第27話 ドロテアと樵達
この世で最も古く、そして単純な生き物、彼は自らが自らであるための情報を書き込んだ長い鎖と、自らと外界を隔てる膜で主に構成されている。単純であるがゆえに彼らの寿命は長い。環境が彼らに優しければ半永久的に増殖し続ける事が可能だ。そんな彼らにも交配と似た機能が備わっている。同じ生態を持つ個体だけが増え続ければ、環境が急激に変化した場合には全滅を免れないからだ。
彼らの交配は一般的な高等生物のそれとは異なる。もっと原始的で乱暴なものだ。自らの一部を切り取って相手のそれと交換するのだ。
実は世界にも同じ事が言える。世界も交配を行う。世界が老いて朽ちる事がないように、世界は他の世界を必要とする。その過程は一瞬で済む事もあれば、気が遠くなるほど長い時を経てなされる場合もある。一部の知的生命体の意思の形を借りてなされる事もあれば、自然現象の形で起きる事もある。過程にはさしたる意味はない。重要なのはそれが必ずなされるという事だ。
「そんな事は僕に講義されるまでもない、という顔だね? エンリケ・バジェステロス君?」
ハコブは赤い唇を歪めて優雅に笑い、エンリケを見下ろす。エンリケは彼を見て、さらに彼の足元を見て、目を眇めた。素足は泥に塗れ、エンリケの自室にある鏡のように磨き上げられた真っ黒な机の上を汚している。テーブルの上に置かれた白い苺も皿から零れ、泥に汚れている。彼はエンリケのお気に入りの机の上に素足で立っているのだ。エンリケを知る者からすればありえない暴挙だ。
しかしハコブはそれを気にするでもなく、泥だらけの素足で大きな机の上を歩き回りながら続けた。べちゃりべちゃりと洗練された仕草には不似合いな音が響く。
「まあ、えらそうな事を言ったけど、つまり僕らも何か欲しいんだ。だってせっかく二つの世界が交わっているのに、僕らの世界が得たものはあまりに少ない! 不公平じゃないか? 君らは兄のペドロも手に入れ、彼の知識の一端を手に入れ、瘴気も手に入れ、ついでに役に立つ生き物達も手に入れ、この世界はとても面白くなった。一方、僕らの世界はちっとも変わらない。この世界よりもずっとずっと時間の流れは速いっていうのにね」
死ぬほど退屈なんだよ、言いながらハコブが白い苺を踏みつけ、ハコブは一瞬動きを止めた。
「……!」
そしてハコブは心底嬉しそうににやりと笑う。
「……ふうん、いい趣味だ」
「どうも」
エンリケは鷹揚に顎をしゃくった。
途端にハコブの泥で汚れた素足の肉が骨を残して太ももまで一気にめくれ上がる。鬼百合の蕾が開いたようだった。ハコブが半身から赤い液体をまき散らしながら崩れ落ち、崩れ落ちながら凄まじい速度で再生するのをエンリケは無感動に眺めた。
「体液の色は僕らと一緒かい? 残念だな。青か緑を期待していた」
ハコブはわずかに傾いた身体のままエンリケのあまりに冷酷な言葉に苦笑する。その間にも弾け飛んだハコブの片足は元の形を取り戻し、何事もなかったかのようにまた泥で机を汚し始める。
「意地悪だなあ、そんなの君ならとっくに分かってるはずじゃないか。関心もないくせに」
「お互い様さ、君だって知っている事をわざわざ確かめるために何かする事、あるだろ?」
エンリケは歯を見せて凶暴に笑いながらハコブを詰る。
「……見てたのか? 僕が彼女に会いに行った時の事を」
ハコブの口元から笑みが消えた。
「馬鹿な質問をしないでくれ。君と僕は同じ。然るべき情報があればだいたいの事は分かる」
「悪かったよ。僕も彼女が気に入った。彼女が必死で逃げるところが見たかった」
ハコブはまるで悪びれずに肩を竦めた。
「君らに謝罪という概念があるとは知らなかったな!」
今度こそ憎々しげに高笑いしてみせてからエンリケはハコブを真紅の瞳で睨み据えた。
「お互いにまだ意外性を保っていられるのは幸運な事だよ。僕も君が怒っているのがとても新鮮だ! そんなに彼女が大事なのかい?」
