第25話 ラミラの葛藤
悪魔達は果物が好きだ。
彼らの肉体は出鱈目なほどに頑丈に出来ているので、偏食で死ぬ事はない。それをいい事に、悪魔の中には果物しか口にしない者も居るほどだ。
エンリケは苺が好きだ。凝り性のエンリケは自宅で品種改良、栽培した見た目にとても不味そうな真っ白な苺を好んで食べる。
悪魔の始祖とされている異界の魔物は林檎が好きだったと言われている。赤い林檎を齧る赤い悪魔の姿が古い伝承の挿絵にはよく使われる。かの始祖は異常に美しい事を除けば、人族とほぼ変わらない姿をしていたという。
ただし、始祖とされるこの種の異界の魔物を呼び出すことに成功したのは、かの人族初の魔法機械工の女性だけなので、この死にたがりの始祖の同族も彼と同じなのかどうなのかは誰も知らない。
召喚術で呼び出せるのはせいぜい、こちらの世界に棲みつく魔竜やベヒモスよりも少し知能の高い魔 物だけだ。少し知能が高いだけ、とは言ってもこちらの世界の生き物とは比べ物にならないくらいに強大な力を持っている。油断すればこちらが足元を掬われる。それでも、かの始祖の一族にからすれば獣同然なのだろう。こちらの言葉を操る事が出来る魔物達から得たわずかな情報からだけでも、始祖の同族が異界で畏怖されている事が良く分かった。
召喚術士の仕事は異界の魔物の召喚だけではない。異界から魔物を呼び出す技術を応用して物や人の転送も請け負う。結界と同じく、高度な術式を組むことで、ある特定の場所を瞬間転送機でつなぐ事も可能だ。
魔法機械の発達に合わせてこの技術は急速に発展した。今や、物流も人の移動もほとんどこの技術に頼っている。
悪魔らしくない悪魔、と言われる事の多いラミラも洋梨が好きだ。ラミラはこの間ドロテアに土産にと持たされた洋梨の白葡萄酒煮を小さく切って品の良い小さな口元に運んだ。
最近、仕事で飛び回ってばかりいたので、久し振りの休日だった。自宅は世界有数の国際都市に聳え立つ高層建築の一角を借りている。もう夜中に近い時間帯だというのに窓の外には暗い空と明るい町がどこまでも広がっていた。
美味しい。
ドロテアは甘いものが好きではない。ラミラは知っていた。嫌いなわけではないらしいのだが、たくさんは食べられないのだという。
「パンにジャム塗ったりするのは好きなんだけど……」
店で申し訳なさそうに残してしまったケーキを友人に食べてもらうドロテアを思い出して、ラミラは少し笑った。
それなのに、あの子の作るケーキもこの洋梨のコンポートもとっても美味しい。
基本的に器用なのだと思う。ドロテアは絵も上手い。専門学校を卒業する時にみなで寄せ書きをした時の事だ。ラミラは真っ先にドロテアに色紙を渡した。
「なんでもいいから、書いて」
ドロテアは何か勘違いしたらしく、色紙いっぱいにラミラの肖像画を描いてくれた。鉛筆の素描だったが写真よりもラミラの特徴をよく捕えていた。その後、ドロテアは自分の間違いに気が付いたのだろう。
顔を真っ赤にしてラミラに謝りに来た。友人の少ないドロテアは色紙に大人数でメッセージを書くものだとは思いつかなかったのだ。同級生が友人達に色紙を回すのを見て、ようやく気が付いたらしい。色紙は買い直すからその絵は返してくれとドロテアに言われたが、ラミラは死んでも返すつもりはなかった。
エンリケに見つかるとおそらくろくでもない事になるので、大事に箪笥の中に仕舞ってある。まだ死の契約は出来ていないが、おそらく悪魔の自分は死ぬまでさほど容姿が変わらないはずだ。遺影に使おうと思っているなどとドロテアに言ったら引かれてしまうだろうか。
「ふふふ……」
想像するだけで楽しい。
