手当てもそこそこに、私の自宅の結界をさらに強力なものに作り替えた上で、出て行ったのだそうだ。予想はしていたが、助けて貰っただけでなく、何もかも面倒を見てくれたようだ。

 申し訳なさに身が縮む。


 こんな私を、それに引き替え私は……。


 ウルバーノの優しさに甘えてしまった事が悔やまれてならない。早くエンリケに連絡を取らなければ。

「昨日は一回帰って来たのよ。あなたの顔見て、またどこかに出かけたわ……ああ、あなたの人工頭脳なら、ウルバーノが持って行ったわよ」

 ふらつきながらきょろきょろと家の中を見回す私にダフネがきっぱりと言った。


 なんだと!?


 ぎょっとしてダフネの美しい笑顔を見上げる。

「ウルバーノが言ってたわ。あなたの事だから目が覚めたらすぐに真っ青になってエンリケに連絡を取ろうとするはずだって。まさか、と思ったけどあの子の言う通りだったみたいね」

 あの糞餓鬼もたまにはやるじゃないの、ダフネは笑う。

「私、あなたの看病以外にウルバーノに頼まれた事がもう一つあるの」

 ダフネの声はいつも通り優しいのに、目が全く笑っていない。

「ドロテア、これからウルバーノが帰ってくるまでは外部との接触は一切禁止よ。もちろん、結界から勝手に出る事は出来ないわ。家の周りは樵さん達に囲んでもらってるの。この家から逃げ出したとしても、この森を知り尽くした彼らから逃げられるかしら?」

「……な、なんで?」

 いわゆる軟禁状態ではないか。訳が分からない。ゆるゆると首を振るしかない私を見下ろし、ダフネが宣言した。

「絶対、逃がさないわよ。私もウルバーノも樵さん達もグアルディオラもみんな、みんな、すっごくあなたの事、怒ってるから!」

 あまりの迫力に後じさりするが、膝が笑ってしまって転んだ。

「うわ……っ」

「あらあら! もう、やっぱり、まだ寝てなきゃ」

 すっごく怒っている、と言ったくせに私を抱き起す手は甘やかすように優しい。

「お、怒ってる……のは当然だと思いますけど」

 私のした事を考えれば当然だ。過失に対して何の責任も果たさず逃げた。むしろ、今、手厚く看病してくれている事が不思議なくらいだ。ダフネには組合所長としての仕事もあるはずなのに。

「外部と接触禁止? どういう事です?」

 こんな手間を私にかける暇はないはずだ。咳き込みながら尋ねるとダフネは呆れたように言った。

「ウルバーノが言うにはあなたは信用ならないそうよ、私も大いに賛成。風邪でふらふらのくせに目だけは冷静に人工頭脳を探しちゃって、全く油断も隙もない……ああ、駄目ね! ついつい話しちゃう。そんなの後でいいの。あなたの今の仕事は寝て休む事!」

「そんな、だって、私のせいなんだから、私が責任を……っ、エンリケ、いや、ホロス社は何も言ってきてないんですか? ディオラ杉は結局どうなった……っ」

 掠れた声で息せき切って尋ねたが、咽喉がついていかない。背を丸めて咳き込む私をダフネは寝台に押し込んだ。

「お喋り禁止! これでも咥えてなさい!」

 水銀の体温計を口に押し込まれる。

「寝るのよ!」

 そう言われても起きたばかりだ。しかも、気がかりな事が多過ぎる。身体はまだ熱っぽいが目が冴えてとても眠れそうにない。しかし、ダフネは逃げられるものなら逃げてみろと言わんばかりに、仁王立ちで私を見下ろしている。

 寝たふりをして機会を伺うしかないか。柄にもなく隠密行動を決意しかけたところで、騒がしい声が外から聞こえてきた。

「やっと帰って来たわね」

 ダフネも窓の外を見やって嬉しそうに破顔した。歓声だろうか。大勢の男が快哉を叫んでいる。

「ウルバーノの旦那! どうでしたかい、首尾の方は!」

「エンリケは来てません! ホロス社からの人間も!」


 ウルバーノさん、帰って来たの?


 樵達の声だった。どういう事だ。ウルバーノは私の愛人としてしか樵達とは接していなかったはずだ。私が寝ている間に彼らはどうやら、何がしかの遣り取りがあったようだ。

「うるせえぞ、お前ら! まだ、あの女、寝てるだろ。起こしたらどうすんだ」

 コルテスの声だった。

「でもよ、ウルバーノの旦那が帰って来たらドロテアちゃんも目を覚ますかもしんねえぜ」

「ちゃん付けはやめろ、ちゃん付けは!」

「旦那も呼べばいいじゃないですか」

「……ふ、っふざけんな!」

「交渉成立っすか! やった! さすが、Sランク傭兵ウルバーノ!」

「もう、違うだろ」

「細かい事言うなって」

「だれか、ダフネさんに伝えろ!」

「コルテスの旦那、妬くのはみっともないですよ」

「馬鹿言うな! あの女には言ってやりたい事が山ほどある! 舐めやがって」

 大勢が同時に喋っていて何が何やら分からない。起き上がって窓の外を伺おうとすると、部屋の扉が開いた。


 口から温度計がぽろりと落ちる。


「ダフネの姐さん! ウルバーノの旦那が帰ってきやしたぜ」

 外から大声で呼びかけられる。声と同時に部屋に入って来たのは、書類を抱えた銀髪の大男、人型のウルバーノだった。珍しく服を着ている。と言っても、丸首の簡素なシャツといつもの黒い下履きだが。体型も顔も端正に出来ている彼は何を着ていても様になる。怪我はすでに治っているようだ。

「ったく、あいつら騒がしくて困るな。ダフネ、ドロテアの具合……は……」

 だるそうに肩を回しながら入って来た彼は私を見て黙り込んだ。銀色の瞳がわずかに見開かれる。ウルバーノの後ろから次々と樵達が顔を出す。

「ああ! ドロテアさん、起きたんですか?」

「よかった!」

「心配してたんすよ」

「コルテスの旦那! ちょっと、そんなとこに居ないで入って来たらどうですか? ドロテアの姐さんですよ!」

 大勢の男達が扉の外に押し寄せる。

「ウルバーノさん、みんな、私……」

 言いたい事が多過ぎて声が詰まる。


 なんて謝ったらいいんだろう。


 情けなく声が震えた。寝台の上でシーツを握りしめているとウルバーノが唐突に外に向けて叫んだ。

「……おい、お前ら! 任務ご苦労! 感謝するぜ。帰って寝てくれや」

「そういうわけに行くか!」

「そうだぜ、旦那」

 不満の声が次々と上がる。


「うるせえ!」


 びっくりするような大声だった。さすがの樵達もしんと静まり返る。ウルバーノはどこか辛そうに続けた。

「……いや、悪かった。頼むから今は帰ってくれ、後生だ。覗いたらぶっ殺す」

 これでは脅しているのか懇願しているのか分からない。しかし、人の好い樵達はウルバーノのただならぬ様子にしぶしぶ従ってやる事にしたようだ。

「ほらほら! さっさと言う通りにしてやって! この子、珍しく頑張ったんだから!」

「しょうがねえなあ、ダフネさんに言われちゃな……」

「ウルバーノ!」

「ああ?」

 伯母に応えるウルバーノの声はいつも通り剣呑で、低い。

「ごゆっくり!」

 ダフネは悪戯っぽく笑って扉を閉めた。


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