ハコブの呑気な答えにエンリケはゆっくりと瞬きをした。美しい桜貝色の睫毛が羽のように上下する。
「僕らの会話ほど無意味なものはない」
静かにエンリケは言った。
「そんな事はないよ」
ハコブはくるりと振り返って手を広げた。
「とても楽しい」
そしてハコブはエンリケに近付き、ゆっくりとしゃがんだ。向かい合う二つの美しい顔は造作こそ異なるが、鏡のように相似形を保っている。
「本来なら僕が君に会いに来る意味はない」
沼の底のような黒い瞳にエンリケを映してハコブは言った。
「君はもうすでに僕らの存在を、そして要求を、理解している。血のなせる業かな? いや、ただ単純に君の頭脳が特別製なのか」
小首を傾げてエンリケを覗き込む。
「だけど、会いに来て良かった。僕は君の事も結構気に入ったよ。いや、違うな。身内びいきで応援してやりたくなっている。君は思ったよりずっと周到で、不器用だ。しかも、君は君に執着するすべての人間に対して誠実だ」
「どうしてかな、君に言われると不快で仕方ないよ」
エンリケは吐き捨てる。ハコブは頓着せずに続けた。
「なのに彼女に対してだけは他と違うみたいだ。これも血のせいか? 誘惑者の血。どうしてだい? 君はペドロの末裔だ。可能性って言葉の儚さを誰より知っているはずだ。それなのに、君は彼女に関する限りはいくつもの可能性を考慮せずにはいられないみたいだね。一体いくつの叶わない夢を見たのかな? 結果は知っているのに。それでも万が一を期待するのをやめられない君は滑稽だ」
ハコブの口調は慈悲深い。
「だが、僕らも君らと同じでね」
濃く長い睫毛を伏せるハコブは禁欲的にすら見えた。
「滑稽なものほど、愛さずにはいられない」
ハコブは立ち上がり、泥に塗れた白い苺を拾い集め始めた。
「そんな君の大勝負、僕も敬意を表する事にしよう」
「そいつはありがたいな、だけど部屋を汚すのはやめてくれ。君は僕が好きかもしれないが、僕は君が嫌いだ」
ハコブはまたもやエンリケを無視する。
「だが、僕も慈善家を気取るつもりはないよ。君が賭けに負けたら躊躇はしない!」
「この僕が負ける賭けをするとでも?」
ハコブは意外そうに目を見開いて無邪気に笑った。
「何を言っているんだい! 君とっては負けるかもしれないからこそ何よりも意味があるんだろ?」
エンリケは彼にしては珍しく無表情になる。
「さて、そろそろお暇しよう。親愛なる兄の血族にして隣人の若人の前途を祝して」
そしてハコブは少し上を向いて大きく口を開けた。
泥に汚れた白い苺をいくつも口に頬張る。
「
大玉の花火だ。
肉塊と火花になって消えたハコブが居たあたりをエンリケは射殺すように見据えた。
「汚すなと言っただろうが……」
***
魔法機械製造業の大手であるホロス社、もといエンリケが主張しているのは、瘴気を魔力に変換する能力を持ったスライムの使用権についてだった。書類に書かれてある内容はこうだ。
ドロテア・スニガは本来エンリケ・バジェステロスが開発作成したスライムを違法に魔生物申請し、不当に利益を得ている。よって直ちに、当該魔生物の使用を取り止め、魔生物の使用権を全て返上した上で、所定の手続きにのっとり、賠償金を支払う義務がある。
驚いた事に書類の中には、私が考案した魔力補充プラントの仕組みや、ヘドロを変換して得られる土を使ったディオラ杉の事まで、事細かに記されていた。その上で、魔力補充プラント、ディオラ杉の植林を含め魔生物の使用権に抵触するので、即刻業務停止にせよ、との事だ。
無理をすれば瘴気を魔力に変換する件のスライムなしでもディオラ杉の栽培のみならば続けられなくはない。しかし、あの瘴気を魔力に変換する能力をもったスライムを用いずにディオラ杉を育てようとすれば、大量の瘴気を消すすべもないまま結界の中に留めておく必要がある。
広範囲な結界を維持するには魔力が必要だ。
その魔力を補充する手立てが奪われてしまうとなると、経費がかさみ、今までよりもずっとディオラ杉を育てるのは難しくなる。
