第28話 ドロテアの告白
ホロス社の地下にある会議室でフェリシアーノは小さな目をきょときょとと動かして辺りを探った。誰も居ないその部屋に恐る恐る入ると、巨体を揺らして椅子の内の一つに駆け寄る。真っ赤な絨毯に膝を突き、尻を載せる部分にむしゃぶりつくように頬を寄せる。
「はあ……エンリケ」
切なげな呟きを聞き咎める者は誰も居ない。
世界的な銀行家であるヘラルド・マジョルガを父に持つフェリシアーノ・マジョルガは生来の吃音症と特殊な性癖により疎んじられていた。
その性癖が明らかになったのはフェリシアーノがまだ少年の頃だった。使用人である狐の獣人の子供が行方不明になったのだ。かの子供は釣りに夢中になっていた。その日は大物を釣り上げるのだと息巻いて、滝の近くにまで足を運んだようだったので、大方、不注意による溺水だろう、大人達はそう判じた。
しかし、いつまでたっても死体が上がらない。
その数日後、フェリシアーノの部屋を掃除しに来た女中は彼の部屋の異臭に気が付いた。賢明な女中はフェリシアーノを刺激したりはせず、すぐに彼の父親であるヘラルドに知らせた。
坊ちゃんのお部屋が臭いのです。
ヘラルドが嫌がるフェリシアーノを押しのけて箪笥を開けると、そこには少年の腐乱死体が転がっていた。水を吸って膨張し、青緑色の網目模様が浮き出た小さな身体、狐の耳と尻尾、行方不明になった子供だった。
マジョルガ家はこの醜聞をもみ消した。
女中は暇を出された。
狐の獣人の使用人も大金を積まれて口を噤んだ。
子供が溺水した事は検死結果からも間違いないようだった。フェリシアーノは泳げない。子供を溺れさせようとしたら返り討ちに遭うのはフェリシアーノの方だと誰の目にも明らかだった。
実際、フェリシアーノは誰も殺してはいない。ただ、その死体を見つけ、持ち帰っただけだ。
まだ性的に未成熟だった彼は死体にほとんど触れてもいない。腐乱してはいるが死体は綺麗なものだった。フェリシアーノは死体を幼い自慰に使っただけだ。
腐乱死体はフェリシアーノが放出した白い粘液に塗れていた。
フェリシアーノの性格を形容するとするならば、優しく控えめで、思いやりに溢れている、と誰もが口を揃えて言うだろう。蚊を殺すのにも躊躇するほどの男だ。使用人に対しても声を荒げる事はめったにない。街で老人や障害者を見かければ、道を譲る。
だが、この一点のみ、死体愛好者であるという一点でのみが、彼の人格を全て覆い尽くすほどの影を落とした。
フェリシアーノはその生涯において生きている人間を傷付けた事はただの一度もない。そういう意味でならば過激な加虐趣味の方がずっと有害で、さらに数も多いはずだ。
だが、彼らですら死体愛好者のフェリシアーノを蔑んだ。
マジョルガ家がどんなに隠してもこのような噂はどこかで漏れる。フェリシアーノはマジョルガ家の鼻つまみ者として扱われた。友達もおらず、偉大な父に疎んじられ、しかし金だけは有り余るほどに持っている彼が、悪魔の疑似死体、つまり白雪姫の愛好者になったとしても仕方のない事だろう。
彼は誰かを傷つけたいとは思っていない。
しかし、動かない死んだ何かを前にするとその凶暴性を押さえられなくなる。白雪姫はきわめつけに死ににくい悪魔の身体なので、どんなに傷つけても再生する。体温もない。鼓動もない。しかし、腐りもしない。死体愛好者にとってはまさに理想の玩具だ。彼はすぐさまこの玩具に夢中になった。金にあかせて白雪姫を買い漁った。
そんな彼がエンリケに出会ったのは彼が父親から独立するように促されてすぐの事だった。彼は困窮していた。多くの美質を持つフェリシアーノだが、残念ながら商才には恵まれなかったのだ。エンリケは途方に暮れる彼に言った。
見つけたよ、僕の王子様。
ねえ、僕に出資しないかい? 損はさせないよ。
もし、僕が白雪姫になったら、その時は、僕を好きにしていいからさ。
僕に利用されてくれないか?
