第30話 誘惑の苺畑
エンリケに連れてこられたのは広い部屋だ。
部屋の真ん中には真っ黒な大きなテーブルが置かれ、足付きの皿には白い苺が美しく盛り付けてある。華美ではないが豪奢な内装は趣味が良い。
塵一つなく清潔に掃き清められた室内であるのに、連れてこられた瞬間にほんの少しだけ、血肉の焼けるような少し生臭いような臭いがした。
「あ、先に言っておくけど、その白い苺には触らないでね。僕以外が潰すと爆発するから。君がこの世から消えてもなんの影響もないけど、僕は生ごみを片付けるのは嫌いでね!」
エンリケは何でもない事のように言ってみせたので、この清潔な部屋にかすかに残る残虐な暴力の匂いが一気に現実味を帯びる。
「ああ、そうだ、本題に入る前に」
エンリケは極上の笑みを浮かべて私を見る。
「せっかく僕の家に初めて君が来てくれたんだから、歓迎しなくっちゃ」
「……っ」
息が詰まった。何が起きたのやら分からないうちに、身体がソファの上に沈んだ。遠くに私のつっかけサンダルが飛んでひっくり返っているのが見えた。
手足が全く動かせない。ソファに仰向けに寝そべるような状態だ。前がめくれてしまって、膝まで剥き出しになっている。そこへエンリケが艶やかな笑みを絶やさないまま乗り上げてくる。
「……ぅぐ」
腹の上に座られて呻くがエンリケは頓着しない。
「お客様はソファへどうぞってね。ははは、君には一生縁がないような体勢だと思わないか? まるで僕に迫られてるみたいじゃないか。逃げられないようにさせて貰ったよ」
いちいち嫌な事を言う男だ。
「さて、本題に入ろうか。君が何かを得て幸せになろうなんて土台、無理な話さ」
「……」
自らの尊厳のために否定するべきだった。だが、言葉が出ない。エンリケは真紅の瞳を気怠く瞬かせて私を見下ろす。
「胸糞悪い、卑屈な目だ。君には誇りってもんがないのか? だから何もかも手に残らないんだよ」
私の誇りを根こそぎ奪うような真似をしておきながら良く言う。だが、どこかでエンリケの言う通りかもしれない、とも思った。誰に何を言われようと、本当に誇り高い人ならば卑屈になったりはしない。
簡単に奴隷になる事を受け入れたりはしないだろう。
「自分を大事に出来ない人間は、本当の意味では他人も大事には出来ない。自己犠牲すなわち自己満足、下衆な自慰行為だよ。損得勘定だけして安心しているんだろ? あの人は自分を嫌っているかもしれない、だけど少なくとも相手の損になるような事はしていないはず。だから大丈夫……ってね。さもしいなあ。本気で相手に向き合った事はあるかい? ないよね? 君は臆病だ。だから相手の欲しい物が見えないのさ。君が嫌われ者なのは君の卑しさのせいだ」
自覚があり過ぎる事をこれでもかと詰られる。私の心の貧しさは私が一番良く知っている。自分には他人に与えられる物が何もないと自覚してしまった日から、他人に頼る事が出来なくなった。助けて貰う事を重荷に感じるようになった。そして、強迫観念のように人の役に立ちたいと渇望する。
だって、役に立たなきゃ、誰からも必要とされない。
分かっているのだ。病んでいる。エンリケはさらに私を面罵する。
「君はまともじゃないよ。物心がついたころから自分を釘だと思い定めて生きてきた人間がまともなはずがないだろう? まあ、まともじゃないのは僕も同じだけどね」
ふっと寂しげにエンリケが笑う。
「けど、僕は好かれている。君と違って。なせだか分かる? 僕には欲しい物があるんだ。そのためなら何でも出来る。そういう人間は好かれる。たとえどんなに無茶な事をしてもね」
「私だって、そう!」
そこは譲れない。卑屈なのも、臆病なのも本当の事だ。けれど、ウルバーノやコルテス達を守るためなら私だって何でも出来る。その覚悟だけは否定されたくなかった。
「へえ、意外と元気に吠えるね? あのむさ苦しい狼の影響?」
にやりとエンリケが嫌な笑みを浮かべる。
「無駄吠えする犬にはお仕置きが必要だな」
「……!」
声が全く出なくなった。パクパクと口を動かす。
声が……!?
