第26話 来訪者

 この部屋に窓はない。人工の白い光に煌煌と照らされて眩しいほどだ。

 ここはホロス社の地下の会議室だ。

 広い床には血のように赤黒く毛足の長い絨毯が敷き詰められ、中央に巨大な白い大理石の長机があるが、その部屋にはそれでも小さく見える。

 机の周りには十数人の人間が座っている。まだ学生かと思うほどの若者も居れば、棺桶に片足を突っ込んで居そうな老人も居る。人種も様々だ。ほとんどの者が目の前に置かれた資料を驚愕の表情で読み耽っている。

 目の前の資料に興味を示していないのはその中で二人だけだ。

 一人は机の端に座っている悪魔、桜貝色の美しい髪の毛を特徴的な三本の三つ編みにしている。細身の灰色の上着、同色の下履き、赤い靴下に包まれた長い脛が覗く。可憐と形容しても許されるような造作の中性的な美貌だ。挑戦的な表情が性別をさらに曖昧にする。魔法機械製造業大手のホロス社の若き最高責任者、エンリケ・バジェステロスである。

 口の前で両手の指を組み、真紅の瞳は真っ直ぐに机の反対側に座る男に向けられている。

「どうだい? フェリシアーノ」

 エンリケに呼ばれて、その男はびくりと身体を揺すり、小さな目を怯えたように逸らした。

 太った人族の男だ。頭には毛が一本もない。上等な服を幾重にも着込む事で贅肉のだぶつく身体をようやく人の形に納めているような有様だ。そわそわと落ち着かない仕草で芋虫のような指を蠢かせて爪を噛んでいる。

 目の前の資料を手に取った形跡すらない。

 赤ら顔はつやつやと輝き、男が意外に若い事に気付かせる。大きな顔の中央に寄った小さな口、鼻、肉に埋もれてはいるが青い目はそこだけ見れば赤ん坊のように愛らしい。

 彼はもう一度そっとエンリケを伺う。

 その視線を受けてエンリケが大きなシフォンのリボンでも解くように淡く微笑んだので、彼は禿げ上がった頭を真っ赤にして再び俯いた。大粒の汗が、たるんだ顎の肉を伝う。世界的な銀行家の父、ヘラルド・マジョルガの息子で、ホロス社の大株主であるフェリシアーノ・マジョルガである。

 特殊な性癖と生来の気質のためにマジョルガ家の馬鹿息子と揶揄されてきたが、エンリケが数年前に独りでホロス社を立ち上げた時から積極的に出資を行い、今では総資産額で偉大な父親を抜いてしまった。

 フェリシアーノはぶるぶると顎の肉を揺すりながら、やっと言葉を紡ぐ。

「ぼ、僕は……」

 そこでフェリシアーノのか細い声を遮って、一人の妖精の男が切り出す。髭を生やした痩せた男だ。神経質そうな仕草で書類を指で弾いて見せた。

「社長、大変素晴らしい製品だと思います、しかし、この製品を本格的に普及させるには、一つ重要な……」

「うるさいな」

 エンリケはふっと息を吐いて、上品に腕を組み直した。それだけで、妖精の男の舌はぴたりと回転をやめる。

「僕はフェリシアーノに聞いてるんだ。まだ、フェリシアーノが答える途中じゃないか」

「も、申し訳ございません……」

「分かればいいよ。ねえ、フェリシアーノ、君はどう思う?」

 優しく微笑むエンリケに促されて、フェリシアーノは小さな目を瞬かせた。うっすら涙の滲んだ目は赤い。

「ぼ、僕は、い、いいと、思うよ。エンリケ。む、難しい事は分からないけど……」

 甲高い声でそれだけ言って、フェリシアーノは少し荒くなった息を誤魔化すように、忙しなく顔の汗を拭った。

「王子様、ありがとう。君にそう言ってもらえると嬉しい」

 エンリケはひんやりと冷たそうな細く白い指で桃色の前髪を掻き上げ、婀娜っぽく笑った。フェリシアーノの顎の分厚い皮下脂肪の奥で、咽喉仏がぐびりと動いた。小さな目は憑かれたような熱い眼差しでエンリケの滑らかな首筋を凝視している。

