第29話 奴隷
大事なのは衝動的である事だ。私の小賢しい計算など彼にとっては蠅に過ぎない。つまり、叩き潰すのは容易だが、不快なので触りたくない。しかし見つけてしまったら始末せざるを得ない。私が無謀であればあるほど良い。そうでなければ、エンリケは現れなかったはずだ。
だから、これでいいんだ。
負け惜しみのように自分に言い聞かせても寒いものは寒い。雪混じりの風が吹き付ける山肌の道を、エンリケに荷物のように運ばれながら、為す術もなくがちがちと歯を鳴らしている。
防護服ぐらいなぜ着てこなかったのだろう。
「凄い震えだ! 酒が切れたのか? 君のお父様も確かそうだったね?」
「父は……っ!」
思わず大きな声が出る。父には確かに酒乱の気があった。私が今こんなにも苦労しているのは彼にも少なからず責任がある。しかし、だからと言って戯れに私を傷つけるためだけに、エンリケが彼を侮辱する権利があるだろうか。
いや、熱くなるな。エンリケの思うつぼじゃないか。
一言で心の柔らかい部分を土足で踏みにじる事にかけてはエンリケの右に出る者はない。その内容が、嘘だろうが、本当だろうが、彼にとってはどちらでも良いのだ。私を不快にさせる事が出来れば。それが分かっていても素直に傷付く私も私だが。
声を荒げてしてしまった事を恥じながら言い直す。
「……ち、父の事は今、関係ないでしょう。寒いだけ」
「だろうな、ここの気温は零下だ。本当に不便だね、酒にも寒さにも痛みにも快楽にも、何もかもに弱い君達は」
薄い丸首のシャツ一枚でも平気な様子のエンリケを恨めし気に見上げようとしたが、無理な体勢になるだけで敵わなかった。悪魔の身体の頑丈さには恐れ入る。
「ねえ、いい加減、降ろして」
エンリケは私を肩に担いだままあっけらかんと笑う。
「駄目駄目、君は意外と油断ならない。せっかくの有意義な時間だ。もう少し長く楽しみたい」
「自分で来たんだから、逃げたりしない」
「この辺一帯は僕以外の人間が歩くと凄い事が起きるように細工してある。それでもいいなら降ろすけど?」
さらりと恐ろしい事を言う。エンリケが言う凄い事とは一体どれだけの凄い事なのか想像もつかない。
「やめて……おきます」
「そう? まあ、そうしてくれると有難い。君の肉片なんか醜くて見られたものじゃないだろうからね」
凄い事とは肉片が飛び散るような事らしい。諦めて正解だったようだ。
「ここは……?」
がくがくと寒さに震えながらなんとか口に出す。逆さの視界には薄暗い白い空、常緑の黒い森、そして舞う粉雪が見えた。清潔な白い石畳をエンリケは人一人担いでいるとは思えないような軽やかな足取りで進む。
「ベゴーニャ地方の山奥だ。詳しい番地は僕も知らないよ」
「……!」
自分で尋ねておいてなんだが、まともな答えが返ってくるとは思っていなかったので驚く。たしか、エンリケの自宅は警備上の問題から非公開となっていたはずだ。ホロス社の近くに居を構えていた事もあったのだが、熱狂的な信望者達からの情熱的なアプローチ(ストーキング行為)が後を絶たなかったため、数年前に人里離れた山奥に移り住んだと聞いている。
召喚術にも造詣の深い彼の辞書に通勤の便などという所帯じみた言葉はない。
しかしベゴーニャ地方とは、この寒さも頷ける。白夜と極光で有名な場所だ。思った以上に遠い所へ連れて来られてしまったようだ。
「まあ、もっとも、詳しい番地どころか地図でここだと指し示してやっても君は自力でここに辿り着く事も出来なければ、ここから出て行く事も出来ないだろうけど」
それは、そうだろうな。
どこか無感動にその事実を受け入れる。
ゆらゆら揺れる自分の足がエンリケの身体の向こう側に見えた。家を出る時に履いて来たサンダルは脱げてしまって、少し緩い灰色の靴下がずり落ちそうになっている。
エンリケの骨ばった肩が腹に食い込んで苦しい。指先にはすでに寒さのために感覚がない。見ると爪はすでに紫色に変わっている。
つい数十分前までこの指先は美しい銀色の髪に埋まっていた。ひんやりとして暖かく、さらりと乾いて滑らかだった。