エンリケにつらく当たられているのを見て話しかけてから、ずっと友達で居るが、勇気を出して声をかけて本当に良かったと思っている。
エンリケは酷かったけど、あの頃は楽しかった。
ラミラが初めてドロテアと会話した時の事を思い出す。きっかけは、在校生や卒業生が親睦を深めるために学校で催される舞踏会だった。ラミラが通っていたのは魔術の専門学校だ。ドロテアもエンリケこの学校の卒業生である。学費は安いがその分、競争率も高い。結果として、家柄も頭も申し分ないエンリケやラミラのような上流階級と、ドロテアのような苦学生が混じり合う学校となった。
一本螺子の飛んだ変人ばかりが集まるこの学校で、なぜ妙なところだけ良家の子女が通うような学校の真似をするのかと、ドロテアはもちろん、ラミラも歯噛みしたものだ。
舞踏会、意中の相手を見つけて口説き落とし、連れ回し、食べる、踊る、どちらかというと引っ込み思案なラミラやドロテアにとっては拷問のような行事だ。新入生であるラミラ、ドロテア、エンリケも在学生との親睦を深めるために参加する事が決まっていた。ドロテアは早々に逃げを打つつもりだったようだ。しかし、給仕係として名乗りを上げたところをエンリケに見つかり、侮蔑の言葉を浴びせられていた。
背の高い女の子……
ラミラが初めてドロテアを見た時に感じたのはまずそれだった。怯えているようなのに、凛と伸びた背筋が好ましかった。
「君みたいな不細工が給仕係だったら給仕される側が可哀想だよ! いや、君のどん臭さに苛つかされるだけならまだいいよ? だけど、君と違ってみんなは青春を謳歌してるんだ。君が給仕したせいで、今まさに愛の告白でもしようとしてる人が君の顔が面白すぎて吹き出しちゃったらどうするんだい? 責任取れる? 自分がもてないからってそういう陰湿な嫌がらせはどうかと思うなあ」
エンリケは講堂の真ん中で皆に聞かせるような大声でドロテアを散々に罵倒した。
「君さ、恥をかきたくない、なんてそんな人間様みたいな贅沢な事言ってないで、ちょっとは他人を思いやったらどうだい? 君が恥をかいて失うものはあるの? ないよね? だったら大人しく似合わないドレスでも着て、一人で壁際に猫背で立ってればいいじゃない」
ドロテアは真っ青だった。何を言わずにただエンリケの前で立ち尽くしていた。
「そしたら、僕が背中に張り紙でもしてあげるよ。『私は惨めな処女です。誰か私の処女貰って下さい』ってね!」
けたたましい笑い声をあげてエンリケが去った。ラミラは自分の知るエンリケとはあまりに異なった姿に衝撃を受けていた。
誰よりも悪魔らしい悪魔、エンリケは子供の頃から強過ぎる死への欲求に苛まれてきた。そして飛び抜けて優秀で美しかったエンリケは、それゆえに悪魔の本懐である死を遠ざけられてきた。
いや、彼が本気になれば「どうか死なないでくれ」と縋り付く周囲の人間を欺いて死の契約を成す事など容易い。彼が死ななかったのは、ひとえに数少ない彼の周りの人間に対する温情によるものだろう。
満たされない死への欲求と周囲の人間への失望を身のうちに抱えたエンリケは常に苛立っており、容赦がなかったが、あのように自分から無暗に誰かを攻撃する事は少なかった。攻撃される側にはいつも攻撃されるだけの理由があった。
かくいうラミラも酷い目に遭わされた事がある。だが、今考えると確かに悪いのは自分の方だったかもしれない。エンリケの攻撃がどんなにえげつない悪意に満ちたものであっても、エンリケだけが一方的に悪いと決めつけられるような事態は見た事がない。
彼は悪魔の本能に忠実だった。常に等価。
それが、また性質が悪いんだけど。
しかし、あの呆然と立ち尽くしている人族の娘にはエンリケに対する害意があったとはどうしても思えない。エンリケを怒らせるような何かをしでかすような人間にも。