「じゃあ、決まりだね。いいよ、みんな喋っても。クラウディオ、さっきは遮ってごめんよ。君が言いたいのはどうせあれだろ? うちの製品としか適合しないようにするって案だろ? いいんじゃない? 確かにこれは諸刃の剣だ」

 髭を生やした妖精の男はエンリケの言葉に奮い立つ。途端に机を挟んで活発な議論が始まった。新製品によって得られる利益に目をぎらつかせて口角に泡飛ばす男達を楽しげに一瞥すると、エンリケは虚空を眺めてひとりごちる。

「真理の海の波打ち際で遊ぶ子供、深淵を覗く愚者、ペドロの妻の兄弟の末裔か……」

 だらりと椅子に背を預け、行儀悪く長い脚を伸ばす。

「ペドロの息子の末裔より先に向こうに行くとは……やってくれるよ」

 エンリケは天井を向いていた顔をぐいっと真正面に戻して、不敵な笑みを浮かべた。花弁が散るように桃色の髪が舞う。

「これは、急げって事だよね」

 そんなエンリケをフェリシアーノは恋を覚えたばかりの乙女のように口元を手で押さえ、一途に見つめていた。



***



「ドロテア・スニガさんだよね? 僕、合ってるよね?」

 ハコブと名乗ったその人物(今は便宜上そう呼ぶ)は煙るほど濃い瘴気の中で、優雅に足を組んでこちらを見ていた。質問という形を取っているが、ハコブは自分が間違っているとは露程も思っていないに違いない。

 ちらりとも揺らがない黒い瞳は井戸の底のようだ。黒い髪は少しうねっているが、襟足は清潔に整えられている。肌は白く、厚めの蠱惑的な唇は赤い。少年のようにも青年のようにも見える。白いシャツ、白い上着、上等な服を着ているのに、裸足の足は泥に塗れ、それを気にしようともしない。

 悪魔と違って、他の種族にはありえないような毛の色、目の色をしている訳ではなかった。だが、ハコブがこの世界のどんな存在よりも、自分とは隔たった生き物なのだという事がなんら特殊な能力を持たない私でも嫌と言うほど分かる。

 それほどの、違和感、そして恐怖だった。

「ど、どうして、私の名前……」

 歯の根が合わないほどの震えを押さえながら、やっとそれだけ言った。防護服の中で玉のような汗が顎先から滴り落ちる。


 熱い……寒い……っ

 怖い!


「どうしてって、君が候補者だからだよ」

「候補者?」

 まるで答えになっていない。

「そう、君がもう一人と一緒に作ったこの生き物の功績、っていうか罰? いやご褒美? ごめんね、僕あまり言葉が上手くないんだ」

 声だけはとても親しみやすい。


 生き物? もしかして、スライムの事か?


 だが、人の言葉を話していてもハコブとは到底まともに意思疎通を図れる気がしない。どうしてかは分からないが強くそう感じた。

「ああ、うん、こういえばいいね。代償」

 ハコブは背筋が寒くなるほど自然な様子で笑った。猛毒のヘドロに裸足の足を浸して、瘴気を吸い込みながら。

「つまり楽しい事だ。僕らは退屈が嫌いでね、楽しい事が好きなんだ。ところで君、それ脱ぐとどんな感じなの?」

 途端に世界が明るくなった気がした。

「え?」


 ……!


「っ!!!」

 最初に感じたのは目の痛みだった。そして次に強烈な悪臭。肺腑が痛むほどの濃い瘴気。

 防護服が消えていた。

 朝着て来た粗末な緑のスカート、いつもの前掛けが目に入る。死にもの狂いで口と鼻を手で塞ぐ。


 何を……何で?!