フェリシアーノは生まれて初めて恋をした。禍々しささえ感じさせる強さも、計算高さも、底の見えないその瞳も、何もかもに惹きつけられた。
エンリケはフェリシアーノに嘘を言わなかった。フェリシアーノはホロス社の大株主としてあっという間に大富豪の仲間入りを果たした。自分を疎んじる父親ですら、今では彼に一目置いている。しかし、フェリシアーノにとってはその全てがどうでも良かった。エンリケの意図は分からない。だが、彼が何を考えていたとしてもフェリシアーノが彼を嫌う事などありえない。
人間としての尊厳も、この暖かく激しい気持ちも、全てエンリケがくれたものだ。
自分などいくらでも利用してくれて構わない。
「エンリケ……」
フェリシアーノは肉にだぶつく汗ばんだ顔を椅子に埋めながら、彼の死人のように冷たく白い指先を想った。
***
「どうだった?」
「駄目でした……」
私は人工頭脳の蓋を閉じて居間の机に突っ伏す。ウルバーノは意外そうな顔をした。
「本当かよ、お前の友達のあの陰気な女悪魔、お前のためなら火の中水の中って感じだったじゃねえか!」
「何言ってるんですか、ラミラは忙しいんですよ?」
エンリケからスライムの使用権について言いがかりに近い訴えを受けてから数日、事態は全く好転していなかった。樵達は出来る限り私に協力してくれると申し出てくれたが、元々彼らは魔法機械や魔生物に関連した揉め事に詳しい訳ではない。
出来る事と言えばせいぜい、ディオラ杉の植林を存続させるために署名を集める、寄付金を募る、その程度だ。コルテスも私には会いに来ないが、樵達と協力して活動をしてくれているらしい。
グアルディオラも名のあるビジャ湖の主として魔生物管理局に再調査を依頼してくれているようだが、これに関してはほぼ諦めている。
何せ、全くの潔白ってわけじゃないからな……。
私がトリスタンに裏口を使わせたのは事実だからだ。しかも、私がエンリケに多額の借金をしている事は調べればすぐに分かる。魔生物管理局もそれは知っているだろう。
金銭的に逼迫している私の言う事が信用されるわけもない。
げに悲しきは貧乏、というわけだ。
だが、私が魔力補充プラントを使用出来なくなるのはある意味仕方ないとしても、林業にまで口を出されるのは正直納得がいかない。
これについて、ホロス社側はこう説明している。林業に必要なのはアルバロ・スニガが開発したスライムが出したヘドロをドロテア・スニガが開発したスライムに浄化させる事によって出来る良質な土壌であるが、アルバロ・スニガの開発したスライムはヘドロとともに瘴気を出す。
この瘴気を処理するには必然的にエンリケ・バジェステロスの開発した(という事にされてしまっているらしいのだ、恐ろしい!)スライムを使う事になると思われる。林業を隠れ蓑にして魔力補充プラントの実質的な業務継続を図る可能性があるので、許可しかねる。
ドロテア・スニガが林業に関する権利を全て手放したとしても、クベタの樵達とドロテア・スニガの関係性は明白なので、信用する事は出来ない。少なくとも、ドロテア・スニガに然るべき制裁措置がとられない限りは、クベタの樵達もドロテア・スニガに加担したものと見做される。ただし、今後ドロテア・スニガと全く無関係にディオラ杉の植林を試みるものが現れた場合にはその限りではない。
つまり、元締めのコルテスが率いる樵達は私と一度関わってしまったがために、私が社会的制裁を加えられない限り、今後一切ディオラ杉を育てる事が出来なくなってしまったのだ。
なんて、性格の悪い……!