「自分で来たんだろ? もう後悔? 意気地なしの君とは言え早過ぎるんじゃない? 虚勢を張る努力ぐらいしたらどうだい」
意地悪く笑うエンリケに笑い返す。
「後悔じゃないよ」
手を握りしめた。彼の髪の毛の感触が残る手を。
求められて当然のエンリケには分かるまい。髪の毛を触らせて貰った。ただそれだけの事で、何でも出来るような気になるのだ。どんな事にでも耐えられると思えるのだ。
忘れるな、飲まれるな。私は勝負をしに来たんだ。
「じゃあなんだい?」
「思い出してた」
エンリケが一瞬だけ全ての動きを止めたように感じたが、すぐに彼は明るい声で宣言した。
「ふうん、気に入らないなあ……」
すぐに私は彼を怒らせてしまったのだと分かった。私の返答の何かが気に障ったのだ。それが何かは分からない。しかし、悔いる暇もないようだ。
「さて、着いたよ。今まで取材陣も社の人間も入れた事のない僕の城!」
逆さの視界の中で塀に囲まれた広い人工的な庭が見えた。真っ白な大理石で出来た幾何学模様を描く人口池、暗い緑の常緑樹。その奥には硝子と鉄筋、そしてやはり白い大理石で出来た屋敷がある。あまりにも静かで、寂しく、息をのむほど美しい。
「ようこそ僕の庭へ。僕の親愛なる同居人達を君に紹介しよう!」
エンリケの明るい声に我に返る。嫌な予感しかしない。突然、胃がひっくり返るような浮遊感があった。
「……っ!!」
目の前には水面、エンリケに足を掴まれて池の上に逆さに吊るされたのだと分かった。
スカートがまくれ上がって、さぞかし滑稽な様子だろうが、そんな事を気にかけている余裕はなかった。
暗い水面は怖いほどに透き通っている。
本能的な恐怖に膝を曲げて何かに掴まろうと暴れたが、エンリケは最小限の動作で私の抵抗を封じた。一瞬手を離してまた空中で私の足を掴み直したのだ。
「ひっ……や!」
叫ぶ事すら出来ずに硬直する私の前で、何かが水面の奥深くからせり上がってくる。
巨大な生き物だった。なんの表情もない魚の目、そのはずなのに、飲み込まれそうなほどの憎悪に満ちている。何匹もの巨大な魚が鱗を摺合せながら大きな口を開けて身を翻し、また沈む。まるで私を喰おうとするかのように。
一瞬で分かった。
これは、私が夢でうなされた事もある、あの魚達だ。
エンリケに恋い焦がれ、自ら魚に身をやつした元人間。
「…ぁ、ぁあっ」
目を見開き半狂乱で水面から遠ざかろうともがく。
「いやだ……っ、や、やだっ!」
「どうだい? 僕の可愛い可愛いペット達、なかなか見事な鱗だろ? 青黒くてよく光る。君、見たがってたよね?」
エンリケは鈴を転がすような声で笑う。
「ち、ちが……っ!」
首を振って否定しようとしたが出来ない。首を動かす事すら恐ろしい。少しでも気を抜いたらずり落ちてしまいそうだ。実際には私がどんなに気を張っていたところでエンリケの気まぐれ一つで私は池に落ちるのだが。普通なら真っ青になるところだろうが、皮肉な事に、逆さ吊りにされているせいで頭には血が上る一方だ。
「僕に恋焦がれる彼らにとって、僕に触れているというだけで君は憎悪の対象だ。魚の脳味噌しかなくなっても、それは分かるのさ。まあ、それくらいは分かるようにしてあげないと僕を見る喜びすらも感じられなくなってしまうからね」
そんなの、可哀想だろ? エンリケは睦言のように甘く囁く。
「僕が手を離したらどうなるかな?」
「……!」
頭の先がぴりぴりと痺れるような焦燥感。
「きっと愛しい僕の排泄物に群がるのと同じだけの熱心さでもって君を食い千切るだろうね。大丈夫だよ。この冷たい水に落ちたら半刻で普通の人族は死ぬ。生きながら食われる感覚も長くてそのくらいで終わるって事だ」
「……ぁあ」
私は痴れたように、だらだらと涎と涙を流して瘧のように体を突っ張っていた。唐突に身体を引っ張り上げられた。
「よっと」
「……っ」
水面が遠ざかる。ようやく自分が失禁していない事に安堵するだけの余裕が戻って来た。エンリケは私を抱き上げて顔を覗き込んだ。慈悲深く美しい笑顔だった。情けなさに顔を背けた。
私は今、何を思った?
