第24話 花と釘
「よいしょっと……」
白く煙った中で私は一人、溜め池の底に円匙を突き立てた。
「はあ……」
もう、朝はだいぶ寒くなって来たな。
熱を逃がしやすくしてある防護服に変えたからだろうか、肉体労働をしていても、風の涼しさが分かる。
うだるような暑さは過ぎ去り、いつの間にか朝夕は肌寒く感じる季節になっていた。
ビジャ湖の畔の朝はひんやりと冷たい。
ここは結界の中だ。白い靄は朝霧ではなく瘴気である。
私の作った黄緑色のスライムは、汚水を浄化する変わりに良質な土を生み出すので、放っておけば、当然その土は浅いため池の底に沈殿する。ビジャ湖と防護柵を介して繋がっている溜め池で飼育していた時は、スライムの増殖に合わせてどんどん池を広げていたので、その土の量はさほど気にならなかった。本来の使い方ならば、問題になるほどのものでもない。
しかし、この魔力補充プラントでは毎日かなりの重量のヘドロをスライム達に浄化させているので、土の量もまた増える。そして、沈殿した土のせいで溜め池の嵩が増していく。上がった水位は柵を介して繋がっている他のスライム達の池に流れ込む。しまいにはスライムも一緒に。
最近、妙に他のスライムの池に迷い込んでる子が多いと思ったんだよ。
それも、私の作った黄緑色のスライムばかり。まるで溢れ出てしまっているかのように。調べてみればなんの事はない。彼らの糞である良質な土が少しずつ池の底上げをしていたというわけだ。いわば、ヘドロのなれの果て、である。量が多いのも頷ける。
なんだかな。
凄く考えて作ったつもりでも結局は、こういう事になるんだよな。
私の間抜けぶりは今に始まった事ではない。仕方がないので、とりあえず定期的に円匙で掬って沼の外へ掻き出している。スライムを一緒に掬ってしまわないように注意して水底に円匙を突き立て、手押し車に泥を載せる。泥はコルテス達の作った苗畑へ運ぶのだ。
まあ、そのおかげで、あの杉の木の秘密が分かったんだけど。
この特殊な泥を溜め池の底から掬い上げた時に、ふと思いついたのだ。
この土だけで何か植物を育てたらどうなるのだろう?
私が品種改良を行ったこのスライムが、汚水やヘドロを良質な土に変える事で浄化するというのは、このスライムがこの世に誕生した時から分かっている事だった。その土から既知の毒素が検出されない事、栄養に富んでいる事も。当時、沼の浄化に必死だった私にとっては毒でない事が何よりも重要で、この土を何かに利用しようなどと思いつくだけの余裕がなかった。
しかし、あの特殊な杉の木を見つけて、コルテス達とかかわるようになってからは、どうしたらもっとこのスライム達を人の役に立てる事が出来るのだろう、そればかりを考えていた。そこでコルテスに言って、苗木を二本貰ってきた。両方ともただの杉の木だ。ガトス杉に似た性質を持つあの特殊な巨木ではない。正真正銘のクベタ杉だった。
この二本の杉の苗木を別々の大きな植木鉢に植え、しばらく観察する事にした。片方にはクベタの町にあるコルテスの自宅の庭の土を、もう片方には私のスライムが作った土を入れ、同じ場所に並べて置いておいたのだ。結果が出るとしても少なくとも数年はかかるだろう、下手をすればもっと。もしかしたら結果すら出ないかもしれない、そう思っていた。
コルテスも言っていた。木と付き合うには何十年、何百年の単位で物事を考えなければならないと。
数週間後、忘れた頃に植木鉢を見に行った私は驚いた。スライムの作った土だけを入れた植木鉢は割れていたのだ。育ち過ぎた苗木の強靭な根によって。なんという成長の早さだろうか。対照として置いてあるコルテスの自宅の庭の土に植えた苗木は数週間前とほとんど違いが分からないほどだというのに。