「あはは、君、金魚みたいだ! 私もそう、だって? ふざけないでくれよ。尊厳のない君は誰かのために戦う事なんて出来ないはずだ」
軽やかに笑うエンリケを歯ぎしりしながら睨み付ける。魔法を使われたのだと分かった。
「怖い怖い、でも美しくない君がそういう顔するとちょっと面白いよね。僕を笑わせたいのかい?」
「……っ……!」
悔し過ぎて涙がでそうだ。
「君、あのスライムを利用する方法を考えついてちょっといい気になった? 僕に借金返せるかもって浮かれた?」
エンリケは輝くような笑みを浮かべた。
「君は本当に馬鹿だよね!」
エンリケは私の腹の上から無造作に起き上がる。しかし、身体は相変わらず動かない。声も出せないままだ。
やがてエンリケが何かを手に持ってやって来る。蓄力機のように見えるが、私が知っている蓄力機とは少し違う。余計なものが付いている。半球状の透明な水槽のような何か、中には泥水のようなものと空気、水の中で紫色と黄緑色の光がちらほらと瞬く。
小さな結界?
「これがなんだか分かるだろ? 君ならさ」
まさか……っ!
「その通り、君が本当に作りたかった永久機関、この世界を覆す発明だ。君がどんなに努力しても君の寿命が尽きるまでに完成させられるかどうか分からなかったからね。僕が代わりに作ってあげたよ! 嬉しいかい?」
エンリケは重そうなそれを軽々と片手で持ち上げて、私の方へ放る。
ぶつかる!
動けないまま必死で首を竦めようとした。しかし、身体が動かない。重い蓄力機は私の顔を潰そうと迫ってくる。
目を瞑ったが、いつまでたっても衝撃はやって来なかった。恐る恐る目を開けると、エンリケの顔が間近にあった。
楽しげに私を覗き込んでいる。その手には先ほどエンリケが投げたはずの物がある。
「ははは! 言ったろ。僕は汚物処理が嫌いだ。君の血でこの部屋を汚されたら堪らないよ」
完全に遊ばれている。だが、それに憤る事もせず、私は目の前の見慣れない魔法機械をただひたすらに凝視する。
自己完結型の蓄力機……!
叫んだつもりだが、声が出ない。虚しく口を動かす私を見て、エンリケは頷いた。
「そう、小さなアクアリウムを魔石に付けた。作るのはとっても簡単だったよ」
私の理解が正しければ、小さなアクアリウム、すなわち結界の中には私と父が作った三種類のスライム達が入っているはずだ。持続的にヘドロと瘴気を出す父のスライム、ヘドロを浄化する私の作ったスライム、瘴気を魔力に変換するスライム、それらが絶妙なバランスを保って共存し、半永久的に魔力を蓄力機に提供し続ける。魔力補充プラントを作ろうと決めた時に、ウルバーノとした会話を思い出した。しかし、スライムの配分を少しでも間違えれば大惨事を引き起こしかねず、実用化は難しいと思っていた。
嘘……そんな。
しかし、エンリケにならば可能かもしれない。
ホロス社を立ち上げたばかりの頃のエンリケの逸話を思い出す。急激に業績を伸ばしたホロス社は取引額の大きさにも関わらず会社組織は小規模で、会計士や税理士をまだ雇っていなかったのだ。年度末に書類と格闘する社員達にエンリケは言った。
「たぶんこれくらいだと思うよ。これ持って手続きに行って来て。君らをこんな仕事に使うために雇ったんじゃないんだ。とっとと済ませてもっと楽しい事をしよう」
驚いた事に、エンリケの提示した金額は、後に詳しい監査の後で判明した法人としてホロス社が支払うべき額とぴったり一致していた。端数まで。彼にはもちろん、税金の細かい知識はない。後にホロス社の社員がエンリケに尋ねてみたところ返って来たのはとんでもない一言だった。
「これぐらいだ、と思ったんだよ。なんでかって? そんなの……君さ、一と一を足すと二になる理由、咄嗟に説明出来るかい?」
エンリケは、つまり、そういう種類の天才だ。
「魔法生物局が何の証拠もなく僕の言う事を信じると思うのかい? 完成したばかりのこれの試作品を見せたら、彼らはすぐに信じたよ。僕がこのスライムの開発者だってね」
それは、そうだろう。これほどの優れた魔法機械は一朝一夕に開発出来るものではない。こんなものを見せられれば、私の魔力補充プラントなど、いかにも拙劣だ。儲け主義丸出しの悪趣味な施設だ。私の方が紛い物だと誰でも思うだろう。