今感じている安らぎが厭わしくてならない。加害者であるこの男に助けてくれと懇願しようとした。死にたくないと縋り付きそうになった。
なんと弱いのだろう。
そこまで思っていながら、エンリケにしがみ付く手を緩められない。死んでしまいたいほどの恥辱だった。
甘かった。
どうして、エンリケとまともに遣り合えるなどと思えたのだろう。交換条件を出して、譲歩を迫る権利など端から私にはないのだ。エンリケの手を取り、この地に連れて来られた時点で私は彼の手の平の上だ
駄目だ。考えろ。甘ったれるな。まだ、生きているじゃないか。
ここで戦意を消失したらウルバーノさんやコルテスさん達に合わせる顔がない。
必死の思いで震える手をエンリケから引き剥がし、目に力をこめる。
「ふうん、まだ自我が残ってるみたいだね? 誰の事を考えた? 忌々しい」
「……」
何も答えない私にエンリケは子守唄でも歌うかのように続けた。
「君はもう少し自分の立場を弁えるべきだと思うよ? 人として限りなく底辺だったとしても、ついさっきまでの君は一応、一人の力で立っていた。今は違う。何もかも僕の気分次第。僕が無理やりそうしたんじゃない。君が、自分の不始末のせいで、どうしようもなくなって自分から来たんだ。実に正当な手続きを踏んで、君は自分から人以下になり下がったのさ。それを理解させてあげた僕に感謝こそすれ、疎んじる権利は君にはないはずだよ」
まさに子供をあやす仕草そのものの手つきで優しく私の髪を撫でながら、彼は噛んで含めるように言い聞かせた。
立場? 人以下?
どういう事だ?
「ましてや、人以下の君は僕の許可なしに、僕以外の人間の事を考える権利はない」
少し強い口調に思わず顔を上げた。エンリケは真っ直ぐに私を見ている。燃えるような熱い視線にたじろぐ。
「私の立場……?」
「だから、取引成立って事さ。どうして君の思う通りに事を進めてやってるのに、そんなに物分りが悪いんだい? 君の浅はかな考えを僕が見抜けないと思うの? 僕と取引するために来たんだろ? スライムに関する権利は全て放棄する。何の利益もいらない。自分はどうなってもいいから、ディオラ杉、だっけ? 哀れなクベタの樵達の希望の光、衰退したクベタの林業の救世主、あの杉の栽培だけは今まで通り続けさせてくれって事だろう?」
その通りだが、エンリケに要点をかいつまんでもらうとなぜだか凄まじい不安に襲われる。まるで足元が崩れ去って、無明の闇に飲み込まれていくような。
「と、取引成立ってどういう事?」
ほとんど、もう頭では理解しかかっているのに、往生際悪く尋ねるのをやめられない。
「そこまで言わなきゃ分からないのか? 僕の中で君の知能をだいぶ下方修正しなきゃならないようだ。すでにこれ以上ないくらい低脳って評価なのにね」
エンリケは私を横抱きにしたまま屋敷に向って歩きながら続ける。
「人以下の立場って言ったろ。取引成立さ、ディオラ杉は彼らの物。それぐらいはいいよ。餅は餅屋、彼らに任せよう。そして、その代り、君は僕の奴隷になる」
奴隷……!
嬉しそうにエンリケは宣言した。
「もちろん本気さ。……ああ、法だとか人権だとか野暮な事は言わないで。僕にそれらが無意味だって事くらい君でも分かるよね。君は僕となにがしかの遣り取りをするつもりだったみたいだけど、無駄だから省いた。だって、そうだろ? 君がここに来た時点で君と僕は対等ではない。決定権は君にはないんだから。ここに来た時点で君は僕の所有物なんだ。ねえ、君さ、凄くお得な取引をしたって気が付いている? 覚えてるかな? 僕が君にお金を貸してあげた時の事、僕は言ったよね?」
「借金が返せなかったら、生涯奴隷……」
呆然と促されるままに彼の言葉を思い出してなぞる。ああ、やっぱり、と、まさか、そんな、相反する二つの言葉が浮かんでは消える。
「そう、そのまま放っておけば、君はおそらく借金は返せない。賠償金の額は並みの魔法機械工の生涯年収の数百倍だ。まともに稼いだんじゃ君には無理さ。僕は君や樵達から何もかも根こそぎ巻き上げた上で、君を奴隷にする事も出来たんだ。僕の気前の良さに感謝して欲しいな」
確かにそうだ。そのやり方がいかに汚かろうとも、それについてどこからも文句を付けられないようにする事がこの男には出来る。魔生物局も行政もこの男には逆らえないのだ。どんな無理も無理ではなくなる。
「何か見当違いで失礼な事を考えているみたいだね。まあ、いいよ、家でゆっくり説明してあげるよ。僕がいかに誠実か。君がいかに、浅慮か」
そう言ってエンリケは屋敷の扉の前で庭を振り返り手を一振りした。ざわりと何かが這い寄るような音がした。見る間に庭も屋敷も緑色の丈の低い植物に覆われていく。
苺の茂みだった。
ただ一つ、私の知る苺と異なるのは、苺がすべて真っ白だという事だ。鈴なりの白い苺に追い立てられるようにしてエンリケは屋敷の扉の中へ入った。
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