二章 彼女は多分

 まゆらに対する晶の印象は、決して間違っていなかった。

 食堂で朝食を食べる時、まゆらの姿はなかった。黒金家では料理人やハウスキーパーを雇っており、朝食は家族が揃って食べる。祖母は年齢から身体が弱っているために自室で食事を取っているので、まゆらもハウスキーパーが部屋に食事を持っていったのだろう。

 九時を回った頃、晶が机で夏休みの課題を片付けていると、晶の部屋をノックする者があった。「どうぞ」と声を上げると、ドアが開いてまゆらが入ってきた。

「ごめんね。迷惑かな」

 開口一番にまゆらはそう言って苦笑した。

「迷惑って――」

「いきなり家庭教師なんて付けられて、窮屈じゃない?」

 それはその通りなのだが頷く訳にもいかず、晶が沈黙していると、まゆらは小さく笑った。

「やっぱりそうだよね」

 慌てて否定しようとするが、まゆらはあっけらかんと大丈夫だからと言い切り、部屋の隅に置いてあった椅子を持ってきて晶の隣に腰をかけた。

「とりあえず今日は、晶さんと少しお話がしたくて。迷惑だと思うけど、ちゃんと話してから授業に移りたいから。あ、厭だったらすぐに言ってね?」

 頷くと、まゆらはにっこりと笑ってまず自分から話し始めた。

「私はD県の青川あおかわ市っていうところから来たの」

「青川市……?」

「D県の南で、大太良だいたら市に近いかな」

 大太良市ならば晶にもわかる。D県、御陵市のあるL県と接するB県の大都市で、冴子が休日に遊びに行きたいと何度か言っていた記憶がある。

「大太良市って、どんなところですか?」

 それは晶本人の興味ではなく、冴子が行きたいと言っている土地への関心だった。

「とにかく人がすごいの。建物も高いし、色んなお店もあって。行ってみたい?」

 晶は首を横に振る。

「ただ、冴子先輩が行きたいって」

「冴子先輩って、同じ学校の?」

 頷く。

「晶さんの学校ってどんなところ?」

 促され、晶はぽつぽつと学校について話していった。だが気付かない内に話題は全て冴子のことに向かい、結局昨日冴子と遊んだことまで話していた。

「大切な友達なんだね」

 屈託のない笑顔でそう言われ、晶はすぐさま頷くことが出来なかった。自分のこの想い――これはきっと邪なもの。そんな想いを向けてしまっている冴子のことを、自分などが『大切な友達』などと呼べるのか。

 それに――晶と冴子の関係をそんな一言で片付けられるのは厭だった。

「あ、そういえば時間はいいの? 確か今日の十時にって――」

 時計を見ると九時半を回るところだった。ここから小学校までは普通に行けば三十分程かかる。

「あ! でも――」

 まゆらには家庭教師としての仕事がある。それを無視して部屋を飛び出すことは流石に出来ない。

 ところがまゆらは手を合わせて頭を下げた。

「ごめんなさい! 晶さんに約束があるなんて知らずについつい話しちゃって。大丈夫? 間に合う? 送っていこうか?」

 まゆらのその態度に呆気に取られてしまう。

「だ、大丈夫です。近道すれば間に合うと思いますし……というより、行っていいんですか?」

「勿論。学生は遊ぶことだって大事な仕事でしょ? それに今日はひとまずお話だけだし、明日からの勉強の方も晶さんの予定に合わせるから。そのための住み込みだよ」

 柔和に笑うまゆらは晶を急かす。

「本当に送っていかなくて大丈夫?」

「大丈夫です。じゃあ行ってきます……けど、このことは――」

「うん、ご両親には内緒ね。気を付けて」

 まゆらは晶の肩にとんと短く触れ、笑顔で送り出した。

 裏口を出て、家を取り囲む――というよりそのただ中にある――山の中を突っ切る形になる。学校までの道は正攻法では山を一回下りるが、直線距離ではかなりの回り道になってしまう。そこで近道をするには山の中に立ち入り、限りなく直線に近い道で学校まで進む。

 これまで何度か敢行してきたルートだが、その時は冴子が一緒だった。一人でも道は覚えているはずだと思って山の中に入った晶はしかし、方向感覚を失いつつあった。

 山はどこまでも同じ光景が続く。勾配があると言ってもご丁寧に東西南北に沿って高低がついている訳でもない。

 まずい。迷ったかもしれない。そう思った途端、とてつもない恐慌が晶を襲った。

 落ち着かなければならないと言い聞かせても、パニックは収まりそうにもない。こんなことになるならまゆらに送ってもらえばよかったと今更しても意味のない後悔が押し寄せてくる。