「ああ、安全性もばっちりだよ。定期メンテナンスを効率的にこなせるように、アクアリウムの内部環境をチェックする機能が付いてるから、警告灯に従って、お近くのホロス社直営店に持ち込んで下さいってとこかな。どうだい? 魔石の消耗は多少早くなるけど、今までと比べれば新たな魔石の需要はずっと減る。魔竜の乱獲もなくなるだろう」
なんて事だ。
私は唇を戦慄かせながらエンリケを見上げた。これでは、私はエンリケを詰る事すら出来ない。だって、凄い。ひれ伏してしまう。魔法機械工なら誰でも一度は夢見るような発明だ。私では無理だった。たとえ本来のスライムの開発者が私だったとしても、一番の功労者は間違いなくエンリケだ。この私ですらそう思うのだから、誰だってそう思う。短期間でこれだけの事をやってのけるとは。
「それからさ、君は僕がこのスライムの開発者だって事を半分は嘘だって思ってるみたいだけど、違うよ?」
エンリケは新型の蓄力機を机の上に置くと、再びゆっくりと私に歩み寄って来る。
「さすがに、僕もそんなに短期間ではこれを作る事は出来なかった。開発はすぐ終わったけど、実用に耐えうるかどうか検証するには時間がかかるんだ。いくら僕でも、それを短縮する事は出来ないよ」
エンリケは私の前髪を優しく指で整える。
「ねえ、僕が何度か君の汚い沼に遊びに行ってあげた事は覚えてるよね?」
身体は動かないが、視線だけでエンリケは私が頷いた事が分かったらしい。
「あの沼地に君が僕のあげたリボンを捨てた時点であの沼でこれから何が起きるのかぐらいは、だいたい予想がついていた。もちろん、君の作ったスライムが突然変異を起こして瘴気を魔力に変換する能力を獲得するだろう事もね。あの紫色のスライムが生まれてすぐに僕はそいつを採集させてもらった」
そんな……
「因果律の魔法を使えない君達、人族には感覚として理解するのは難しいだろうけど、確率というのはデリケートなんだ。何がどう影響するか分からない。風が吹けば桶屋が儲かる、バタフライエフェクト、説明する言葉はどうでもいいね。とにかく、あのスライムが生まれる特異点は君が住むあの沼でしかあり得なかった。だから、君が発見できた。それだけだ。僕は君があの可哀想な紫色のスライムを飢え死に寸前まで追い込んで悩んでいる間に、せっせとこの自己完結型の蓄力機の開発に取り組んでいたのさ」
最初から全てお見通しだったというわけだ。
大方、クベタの製鉄工場の工場長を色仕掛けで誑かしてスライムの秘密を手に入れたのだろうと思っていたが、とんでもない思い違いだったようだ。
エンリケは呆れたように、ふっと軽く溜息を吐いた。
「君、何でも顔に出過ぎだよ。あのね、言っておくけど、僕は生まれてからこのかた一度も意図的な色仕掛けなんか使った事がないよ。当たり前だろ? 僕の色仕掛けはハニー・トラップじゃなくて、絶対命令と同じになっちゃうから。そんな一方的でつまらない事をこの僕がするはずないじゃないか。そういえば、君さ、魔力補充プラントだっけ? あの野蛮で下品な施設を作ってた時の浮かれぶりったらなかったよね! 思い上がりも甚だしい! 今、思い出しても笑っちゃうよ! 人の事を色仕掛けしたんじゃないか、とかあれこれ邪推する前に自分を顧みたら? 君はあの尻軽の領主を脅したり宥めすかしたり、らしくもなく悪どい真似をしたみたいだね。そんな汚れ仕事に手を染めてまで頑張ったのに、出来たのはあの程度のもの、恥ずかしくないのかい?」
恥ずかしいとも。物凄く! ……死にたくなるほどに。
そこで、エンリケは照れたように小首を傾げた。可憐な笑みはそれだけ見るとまるで恋を覚えたばかりの女学生のようだ。
「うーん、実は自慢ってあんまりやった事ないんだ。今日初めてやってみたけど、そんなに面白いものじゃないね。分かりきっている事をなぞるだけ、退屈だな」
ソファーが沈み込む。エンリケが再び私の上に乗り上げて来た。私の脇に手を突いて覆いかぶさる。逆光の中でも炯炯と光る真紅の瞳。
「さて、僕がいかに親切か分かったかい?」
親切だと?