 訳が分からない。ただこれだけは分かった。私から防護服を奪ったのが目の前のハコブという存在だという事だ。この結界の中の瘴気は通常ではありえないほどに濃い。私もこれほどまでに濃い瘴気を浴びるのは初めてだった。


 目が開けていられない。


 充血した目からぼろぼろ涙を流しながらこけつまろびつ池を出た。私の居た池はハコブが座っている向かいの池とは違って、私の作った浄化スライム達が居る池なので、ヘドロの濃度は高くない。それでも素足には十分な害になる。脚の痛みを感じて下を見ると、すでに脛に水ぶくれができ始めている。


「……っ!」


 驚いて一瞬口から手が外れてしまった。途端に胸が苦しくなった。


 息が……っ


 ハコブは私の目の前で静かに微笑んでいた。


 殺す気か……!?


 恐怖で頭が真っ白になりそうだ。早くこの結界から出なければ本当に死んでしまう。痛む足を引き摺って駆け出すが、後ろから羽交い絞めにされて動けない。

「……ぁぁ……じっ……で!」

 離して、と大声で叫んだつもりだった。だが、声が出ない。かわりに鼻と口が強烈に痛んだ。血が一筋、口の端から流れ落ちる。咽喉の粘膜がやられてしまったらしい。生理的な涙にかすむ目で何とか後ろを見ると、底なし沼のような黒い目とかち合った。

「ふーん、やっぱりね」

 納得したようにハコブは頷いて、私の頭を優しく撫でた。

「もういいよ、分かった」

「……!?」

 唐突に全ての不快感が消え失せた。脚の痛みも消えている。脛を確認しようと下を向くが、魔竜の鱗、つまり防護服に覆われた足が見えただけだった。今までの苦痛は夢だったのかと思うほどの唐突さだった。しかし生々しい死の恐怖は消えてくれない。ハコブから少しでも離れたくてもがいた。

「や、やだ……っ!」

「おおっと」

 ハコブが手を放したので無様に尻餅をついてしまう。

 倒れたまま端正な顔の中で真っ赤な唇が美しい笑みの形を作るのを呆然と見上げた。

「ははは、ごめんごめん、君がそれを脱いだらどうなるのか見たかったんだ。やっぱり僕らとは身体の作りがだいぶ違うね。そりゃそうか」

「……ひっ!」

 途端に今度はハコブの美しい肌が見る見るうちに水ぶくれに覆われていった。

「最初からこうしたら良かった」

 声もしわがれたものになる。水ぶくれは彼の目や美しい赤い唇を無残に解け崩れさせて広がる。ついにハコブの姿が崩れ落ちた。ヘドロの中に白いシャツだけが残る。

「……ちょっ!?」

 ばちゃばちゃと水を跳ね上げながら慌てて駆け寄った。


 どうして? 平気な顔でヘドロに浸かっていたのに!


 突然の事に取り乱す私の後ろで声がした。

「大丈夫、大丈夫」

「なっ!」

「ちょっと僕の身体を君と同じ作りにして時間を早送りしただけ。もう戻した」

 振り返ると、ハコブは先ほどのままの姿で微笑んでいる。いつの間にか白いシャツも目の前から消えている。ハコブの着ているシャツにはヘドロの染みもない。驚愕のあまり硬直している私にハコブは優雅に近付くと、跪いて私の手を取った。