私はすぐにその苗木の性質を詳しく調べた。
まだ若木であり、ガトス杉と違ってこの苗木は瘴気を一切浴びていない。あの巨木と全く同じ性質であるのかどうかは勿論、分からない。結果、その苗木にはガトス杉に匹敵するほどの油分が含まれている事が分かった。
そうか、たった数年でおかしいと思ったんだ。
杉の木が自らを瘴気に順応させるには数十年が必要だと言われている。数年で劇的な変化があったのは、杉の木が自分自身の性質を変えたからではなかったと考えれば理屈に合う。沼の畔の木々はこの土により体内に油分を多く蓄える事によって瘴気への耐性を獲得したのだ。
一説によるとガトス杉も体内で汚物を栄養素に変換する機能があるらしく、これが瘴気への耐性に関係しているという。ガトス杉が体内で行う事を私のスライムが杉の体外で肩代わりしていた、というような事なのだろう。
そして、私のスライムの汚物浄化の機能はガトス杉よりもはるかに優秀である。検証は必要だろうが、おそらくこの仮説で間違いないだろう。
ガトス杉の特徴はその油分の多さからくる腐りにくさ、硬さである。例えこの苗木があの巨木と多少性質を異にしていたとしても、これだけの油分が含まれていれば間違いなく良材として売り出す事が出来る。何より、この土さえあれば周辺の環境を良好に保ったまま油分の多く含まれた材木を短期間で促成する事が可能となるのだ。
コルテスと話し合い、苗場にこの土を撒いてみる事にした。将来的には苗場の中心に魔力補充プラントを作る事で、より効率的に木を育てていくつもりだ。しかしまだあの巨木が育つのに瘴気の影響が皆無だとは言い切れないので、研究のために、この瘴気渦巻く結界の中にも数本の苗木を植えてみた。防護服を着込んでヘドロと瘴気の中で作業をするのは大変だが、日に日に育っていくそれらを見るのは楽しみだった。
この新しい杉の木のブランド化も順調だった。話し合いの結果、この新たな杉の木の名前はビジャ湖の主、グアルディオラに敬意を表してディオラ杉になった。ブルガジャ製材所の主人によれば、木目の美しさと丈夫さを兼ね備えた木という事で好評を博しているとの事だ。
「長く使わなくても分かるものなんですか?」
「ドロテアさん、あんたらしくもないね。家具職人を舐めて貰っちゃ困るよ。俺達が何年、木を触り続けていると思ってるんだ?」
とんだ素人発言だったらしい。
そんなに言うなら使ってみればいい、という訳で開発者の特権でディオラ杉を使って一つ無料で家具をこしらえて貰える事になった。
「それなら……」
私は全く迷わなかった。
喜んでくれると思ったんだけどなあ……
「はあ……」
そう、私は今とても落ち込んでいる。
以前、背の高いウルバーノが既製品の寝台では足がはみ出てしまって不便だ、と零していたのを思い出し、木製の大きな寝台を頼んだのだ。ウルバーノの長身をもってしても十分に余裕があるような特大のものを。寝心地がいいとは言い難い居間の長椅子に彼を寝せているのを、ずっと心苦しく思っていたのでちょうど良いと思ったのだ。
製材所を介して知り合った木工店の主人は、この寝台を届けに来た時、なぜか酷くにやついていた。きっと、沼地に住む女魔法機械工が囲っている銀髪の美男子についてコルテスや他の樵達から聞かされているに違いない。
処女の私でもさすがに分かる。愛人を囲っている女が、大きな寝台を注文するその意味。
木工店の主人は、二人で乱暴に扱っても大丈夫ですよ、保証します、ディオラ杉は丈夫ですから、などとしたり顔で言って帰って行った。
……うわ、しまったなあ。違いますから!