結界を消してしまい、ビジャ湖をまた魔窟に後戻りさせればディオラ杉の存続は出来るが、今度は伐採する側が危険に晒される。いずれにせよ現実的ではない。
あのスライムを使うなと言われれば、林業も諦めざるを得ないだろう。
「なんだそりゃ、無茶苦茶だろ!」
コルテスに投げつけられた書類を読み耽っていたウルバーノが顔を上げて叫ぶ。
「あのスライムは正真正銘こいつが発見して、苦労して生態を調べたんだ! あのカマ野郎は何一つしてねえ!」
コルテスはそれに冷笑で返した。
「魔生物管理局の正式な調査がなされた上での決定だ。……なんでもあんた、この書類にある魔力を作るスライムの申請を通す時にかなり強引な事をしたらしいな?」
「……はい」
これに関しては悔しい事に事実だ。確かに私は後ろ暗い取引をしてトリスタンに許可の印を押させたのだ。
彼が貴族議員達の支持を得るために、ビジャ湖を汚染した事に対して私達親子が支払う賠償金の配当を餌に使ったのがそもそもの始まりではある。それを私は偶然に知ってしまったが、全ての事実を公表するのは避けた。
住民達には、賠償金のおこぼれに与ろうと画策する貴族議員達のせいで、本当に迷惑を被っている平民達への賠償が進まなかったのだ、とは言ったが、そもそもの原因はトリスタンが貴族達に取引を持ちかけたからだという事実は意図的に隠した。貴族達にトリスタンが手を焼いているのを知っていたから、というのも勿論ある。汚い仕事を一つもせずに、下級貴族出身のなんの後ろ盾もない人族の若造が領主を務めるなど土台無理な話だ。
だが、私はそれを材料にトリスタンを脅した。
金銭的な見返りを要求したのだ。魔生物申請にかかる費用を帳消しにさせた。困窮していたとは言え、本来ならやるべきではなかった。いくらトリスタンが裏で悪い事をしていたのだとしても、それを糾弾し、さらに利用する権利は私にはない。
結局そこをエンリケに突かれた、という事か。
思わず自嘲した。
いつもそうだ、いつも結局は自分の卑しさに足元を掬われる。
エンリケの嫌がらせのもっとも嫌なところは、突き詰めて考えると自業自得に思えてくるところだ。因果律をたやすく無視する力を持ちながら、因果を愛しているように見えるあの悪魔らしいやり方だ。
そして、あのスライムをエンリケが開発した、というのも実は丸切り嘘、というわけでもない。あの黒いリボン、呪いの贈り物がなければ、この沼の瘴気があれほど濃くなる事もなく、瘴気を魔力に変換するスライムが出現する事もなかったかもしれない。
これだけの材料があれば、白も黒と言わせる天下のホロス社の事だ。魔生物局を丸め込むのは簡単だろう。
ふと、腹の突き出た鉄鋼工場の工場長の顔が浮かんだ。恐らく彼あたりから詳しい仕組みがばれたに違いない。彼は、仕組みは教えてくれなくてもいい、と言いながらも、魔石を届けに行く度にしきりと探りを入れて来た。
彼自身には全ての仕組みを推し量るのは無理でも、彼からもたらされた情報だけでエンリケならばすぐに真相に辿り着くはずだ。彼にはそれだけの能力がある。
気味が悪いほどに何でも見通す彼の事だ。案外、あの工場長の情報すらも必要ないかもしれない。
魔法機械工でエンリケを知らないものはいない。エンリケに睨まれて沈黙を貫く事が出来る魔法機械工は少ない。真相は分からないが、あの工場長がもしエンリケに協力を要請されたら、おそらくあっさりと私を裏切るだろう。
自分は何も知らなかったのだ、許してくれ、とすら言うかもしれない。
工場とそこで働く従業員を預かる身としてはホロス社を敵に回すのはなんとしても避けたいに決まっている。
悪い事は出来ないもんだな……。
何も言わない私に苛立ったコルテスはさらに言い募る。
「全く、節操がないにもほどがある……若い男を囲うだけじゃ飽き足らず、領主のトリスタンにまで取り入ってたんだな? 美人局でもやったのか? あんたの愛人さんはやたら鍛えてるみたいだからな」
美人局!