 ヘドロに浸かりながら。

 美しい赤い唇が無骨な魔竜の鱗に触れる。

「ありがとう、心配してくれたんだね? 僕は君に痛い思いをさせたのに」

 小首を傾げて微笑むハコブは純真無垢に見えた。ぞっと鳥肌が立つ。

「やめて!」

 手を振り払った。

「配慮が足りなかったのは認めるけど、君の事を思ってなんだよ? だって、これから新居をどうするかって結構大事な問題でしょ?」

「新居!?」

「ん? 新居って変? なんていうの君達の言葉で? えっと、いや、新居でいいよね?」

 一体何の事だ。誰の新居の話だ。

「君のだよ」

 心を読んだようにハコブは言った。いや、実際に読んだのだとしてももう私は驚かない。桁外れだ。何もかもが。

「そんなに嫌がらないでよ。僕は結構、君、いいと思うよ。うん、肉体的ハンディがあってもイーブンてとこかな」

 ハコブは楽しげに笑った。

「君は誰よりも欲望に忠実な開拓者で、冷徹な策士、馬鹿が付くくらいのお人好し」

 ハコブはぐっと私に近付くと目をかっと見開いて囁いた。

「実に、そう、掻き立てられる!」

 猫のように顔中で笑ってからハコブはやっと私から離れた。

「ああ、君の伴侶がやって来る。もう行くよ。君の伴侶、伴侶ではない? いや、うーん、同居人としようか。彼は可哀想だね。だけど、僕はこの選択に変な茶々を入れられたくない。彼の事を思うのならこの事は内緒だ。もう一人の候補者はもう僕に気付いているだろうなあ。いつ会いに行こう? もう一人は君より意欲的、彼は情熱的、いや必死と言った方がいいかな? 可愛げがないけど、なかなか彼も捨て難い。彼の頑張りに期待だな。楽しみだよ」

 彼は一方的にぺらぺらと喋りながら、私に背を向け浅いため池をどんどん歩いて行く。不思議な事に、そのたびに彼の身体が汚水の水面下に埋まっていく。

「それに、君、自分なんかこの世界には必要ないって思ってるんだろ? ……釘か、君のお父上はいい事を言う。丁度いい。僕らには君が必要だ。僕らにとって君は釘でもあり花でもある。この世界の事は知らないけど、それだけは確かだよ」

「……っ」


 なんで、そんな事まで……


 恥部を暴かれるような不快感に反射的に憤るが、見る間にハコブの姿は視界から消え失せる。

「ちょっと……!」

「じゃあね」


 とぷん


 小さな水音を残して彼は完全に溜め池の中に潜った。金縛りが解けたよう身体の自由が戻って来る。駆け出して、彼が消えた辺りを探った。思った通り、そこは私の膝下ほどの水嵩があるだけで、水底を擦っても、泥が舞い上がるだけで穴らしきものはなかった。


 何だったんだ……


 呆然と立ち尽くす私の足元を大量のスライム達が慰めるように漂っていた。

 遠くからウルバーノが私を呼ぶ声が聞こえてきて私はようやく、自分の膝ががくがくと情けなく震えている事に気が付いた。


 駄目だ。ウルバーノさんが変に思う。


 ハコブの底なし沼のような目を思い出し、戒めるようにぐっと膝を押さえた。


「彼の事を思うのならこの事は内緒だ」


 約束を破ったらハコブが何をしでかすつもりなのか全く予想が出来ない。あっさりと私を瘴気の中に放り出した冷酷さを思い出して身震いする。

 彼が何者なのか、何が目的なのかが分からない以上、下手な事をしてウルバーノに危害が及ぶ事だけは避けたかった。土を積んだ台車を引いて結界を出た私は努めて普段通りを装う事にした。

「ドロテア!」

 人型のウルバーノが駆けてくる。銀髪には寝癖が付いたままだ。

「ウルバーノさん! どうしたんですか?」

 私の拙い芝居が聡い彼に通用するか正直言って自信がない。下手な愛想笑いだ。自分で見なくても分かる。防護服を脱ごうとして咄嗟に思いとどまる。


 いや、着ていた方が好都合。とにかく誤魔化せ。考えるのは後だ。


「どうしたもこうしたも……」

 そう言ってウルバーノは気まずそうに頭を掻き毟る。

「ちっ、お前が出かける気配に気が付かないなんて初めてだぜ。阿呆みたいに寝こけてた」

 探るような視線に怯む。ハコブはウルバーノに自分の存在を知られたくないようだった。


 いつもなら、ウルバーノさんぐらい耳も鼻も効く人なら私の気配に気が付くはず。

 まさか、ハコブって奴がそこまで考えて……?