 はっはっ、と息遣いが聞こえた。

 ぎょっとして、だがそのおかげで幾分か冷静さを取り戻した。

 晶の数歩先で、灰色の犬がこちらを振り向いていた。

 人懐っこそうにはっはっ、と息を漏らしながら、晶を見ている。晶と目が合うと前を向いて、何度もこちらを振り向きながら進んでいく。

 ついてこい――と言われているような気がした。

 どうせ迷ってしまったのだ。それにどこかの飼い犬で、人家を知っているのかもしれない。晶は腹を括ってその犬の後をついていった。

「あ! 晶! もしかして山を突っ切ってきたの?」

 犬の後についていくということだけに意識を向けていると、いつの間にか学校まで辿り着いていた。正門ではなく、山側の裏門から入ってきた晶を見て冴子が目を丸くする。

「はい。その、途中で迷っちゃったんですけど、犬が……」

「犬? っていうか待って。迷ったの?」

 頷く。

「馬鹿! なんで道もわからないのに一人で山に入ったの!」

 思い切り怒鳴られ、晶はびくりと身体を強張らせる。

「すみません……冴子先輩と一緒だった時は大丈夫だったから……」

「いい? 晶は世間知らずにも程があるんだから、一人で無茶なことはしない!」

「――はい」

 伏し目がちに答えると、ぐっと身体を引き寄せられた。

 抱き止められ、優しく髪の毛を撫でられる。

「ごめんな。私が一緒の時なら何があろうと晶を守ってやるのに。怖かったな。もう大丈夫だから」

「冴子先輩――」

 優しく言われると、急に先程までの恐怖を思い出し、晶は冴子の胸の中で泣いていた。

 誰よりも優しくて、誰よりも晶のことを思ってくれる冴子。冴子がいてさえくれば、晶はきっと大丈夫だ。

 ならば冴子がいなくなれば?

 その時は刻一刻と近付いてきている。冴子は颪町を離れていく。

「ずるいです――冴子先輩」

 嗚咽混じりに呟く。今晶が泣いているのは最早恐怖ゆえのことではなかった。

 絶対に守ってくれると、言ってくれた。だというのに、冴子はもうすぐ晶の前から去ってしまう。

 こんな残酷なことがあるか。

 だけど、晶にそれを止める力はない。冴子は確かに晶を大切に想っていてくれる。だが、晶が冴子に抱く、この特別な感情には気付いていない――いや、気付いてはいけない。どれだけ晶が想い焦がれようと、冴子にとって晶は所詮同じ学校の下級生でしかない。

 そう、その関係が壊れることさえ、晶は恐れている。冴子がずっと、今までと同じように晶に接してくれることを望んでいる。時間が経てば必ず壊れてしまう今のままが、ずっと続けばいいなどと考えている。

 馬鹿だ。

 大馬鹿だ。

 でも、仕方ないじゃないか。だって、冴子は今こうして晶を受け入れてくれている。それだけでどれだけ満ち足りているか。これが少しでもずれてしまうのを考えるだけで、晶はもういたたまれなくなってしまう。

「しかし、これじゃあ今から遊ぶって気分でもないよなあ」

 冴子はそう言って決まりが悪そうに笑い、数少ない遊具であるブランコまで晶を連れていく。二つ並んだブランコの片方に晶を座らせ、冴子はその隣に腰かける。

「適当に話そう。昨日会った清って子なんだけど――」

 残酷なまでの光でグラウンドを焦がす太陽。それを和らげるように山から吹き抜ける風。晶の想いが日光で、冴子が山だろうか。どれだけ太陽が勢いを強めようと、山は生い茂る木々の葉でその光を遮ってしまう。深いところへ行けば昼でも暗く、また山自体が巨大な影を生み出す。

 木漏れ日のように、晶の想いは冴子に届いているはずだ。だがそれは単なる先輩への念としてしか捉えられない。冴子の心の深いところには、晶の本当の想いは届かない。

 本当の想い……? それは――好きだということだろうか。それともずっと一緒にいたいと願うことだろうか。

 晶自身はどう思っているのか、最近になって自覚し始めたその想いに、単純な言葉でけりをつけることは難しかった。

 好きだから離れたくないのか。離れたくないから好きだと思うようになったのか。

 違う――違う――そこに違いはない。全く同じなのだ。晶は冴子が好きで、かつ、離れたくない。片輪だけで成り立つ感情ではない。自分に嘘を吐いて、簡単な方に納得することは厭だった。

「って、聞いてる?」

 ずっと話していた冴子がふと顔を覗き込みながらそう言ったので、晶ははっと我に返った。

「す、すみません。ぼうっとしてて……」

 冴子の話を聞き流すなど、あってはならない暴挙だ。

 だが冴子は快活に笑い、ブランコを少しだけ漕いだ。

「まああんなことがあった後だしね。ちょっとは落ち着いた?」

 そうか――冴子は晶が安心出来るように、ずっと話していてくれたのだ。だというのに自分は何を悶々と考えていたのか。浅ましさに思わず赤面する。

「じゃあ今度は晶が話してよ」

 にっこりと微笑む冴子の顔を見て、晶は話題を必死になって考え、おずおずとまゆらについて話していく。

「へえー、随分理解のある先生もいたもんだなあ。やる気あんのかって怒られそうな気もするけど」

 しかし住み込みとはねえ――ブランコを小さく揺らしながら冴子は苦笑する。

「晶って成績いいのに、そんなに気合い入れるんだ。というか、これはやっぱりそういうことかな……」

「そういうことって――どういうことですか?」

「いや、うん。まだ来て二日で断定は出来ないけど、なんつーか、その先生、晶の話し相手も兼ねてんじゃないかなーと思って」

「話し相手……?」

「ほら、晶って私と家族以外には、学校の先生くらいしか話せる相手いないじゃん? だから社会勉強? ってちょっと違うか。とにかく気兼ねなく話せる相手を作ってみろってことなんじゃない?」

「そういえば……」

 まゆらは勉強を教えにきたというよりは、晶と会話をしにきたと捉えられるような言動をしている。

「まあ色々と相談に乗ってもらったらいいんじゃない? っつっても、晶が私に話せないことなんてないよなー。あははははは」

 ――ごめんなさい。

 冴子の無邪気な笑みにつられて笑う晶だったが、その信頼を裏切っているという事実に身が切り裂かれそうな苦しさを覚える。

 ――冴子先輩に、言えないことがあるんです。

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