五章 ここでそっと
L県御陵市は安野が少年時代を過ごした土地らしく、そんな場所に清を連れてくることからも何かしらの配慮が感じられる。安野と話す人は大抵その突拍子のなさに驚くが、清はもう慣れたものだった。
安野はおかしい。おかしいが、おかしいなりに清を保護してくれている。清が今安野の姓を使わせてもらっているのも、一応の保護者として安野が信頼に足る人物だと認めているからだ。
そんな安野に連れられてきた颪町だったが、ここは観光地という訳でもない。都会よりは気温が低く過ごしやすいのは確かだが、だからと言って何もすることがないのは同じだ。結局のところ清は小学校で出た夏休みの宿題を持ち込んで、それを黙々と終わらせる日々を送っていた。それも最初の数日で片付いてしまい、今は本当に何もすることがない。
安野にイベントを起こさせようと期待するのは無駄というものだ。多分今頃安野も清と同じように何をする訳でもなく無為に時間を過ごしている。
安野と清が滞在しているのは、颪町にある古い一軒家だった。住人は八十前の老爺が一人だけで、なんでもこの主人が以前に安野に多大な恩を受けているらしく、空いている部屋を自由に使わせてもらっている。
老人の男鰥夫の一人暮らしだけあって、使われていない部屋は掃除も殆どされておらず、初日はこの部屋の掃除だけで殆ど潰れた。清が使っているのは二階の隅の風通しだけはいい部屋で、安野は一階の半分物置になっていた部屋を掃除もせずに使っている。
安野は清に最低限の干渉しか行わない。寝るのも別の部屋なら朝や夜の挨拶も全くしない。一日で顔を合わせる時間が食事の時だけということもザラだ。
清はそんな安野の態度に別段何の思うところもない。逆にいちいち干渉してきたら我慢ならなかっただろうと思うと、感謝の念も感じない訳ではない。
安野はおかしいが、それと同じくらい清もおかしい。
清は安野に引き取られて早々に、自分は人格破綻者だと自覚した。安野に吹き込まれた訳ではなく、自分で調べてそう結論を出した。
そういう意味では、安野は適切な距離の取り方をしていると思う。二人が密接に関わるのは、清の身を守るための技術を叩き込まれる時だけだった。
安野は自分の技術を一から十まで清に教えようと時間を取ってくれる。安野の教え方は上手いとはとても言えないが、安野の扱いに慣れた今の清ならば特に苦労もなくその意図を読み取ることが出来る。
安野は全力で清を守ってくれる。その点は信頼している。だがいつまでも安野の庇護の下に居座り続けるのは不可能だ。それは当然安野も理解しているので、こうして清に己の技術を伝授してくれている。
自分の身を守るため――それが最も大きな理由だ。清が狙われる理由がなんなのかは知らない。知らないが、清は目の前で自分の知った顔が死んでいく光景を目にしている。その殺意は本来清を狙ったものだったと、教えられるまでもなく理解した。
清の生まれてから安野に引き取られるまでを知っている人間は、一人もこの世にいない。安野や、彼の周囲の人間は清の過去や周囲の人間が死んでいった過程を知っているようだが、誰も清が狙われる理由を話さない。
子供には早すぎるとでも言うのだろうか。随分と大層なお題目だ。
玄関のチャイムが死にかけの虫のような音を出した。この音を聞いたのは、安野とこの家にやってきた日の一回だけだった。つまり今日までこの家には一人として来客がない。
ということは誰かがこの家を訪ねてきたということだろうか。
この家の主人は耳が遠く、安野がチャイムを鳴らした時も無反応だった。結局その時は安野が早々に見切りをつけて、無言で家の中に上がり込んだ。
仕方ない。清は立ち上がり、階段を下りて玄関に向かった。
「はい、どちら様でしょう――」
玄関の戸を開けると、お互いに固まってしまった。
「え? 清君?」
「まゆらさん……?」
玄関先に立っていたのは、久遠まゆらだった。安野の知り合い――というより仕事仲間――むしろ同じ穴の狢――で、清の事情も知っている。
もう一人、大きめの帽子を目深に被った少年も一緒だった。清の顔を見ると「あっ」と声を出し、すぐに目を伏せる。
「ちょ、ちょっと待って! もしかして安野さんも来てるの?」
「ええ。安野さんに連れられてここに来ましたから」
「それは――三条さんの依頼?」
清は別段表情を変えなかった。
三条というのは安野の同郷の一人で、安野やまゆらに「仕事」を斡旋している。その男の名が出たということは、まゆらがここにいること、そして安野がここに旅行などと宣ってやってきた理由も自ずとわかってくる。
「さあ。安野さんはあんなですから、僕には何も言っていませんね」
「そっか――ごめんね。ところでこちらのご主人は?」
「奥にいると思いますよ。耳が遠い方なんです」
「聞きたいことがあるんだけど、呼んできてくれないかな?」
「それなら上がってください。安野さんの知り合いだと言えば厭な顔はしません。現に僕達がこうしてご厄介になっている訳ですから」
「そう……?」
「不安なようでしたら僕が先に話をつけてきます。少し待っていてください」
清は台所に向かい、その隣の茶の間でテレビを見ている老爺に声をかけた。
「
声を張り上げずに済むように、出来る限り耳元に寄って声をかける。
「ああ、清君。お客さんかい? 珍しいこともあるもんだなあ」
大声に思わず距離を取る。自分の耳が遠いせいか、声は大きいのだ。