 そして、ハコブほどの強い力の持ち主がこの近くに現れた事をウルバーノが全く勘付いていないという事実に、改めてぞっとした。

 ウルバーノにしてみれば、朝起きてみれば私の姿がなかったので心配して見に来た、というところか。ありがたさ、申し訳なさ、そして得体の知れない恐怖を誤魔化すように笑った。

「よっぽど新しい寝台が寝心地が良かったんじゃないですか?」

 昨日、私はどうやらこの件で彼を怒らせたようなのだ。

 私が彼に贈った大きくて丈夫な寝台をどこへなりとも持って行って構わないと言ったら、彼は態度を硬化させた。

 それを踏まえた上で、ウルバーノの不審の目を逸らすためにわざわざ自分から話題に出すなどと、自分の事ながら計算高過ぎて嫌になる。


 昔からそうだ。

 私が自分を嫌いになる時、それは私が尋常じゃなく何かを怖がっている時だ。


 ウルバーノは途端にむすりとした表情になる。思惑通りだ。彼に嘘を吐くのは初めてではない。一度、彼をこの沼地から遠ざけようとして心にもない中傷をした事がある。あの時は心のどこかで彼に私の心情がばれていると分かっていたような気もする。

 そして、それで構わなかったのだ。ばれようが、彼にどう思われようが、結果的に彼が無事ならそれで良かった。

 しかし、今は違う。

 ウルバーノが強い事は知っている。だが、ハコブのそれは常軌を逸している。ハコブは私の考えも何もかも見透かした。ウルバーノが何か勘付けば絶対に気付かれる。

 ハコブが私を『候補者』だと言った。つまりハコブの標的はあくまで私だ。今度こそ絶対にウルバーノを巻き込むわけにはいかない。

 ハコブの無機質な視線を思い出す。彼の目的が何なのかは分からないが、邪魔になる物は容赦なく叩き潰すだろう。蚊を潰すように、紙を丸めて捨てるように。ハコブにはそれが出来る。

 その時点でハコブの思惑が何だろうと危険なのだ。近付かせたくない。


 ウルバーノさんを怒らせちゃった事が、さっきまで凄く悲しかったはずなのに。


 心の中で苦笑する。なんと贅沢な悲しみだった事だろう。

「寝心地はどうでしたか?」

 恐怖に凍てついた状態でなら私はいくらでも彼に嘘が吐けるらしい。口から出た言葉は我ながら完璧なほどにいつも通りだった。

「……良くねえな。一人寝じゃ、そうあのソファーと変わらねえ」

 ウルバーノは何かを諦めたように溜息を吐いて私に流し目をくれる。上半身裸はそのままだが、基本的には紳士に出来ているウルバーノがこんなあからさまに性を匂わす発言をするのは珍しい事だ。

 少し驚いた。


 一人寝か……。

 そうだよな。私の家に居たんじゃ、おちおち女も連れ込めない、か。


 私の家に棲みつくのも、愛人のふりをするのもウルバーノが勝手にやっている事と言えばその通りなので、今まで下の心配まではあえてしない事にしていた。私のごときが彼の性欲処理の問題を考えるのは失礼な気がしたというのもある。


 けど、本当はウルバーノさんだって若い男なんだから、いろいろ、こう……

 いろいろあるんじゃないのかな。


 いや、あるはずだ。あるに決まっている。そうでなければ先ほどのような発言が出るわけもない。もうすぐ一緒に住み始めて一ヶ月、下世話な言い方をすれば、そろそろ溜まってきた、という頃か。彼専用の個室は作ってやってあるとは言え、私が居たら気まずくておちおち自慰も出来ないのではなかろうか。

 ふと、ブリサを思い出した。


 可愛い猫の獣人だしなあ……。

 良く考えてみたら狼のウルバーノさんとは凄くお似合いな気がする。


 可愛いブリサ、誰もが振り向くようなウルバーノ。そして、吹き出物は多少良くなったとは言っても、まだまだヘドロ塗れの私、貧乳の大女。ついでに処女の癖に耳年増で、今はやり手婆あのような事まで考えている。

 一瞬、やめておけばいいのにブリサと自分を比べてしまって落ち込んだ。

 ブリサはウルバーノの悪評を信じていたようだが、素直な彼女の事だ。少し話せばウルバーノの優しさや誠実さに気が付くだろう。良くも悪くも優しいウルバーノ(なんせこの醜女の私にも優しいくらいなのだ)が特定の誰かに入れ込む様は想像しにくいが、それなりに欲求があるのならブリサは願ってもない相手のはずだ。

