六章 その強さは
帽子の中に押し込んだ長い髪を解き放ち、ほっと息を吐く。
「お疲れさま。どうだった? 初めての変装は?」
「気付かれなかったので、びっくりしました」
晶は男ものの服を見て、やはり違和感を拭えないことを少し苦い口調で表した。
まゆらと一緒に家を出るにあたり、渡されたのがこの男ものの服と帽子だった。これを着て変装すれば、町の人達は晶だと気付かない――そう言われて着てみたが、違和感が凄まじかった。実際この恰好で町を歩くと、誰も晶だとは気付かなかったが、晶は身体の奥が焦げるような厭な感じに付き合うのが大変だった。
「やっぱり、厭な思いをさせちゃったかな」
まゆらが晶の苦い顔を見て申し訳なさそうに言った。
「いえ……最初に言われていたので」
黒金家の話が聞けたのは山田中からだけだったが、それだけでも晶にとっては衝撃的な話だった。
男殺しの家――女が入ってはならない山の中に建てられた家。自分が今この家の中にいることがとても恐ろしいことのように思えてきた。
「私、冴子先輩のとこに行かなきゃ」
「どうしたの急に?」
「山の中に女の人が入っちゃいけないって――冴子先輩、何度も山の中に――」
まゆらが頷きながらくすりと笑った。
「それを言うなら、私も山の中に入っちゃってるんだけど」
「あっ、すみません」
「ううん、いいの。私は自分の身は守れるから。でも、うん。確かに冴子さん一人で山に入るのは危ないかもしれない」
「じゃあ――」
晶を落ち着かせるように、まゆらはとんとんと肩を叩いた。
「そう焦らないの。まだ着替えてもないでしょ?」
言われてはっとする。晶は帽子を脱いだだけで、まだ男の恰好をしていた。このまま冴子の前に出ていたらと思うと赤面してしまう。
「それに、約束もしてないのに、晶さんのほうから会いにいくのは難しいんじゃないかな」
それは確かにその通りだった。学校のある時は学校に行けば冴子に会えたが、今は夏休み。連絡手段を持たない晶にとって、冴子と会うことは常に受け身が前提にある。晶が冴子の家に遊びにいくということは困難を極める。今は冴子が晶を誘いにきてくれて、初めて成立する関係なのだ。そうしなければ晶から冴子と待ち合わせる時間と場所を提案することも出来ない。
自分はなんと冴子と距離が離れているのだろう。晶はここにきて酷くその歯痒さを痛感した。
「でも!」
晶は思わず強い語気で声を上げる。だが泰然自若としたまゆらにそれを受け止められると、すぐに尻すぼみになってしまう。
「大丈夫。まずは着替えて、それが終わったら一緒に行きましょう」
「行くって……?」
「冴子さんのところ。車に乗れば目立たないし、冴子さんを呼び出すのは私がやるから」
「まゆらさん……」
何もかも心得た上で、晶の味方になってくれるまゆらを、心強く感じた。
「じゃあ私は自分の部屋に戻るから、ゆっくり着替えてね。終わったら声をかけて」
頷き、まゆらが部屋を出ていくと大急ぎで着替えた。慣れない服に手間取ったが、すぐにいつものワンピース姿になると、隣の部屋をノックする。
「よし。じゃあ行こっか」
並んで廊下を歩き、玄関に向かう途中、あまり会いたくない顔と出くわした。
「あら、晶に先生。お出かけですか?」
引き攣ったようなわざとらしい笑みを浮かべ、黒金
敏明の妻、晶の年の離れた姉だが、関係は良好とは呼べない。晶は幹子を前にすると何故だかすくみ上がってしまうし、幹子は晶に冷たい言葉しか吐かない。多分晶のことが嫌いなのだろう。
「ええ、少し。すぐに戻ってくるつもりですけど」
まゆらが愛想よく言うも、幹子は軽蔑するような表情を浮かべる。
「少しと言いますけど、先程も二人で外に出ていませんでした? あまり黒金家の品位を貶めるようなことをされると困るのですけれど」
「ご心配には及びませんよ」
笑顔で、だが毅然と言い放つまゆらに、幹子は逆にたじろぐ。
「え、ええ。わかってくださっていればいいのです」
逃げるようにすれ違っていく幹子を見て、晶はほっと胸を撫で下ろす。同時にまゆらがますます頼もしく思えてきた。
玄関を出て、まゆらの軽自動車に乗り込む。