「その方は安野さんの知己で、山田中さんに聞きたいことがあるそうなので、こちらに上がってもらっていいでしょうか」
「ああ、いいとも。安野さんの知り合いなら安心だ」
安野の知り合い程信用ならない人間もいないと思うが、ここは黙っておく。
「了解をいただきました。どうぞ」
玄関に戻り、まゆらと少年を迎え入れる。あの大声ならばここまで聞こえていたような気もする。
「失礼します」
まゆらはそう言ってから清が用意しておいた座布団の上に腰を下ろした。少年も慌てたようにまゆらにならって腰を据える。
「初めまして。私は久遠まゆらといいます。現在、黒金さんのお家で厄介になっています」
「ほう、黒金さんの家に。それは豪儀なことですなあ」
「安野さんをご存知なようなので明かしますが、私は安野さんの同類です」
「それが黒金さんの家に――これはますます豪儀ですなあ」
「私もここに来る前に情報はいただいていますが、現地の方の噂話の方が重要な場合もあります。そこで、黒金家についての噂を、あることないこと話してはいただけませんでしょうか」
山田中は暫く考えるように押し黙ったが、やがて大きな声を上げた。
「あんた、本当に安野さんの?」
「それは僕が保証します」
清が言うと、それで納得したようだった。
「わかりました。まあ私などは最近は近所付き合いもなくなって、殆ど家に引きこもっておりますから、昔から言われている話ばかりになります。それと、これは決して――」
「わかっています。黒金さんを貶めるためではなく、あくまで私への情報提供ということで。いいよね?」
まゆらは隣に座る少年に言って、同意を得た。
山田中は頷くと、そこで漸くテレビを消した。
「当然ご存知だとは思いますが、黒金の家は男殺しの家だと言われとります」
まゆらは頷き、少年は息を呑んだ。
「あの家に生まれた男は皆、大人になる前に死んでしまうんです。それで代々あの家は女が事実上の主人となり、婿養子を取っております。ただその婿も、あまり長くは生きておりませんな。やはり男殺しというのは本当だと、皆口を揃えておるのです」
「その言われなどは?」
「いや、これは口さがない噂というよりは男が死んでいくという事実に名前を付けたようなもので。それよりも、元々黒金家は悪い噂があったようですが、さてどちらが先なのかはよくわかりませんな」
「その噂というものを教えてください」
「黒金家がこの土地にやってきたのは昭和の初めの頃だそうです。黒金家は、山を手に入れ、そこを切り拓いたんですな。ところがこれが悪い噂を呼んだ。昔からこの一帯の山は入っちゃならぬと厳しく言われてきたそうで。そこを買って、無遠慮に切り拓いて家を建てればそりゃあ反感も買うでしょう。実際は黒金家は颪町で一番の金持ちになった訳ですが、それが一層複雑な感情を呼んだ訳です」
「黒金家の富による恩恵と嫉妬、
「そういうことでしょうなあ。私らの親やの頃の遺恨がまだ残っているというのも酷な話です」
山田中はそこで少年へと目を向けた。
「あの、そちらの子は……?」
少年はびくりと身体を震わせ、思い切り目を伏せた。
「こちらは私の助手をしてもらっているショウ君です。お気になさらず」
にっこりと笑うまゆらに気圧されたのか、それ以上訊くことはなかった。
「その山の伝承について、詳しく教えてください」
「と言われましてもなあ、私が聞いておったのは山に入ってはならんという話ですが――あっ、思い出しました。そんなことを言っておった家の祖父さんは、狩りをしに山に入っておりましたな」
「狩りには入れるということですね。しきたりがあったということでしょうか」
「詳しいことはわかりませんんが、一番言われておったのは、女は絶対に山に入ってはならぬということです」
「でも、黒金家は代々女の当主が山の中で暮らしているんですね」
「そうですなあ。それがまたややこしい感情を引き起こすんでしょうなあ」
話を終えると清はまゆらと少年を玄関まで送っていく。山田中は話し疲れたようで早々に横になってしまった。
「ありがとうね、清君」
玄関でまゆらに礼を言われ、清はいえいえと謙遜した。
「あの、安野さんのことだけど……」
「いえ、お気になさらず。安野さんは安野さんで勝手にやると思うので」
「そう……? でも安野さんが出てくると全部ぶっ壊すから、出来る限り私にやらせてほしいって伝えてくれる?」
「わかりました。三条さんも面倒なことをしますね」
まゆらと少年を見送ると、入れ違いに安野が西瓜を一玉抱えて帰ってきた。外出するにはラフすぎるTシャツとステテコにサンダル履き。髪の半分が白髪に染まり、しかも黒髪と溶け合っていないので何ともみっともない。
去っていくまゆらの後ろ姿を見て、安野は少し眉を顰める。清は思わず驚いた。安野が感情の機微を見せるということが滅多にないからだ。
「久遠さん」
「ええ。三条さんからの依頼で来ているそうですよ」
「そう」
安野はそれ以上は何も言わず、家の中に入った。
「西瓜」
冷蔵庫に西瓜を押し込み、清に指差して示す。
安野の必要最低限以下のことしか口にしない喋り方には清はすっかり慣れたが、この時は意味を判じかねた。単に西瓜を買ってきたとわかり切ったことを言いたいだけなのかもしれないが。
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