人は見かけによらないとは言うけど、なんだかおかしい。違和感がある。
ラミラは勇気を出してドロテアに話しかけてみる事にした。
自分はエンリケの従姉弟のラミラだ、見て見ぬふりをしてすまない、と。エンリケの性格は決して良くないが理由もなくあんな事をする奴ではないのだ、何かあったのか、もし力になれるなら言ってくれ、何か誤解があるのかもしれない。
ドロテアはしばらく虚ろな目をしていた。手酷い侮辱により呆然自失の態なのだ。やがてドロテアの瞳に力が戻ってきた。ラミラはドロテアの瞳が日に透ける常緑の葉のような美しい色をしているのに気が付いた。
ドロテアはラミラが本当に自分の事を心配しているのだと分かったのだろう。気遣ったのはこちらのはずなのに、ラミラが泣き出したくなるくらいに優しい顔で、えへへ、と子供のように笑うと、ありがとう、優しいんですね、と言った。
だけど、私にもなぜだか良く分からないんです、あなたの言う通りなら私が何か悪い事をしたのかもしれません、寂しげに笑った
でもあなたが話しかけてくれるなんて嬉しい、ちょっと得しちゃった、続けて彼女はそう言った。
ラミラはなぜか胸が苦しくなった。
もっとこの娘と話がしたいと思った。
咄嗟に、口から出た言葉は今思い出しても赤面ものだ。
「あの、ドロテアさん、良かったら私と一緒に舞踏会に出ませんか?」
ドロテアははじめきょとんとしていた。それはそうだろう。悪魔にとって性別は恋愛の垣根にならない、とは言っても、舞踏会にはやはり男女で出る事が多い。
しかも、ラミラにはその気は全くない。ないつもりだ。ラミラは自分の失言に気が付き、大慌てで言い訳をした。
自分も相手が居ないのだ、エンリケにはいつも煮え湯を飲まされている、女性同志で組んではいけないという法はない、エンリケに一泡吹かせてやろう、と。完全なるその場の思いつきだったが、言っているうちに、それは本当に楽しそうだ、と思えてきた。
この娘とお喋りして一緒にご飯を食べて、にぎやかな所で踊るのね。
すると、だんだんとドロテアの顔に赤みが戻ってきた。
なんだか、可愛い。
ドロテアは悪戯っ子のような顔で笑って、こんな綺麗な人と出られるなんて夢みたい、光栄です、そう言った。結局ドロテアの提案で、ドロテアが男装して舞踏会へ行く事になった。ラミラが恐縮していると、ドロテアはあっけらかんと笑った。
「せっかく、綺麗なんだからラミラはちゃんとしたドレスにしなよ!」
この頃にはもうすでにお互い、敬語ではなくなっていた。
「私、無駄に背が高いでしょ? 似合うドレスってなかなかないし、あっても値段が高いしさ。それに、燕尾服着たらさ、私の方がエンリケより男らしくなると思わない?『男』に『処女』なんてあのエンリケが言ったら、エンリケの方が恥ずかしいよね、きっと」
エンリケの中性的な容姿を思い出して二人で笑い合った。舞踏会は楽しかった。いつの間にかエンリケの事など忘れていた。ドロテアは嬉しくないだろうが、彼女に黒い燕尾服はとても似合っていた。男のように見えたわけではない。なのに、ラミラは少しどきどきした。
そしてドロテアは意外と完璧主義だった。彼女はにやっと笑ってラミラの手を取り、男側としての円舞曲を大広間で滑らかに踊って見せた。
「覚えたの?!」
数日しかなかったはずなのに、ラミラが驚くと、ドロテアはいつものようにえへへ、と笑った。
「そう! 結構、上手でしょ? せっかくラミラと踊るんだもん、頑張るよ。私、女の方も知らないから、どうせ覚えるなら、と思ってさ!」
どうせってなによ、どうせなら女の方を覚えればいいのに。
こんなの今日しか使わないのに!