また、なんとも自分にはそぐわない単語だ。分かっている。コルテスもまさか私に美人局が出来るなどとは思っていないだろう。しかも相手はあの遊び人のトリスタンだ。
だからこそ余計にコルテスの怒りが突き刺さる。彼が私を貶めるために言っているとはっきり分かるからだ。
おそらく、トリスタンは魔生物管理局の調査が入った時点で私を切り捨てる事にしたのだろう。彼らしい判断だ。為政者としては間違っていない。
今、彼がクベタ住民の支持を失ったらカーサス地方の行政は立ち行かなくなる。それは政治に疎い私にすら分かった。
悪意の籠った中傷にウルバーノがいきり立つ。
「……ってんめえ、もう一回言ってみろ……、ドロテアがお前らのためにどれだけ……!」
ウルバーノは私が樵達の給料を行政側から出させるためにトリスタンと掛け合ったのだと言おうとしているのだ。
「いいんです!」
大声で遮る。今更、事実を公表しても何もならない。トリスタンを道連れにしてやりたい気持ちは分からなくはない。だが、トリスタンを潰せば次に出てくるのはもっと話の通じない金満貴族達だ。クベタの住民にとってトリスタンとどちらがましなのか、それは分からないが、少なくとも彼よりもずっと良いという事はないだろう。怒りに任せてトリスタンを引きずり降ろせば、待っているのは自己嫌悪だけだ。
苦い笑みを浮かべながら私はコルテスを見た。
「コルテスさん、失望させてすみません」
「……っ」
謝られた側であるはずのコルテスは今日ここに来てから一番、痛そうな顔をした。泣きそうに歪んだ顔は憤りで真っ赤だ。
「なんなんだよ! 全部この通りなのかよ!」
「すみません」
「言い訳しろよ! 俺があんたと一緒に見た夢を返せよ!」
「……っ」
コルテスに問い詰められて、いっそ全て打ち明けてしまいたいと思わないでもなかった。トリスタンと取引した理由、エンリケがスライムの開発者だという主張が通用してしまっている理由……。しかし、それらを全て打ち明けたとすると、結局、一体なぜ私がそこまでエンリケに嫌われているのか、という話になる。学生時代から私が受けてきた理不尽な仕打ちなど、コルテス達のような真面目な職業人にとっては、犬も食わない痴話喧嘩のように聞こえるに決まっている。
恥ずかしくて言えない。そして結局は全て私のせいだ、という事実は変わらない。
「全て私の責任です」
真っ直ぐ前を見ていられなくて頭を下げた。
「あんたを信じてたんだ! いつも変な服を着た変な女だと思ってた。愛人もいけ好かない奴だし、気に喰わないと思う事もたくさんあった。だけど、あんたは本当に楽しそうで……俺は、あんたとなら、なんだって、なんだって出来るんだって……!」
ぐっと胸倉を掴まれた。目の前に悔し涙を滲ませたコルテスが居た。ウルバーノが殺気立つのが分かったが、必死に目で制す。
「コルテスさん、あなたは私を責める権利がある」
誰よりも林業を愛し、ディオラ杉の開発に心血を注いできたコルテスならば。
「殴られても文句は言えません……」
こんな風に詰られても、コルテスがまだ私を信じたがっている事が分かるからこそ、余計に。
この信用に、報いたかった……。
痛いほど、そう思った。
馬鹿だった。
どうして私はトリスタンの弱みを握っていい気になっていられたのだろう。
まるで、天罰を与える神のようにいい気味だなどと思っていられたのだろう。
相手がいくら卑劣をなしたからと言って、それに卑劣で返すのを正当化する理由にはならないというのに。
殴られて楽になりたいのは自分の方かもしれなかった。