「……っ、っどうも」
叫びたいのを我慢してお礼を言った。ここで否定しても何もならない。
ウルバーノははじめ喜んでいるように見えた。彼は木工店の主人と同じように、にやつきながら軽口を叩いた。
「こんなの頼んで、お前、木工店のおやじにいろいろ言われただろ?」
元凶のくせに暢気なものだ。
「言われましたよ。散々です」
「ははは! そりゃいいや。ありがとよ」
良くない。
楽しげに笑うウルバーノに眉根を寄せる。
「どうした?」
「ウルバーノさん、その事なんですが……」
私はいい。どうせそういう事には縁遠いし、精神的苦痛以外にはさして実害があるわけではない。しかし、ウルバーノはどうなのだろう。傭兵のウルバーノという身分は隠しているとは言っても、恋人には人型を見せて接するに違いないのだ。
どこでどうこの話が伝わるか分からない。あまりこの嘘を広めない方がいいのではないだろうか。今は特定の人が居るような素振りを見せないが、私と違ってウルバーノはもてる、と思う。
この間、ブリサさんもカッコイイって言ってたしなあ……
「あんまり考えずにこんなの注文しちゃって、失敗したかもしれません。本当にすみません」
ウルバーノが自分で始めた事とは言え、便宜上このような嘘を吐いているだけで、けして彼がやりたくてやっているわけではない。軽々しくこの嘘に真実味を持たせるような振る舞いをするのではなかった。
ウルバーノさんが、そこまでして我が家に住む理由、それってたぶん、私が彼にもう一度、助手を頼んだからなんだ。
責任感の強い彼は私が何か言い出さない限りはこの家に居て、事業を手伝ってくれるに違いない。
ていうか、こんなに長引くと思わなかった。もうこれは本当ならちゃんとお給料払わなきゃだよ。
暗い顔でその事を詫びると、途端に彼の機嫌が悪くなったので、焦った私はさらに言い募った。覚悟はしているつもりでも拒絶されるのはやっぱり怖い。
「あの、この寝台も木工店のご主人に頼んだらいつでも他の家に運べます。ウルバーノさんが嫌になったらいつでもこの家を出て行っていいんです。けして、この家にずっと居ろって意味じゃありませんから!」
ウルバーノさんが嫌がる事をしたいわけじゃないんです!
喜んで欲しかっただけです!
そして、すぐに後悔した。彼は何も言わなかった。私を詰るような事は何一つ。
ただ、ため息を吐いて、そうかよ、と言った。
なんか、また失敗したみたい……
それだけは良く分かった。
あーあ……
落ち込んでいる時は単純作業、肉体労働に限る。そうして一人で早朝に土掘りにやって来たという次第だ。どんなに悲しくても、とりあえず身体を動かせば仕事が進む。それが単純作業の良いところだ。要は悩みからの逃避なのだが、他の娯楽と違って後で時間を無駄にしたという罪悪感に苦しむ事もない。
魔力は売るほどあるのだから(文字通り)魔力で泥を吸い上げる機械を作ろうと思っているのだが、まだ作れていない。
スライムを一緒に吸い込んでしまわないように、吸い込み口に網を付けてみたのだが、泥を吸い込むというのは思った以上に力が必要らしい。網一つで泥の吸い込みが一気に悪くなった。
ちょっと大変だけど、こういう時は役に立つよね。
円匙を振り回しながら一人で笑う。
「……?」
溜め池に円匙を突き立てた時に何かが先に当たった気がした。水に腕を突っ込んで泥の中を探る。出て来たのは一本の錆びた釘だった。
「……」
捨てようかとも思ったが、迷った末に防護服のポケットに仕舞った。
釘か……
私が足し算をようやく出来るようになったぐらいの頃の話だ。私と父は西の方にあるクベタよりも少し小さな町に住んでいた。その頃はまだ父もさほど酒に溺れておらず、魔法機械工として工房を持ち、何人かの弟子も居た。まだ就学していなかった私は近所の子供達と遊んで一日を過ごすのが常だった。
小さい頃から要領が悪く、ぼうっと物思いに耽る事が多かった私は、他の子供達から馬鹿にされていた。近所に一人は居ただろう。限りなく苛められっ子に近い立場の遊び仲間という奴が。私の場合は自分がそれだった。
父は私を持て余しており、この町に越して来るなり、私を公園に置き去りにした。夕方まで勝手に遊べというのだ。遊具のたくさんあるその公園では大勢の子供達が遊んでいた。人族もいれば獣人も居る。悪魔も妖精も。やがて私は滑り台の順番で喧嘩をしている子供が居る事に気が付いた。一方は妖精の子供だ。大きい子だった。一方は悪魔の子で、まだ小さい。子供ながらに義憤にでも駆られたのだろうか。今となっては覚えてもいないし、その時の私の気持ちなどどうでも良い事だが、この時のことを私はいまだに後悔している。私は新入りのくせに分を弁えず、