自分の隣に居る相手が誇らしかった。そんなラミラの気も知らないで、ドロテアはラミラのドレス姿に無邪気にはしゃいでいた。
ラミラ、綺麗! と何度も言って写真を大量に撮っていた。ラミラは悪魔であるがゆえに容姿について面と向かって褒められる事が少なかった。悪魔は美しくて当たり前だからだ。そしてラミラの傍にはいつも誰よりも美しいエンリケが居た。
変な気分だったな、ラミラは思い出して苦笑する。
その翌年、なぜかエンリケは女装して舞踏会に出た。そこでようやく、エンリケは去年どんな気持ちで自分とドロテアが躍るところを見ていたのだろうかと考えた。途端に卑しいほどの愉悦がこみ上げてきた。そして、今の今までエンリケの事など綺麗さっぱり忘れていた自分に驚いた。
エンリケと比べられるのが嫌で嫌で堪らなかったのに。
この学校に入った時にも、また親戚連中にエンリケと比べられるのか、と暗澹とした気分になっていたはずだ。
ドロテアは今度こそ給仕として参加する事に成功していた。ラミラも主催者側として忙しく働いており、相手が居なくてもなんとなく間が持っていた。これならエンリケもどうする事も出来ないだろう、いい気味だ、などと思っていられたのはそこまでだった。
ドロテアは平等だった。誰に対しても。
ドロテアはあんなに酷い扱いを受けているにも関わらず、エンリケの女装の美しさに目を輝かせていた。エンリケはラミラの気持ちを見透かしたかのように勝ち誇った流し目をくれた。悔しさに歯噛みしそうになったラミラだが、寸でのところで正気に戻った。
……違う違う違う!
危なかった。ラミラは冷や汗を拭った。
危うく、女装したエンリケと男装したドロテアを取り合うなどという倒錯した三角関係に陥るところだった。エンリケの女装に当てられているのは自分も同じなのかもしれない。
そういえばドロテアは洋服も器用に直していた。既製品の燕尾服ではやはり女性のドロテアには肩が余ってしまう。それを上手く自分で直して、安く済ませていた。
本当に、なんでも出来る子なのよね。
本人は価値を認めたがらないが、ラミラからすると人工頭脳を使った通信機能の設定やらを苦も無くこなせるだけで尊敬に値する。一度、仕事の都合で他にどうしようもなくてエンリケに頼んだ時には酷い事になった。
「絶望的な機械音痴の君のために、キーボード作業は最小限にしてあげたからね」
パスワードを入力するかわりに、認証画面にランダムで表示される言葉を大声で叫ばないと通信機能が使えない、という余計な機能を付けてくれたのだ。
「君の声だけに反応するから、セキュリティはばっちり」
エンリケはいつものように美しく笑って去って行った。ラミラも何もされずに済むとは思っていなかった。絶対何かあるとは思ってはいた。
だからって、あんな!
「私の尻の毛を残らず抜いて口に捻じ込んで下さいませんか」「私が窒息するまで私の顔の上に座り続けて下さい」などは、正直まだいい方だ。
全然、言える。
ラミラにとっては、女王様の台詞を言わされる方がよっぽど堪える。この辺りにもエンリケのラミラに対する扱いの適当さが滲み出ている。酷いのは時々混ざってくるドロテア絡みのものだ。
「ドロテアが犬の交尾を凝視しているのを偶然見ちゃったよ。本当に気持ち悪いよね。あ、もちろん真面目に生殖活動してる犬が、じゃないよ。ドロテアね、ドロテアの表情の話」
「ドロテアが今まで無駄に排出した卵子の数は、えーっと、月一回として、あのくらいの頃からで、最近は生理不順が酷いみたいだから……百二十三個」
「そして、ドロテアがこれから無駄に排出する予定の卵子の数は、三百六十一個、意外と少ないね! まあ、少なくても多くてもどっちにしろ無駄だけど」
……っ
名誉のために一応言っておくと、ラミラはこれらの言葉を素直に叫んだりはしていない。台詞を言わないでいるといつの間にか違う台詞が表示されるようになっているのだ。だから、不本意ながら内容を知ってしまったのだ。
しかしラミラが台詞をパスしたからなのだろう。表示される台詞は全てドロテアに関するものになり、叫べるような内容ではなくなった。部屋で独りきりの時に叫べばいいとも思ったが、エンリケの事だ。ラミラの声を録音してドロテアに聞かせるぐらいは平気でやりそうな気がする。
その点さえ除けば非常に快適だったのが、また癪に障る。
迷った末に、ラミラはドロテアに相談した。ドロテアを知らない魔法機械工に頼む事も考えた。
だが、もし万が一ドロテアとその魔法機械工が面識を得たら? ドロテアってこいつか、などと思われたら?
