八章 我見るよりも

 冴子が手を振って帰っていくのを窓から眺め、まゆらはほっと息を吐いた。

 輪入道――先程晶を襲ったのはそれだ。

 町の中を徘徊し、姿を見た者の子を奪ってしまう。そういう妖怪であるが、手順さえ踏めば無事に返ってくることもある。

 晶が輪入道を見たことで、輪入道は晶から冴子を奪った。だが、まゆらの目には冴子はそのままその場にいるように映っていた。これは晶の認識の問題だった。だから晶が冴子を呼び戻すという手順が必要だった。

「此所勝母の里」――これは輪入道を避けるための呪符だが、失った者を返してもらうというのは、別の妖怪――片輪車の性質だ。

 そもそも片輪車と輪入道は共通点が多く、互いに混同されている。

 まゆらは最初にこの家の中に貼られている呪符を見て首を傾げた。男殺しの家と言われているこの家で、何故輪入道避けの呪符なのか。

 輪入道は男の顔が付いている。対して片輪車は、基本的に女だ。

 男と女――それが逆転し、混同されている。今のまゆらのこの家への認識はその結論を導きだした。

 女が立ち入りを禁じられていた山の中に建てられた家で、女が主人として実権を握っている。

 まゆらが三条から受けた依頼は、この黒金家を完全に解体せよ――というものだった。

 その依頼を三条に出した人物は明らかにされていない。黒金家に来る際にまゆらがそういった筋のものだという説明は事前に行っていたようだが、まゆらの目的がどこまで伝わっていたかは定かではない。

 暁美の前では、まゆらの立場は晶を守る者となっている。それはまゆらも望むところだった。それはつまり、この家を解体することと同じだからだ。

 しかし輪入道が出てきたとなると、いよいよこの家はガタがきていると思われる。この家を構築するシステムに、明らかな無理が生じている。まゆらはまだその全貌を掴めてはいないが、一つはっきりと理解していることはある。

 この家というシステム――それを維持するために、晶が背負わされた呪い。

 放っておけば、この家は崩壊する。解体と崩壊は違う。そうなればまゆらの仕事は失敗だ。

 今朝、晶の部屋に入った時に感じた生臭い栗の花の香り――それは、吉兆か、凶兆か。

 確かめる方法は、どちらにせよ難しい。そう簡単に口を割るような問題ではないからだ。

 そうは言っても行動すべきではある。まゆらは晶が自室に戻ったことを確認すると、広大な廊下へと出た。今回は晶が部屋から出てくることはない。それどころではないのだということは、いずれにせよ明らかである。

 幹子と敏明の寝室は別で、生活スペースも完全に隔てられていることは調べてある。それは暁美と昭雄にも同じことが言えた。

 まゆらは家族というものを知らない。知らないが、これはまあ真っ当な家族ではないだろうとは思う。旧態的な家族制度に憧れも尊敬もないが、明らかに嫌い合っている同士が夫婦として同じ建物の中に暮らすというのは、単にストレスが溜まるだけだろう。

 そうまでして家族――そして家というシステムを成立しているかのように見せかけなければならないということか。三条も人が悪い。それならば明らかに彼女のほうが向いているようなものだが――。

「敏明さん」

 如才なく笑みを作って、目当ての人物に声をかける。太り肉に加えて背も高い黒金敏明は、まゆらを見るとその身体を思い切り縮めるような姿勢を取る。

「せ、先生、どうしました?」

 明らかに挙動がおかしいが、これはまゆらが話しかけるといつもそうである。やりにくいなとまゆらは閉口する。常日頃から挙動のおかしい相手から、おかしな点を探らなければならないとは。