樵達の反感が私に向う様に上手く仕向けてくるものだ。何でも協力すると言った手前、まだ樵達から私への批判は出て来てはいないようだが、このままではそれも時間の問題だ。
ホロス社は大企業だ。こういった問題には慣れっこだろう。専門職の人間が訴訟問題を一手に引き受けているに違いない。素人が立ち向かってなんとかなる相手ではない。
弱り果てた私はラミラに相談する事にした。本当はラミラには頼りたくなかったのだ。それでなくてもラミラには世話になっている。ラミラはエンリケを苦手としているようだが(そういう意味でエンリケを得意とする人間はこの世界中どこを探してもいないだろうが)、ラミラは私が本当に困った時には絶対に見捨てるような真似をしないのだ。だからこそ余計に彼女に頼るのは嫌だった。
しかし、他に頼る相手は居ない。
悩んだ末に人口頭脳の通信機能を使ってラミラに文書を送ったのだが、返って来たのは断りの言葉だった。ラミラの事なので、自分が忙しくて行けないのであれば、法律に詳しい知り合いなどを紹介してくれそうなものだが、それすらなかった。
何か事情があるのかもしれない。何せ相手はあのエンリケだ。用意周到なエンリケは先手を打って、私が頼りそうな先は潰して置くぐらいは平気でするだろう。逆に一つだけ抜け道があるとすれば、その抜け道はかなり怪しい。罠だと踏んでかかった方が良いくらいだ。
がっかりはしたが、少しほっとしたのも事実だ。き込む人間は少なければ少ないほどいい。
「仕方ないですよ……」
溜息を吐く私をウルバーノは大きな手で揺さぶる。
「仕方ない、じゃねえだろ、なんとかしようぜ!」
顔を上げると真剣な目で私を見つめるウルバーノが居た。
「すみません……弱音を吐いて」
しかし、次の一手は何も思いつかない。まさに八方塞だった。
鉄鋼工場にエンリケに業務停止命令を出される前に魔力の補充を請け負った分の魔石を返しに行くと、件の工場長は私を門前払いした。もうお前とは何の関わりもない、巻き込まないでくれ、というわけだ。
トリスタンは我関せず、を貫いている。積極的に私の敵にまわって私の口から賠償金の件がばれるとまずいのと、私の味方をする事でホロス社に睨まれたくないのとがせめぎ合った結果だろう。
しかし、問題なのは、魔生物管理局でも工場長でもトリスタンでもない。樵達でもない。
私を陥れようとしている人間は今も昔もたった一人、彼だけだ。
エンリケ……何を考えているんだ。
けれど、彼と対決する勇気が私にはない。彼と話し合いをすべきだと思った事は何度もある。だが、その度に彼自身にその気力を悉く打ち砕かれてきた。彼自身が私との話し合いを望んでいない。
でも……。
たまに、ごくたまに。
その度に自分はなんて自意識過剰なのだろうと戒めてはいるのだが、エンリケがわざわざ私との関わりを望んでいるのではないかと思ってしまう時がある。
彼は何かを欲しがっている?
いや、分からない。彼の考えている事が私のごときに分かるはずがない。だが、父が多額の借金を残して死んだ時、低金利で貸与を申し出てくれたのはエンリケの方だった。
親子そろって間抜けな君達が人様に迷惑をかけないように、ね、と。
エンリケに借金をするなど正気の沙汰ではない、その時も私はそう思った。たとえ他に頼る人が居なかったとしても。だが、頭のどこかでちらりと思った。もしかしたら、このまま繋がりを保ち続ければ、エンリケが何を考えているのか分かるのではないかと。
結局、そんな好奇心を後悔するほどに散々な目に遭わされたが。
魔が差した、と言えばそうなのだろう。それからの事を想えばなんと馬鹿な事をしたものか、と思わずにはいられない。けれど、おそらく私がエンリケからの援助の申し入れを受け入れてしまったのは、何もかもエンリケに付き纏う違和感のせいなのだ。
嫌いならば関わらなければいい。ないものとして扱えばいい。それなのに、彼はそうはしないのだ。それが私の心をささくれのように引っ掻く。取り返しのつかない見落としをしているような気分にさせる。
そして、今、彼はまるで借金を返されるのを嫌がるかのように私の邪魔をするのだ。
「はあ……」
さすがのウルバーノも、といつものように私を怒鳴ったりはしなかった。私が弱っているのが分かったのかもしれない。実際、少し身体がだるい。少し熱っぽい気もする。
駄目だな。落ち込むと身体に出るなんて心が弱い証拠だ。
情けをかけられたのだと自覚して、恥ずかしくなってきた。戦う、と決意したはずなのに、もう心が折れかけている。