そんな事になればドロテアに合わせる顔がない。それならば、まだ本人に打ち明ける方がいい。
結局、エンリケの思うつぼじゃない!
「ごめんね、ドロテア、本当にごめん!」
悔しさに顔を歪ませて謝るラミラにドロテアは笑って気にするなと言った。
「いや、こっちこそ、むしろごめん……」
ドロテアは嫌な顔一つせず、ラミラの人工頭脳を直してくれた。
「にしても、この嫌がらせ台詞のバリエーション多過ぎるよ。認証のためにラミラの肉声を疑似的に作ってあるから凄い容量食うはず……うわ、そのためにわざわざ容量まで追加してある!」
ラミラは黙っていた。ドロテアの言っている事が良く分からないからだ。悪魔の名に恥じないどころか、召喚術士や法律家としては悪魔の中でも優秀な部類に入るラミラだが、機械音痴だけはどうにもならない。
「はあ、でも割と簡単にこの嫌がらせ機能外せそう。良かった」
それはそうだろう、ラミラは思った。この台詞をドロテアに見せ、さらに自分のせいで友人であるラミラにまで迷惑をかけてしまったと思わせるのが目的なのだから。
「この無駄な容量、他の事に使えるようにしておくね! 良かったね、買うと結構高いんだよ? しかもエンリケが直々に作ってくれてるから無駄に高性能」
えへへへ、ドロテアはいつものように笑った。ドロテアの好意は嬉しいが、ラミラにはそのような高度な機能を使いこなす技術はない。
「大丈夫、なんかちょっと動きが速くなったな、って感じにしとくから」
もうすっかりエンリケにやられた事など忘れた顔で楽しそうに笑うドロテアが女神様のように見えた。
「ありがとうドロテア、私、本当に駄目ね……ふふふ」
いつものように暗い顔で落ち込むラミラの肩を叩いて、ドロテアはもう一度笑った。
「いいの、いいの! ラミラんちに遊びに来る口実出来ちゃったし!」
「ねえ……今日は泊まって行ける?」
まるで恋人に縋る時の台詞のようだ、ラミラは思った。
「スライムの世話しなくちゃいけないから、もう帰らないと。ごめんね、ラミラ、召喚術使って私の家まで送ってもらってもいい?」
ドロテアは吹き出物だらけの疲れた顔でそれでもまだ笑っていた。ドロテアの父親が死んでからすぐの事だった。
私がエンリケに関わると、間接的にいつもドロテアが苦しむようになる。
分かっていたのに……っ
ラミラは暗い顔で溜息を吐いた。
先日、クベタの組合の所長であるダフネ・カスティスに頼まれ、竜谷まで出向き、ビジャ湖の主の水龍グアルディオラを沼まで連れて帰って来た時の事だ。召喚術で行けば楽なのに、グアルディオラはドロテアが心配で我を忘れて飛び立ってしまったので、ラミラまで大変な思いをする事になった。グアルディオラの体調が思わしくないとダフネに聞いていたので、放って置くわけにもいかない。
いざとなったら、私がこの水龍をなんとかビジャ湖まで連れて行かなくちゃ。
必死に水龍の髭にしがみ付いて一緒に雲の中を飛んだのだ。その前に請け負った仕事から直行したので三徹なのに。眼球の表面が凍るかと思った。
一件落着したのを見届けて疲れて帰って来たラミラは、自室に帰り着いた途端、エンリケに無理やり召喚された。
そこで、疲れも忘れるような事態を目の当たりにした。
逆にどっと疲れたっていうか……
そして、その精神的な疲れは全く取れていない。
「はあ……」
死の契約……か。
悪魔の始祖とされている魔物が世界で最初の魔法機械工と呼ばれる人族の女性に呼び出され、契約の代償として受け取ったもの。