「『じゅんばん』だよ」
などと賢しくも口を出してしまったのだ。別に滑り台を使いたいわけでもなかったのに。喧嘩をしていたうちの一人、妖精の子供の方がこの辺りのガキ大将だったというわけだ。何事も最初が肝心、とはよく言ったものだ。
私は学んだ。
他人の喧嘩に口を出しちゃいけない。
それから後の事は、だいたい予想が付くだろう。私はその妖精の女の子に何かにつけて苛められた。一応、遊び仲間には入れてくれたのだから、おおらかな部類ではあったのだろうが。
その日は女の子達で集まって双六をしていた。もちろんあのガキ大将の妖精の女の子も居た。双六の駒として女の子達はそれぞれ自分が好きな花を持って来た。私は赤つめ草を持って行ったのだが、例の妖精の子に取り上げられた。あんたはこれよ、と投げ付けられたのはどこかで拾ってきたのであろう錆びた釘だった。
彼女の横暴はいつもの事だったので、みんなと遊んでいる時には普段通りに振る舞う事が出来た。
しかし、家に帰ってくると途端に悲しくなった。色とりどりの美しい花の中、錆びて曲がった釘は酷くみすぼらしかった。子供心に、あまりに自分と似過ぎているそれが心に刺さったのだろう。
「うるさいぞ、ドロテア、泣くな! みっともない」
花と釘を握りしめ、声を殺して部屋の隅で泣いている私を容赦なく足蹴にしながら父は言った。今考えると本当に酷い。しかし、この頃の私にとって父は父一人だ。他の父親が娘にどう接するかなど知らなかった。当然の事として受け入れていた。
「なんだ、それ? 見せてみろ」
父はだいたいの事情を私から聞き出すと、嫌がる私から釘と花を取り上げ、馬鹿にしたように私を見下ろし、それら二つを私の目の前で振った。
「ドロテア、お前どっちが好きだ?」
当然、花だ。花は美しい。
「だろうな。俺もだ」
なぜ、そんな当たり前の事を聞くのだろう。
「だが、この釘に金を払う奴とこの雑草の花に金を払う奴、世の中にはどっちが多いと思う?」
父はにやりと笑った。
「答えは、こっちだ」
錆びた釘を振った。
「こいつは今でこそ錆びちゃいるが、元々は役に立つように作られたもんだ」
意味が分かるか、父は真剣な目をした。
「花は綺麗だ。見ていると心が和む。釘は別に綺麗でもなんでもない。だが、これのおかげで椅子が出来る。家が建つ。つまり、役に立つ。どっちがいいというんじゃない。場合によりけりだ。この釘を何よりも必要としている人が必ず居る」
幼児に話す口調ではなかった。
「お前は花にはなれない。俺と同じだ」
無表情に父は言った。
「だが、釘になろうと努力する事は誰にでも出来る」
そう言い切る父の目には並々ならぬ自負があった。
「ドロテア、お前は釘になれ。錆びて曲がって捨てられる定めでも、役に立つ釘になれ」
私は頷いた。
「そうすりゃ、お前みたいなろくでもない奴でもいつかは人に必要とされる日が来るだろう」
それから、私は釘が好きになった。崖と釘が魔法機械工のシンボルだと知ったのはそれからずっと後の事だ。どんなにどん臭くても、みっともなくても、人の役に立とうと努力する事は尊い。
素直な私は父の教え通りに育った。今思い出すと、なんと心無い事を言うのだ、と思わずにはいられない。仮にも女の子である私に対して「花にはなれない」などと。まだ海の物とも山の物ともつかぬ子供の未来を封じるような発言だ。
そして結局はその通りになった。
父の言葉のせいだけではない事は分かっている。しかし気が付けば、釘以外の生き方など出来ない女になっていた。それでも心が疼く時もある。
そろそろ組合事務所の忙しさも落ち着いた頃だろうと思い、ダフネに会いに行った時の事だ。ウルバーノも付いて来たのだ。なぜか、人型で。
「いやいやいやいや! なんでですか!」
さすがにおかしい。事務所へ行けば、ウルバーノが傭兵として知っている顔もあるだろう。外見が全く違うとは言え、声や佇まいはそのままだ。そんな人達に会えば、さすがにばれるのではないだろうか。何より、なぜそんな事をしたいのか全く分からない。
「俺と一緒に歩くのは嫌か?」
ウルバーノがしおらしい態度を取る時は要注意だ。
「……また、愛人ごっこするんですか?」
恨めし気な声になってしまう。ダフネは知っているからいいとして、私を忌み嫌っている受付の人族の男達の好奇の目に晒されるのは嬉しくない。
「ねえ、もうやめましょうよ」
「うるせえなあ、俺がいいって言ってんだからいいんだよ。大丈夫だ、ちょっと威嚇しとくだけだからよ」
威嚇!?