しかし、コルテスは苦しげにぐっと目を瞑ると、私を解放した。
「女を殴る趣味はねえ……」
ぐっと突き飛ばされる。
脚に中途半端に絡んだ防護服のせいでよろけた私をウルバーノが支えてくれた。それを見て、コルテスの目がまるで傷付いたように熱を失ったのが分かった。しかし、彼はそのまま何も言わず、森の中へ消えて行った。
ウルバーノと二人で家に帰ってから今後の事を話し合おうと思ったのだが、なぜか私の家は大勢の樵達に囲まれていた。
「なんだなんだ? 汚ねえおっさんがぞろぞろと」
ウルバーノが心底嫌そうに舌打ちする。一瞬、彼らが抗議行動のために沼に大挙して押し寄せて来た時の事を思い出した。怒ったコルテスは今度こそ、私を私刑するつもりなのかと。
「あ、あれ? もしかしてドロテアの姐さんですか!?」
私が手に持った防護服に気が付いてそのうちの一人が叫ぶ。みな不安そうにはしているものの、手を振りながら駆け寄ってくる様子には明らかな害意は認められない。
「そ、そうです」
びくびくしながら答える。きっと怒っているに違いない。しかし、返って来たのは純粋な驚きの声だった。
「その声、確かにドロテアさんだ!」
「えええ!? マジで?」
「ちょ、若くねえ!? 俺より年上かと思ってた!」
「あんたいくつ? 結婚してる?」
「結構、華奢なんだなあ! いっつも力仕事ばっかりしてっから、もっとごつい女かと」
「前見た時と印象違いますね! 別に普通の人じゃん!」
「普通に結構いけてる」
「うちの旦那、独身なんですよ。いい奴なんですけど不器用で、しかも男職場だから出会いがなくて……ドロテアさんどうですか?」
「愛人さんの前でそんな事言っちゃ失礼だろうが」
「んなの分からねえだろう、うちの旦那だってちゃんとすりゃいい男だぜ」
「駄目だろ、コルテスの旦那は背が低いの気にしてんだから、姐さんの方がでかいじゃねえか」
「そんなの関係ねえって、なあ? ドロテアさん」
途端に皆口々に好き勝手な事を喚き始める。最初に堪えきれなくなったのはウルバーノだった。
「お前ら、なんなんだ!? うるせえな! 要件は何だ! ホロス社の件でドロテアに文句言うつもりなら俺が相手になるぜ?!」
Sランク傭兵に本気で凄まれて屈強な樵達も黙り込む。Sランク傭兵だとは知らなくても身体を張って仕事をしている彼らは強い男に敏感だ。その中の一人がようやく話し始める。やっとの思いで再開した林業が存亡の危機に瀕しているというのにこの明るさはなんなのだ。
「そうだった、そうだった、ドロテアさん、うちの旦那がすいません」
頭を下げられてぎょっとした。この状況で頭を下げる事はあっても下げられる事は絶対にないはずだ。口ぶりからすでにホロス社に訴えられかけている事は知っているはずなのに。
布を頭に巻き付けた大柄なその男はぽりぽりと頬を掻きながら、すまなそうに続けた。
「頭に血が上った状態で行っちゃ駄目だって言ったんですが、聞かなくて。大丈夫でしたか?」
あの女、許せない、と息巻いてコルテスは一人私を探して森に入ったのだそうだ。
やはり樵達はエンリケがしかけてきた妨害を知っていた。
私はまず謝った。私の不手際のせいで迷惑をかけてすまないと。正直言って、なんなら土下座でもしたいくらいだった。
しかし、樵達は口々に言った。
「俺ら、そんなに長い付き合いじゃないけど、あんたがそんな真似が出来るような人じゃないって分かりますよ。何か事情があったんでしょ?」
「ホロス社って言えば、あのホロス社か? 天下の大企業が横暴な手を使うのはよくある話です」