その魔物は誰よりも死にたがっていたという。
死にたくて死にたくて、でも死ぬ事が出来ずに、死ぬ術を探していた。すぐにでも死にたかったはずだ。
そのはずだ。
なのに彼は、伝承が正しければ、だが、それから数十年間も生きている。
悠久の時を生きる存在にとっては数十年など一瞬という事なのだろうか。死を授けてくれた礼にと、自らが子種を分けた女と自分の子供を見守る事に決めたのだろうか。
真相は分からない。彼とかの女性がどんな関係であったかは。
だが、ラミラはエンリケの死の契約を見てしまった時に、否応なくこの祖先の事を思い出した。
卑怯過ぎるわ、あんなの。
ラミラは洋梨を皿に戻して机に突っ伏す。
あんな契約をされて平気な顔で踏みにじれる人間が居るだろうか。ラミラが知っているドロテアは少なくともそうではない。会えば、何かしら態度に出てしまう。きっと、ドロテアは何か勘付く。それこそエンリケの思うつぼだ。エンリケに加担するのは絶対に嫌だ。ラミラにも意地はあるのだ。自分のせいでドロテアやウルバーノが苦しむ事になるのは嫌だった。
これもエンリケの策略だったら?
いっその事、裏の裏をかいてこちらから会いに行ってみようかとラミラは顔を上げる。
いえ、駄目だわ。
そうやって無駄に足掻いて今まで何度失敗してきた事だろう。
エンリケは、「悪魔の勘」を持ってるのかしら……
時々、ラミラは本当にそう思う。
悪魔の勘、それはとある有名な思考実験に付随して想定されたものだ。あえて乱暴に訳せば、然るべき高度な知性体が然るべき情報を得る事が出来れば、未来を正確に予測する事が可能となるであろう、という事だ。その後の科学の進歩によりこの仮説は否定されているが、悪魔の、まさに悪魔的に優秀な頭脳から導き出される予知がかなりの確率で当たる事実を指して「悪魔の勘」と慣用句的に言う事がある。つまり、非常に高性能な頭脳が導き出す、経験と理論に基づく予測、というわけだ。もちろん、悪魔の勘に近い事が出来る悪魔は悪魔の中でも限られている。
エンリケはラミラが知っている中でもっともこの「然るべき高度な知性体」に近い存在と言える。
何を考えているのか、分からないわ。
エンリケが悪魔の勘に近いものを持っているとするならば、彼にとっての不確定要素は彼自身だけ、という事になる。
怖くて、ドロテアに会えない。
ラミラはドロテアが丁寧に直してくれた人工頭脳の画面を眺めた。ドロテアからの通信だ。ラミラに助けを求めている。エンリケの事が書き連ねてあった。本当ならば、今すぐにでも駆けつけたい。しかし、ラミラは泣きそうな顔で返信を打つ。一本指打法でゆっくりと。
ごめん、私は行けない。
そして、またばったりと机に倒れこむ。こうして、自分がドロテアを助けに行かない事もエンリケにとっては折りこみ済みなのかもしれない。
それでも。
ラミラは何かに耐えるように目を閉じた。エンリケの事は嫌いだ。好きになれるはずがない。
だが、ラミラは知っているのだ。エンリケが自分をどの悪魔よりも悪魔らしい悪魔だと言う理由を。彼は奪われた以上に奪う事はない。与えられた以上に与える事もない。
あの時だって。
ラミラは自分の父親が死んだ時の事を思い出す。悪魔には死を悼む風習はない。死は恩寵であり祝福であるはずだからだ。父親の葬式では、当然、妻であるラミラの母親は晴れがましく振る舞った。実際、母親は嬉しくて堪らなかった事だろう。