やはり物騒な事を考えているらしい。この間、私が八百屋で泥水をぶっかけられた後の彼の反応を思い出し、顔を青くする。しかし、それならば余計に「傭兵のウルバーノ」として闊歩した方が良いような気がする。
「駄目だ。獣型じゃ威嚇にならねえだろ!」
何を当たり前の事を言ってやがる、と目を剥かれた。
……訳が分からな過ぎて逆に何も言えない!
だが彼は、威嚇、と言った。何がしたいのかはいまいちよく分からないが、暴力に訴える事はない、という意味だろう。それならば、私が先回りしていちいち口を出すのはおかしい気もする。結局連れ立って出かけた。ダフネも可愛い甥に会えれば嬉しいだろう。
組合所では入った途端に大勢の傭兵達の好奇の目に晒された。なぜか私の顔までじろじろ見られている気がする。自然と俯きがちになる私とは裏腹に、ウルバーノは実に堂々としている。楽しげに勝ち誇ったような顔で周りの男達を見渡しながら、私の肩に手を載せた。
……うん、今なんとなく分かった。
ウルバーノさんはたぶん、人型を見せるが結構好きなんだ。
自信があるんだな。そりゃそうか。
今までは目立つのを嫌って隠していたが、私のせいで人型になる口実が出来た。どうせ見せるなら楽しまなければ損、というわけだろう。
それにしちゃ、割に合わない気もするが……
受付に行くとブリサとダフネが目を丸くしていた。
「お久しぶりです、ダフネさん、ブリサさん」
「ドロテア……! それに……っ」
ウルバーノ、と言おうとしてダフネはウルバーノに睨まれて口を噤む。勘の良いダフネはすぐにウルバーノの意図に気が付いたようだ。
「ちょ、ドロテアさん? ですよね?」
ブリサの視線は私の顔と私の隣の銀髪の色男を行ったり来たりしている。ウルバーノの正体が気になってたまらないのだろう。
だよねえ……。
予想通りの展開だ。ブリサは可哀想だが、紹介してやる事は出来ない。
「はあ……」
そんな事よりもとりあえずまずはお礼だ。
「ダフネさん、本当にありがとうございました。樵のコルテスさんに聞きましたよ。ダフネさんがコルテスさんに口を聞いてくれたんですね」
「え、ええ、いいのよ、気にしないで。むしろ彼があなたの事を先に聞いて来たのよ」
「そうだったんですか」
やはりコルテスはあの沼地の一件で私に対する考え方を自ら改めてくれていたようだ。少し嬉しい。
「えへへ…」
「……じゃないわよ!」
笑ったら怒られた。
違うのか?
「何その顔! ドロテア、こんな顔だったのね! ちょっとどうしたのよ、驚いちゃったわ。吹き出物、全然ないじゃない。治って良かったわねえ!」
ダフネははしゃいだ様子でカウンターから出て来て、私の頭のてっぺんから足の先まで舐め回すように見た。
「そ、そうですか?」
嬉しいが、その経緯を考えると自然と頬が赤くなる。
「ちょっと前にコルテスがここに来てあんたの話をしてた時に妙にしどろもどろだからおかしいと思ったのよ、こういう事だったのね! あの子も独身だからね!」
あんたも隅に置けないわね! ばんっと肩を叩かれる。
え、なんだろ、しどろもどろ……? それは、あれか?