「それに、ドロテア姐さん、借金があるって聞きましたよ。それも俺らへの賠償金のせいだって。もし、あんたが本当に悪い事をしていたんだとしても、俺達が一方的にあんたを責める権利はねえよ」
「あんたに石を投げたりした事もある俺達を信用してこんなにいい仕事、任せてくれたじゃないですか」
若い、まだ少年と言ってもいいような年齢の樵も懸命に言う。
「この森でドロテア姐さんと働くのは楽しい。なあ、みんな!」
「あの杉の事を一人で調べて、惜しげもなく俺達に教えてくれて、伐採に使う魔法機械の修理も一人でやって」
「みんな、あんたを頼りにしてるんだ」
「ホロス社なんかに負けてらんねえよ。あんたの力になりたい」
……っ
「参ったな。泣かないで下さいよ……旦那に怒られちまう」
「す……すみませ……」
いろいろなところから頭を撫でられ、肩を揺さぶられ、背中を叩かれて、身体がぐらぐらした。髪の毛がぐちゃぐちゃに乱れてしまった。ぼろぼろと涙が零れ落ちる。
情けない。
しかし、恥ずかしいとは思わなかった。自分の醜い顔の事も忘れていた。
「俺らが言うのはお門違いかもしれませんが、コルテスの旦那をどうか許してやって下さい。旦那は俺らの中じゃ一番あんたを信用して、期待してたんだ。いっつも俺達には言ってましたよ。あんたは凄い女だって、度量も大きいし、敵わないって」
「そんな……許すだなんて……」
それこそお門違いだ。鼻水を啜り上げながらやっと言う。悪いのは私の方だ。コルテスの怒りは当然だ。
「だからこそ頭に血が上っちまったんだ。ショックだったんでしょうよ。たぶん、あんたに心酔してたから余計に裏切られたような気がしたんでしょうな」
元締めとして立派に頑張ってくれちゃいるが、若くていけねえな、年配の樵は私を励ますように笑った。コルテスが樵達にとても愛されているのが分かって、少し嬉しくなった。旦那、旦那と敬いながらも、若くして元締めとなった彼を古参の樵達は息子のように思っているらしい。
「ドロテアさん、あんたさえ頷いてくれたら、俺らはいつでもホロス社と一戦構える覚悟がありますぜ? 樵のネットワークを舐めて貰っちゃ困る。ディオラ杉はこれからの林業を変えるかもしれねえ。絶対に潰しちゃ駄目だ。俺達、なんでも手伝いますから」
これを受けてウルバーノはにやりと笑った。
「お前ら、寄ってたかって苛めた後は、その女一人に頼り切る恥知らずな腑抜けどもかと思ってたが、謝るぜ」
「愛人さんは相変わらず口が悪い!」
参ったな、と樵達は大声で笑う。
「コルテスの旦那だって頭じゃ分かってるんだ。きっと俺らと同じ気持ちですよ。あんたに何か返したい」
「……っ」
私は何度も何度も頷いた。嗚咽のせいで声が出ない。頷きながら私は心の中で誓った。何があっても、絶対にディオラ杉を、この樵達を守ると。何を投げ打っても、この沼で生まれた林業だけは。
最悪、魔力補充プラントは諦めてもいい。彼らに何かを返す事が出来るのならそれでいいと。
私が何を捨てる事になっても構わない。
それがエンリケの思うつぼでもいい。
いいだろう、やってやる。
私、ドロテア・スニガの魔法機械工としての誇りをかけて戦ってやるとも。
力が漲ってきた。
私は目の前の事に精一杯で、あんなにも恐怖していたハコブの事をこの時、一瞬忘れた。エンリケの性格を良く考える事もしなかった。それが、大変な結果を招く事になるなど、この時は考え付きもしなかった。
ただ、空だけが、このところ続いた晴れ間が嘘のように掻き曇り、不穏な様子を見せていた。
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