私の財産だけでなく、なけなしの自尊心まですり潰す勢いで踏みにじっておいて。
「親切だろ? 君はこれから人としての何もかもを僕に売り渡すんだから。自分がいかに矮小でこの世に必要ない人間か良く分かった上で、そうなる方が諦めがつくってもんだ」
エンリケは目をぎらつかせながら嗤った。
「君さ、大方、奴隷って言葉を僕の言う事はどんな理不尽な事でもなんでも聞かなきゃいけない、くらいに軽く捉えているだろ? 怖いのはせいぜい人体実験に使われる事ぐらいだって」
そうではないのか。というか、軽い、のだろうか。十分に屈辱的で死の危険すらあると思うのだが。
「笑わせるなよ? そんな程度で済むはずがないじゃないか!」
エンリケは狂ったように笑った。
「僕は悪魔だ。異界の魔物の血が入った『誘惑者』。僕が奴隷にすると言ったなら魂を欲するに決まってる。分かるかい? 魂だよ。君の意思、君の自我、君の全て。君が今感じている恐怖、戸惑い、恨み、憎しみ、それから愛情、恩義それら全て、僕の許可なしには感じる事さえ出来なくしてやる!」
「……っ」
いつも陽気で掴みどころのない悪魔の姿をかなぐり捨てた、本来の悪魔がそこには居た。狂気と支配欲、所有欲の権化、堕落の象徴であり、快楽そのもの。
絶望と恐怖に塗りつぶされた頭で、もう終わりなのだ、とそれだけ思った。
何がって、この今、私が思う、その思うという行為、そのものが。
「出来ないと思うかい? 簡単だよ。ああ、馬鹿な君のために言っておくと、魔法で頭を弄ったりはしないよ? それじゃ、君の魂を手に入れた事にはならないからね。僕は君の醜さを、弱さをよく知っている。大事にしているものもね。何でも分かるよ」
うっとりと目を細めるエンリケは売笑婦の仕草で私の頬を撫でた。
「たぶん、君が思い浮かべているものをとは全然違う事をする。けど、そうだな、一般的な拷問も少しはするかもしれない。安心して。トルソーにするぐらい、すぐ戻せるよ。まあ、戻せるって事実を忘れさせてからやるけどね。今まで誰も感じた事がないような苦痛と、それよりもずっと辛い快楽をあげよう。薙ぎ倒していくだけじゃつまらない。君の悔恨や自己嫌悪もちゃんと楽しまなくちゃ。時間はいくらでもある」
恐怖に引き攣った目じりにエンリケは優しく口付を落とす。エンリケの言はおそらく真実だ。私の事など、せいぜい暇潰し程度にしか考えていないだろうが、この男ならどんなに興味がない人間であっても何もかもを理解し破壊し尽す事など容易い。
「大丈夫、きっと悪くないと思うよ。今の君に言っても理解出来ないだろうけど、健全な自尊心を育み損ねて大人になってしまった君が本当に幸せになるには僕の奴隷になるのが一番早いんだ。あの狼と家族ごっこをするよりもね」
思いきり否定したいのに、エンリケの言葉が頭に入り込んでくる。私の中で何かが揺らぐ。
「想像してごらんよ。僕に何もかも委ねた恍惚と快楽、それだけの日々。自分が必要かどうかなんて悩む必要もない」
一瞬だけ、そうなのかもしれない、と思った。思ってしまった。白状しよう。
淡い光の中でずっと微睡んでいるような、生と死の境すら分からなくなるような忘却の彼方で、微笑んでいる自分。
けれど、そこには……何もない。
平穏な絶望があるだけだ。
自我をかき集め、エンリケの言葉に流されそうになる自分を奮い立たせる。俯くんじゃねえよ、私にそう言ってくれた銀色の目を思い出す。
声が、出た。
「そんなの、真っ平!」
どんな目に遭わされてもいい。それでエンリケが約束を守るのなら。けれど、望んでそうなるのは嫌だ。