いっつも防護服着てるくせに妙に綺麗な男を囲ってる変な女とかそういう……
「おい、ダフネ、ちょっと話がある」
そこでウルバーノがダフネを遮る。
え、ちょっと待ってよ! もうちょっと詳しく聞きたい。なにそれ。
コルテスさん、私の事やっぱり変な女だって思ってるんだ?!
私の必死な思いとは裏腹にウルバーノはダフネを促す。くいっと顎をしゃくって事務所の奥へ。
「後じゃ駄目なの? 大丈夫よ、正体ばらしたりしないわよ! 分かってるわ! 私の忠告通りに人型で所有権主張しとく事にしたんでしょ? あからさま過ぎて笑うわ」
ダフネは実に意地悪そうに笑った。
「いいから、来い!」
「あ、ダフネさん! あの後で渡したいものが……」
お礼にケーキを焼いて来たのだ。
「ちょっと! あんたいい加減にしなさいよ! ドロテアが困ってるじゃない!」
「うるせえ! ドロテア、こんな婆あに気を遣わなくていいぞ!」
「婆あですって!?」
いつもの調子だ。お礼は渡しそびれたが、あまりあの伯母と甥の喧嘩を人様に晒すのは良くないかもしれない。奥に行ってくれた方が、こっちとしては気が楽だ。
二人が事務所の奥へ行ってしまって、ようやく一息吐く。途端にブリサが興味津々の顔で私を問い詰める。
「ちょ、ドロテアさん! 何なんですかあの人! ダフネさんの知り合い、ですよね? すんごい美形! あんなカッコイイ人、生で初めて見ました! 背も高いし、強そうだし」
素敵、と呟いて頬を染めるブリサは完全に恋する乙女の目をしていた。
エンリケも、ウルバーノさんも、か。ブリサさん、案外、守備範囲が広いよね。
にしても、可愛いなあ。「乙女の涙」の乙女って、たぶんブリサさんみたいなのを言うんだろうな。
「ど、ドロテアさんの彼氏? 恋人?」
期待と不安の混ざり合った檸檬色の目でこちらを伺うブリサにぐっと詰まる。
困った。
ここで一貫性を重視して「愛人です」と答えたとする。すると私はこんなに可愛い子との恋の可能性を本人の与り知らぬところで叩き潰す事になってしまう。
まるで嫉妬に狂った意地悪女のようだ。醜い私には似合いの役割で、やった後で落ち込むに決まっている。迷った末に私は逃げを打つことにした。
「ごめんなさい、ダフネさんに後で聞いて?」
きっとダフネとウルバーノは今の状況について細かく話し合っているはずだ。ダフネならばウルバーノが望むようにしてくれるだろう。
その時、ダフネのけたたましい笑い声とウルバーノさんの怒号が奥から響いて来た。
「やだ、喧嘩?」
ブリサが事務所の奥を覗き込もうとしている。
「ちょ、私、行ってきますね!」
ったく、何考えてるんだ!
ばれたくないならばれないようにしろ!