ラミラの父がエンリケに懸想している事は誰の目にも明白だった。
ラミラも母に倣って皆に笑顔を振りまいた。けれど、ラミラは昔からどうしても近しい人間の死を他の悪魔のように喜ぶ事が出来なかった。たとえ、自分の父親が生前、自分と同い年の従弟に劣情を抱いていた事を汚らわしく思っていたのだとしても(それに対する嫌悪を感じる時点で一般的な悪魔とは異なっているのだが)、いやだからこそ、喪失感はごまかしようもない。
他の種族にとってはごく当たり前の感情であっても、悪魔の上流階級の家庭で育ってきたラミラにとっては、肉親の死を悲しむ事は不適切な感情であった。
自分はやはりどこかおかしいのだ、と思いながらも耐えきれず、慶事に湧く親戚や友人達を興ざめさせぬように裏庭の隅で独りで泣いた。
誰かに見つかれば、また馬鹿にされる。
悪魔らしくない情緒を持つラミラは悪魔の中でも優秀な部類でありながら、常に格下に見られていた。その時、誰かが裏庭に入ってきた。ラミラは咄嗟に身を隠した。
エンリケだった。
ああ、しまった。
エンリケの性格の悪さはすでに身に染みていた。散々にこき下ろされるに違いない。しかし、エンリケは姿を隠しているはずのラミラにまるで見えているかのように視線を送っただけだった。そのまま、眉を顰めて面倒臭そうに鼻をならすと立ち去った。
え?
どうせ皆に言触らしにでも行ったのだろうと思った。
しかし、祝いの席の輪にラミラが戻っても誰一人としてラミラをからかう者はなかった。何をしていたのか、もう宴も終わる、などと母親に小言を言われただけだった。エンリケはラミラが隠れて泣いていた事を誰にも言わなかったのだ。エンリケはラミラの父親が悪魔としても早過ぎる死を選んだ理由が自分にあることを知っていた。死にたがりの悪魔とは言っても、子供が成人の祝いとして死の契約をなすまでは生きているのが通例だ。
ラミラの父親はエンリケへの実らぬ恋に身を焦がしていた。何もかも捨ててエンリケの池で飼われる魚に身をやつすには彼の誇りが邪魔をした。
この時の事をラミラはエンリケに直接尋ねた事はない。
だが、なんとなくラミラには分かった。
エンリケにはエンリケなりの理屈が、仁義があるのだ。それが他人に理解出来るかどうかは別として。
そして、エンリケがその自らに課した枷を振り払って行動するのはドロテアの前でだけだ、という事も。
それに彼は、まだまだ何かを隠し持っている気がする。だが、ドロテアと出会ってからの彼には血が通っているように見えるのだ。嫌がらせをされる頻度も圧倒的に増えたが、それでも昔のエンリケよりは人間らしく見える。
ようやく、まともに生きているかのような。
異界の魔物、かの始祖もそうだったのだろうか。この地に召されて、人族の女性と出会って、彼は生きる事に決めた。
認めたくはないが、エンリケと自分には似ているところが確かにある。どんなに対照的だと言われようとも、それはラミラ自身が一番良く知っていた。
エンリケはただドロテアを嫌っているわけじゃない。
だからと言って今までしてきた事が許されるわけではないが。
エンリケを信じる、なんて馬鹿らしい事だって誰より私が分かってるはずなのにね。
ラミラは突っ伏したまま、ゆっくりと人工頭脳の画面を閉じた。
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