「どんなに辛くたって、歪んでいたって、惨めだって、私の魂は私のものだ! 自分で苦しむ! 惨たらしい拷問もやりたきゃやれば!? 品位を落としていくのはそっちだよ! 私の魂なんか本気で欲しいとも思っていないくせに、気まぐれの、こんな下らない遊びで人として大切なものを失うんだ! 可哀想にね!」
はったりだ。拷問は怖い。正直に言えば身の毛がよだつほど。いざ手足を切り落とされる段になれば泣き叫んで命乞いする自分が容易に想像出来た。
けれど、エンリケの言葉を肯定する事は出来ない。絶対に。それは、私だけでなくエンリケ自身をも貶める。
痛みや苦しみで何もかも投げ出す時が来たとしても、今はその時じゃない。
最期まで抗ってやる。戦ってやる。
苦しくても自我を手放す事が救いだなんて思いたくない!
「本気で欲しいと思ってない、だと?」
ぎらつくだけだったエンリケの目が一瞬、炎のように揺らいだ気がした。
「……だから、君は馬鹿だって言うんだ。なんなら今すぐ思い知らせてやろうか?」
首元にエンリケの美しい白い手がかかる。
殺される!
「やっ!」
しかし、私の悲鳴は爆音に掻き消された。いつの間にか身体が自由だ。
「え?」
強張っていた身体が、ソファーからずり落ちる。見ると、部屋の壁が無残に破壊されて、雪の舞う外の風景が見えた。
土埃が舞う向こうに見えるのは立ちはだかるエンリケの後ろ姿、そして……
どうして……
もう二度と、会えないと思っていたのに。
すでに見慣れてしまった銀髪は薄汚れ、ところどころ焦げ付いたように縮れていた。
頬には煤汚れが付いて、口の端には血が滲んでいる。
剥き出しの上半身にもいくつもの汚れと傷跡が見える。
満身創痍のウルバーノがそれでも端正な顔に不敵な笑みを浮かべて、立っていた。
「よう、カマ野郎」
「……意外と早かったね、糞犬」
エンリケは初めて見るはずのウルバーノの人型にも全く驚かなかった。
「てめえもたまには人間らしい顔するじゃねえか、いい所を邪魔しちまったか?」
いい気味だ、ウルバーノは歯をむき出して獣じみた声を立てて笑う。
「なんだい? 眠り姫を救いに来たつもりかい?」
「はっは! きっつい茨だったぜ。苺畑の地雷原か、なんだありゃ。獣型でも手間取った。んな事より、うちの大家、返してもらうぜ」
「ここは管理区域だ。こんな無法をすれば、ただでは済まない。何を代償にした?」
エンリケの冷たい声にもウルバーノは動じない。
「代償か! 馬鹿馬鹿しい、腰抜け野郎らしい言い方だぜ。俺を追い出したいのに出来ないからか? やってみろよ。望むところだ。結界は壊したぜ」
剣呑な空気を纏いつかせたまま、ウルバーノは無造作に歩を進める。何の気負いもなくエンリケの間合いに入り、そのまま通り過ぎ、真っ直ぐ私に向って来る。
エンリケも虚を突かれたのか、動けなかったようだ。完全に無視されても何も言わない。ウルバーノはソファーの横で這いつくばったまま呆然としている私を抱き起して、覗き込む。
「怪我してねえか?」
首を横に振る。
なんで、なんで。
上手く考えがまとめられない。言いたい事は山ほどあるはずだった。
どうして、こんな無茶をしたんだ、たくさん怪我して、馬鹿じゃないのか、何を考えているんだ、私がエンリケと取引するのが一番いいのだ、帰れ、巻き込まれたいのか、私が何のためにこんな事をしていると思っているんだ……
けれど何も口から出てこない。唇を戦慄かせる事しか出来ない。私の乱れた服を直しながら彼は苦しげに聞く。
「その……何か、されたか?」
されたと言えばされた。担がれて運ばれたり、逆さ吊りにされ魚の餌にされそうになったりした。何から言ったらいいのだろう。そもそも、それが聞きたい事なのだろうか。怪我はしていないというのに。むしろ、ウルバーノの方がよっぽど酷い怪我をしている。