「あなた、先生と何か?」

 若干笑顔が引き攣るのをまゆらは必死にごまかす。幹子が廊下を歩いてきていた。

「み、幹子――い、いや、な、なにも……」

 同じだ――まゆらは幹子に笑顔を向けながら、油断なく敏明の一挙手一投足を見定める。

 幹子に対する敏明の反応は、まゆらに対する反応と、全く同じであった。身体を卑屈に縮こまらせ、どもりながら媚びるように、だが隙を窺うように口を開く。

 対して晶に対する態度は馴れ馴れしく――まゆらは少ない記憶を手繰り寄せ、昭雄への態度を検証していき、そういうことかと音を立てずに溜め息を吐く。

「失礼を承知でお訊きしたいんですが、幹子さんと敏明さんの馴れ初めは?」

 幹子が隠す気配もなく嫌悪感をあらわにする。

「本当に失礼ですね。ただ親の決めた相手というだけですよ」

 目をあちこちに泳がせている敏明に視線を送ると、どもりながら頷いた。

 まゆらは謝罪と礼をして、二人を置き去りに廊下を歩いていく。

 電話ではなくメール――それが都合がいい上に便利だ。まゆらはまだ使い慣れないスマートフォンを取り出して、難儀しながらメールを作成する。

 三条への情報収集の要求。まゆらが今この家を離れるのは危険だと、先程の出来事からわかっている。それにこうした調べ物は、まゆらよりも三条のほうが向いている。まゆらを黒金家に送ったのも、こうした場合に自由に動き回れる立場に自分を置きたかったからだろう。

 敏明の身辺について、おおよその見当はついている。晶を守ってほしいという暁美の言葉は真実だと信じる以外にない。そうでなくては、晶が呪いに囚われている説明がつかないからだ。

 親が子に持つ愛情――それを信じたい。まゆらがそれを言うのも、なんとも皮肉なものではあるが。

 まゆらは鬼子だ。

 生みの親は法律上中絶が認められなくなった頃合いで、なぜか急に自分の手で堕胎を試みた。そうして産まれて、なぜか生きていたのがまゆらだった。

 まず一人、自分を生んだ母親が死んだ。殺そうとされて生まれたまゆらの運命は、この時点で決していたのかもしれない。

 衰弱したまゆらと母親の死体は、幸いすぐに発見された。母親の両親が長年の金の無心に我慢の限界を迎え、正式な絶縁を言い渡しに弁護士と一緒にアパートの一室に乗り込んできたのが、まゆらが産声を上げたのと同じタイミングだったからだ。

 弁護士を伴っていなければ祖父母はまゆらを見殺しにしていたと、自らの口で語っている。余計な正義感を働かせたものだと、祖父母はまゆらにいつもその弁護士への愚痴を浴びせた。なぜ生まれてきたのかというまゆらに対する憎悪の言葉はあまりにも日常的で、まゆらの中では関係のない弁護士への同情のほうがいつも勝っていた。

 ただ、祖父母の罵倒と暴力はあからさまにすぎた。近隣の住民が虐待に気付き、まゆらを保護しようと動いた。さっさと放逐してしまえばよかっただろうに、祖父母はなぜかまゆらを手元に置いておこうと児童相談所の職員と対立した。

 自分たちが間違っていると、悪であるとみなされることに耐えられなかった。そんなくだらない理由から、まゆらはその原因としてさらに憎悪を注がれ続けた。

 続いて二人、まゆらを言葉が話せるまで育てた祖父母が死んだ。

 ある朝目覚めたら二人とも寝室から永遠に起きてこなかった。それだけだった。ありふれた心臓麻痺。不審な点はなにもない。あるとすればなぜか二人揃って同じ症状で死んでいたこと。

 児相の職員が訪れた時に、まゆらは二人が目覚めないことを告げた。

 まゆらには親類が多かった。恐らく永遠にわからないであろう父方を抜きにしても、母方の祖母の実家は現代でもなお周囲から素封家と呼ばれており、その家からはあちこちに血縁のパイプが延びていた。

 だからまゆらを引き受ける余裕のある家は、相当な数があった。一軒、二軒、三軒――ここまできた頃には、誰もが気付いていた。

 一人、また一人、纏めて五人の時もあった。

 まゆらを預かった家で、決まって人が死ぬ。

 あらゆる親族が、まゆらを受け入れることを断固拒否するようになった。一家全員が死んでいる中、まゆらだけがぽつんと立っていたのが発見されたその時は、ちょうどまゆらの十回目の誕生日だった。

 もう血縁のパイプは使えない。その中でまゆらを引き取ったのが、素封家の血縁に関係のない、一家心中ということで処理された家に嫁入りした女の弟だった。自分たちとの縁故を完全に絶てる――全てを押しつけられる生贄を求めていた素封家の血縁者は、きっちりと手切れ金まで用意してまゆらをその男に預けた。

 久遠透司とうじ――もし許されるなら、まゆらが唯一、親と呼ぶことができたかもしれない人だった。

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うちの山の神 久佐馬野景 @nokagekusaba

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