 組合の受付で熟考の末に、私とウルバーノの関係を明らかにするのは避けたのだが、気持ちの全てが後ろ向きになっている今はそれすら誤りだったかもしれないと思えてきた。


 本当にウルバーノさんの事を思うんだったら、やっぱり恋人でも愛人でもないってきっぱり否定しとくべきだったかもしれない。


 後先考えずにウルバーノに再び助手を頼んだ事も間違いだった。責任感の強い彼は今更出て行くに出て行けない状況なのではないだろうか。


 この上、あんな得体の知れない化け物まで絡んで来たら、ウルバーノさんがここに住んでるメリットってマジで何にもないんじゃ……。


 しかしハコブの事を内緒にしたままウルバーノを再び遠ざける口実も思いつかない。心の中とは裏腹に私の口は易々と軽口の応酬をやってのける。

「だから、どこへでも持って行っていいって昨日の夜も言ったじゃないですか。もし、そんなに町に帰りたくないなら私が出て行ってもいいですし」

 さすがに、工房があるので全く家に寄り付かないというのは無理だが、寝起きするだけなら、コルテス達が仕事のために立てた簡易宿舎が苗場の近くにある。

 彼が用を足す間、そこに間借りさせてもらってもいい。

 あそこは個室になっているし、女が一人で行っても樵達が気まずい思いをする事もないだろう。

 つらつらとそんな事を口に出しながら、切ない気持ちになった。


 出来れば、こういう話はしないまま離れたかった。


 ウルバーノが私を大事に思ってくれているのは分かる。本当の意味で彼が手に入る事などないのだと分かっていても、それだけで嬉しかった。一緒に働くのは楽しい。

 目の前で食事をしてくれて、美味しいと言って彼が笑うだけで、何もかも報われたような気がしたものだ。


 要は見ないふり、してたんだ。


 心を蹴っ飛ばされてもいいと思ったのは嘘ではないが、私はやはり弱い。彼が私の家にブリサでも誰でもいいが女性を連れ込んで、自分が贈った寝台の上で不自由なく愛し合うための相談など本当はしたくない。


 見ないふりしたって同じなのに。馬鹿だったなあ。


 そして、彼のために何もしてやる事が出来ないまま、新たに厄介ごとに巻き込まれつつある。

 自分の間抜けぶりが心底嫌になる。自嘲しながら歩き出そうとした私を、底冷えのする低い声が引き止める。

「樵達のとこへ行く、だと?」

「え? いや、行くと決めたわけでは……」

 あまりに迫力のある声にたじろいだ。


 しまった、また怒らせた。


 だが、今回はなんとなく怒らせた理由が分かった。当然だ。私のような女に下の世話の心配をされれば苛つくだろう。

「す、すみません。そんなつもりじゃ……あの一緒に住むって事になった時からちょっと気になってて、深い意味はないんです、一般的な心配っていうかその……ウルバーノさんがもてるのは分かりますから、私がそんな心配するのも本当はおかしいんですが」

 さすがに慌ててしどろもどろになりながら言い募る。


 誤魔化せたは誤魔化せたみたいだけど、こんなに怒らせるつもりじゃなかったのに!


「あの汗臭い飢えた野郎どもの中にお前が? 風呂に入って寝るって?」

 一方、ウルバーノは私の言い訳など聞く耳をまるで持たない様子だ。

「しかも、なんだ? 俺がお前の家に女を連れ込むような奴だと?」

「いやいやいや! 連れ込むような奴じゃないと思ってるからこその提案ですよ! 不自由な思いをさせてたら悪いと思って……」

「不自由か……」

 そこで、ふっとウルバーノは目を逸らして苦笑した。あまりに悲しげだったので、何も言えなくなる。

「不自由だぜ、凄く。お前のせいだ」

「……っ!」

 背中に衝撃があった。防護服を着ていたからさほど痛くはなかったが、頭がくらくらした。

 見るとウルバーノの顔が驚くほど近くにある。ようやく自分がウルバーノに肩を掴まれて木に押し付けられたのだと分かった。怯える私に気付いたのだろう。ウルバーノは深く眉根を寄せた。