要は林業が守れればいいんだ。高望みはしない。
つまり、然るべき制裁措置とやらを私がくらってしまえば、私以外にはお咎めなし、という意味ではないのだろうか。
それが、どんな制裁措置なのか、相手がエンリケだとすると想像もつかない。金銭で片付く事ならば、まだいいのだが。
それでもコルテスさんやみんなに迷惑をかけるよりはいい。
樵達は私を頼りにしてくれているとは言ってくれたが、正直言って、ディオラ杉を育てるのに私の力がどうしても必要だとは思えない。樵達もきっとそれは分かっているのだろう。分かった上で敢えて、あのように言ってくれたのだ。彼らからの信頼の暖かさを思い出して泣きたくなる。
いくら感謝してもしたりない。
ウルバーノにしてもそうだ。もしも、私が無理にホロス社と戦って問題が拗れてしまったら、この沼地には何も残らない。
彼は言った。
何かを作るのは楽しい、こんな事は初めてだと。何も壊さず、人の役に立つという事はなんと素晴らしいのかと。ほぼ無敵に近い戦闘能力を持ちながら、彼にとってはささやか過ぎるだろう稼ぎを一緒に喜んでくれた。誰もが忌み嫌う沼地で、嫌な顔一つせず私のような気味の悪い人間と働いてくれ、困った時にはいつだって助けてくれた。
私のヒーロー。
くすりと笑う。彼は英雄という言葉を煙たがるだろうが。そんな彼が大事にしているであろうものを壊す権利は私にはない。考えれば考えるほど、この沼地には自分は必要ないという気がしてくる。
ウルバーノは私の家に住んでいるが、彼の無精がそうさせるだけだ。自分を英雄視する輩が煩わしいというのなら、自分の金でどこへでも好きな僻地に家を建てればいいのだ。
ダフネによればウルバーノは気が遠くなるぐらいの資産を持て余しているらしい。私がこの家を含めた全てを失って、どこかへ流れて行くとしても、彼が本当に困る事はないのだ。
それに……ハコブも居る。
この沼に現れた黒髪の青年の姿をした何か、を思い出す。遅かれ早かれ私はあのハコブと再び関わる事になるだろう。これは予感ではなくて確信だ。
ハコブは『この生き物の代償』と言っていた。おそらくスライムの事だ。今はあの紫色の新種のスライムに関しては法的にはエンリケが作った、という事になっているが、おそらく彼らにとって法的事実は関係ない。私があのスライム達を使う過程で、何か代償を支払うべき事をした、という事に違いない。
やっぱり、どこかに落とし穴があるものなんだな……。
父のスライムを使うと決めた時、漠とした不安があった。この世の理を捻じ曲げるような、うすら寒さが。ハコブの正体は分からないが、彼の強大な力はこの世を律する何かの意思を代行するに相応しい気がした。
代償、というならやはり私が引き受けるべきだろう。ウルバーノやコルテスを巻き込めない。エンリケはたとえ巻き込んでしまったとしても、まだ諦めがつく。確信はないが、ハコブの言う『もう一人』とはエンリケの事なのではないだろうか。
「おい、黙り込んで、何考えてる?」
低い唸り声とともにウルバーノが怒りの気配を滲ませて立ち上がる。ゆっくりと近づいてくる気配がする。私もおもむろに身体を起こして彼を見た。
何度見ても溜息が出るほど整った容姿だ。かなりの巨漢であるのに均整の取れた体躯、野性味のある精悍な造作の顔、短く刈られた見事な銀髪。 鋭い銀色の目に宿るのは真摯な怒り、知性、優しさ。
本当にこの人は格好いいよな……。
そして、いつだって怒っている。誰かのために。場違いにも笑いが込み上げる。
この人が好きだ。外見より何より、魂が美しいこの人が。
ようやく覚悟が出来た。
「えへへへ……」
こんな時なのに妙に幸せな気分だった。ウルバーノは腑抜けた様子の私に眉を顰める。
「ウルバーノさん、前に私に何か頼めって言ってましたよね?」
「はあ?」
私の突然の問いに頓狂な声を上げるウルバーノだ。
「言ってましたよね?」
「……言ったけどよ」
「頼み事、していいですか?」
「ああ、何でも頼め」
「二つあるんですけど」
「いくつでも」
交換条件を出すでもなく、真剣な顔で頷くウルバーノは惚れ直すぐらいに男前だ。この顔で、前に私に俯くなと言ってくれた。
あなたの強さが、高潔さが、いつだって私に力をくれた。
ウルバーノさんのためならどんな相手とだって戦える。
「じゃあ、遠慮なく」
「おう」
「髪の毛、触っていいですか?」
「な……!?」
ウルバーノは口も目も真ん丸にして驚いていた。顔も赤い。私にとっては大事でも彼にとってはふざけた事を言っているように聞こえるだろう。怒らせたかと思って俯いた。