私は急いで事務所の奥へ入り、ウルバーノを引っ張って帰って来た。結局どたばたしてしまってダフネへのケーキも、ブリサに返そうと思っていた雑誌も、そのまま持って帰ってきてしまった。一体何をしに行ったのだか分からない。
そうなのだ。
エンリケの載ったあの雑誌は未だに我が家にある。美しいエンリケ、可愛いブリサ、私にはないものを持っている彼ら。彼らは、花と釘に例えるなら花の側の人間なのだろう。エンリケに至っては、美しい上に、これ以上ないくらい世の中に貢献している。
自分は釘だ。釘でいいのだ。
そう言い聞かせても、やりきれなくなる時もある。
私だって本当は花になりたかった。
役に立たなくても必要とされ、愛して貰えるような存在になりたかった。
こんな私でも人の役にさえ立てばと思って今までひたすら努力してきた。しかし、役に立つというのは簡単な事ではない。この沼の浄化にしろ、ディオラ杉にしろ、魔力補充プラントにしろ、幸運によるところが大きい。
しかも、おそらく私はもう必要ない。発案者とはえてしてそうしたものだ。スライム達の秘密を公開すれば私よりも有能な魔法機械工が山ほど集まって来て、私よりもよほど効率的にこれらの開発を進める事だろう。
ディオラ杉に関してもそうだ。コルテス達だけでも上手くやって行けるはずだ。今はただ、借金を返すために既得権益にしがみついているだけなのだ。それどころか、私が一番役に立ちたい相手であるウルバーノには悲しい顔ばかりさせている気がする。
何が、釘でいい、だ。釘ですらない。
なのに、私は釘としてしか生きられない。いや、本当に花になりたいのなら父の言葉など撥ね退ければいいのだ。誰にも人の可能性を縛る事は出来ないはずだ。頭では分かっているのに、心がすでに負けている。美しくもない、役にも立たない私を一体誰が必要としてくれるというのだろう。
父の気持ちが今ようやく分かった。
今、私がこの世界から居なくなってもおそらく誰も困らない、という実感。魔法機械工でない彼を唯一、欲してくれたのが母だったのだ。彼にとっての唯一の花が母であり、同時に自分を花として扱ってくれる唯一の人間が母だった。
その母が死んで、彼は生きるためには誰かの役に立つしかなかったのだ。
だから、魔法機械工として精彩を欠いた途端、彼は勝手に追い詰められて酒に溺れた。
私も同じだ。全く同じじゃないか。
今、私は酷い顔をしているに違いない。こんなに恥ずかしい事は考えるだけでも人前では憚られる。
役に立たなきゃ生きてる価値がないなんて、そんな子供っぽい事、違うって分かってるけど。
つまりは私にも過剰なほどの自意識があり、傲慢だという事の裏返しだ。人の役に立ちたいなど綺麗事だ。必要とされたかっただけだ。
良かった……一人で来て。
「一人かい?」
「え?」
そこへ、唐突に妙に親しげな声がかかる。高くもなく、低くもない、心地良い美声だ。何でも話してしまいたくなるほど優しげで、知性に満ちた。
それなのに……っ
それなのに私は円匙を土に付き立てて俯いたまま、全く動く事が出来ない。歯が鳴り出しそうなほどの悪寒を必死で押さえている。脂汗が額を伝う。
本能的な恐怖だった。溶鉱炉の扉の中を初めて覗き込んだ時を思い出した。今はむしろ肌寒いくらいだというのに。
私なんか、ひとたまりもない。
ここは結界の中だ。ウルバーノが作った超高性能な結界だ。中には瘴気が満ちている。恐ろしくて視界にもまだ入れられないが、目の前に(居ると思われる)存在がここに入って来たというだけで一般人でない事だけは明らかだ。
一瞬、エンリケかとも思った。
しかし、声の雰囲気は確かにエンリケに似ているような気もするが、どこか違う。
「顔ぐらい上げたら?」
「……っ!」
声をかけられた途端に顔が勝手に上を向いた。何かの力を使われたわけではない。ただ、圧倒的な力の差が私の本能と脊髄に訴えかけたのだろう。
一人の黒髪の男が、もしくは男に見える何かが溜め池の淵に足を組んで腰かけている。服はきっちり着込んでいるが裸足だ。裸足の足が泥に汚れている。男が足を組み替えたので、泥が私にも飛んで来た。
肌は白く、顔立ちは美しい、悪魔のように美しい。いや、それ以上かもしれない。
だが、目が違う。
一般的な悪魔のような暖色系の目ではなく黒いから、という意味だけではない。それは少なくとも同じ人間を見るような目ではなかった。景色を愛でるような、顕微鏡を覗く時のような、上手い例えが思いつかないが、とにかくそれほど異質な目だった。
この人、悪魔じゃない……!
いや、人ですらないかもしれない。ごくりと咽喉を鳴らしながら、その事実に震えた。
「こんにちは、僕はハコブ、ここは僕らの世界と少し似ているね」
目の前の存在は片手に持った白い林檎を齧って、無邪気に笑った。
「荒れ狂う海の波打ち際で遊ぶ子供、深淵を覗く愚者、ペドロの妻の兄弟の末裔、君達の最近の言葉で言うと、人族の魔法機械工、だろ? ドロテア・スニガさん」
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