山を下りて狭い道路を進む途中、まゆらは晶の道案内を必要としなかった。晶は冴子の家への道を完璧には覚えていなかったが、てっきり自分が案内をするものだと妙に意気込んでいたのに肩透かしを食らってしまった。
まゆらはすぐに冴子の家の前に着くと、エンジンをかけたまま車から降り、玄関のチャイムを鳴らす。出てきた冴子の祖母――晶はその顔を見止めると慌てて陰になるように身体を沈めた――と暫く話すと、冴子の祖母が中へ引っ込み、すぐに冴子が出てきた。
冴子と連れ立って車へと戻ってきたまゆらは、晶の座る後部座席の窓を叩くと、にっこりと笑ってそのまま背を向けた。
後部座席に、冴子が乗り込んできた。
「びっくりしたなーもう。あの人が晶の家庭教師?」
「は、はい。久遠まゆらさんです」
「ばあちゃんがえらい上機嫌で話してたんだけど、何者?」
「さ、さあ……」
まゆらの怪しい仕事について言うべきか迷った晶は言葉を濁す。実際まゆらが何者なのか、晶にもわかっていないのだ。
「そ、それより! 冴子先輩、山に入るのは危ないです」
慌てて本題を切り出す晶に、冴子は眉を顰める。
「なに? 晶もばあちゃんみたいなこと言うのか?」
冴子の機嫌を損ねてしまった――晶は途方もない後悔に襲われる。だがまだ取り繕うことは可能だと、まゆらとともに山田中に聞いた話を、筋道立てて説明した。
「――晶。腹立たないのか?」
「え?」
「自分の家が、好き勝手悪いように言われてることにだよ」
晶は少し怒ったふうな冴子に驚きつつ、自分の感情が冴子の思うように動いていないことに気付いた。
確かに黒金家の風聞を聞いた時は驚いたし怖かったが、それだけだった。腹が立つことは疎か、まるで自分のことだという気がしなかった。それは多分、晶に黒金家の娘だという自覚が足りないせいだろう。そして、晶の世間を家の中だけでなく、外へと広げてくれた人が、目の前にいる。
だが思ったことをそのまま喋ってしまえば、冴子への想いまでも伝わってしまう気がして、晶は口を噤んだ。
「私、そういうの無理」
冴子ははっきりとそう言う。
「昔に何があったとか言われてるとかで、今生きてる私達が縛られるなんて絶対に厭だ。だから、私はいくらでも山に入るよ。だって、そうしないと晶と遊べないじゃん」
「あ――」
晶はやっと、そのことに気付く。
冴子から誘いにきてくれなければ、晶が冴子に会う機会はなくなるのだ。
冴子の安全を願い、山に入ってはならないと言いにきた。だが、それをしてしまえば、冴子はもう遠いところへ行ってしまう。
「大丈夫だって。今までなんともなかっただろ?」
「――はい」
自分は卑怯者だと晶は思った。結局、冴子の身の安全よりも、自分との繋がりのほうを取っている。
窓が叩かれる音にはっと正気付き、外を見るとまゆらが玄関のほうを指差しながら覗き込んでいた。
「そろそろ戻ったほうがいいみたいだな。じゃあ、また誘いにいくから」
笑顔で言われると、何も言えなかった。
車から降りた冴子は軽やかな足取りで家の中に戻っていった。
「立派な人だね、冴子さんは」
運転席に乗り込み、車を発進させたまゆらはそう呟いた。
恐らく外で二人の会話を聞いていたのだろう。自動車もそこまで遮音性は高くない。
「私――結局」
「ううん、大丈夫だよ。冴子さんはきっと」
笑いながら言うまゆらに、晶はどういうことかと首を傾げる。
「大切なのは、何を信じるか。冴子さんは自分を信じて、迷信にノーを突き付けている。それは無鉄砲や無信心じゃない。冴子さんは、晶さんとの関係を大切にしたいがために、この土地の迷信を否定している。それは、とっても強いことなの。だから、何物にも手を出すことはできないよ」
まゆらはそこで照れるように笑った。
「もしそうじゃなかったらきついお灸を据えるつもりだったんだけど、予想通りでよかった」
「それを、確かめるために?」
「うーん、まあそうなるかな。まず一番は、晶さんを安心させないと。という訳で、安心して。冴子さんは絶対に大丈夫だから」
まゆらの言葉に、晶は力強く頷いた。
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