「私のせい……」

 やはり、私が手伝いを頼んだせいで彼は出て行きたくても出て行けないのだろうか。

「そうだ」

 苦しげに言う彼が心配になって、押さえつけられているのも忘れて俯く彼を覗き込もうとした。

「爆発しそうなくらいに……な」

 凶暴な言葉とは裏腹に、ウルバーノは優しい手つきで私の防護服を脱がせ始めた。

「ちょ……っ」

 上半身は剥かれて、足元にはまだ防護服が残っている状態だ。服は着ているが、さすがに恥ずかしい。抵抗してみるが、優しい仕草とは裏腹にウルバーノは私の抵抗を易々と封じてしまう。

 真っ赤になった顔がウルバーノの銀の瞳の前に晒される。ウルバーノは顔を赤くして狼狽えている私を見て安心したように小さく笑った。

「いいか? 樵の簡易宿舎には絶対に行くな。もし行ったら、どんな手を使っても俺が連れ戻すからな。樵どもが全員怪我して作業が出来なくなってもいいならそうしろ」

 ウルバーノらしくもない脅しだ。なのに、その目は本気の光を宿している。迫力に気圧されてがくがくと頷いた。

「いい子だ」

 優しいはずなのになぜか見る者を怯えさせる笑顔だった。ウルバーノがいつの間にか私の腰に手を回している。


 前にもこんな事があったような……


 反射的に身構えた。ウルバーノは私に何か言う時に身体を寄せ過ぎる傾向がある。彼にしてみれば普通なのかもしれないが、やられるこっちは堪ったものではない。

 赤くなった顔など正直見られなくない。この近さでは顔を隠す事も出来ない。

「残念、泣いてねえか……なあ、俺の一人寝を心配するんだったらよ、もっと手っ取り早い方法があるだろうが……」

 獣が獲物に喉を鳴らすような響きに驚いて思わず見上げた。

「……?」

 がっかりしたように溜息を吐くウルバーノだ。

「いや、いいんだ。分かってる。そんなのお前に通用するわけねえな。お前がもう少し下品か、もう少し自信満々か、せめてもう少し馬鹿だったら話は簡単だったんだろうがな」

 彼は私を抱いたまま遠い目をした。

「なあ、ドロテア、一人で居なくなるな。この沼はもう安全だってお前は思ってるのかもしれないけどな、俺にとってはそうじゃねえ」

 ウルバーノが私の手を握った。大きな手だった。しかし、今は震えて冷たい。不安になって、握り返した。一体どうしたのだろう。

「防護服を着ていてもヘドロ塗れで働いていても分かる奴には分かる。あいつらはお前を気に入ってる。俺が人型になってどんなに所有権を主張しても枷にならないくらいに。なんたってあいつらにも自覚がないんだ。下手に女だって意識されるより性質が悪いぜ。そんな奴らのとこに無防備に女の恰好をして行くなんて言うな」

 まさかとは思うが、私の貞操などを心配してくれているのだろうか。確かに、私は紅一点だが、私に限ってそれはない。そういう意味でなら、ウルバーノの方がよっぽど危険だろう。ウルバーノの男らしい美しさに惹きつけられるその種の男が樵達の中にいないとも限らない。


 もしかして、急に人型になった理由はそれか?

 私の貞操とか正直誰も奪おうと思ってないと思いますよ!

 ていうか、ちょっとでもそう思ってくれる人が居たら今まで処女なわけないじゃん!