首をかしげる私にウルバーノは痛ましげな顔をした。
「いや、もういい……とにかく、帰るぜ」
「……あ」
駄目だ。
こんな事をしたら、怒ったエンリケに何をされるか分からない。
そう思うのに、上手く口が回らない。子供のように手を突っ張り、弱々しく首を振った。
「ああ、いいんだ。端からお前の意見を聞く気はねえんだ。最初からこうするべきだった」
突き放す台詞とは裏腹に、ウルバーノはまるで愛しくてたまらないとでも言うように私の額を撫でた。
「全部、俺が勝手にやった事だ。……攫いに来た」
視界の端でエンリケは無表情にこちらを見ていた。無防備に背中を見せるウルバーノが心配になったが、エンリケが何か仕掛ける気配はない。
ウルバーノはちらりと下を見て、嬉しそうに破顔する。
「はは、悪かった。もっと早くに来たかったんだがな、なかなか手強かった。これでも急いだんだぜ。もう、手、離すんじゃねえぞ」
え?
見ると、私の指が彼の下履きの端を握りしめていた。いつの間に。放さなければ、と思うのに指が言う事を聞かない。
どうしよう……
自分の指とウルバーノの銀色の瞳を交互に見て狼狽える私を彼は強く抱きしめた。
「……!」
「馬鹿野郎が……!」
背骨がきしむほど。私の腕が勝手にウルバーノに縋る。
駄目だ。
何してるんだ。
樵達の事、ウルバーノの事を思うのならば、今、ウルバーノを突き放さなければならない。私はこのまま、エンリケの奴隷で居なければ、そうでなければあの沼地には何も残らない。頭ではそう思うのに、指は彼の乱れた銀色の髪を、頬が彼の傷だらけの身体を放そうとしない。
さっきまでは、ウルバーノさんを思い出すと戦う力が湧いて来たのに。
今は、目の前に現れたこの銀髪の傭兵のせいで、もう一人では戦える気がしない。考えている事と身体の動きを一致させる事がどうしても出来ない。
ああ、だって。
だって!
声も出せないくらいに。私は、この人が今、目の前に居る事で胸が一杯で。恥ずべき事だって分かってるのに、自分で決めてここに来たのに、この手に逆らえない。
今は奴隷になるのが怖い。怖くて怖くて堪らない。
どうして、私を弱くするんだ。
どうして来たんだ。
あなたが居たから戦えると思った。
だけど、今は、あなたさえ来なければ戦えたのに!
もう……私は……
「後悔するよ?」
エンリケがようやく乾いた声を発した。
「……もうした。こいつをここに来させるべきじゃなかった」
ウルバーノはそう言って私を抱いたまま、壁を壊された屋敷から飛び降りた。
残されたエンリケはしばらくそのまま、佇んでいた。使い古されたサンダルを拾い上げて撫でる。やがて、ふっと息を吐くと腕を一振りして屋敷を元通り復元する。
「……なんだ。まともに傷付いているみたいな顔じゃないか。全て君の予想通りに進んでいるだろ?」
エンリケは振り返り、背後に現れた黒髪の青年を一瞥する。気高い仕草だった。
「手を出したら……消すよ?」
「はははは! 予想通り、が必ずしも願望通りじゃないって事か。手は出さないから安心していいよ、白雪姫。全てが終わるまではね」
先日この部屋で爆発とともに肉塊となって消え去ったはずのハコブだった。相変わらず、裸足の足先は泥に塗れている。
「それより、早く本社に戻らなくていいの? あの狼君は見かけによらず知能犯だ。間に合わなくなる。君の王子様が待ってるよ?」
エンリケは無邪気に笑うハコブを睨み付けると、その場から消えた。
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