「嫌なら、その、無理にとは……」
「い、嫌じゃねえよ! 触れよ! んなの、別に改まって頼まなくたってお前なら別にどこ触ったってむしろうれし……ってそうじゃねえ! そうじゃねえだろ! もっと、あれだ、ホロス社壊滅させて来いだとか、エンリケ殺して来いだとか、トリスタンつるし上げろだとかいろいろ……」
「何言ってるんですか、そんなの全然欲しくない」
とんでもない事を言い出すウルバーノが愛しくて笑った。そんな事を叶えてくれる気だったとは、ウルバーノの気前の良さには恐れ入る。こういう人だからこそ何かを頼もうとは思えない。
むしろ、何かしてやりたい。何だって。
でも、出来ないんだよな。
それに関しては諦めた。この上、私が出来るのは、せめて彼にこれ以上借りを作らないようにする事だけだろう。
「ちょっと屈んでもらってもいいですか?」
「お、おう、ほらよ」
ウルバーノは椅子に座る私の目の前にしゃがんだ。頭を撫でやすいように少し俯いてくれる。銀色の中に指を差し込んだ。さらりとして少しひんやりとしてとても気持ちが良い。
「ずっと、触ってみたいと思っていたんです。日に透けてきらきらしてとっても綺麗だった」
本当は狼の姿の時の耳も触ってみたかったのだが、そのためだけに獣型になれというのも気が引ける。
どっちの姿であっても、ウルバーノさんが居るとそれだけで世界が輝いて見えた。
明日もウルバーノさんと会えると思えば、どんな事だって出来ると思えた。
「ウルバーノさん、ありがとうございます」
「こんなの、別にお前が頼むならいつだって」
「それもそうだけど、そうじゃなくて、全部」
自然に笑みが零れた。滴も一緒に。彼の輝く銀髪へと。
「え……」
頭に水滴の感触を感じたのだろう。顔を上げようとするウルバーノを咄嗟に膝と腕で抑え込んだ。
「見ちゃ駄目……!」
ウルバーノの頭を腹にぎゅっと抱き込むような格好だ。私のような女にこんな事をされても嬉しくもなんともないだろうが、今ウルバーノと目を合わせたら、何もかも崩れ去ってしまうから。
「ご、ごめんなさい、最近、なんか、泣いてばっかりで、ウルバーノさんにも泣くなって言われたのに……」
吹き出物だらけの私の顔を気にせず、涙を拭って(あまつさえ舐めて)くれたウルバーノに泣き顔を見せるのはなんとなく反則であるような気がしたのだ。
「それから、ウルバーノさん。これがもう一つのお願い。私の事、止めないで下さい」
「……何っ?」
しゃがんだまま呆けているウルバーノを残して、立ち上がり、上着を羽織る。玄関先でドアを開けて振り返った。
「ウルバーノさん」
立ち上がったウルバーノはなぜか前かがみのままで私を見ている。少し頬が紅潮して目がとろんとしているのだが、彼の不安が見て取れた。
「どこ、行くんだよ?」
「私、ウルバーノさんが好きです」
「……!」
「ずっと好きでした。狼の時からずっと! これからもずっと! えへへへ! 最初に言ったら触らせてもらえないと思ったんで、今、言う事にしました」
してやったり、と泣きながら笑う私をウルバーノはぽかんとして見つめている。自分を好きだという女に無防備に触れさせるようなウルバーノではないはずだ。卑怯な手だが許してもらえるだろう。彼は優しい。
これが、最初で最後だ。
きっと彼にはもう会えない。
「それじゃ!」
「おい、待て!」
予想通りウルバーノは追い駆けてくる。私の様子にただならぬものを感じたのだろう。だが、私の考えが正しければ私は捕まらないはずだ。
「エンリケ!」
私が叫ぶと予想よりもずっと素早く反応があった。思った通りだ。エンリケの事だから、私の考えもお見通しのはずだ。以前、ウルバーノに邪魔をされて悔しい思いをしたエンリケは、絶対に私の呼びかけに応じる。結界の外に出てしまえば、召喚術の心得もあるエンリケが私を連れ去るのはたやすい。
逃げても仕方ない。
こいつと向き合わない事には何も進まないんだ。
「おっとっと……呼んだ?」
「っ……呼んだ!」
勢い余って唐突に目の前に現れたエンリケにぶつかってしまう。エンリケが思ったよりもしっかりと私を抱き止める。彼は細身ではあるが、私よりも頭一つ分は大きいのだ。
禍々しい真紅の目が生き生きと輝いている。悔しくて睨み返す。
結局はエンリケの思い通りなのかもしれない。
だが、他にやりようもない。
「それじゃ行こうか」
光を残して私達は沼地から消え失せた。
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