 ウルバーノの人の好さに呆れた。しかしなんとはた迷惑な。縁遠い私の縁をさらに徹底的に摘み取らなくてもいいではないか。さすがに何か言おうと思ったが、必死な声に遮られた。

「それからな、俺がこの家に嫌々住んでるわけねえだろ?」

 さっきは不自由だと言っていたような気がするが。怪訝な表情に気付いたウルバーノは私を抱き寄せて頭を撫でた。熱い胸板に顔を押し付けられて心拍数が跳ねあがる。


 うわわわ……


「傭兵になった事を後悔はしてねえが、やっぱり傭兵ってのは仕事柄、何かを壊したり、殺したりするばっかりでな。Sランクになりゃあ特にそうだ。だから、お前とする仕事は新鮮だった。ヘドロの臭いには参ったが、誰にも恨まれない上に依頼人はすげえ嬉しそうだしよ。こんな楽で美味しい依頼があっていいのかと思ったぜ」

 胸の振動で彼が笑ったのが分かった。この男は誰もが嫌がる依頼を楽で美味しいと言っているのだ。何も壊さず、殺さずに済むからと。


 やばい、泣きそう。もう泣かないと約束したのに。


「沼が綺麗になって、本当はお前と一緒に喜んでやらなきゃならねえのに俺は素直に喜べなかった。もう終わっちまうのかってな」


 楽しかったんだよ。照れくさくて言えなかったがな。


 ウルバーノは柔らかい声で付け足す。

「お前が俺を頼ってくれた時は嬉しかったぜ。その上、お前にはびっくりさせられっぱなしだ。退屈する暇がねえよ。何かを作るってのはいいもんだな。お前と居るとこんな俺でもちったあ役に立ってるって思えたよ」

 ウルバーノほどの傭兵でも自分の仕事に疑問を持ったりするのか。人の役に立っているのだろうかなどと自らを省みたりするのか。


 いや、違う。

 

 彼がどれほどの力を持っているかは関係がない。彼の魂の高潔さがそうさせるのだろう。


 朝日を体中に浴びて立っているみたいな気分だ。


 もしかしたら、私は近いうちにあのハコブという化け物に屠られる事になるのかもしれない。この世界から消えてしまうのかもしれない。けれど、ウルバーノのような男に少しでも楽しいと思わせられたのなら。


 それでいいかな。


 なかなか上等な人生じゃないか、僻みも嫉みもなく素直にそう思えた。ハコブの事を隠すために怒らせるような話題をわざわざ出したのに、そんな小細工がどうでも良くなるぐらいの暖かさだった。

「ウルバーノさん……」

「そ、それから、な……」

 ぐっと強く押さえつけられて息が詰まった。ウルバーノの声が少し上ずっているのが分かる。

「な、なんですか?」

 こちらもつられて緊張してしまう。


 しかし、その時草を踏みしだく音がした。


「ちっ」

 ウルバーノは盛大に感じの悪い舌打ちをして私を背に庇った。

「何だよ? ここにはお前らの杉の木はねえぜ?」

 苛立ちを隠そうともしないウルバーノだ。内容から、樵達のうちの誰かだという事が分かった。

「呑気に乳繰り合ってる場合かお前ら」

 嫌悪感の籠った声だった。愕然とする。コルテスの声だ。

「え?」

 今までにウルバーノが愛人のふりをするたびに嫌な顔をしてきた彼だったが、これほどまでに冷たい声は初めてだ。

 嫌な汗が背を伝う。

 ウルバーノの背から顔を出してしまって後悔した。コルテスが憎しみの籠った目でこちらを睨み付けていた。衝撃を受ける。

「あんた、ドロテアさんか……」

 彼は三白眼を苦しげに歪めて吐き捨てた。

「変わった奴だとは思ってたが、俺はあんたを信じてたのに……っ」

「何が……あったんですか?」

 尋常ではない気配に声が震えた。

「何があったかじゃねえよ!」

 ばさっと紙の束を投げ付けられた。

 ウルバーノに阻まれて私にはそれは届かなかった。だが、自分がコルテスに軽蔑されている事は良く分かった。何かの書類のようだ。

「拾って読め」

「なんですか、これ……」


 信じられない。


「それを聞きたいのはこっちだ! 天下のホロス社に訴えられた! 何もかも終わりだ!」

 半狂乱になってコルテスは叫んだ。


 うそ……


 絶望で目の前が真っ暗になる、なんて事が実際に起こりうるのだと、私はこの時、初めて知った。

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