一章 それはきっと
好き――なのかもしれない。
長い時間をかけて自分の気持ちにそんな答えを見出せそうになっていた
颪学園の全校生徒は、晶を入れて二人しかいない。小学六年生の晶と、もう一人。中学三年生の、
冴子先輩――心の中で名前を呼んだだけで、胸が締め付けられるように切なくなる。
これだ――これがずっとわからなかった。
冴子は晶が小学校に入学した時からずっと、同じ教室で、隣に机を並べて学んできた。
この町でただ一人の同世代の人間で、三つ年上で、家の中の年の離れた姉などよりずっと優しいお姉ちゃんで、誰よりも心を許すことの出来る相手。
変わらずに近くにいて、そのままの関係が永遠に続くのだと思っていた。
だが、冴子は中学三年生。すぐに進学することになる。
颪町には高校はない。冴子は御陵市の公立高校を受験することになっている。御陵高校は同じ市内とはいえ颪町からはかなり距離があり、冴子は下宿することを考えているらしい。初めての一人暮らしだよとはしゃいでいた冴子は、晶がぐっと唇を噛み締めると、
「でも晶のことも心配なんだよね」
と、本気か冗談かわからない調子で言ってみせるのだった。
そういうところは、本当にずるいと思う。
晶のことなどすっかり忘れて、新しい生活を始めてくれればどれだけ気が楽か――それでもきっと晶が苦しむことは明らかだけど。
なのに、冴子は晶を大切に思っていてくれる。その思いが、自分との思い出が冴子の中に残っているのだとわかってしまえば、晶は離れている間、四六時中胸が締め付けられるに決まっている。
そういった意味で、晶は今二重の責め苦を味わっている。
やがて来る、必ず来る冴子との別れ。
そして、胸が締め付けられるこの想いの正体について。
その答えは、晶は本当はもう知っている。だが、決して外に出してはならない。誰にも明かすことは出来ない。
「だって、冴子先輩、女の子だもん――」
自分の部屋で布団を被り、そうやって小さく呟くのがやっとだった。
晶が女性を好きになるということは果たして許されるのか。いや、それはきっと邪な思いに他ならない。好きという思いは、男性が女性に、女性が男性に抱くものだ。いくら世間に疎い晶でもそのくらいの道理はわかる。
だが、いくら頭ではわかっていても、この想いは消えてはくれない。しかも性質の悪いことに、晶が冴子のことを好きなのかもしれないと思い始めてしまうと、拍車がかかったようにどうしようもなくその感情が増幅されていく。
その想いは、自分の胸の中にだけしまっておくのにはあまりに大きすぎる。誰かに打ち明けて相談に乗ってほしいとは思うけれど、こんな道理に外れた想いを口に出すだけでも晶には耐えられない。
両親は晶には過保護に思える程優しいが、こんな話をすれば絶対に眉を顰める。
姉は――駄目だ。いつも晶に辛く当たってくるような人に弱みを明かすことなど出来る訳がない。
姉の夫の義兄は――考えただけで、ぞっと鳥肌が立った。あの人には出来れば近付きたくない。
同世代の友達は、晶には冴子しかいない。まさか冴子に直接打ち明けるなんてことは絶対に無理だ。冴子はいつだって晶に優しかったが、晶がこんな感情を抱いていると知ればきっと軽蔑される。やがて終わるはずの今の関係だが、少しの間でも壊れるのは絶対に厭だった。
「晶ぁー、あーそーぼー」
窓の外から聞こえる声に、晶ははっと顔を上げる。
「冴子先輩?」
「そうだよ。早く出てきてよー。また不法侵入だってつまみ出されるのはやだから」
「すぐ行きます!」
冴子は慌ててワンピースの皺を直し、鏡の前に立って長い髪を櫛で整えると、家人に気付かれないように広大な家の中を早足で突き進んだ。
晶の家は山の中に建てられた巨大な屋敷で、田舎だというのに他の住人に対して排他的だった。それは町一番の名士の立場からくる驕りのようなものだと晶は理解している。しかし他の住人は皆一様に黒金家に対して尊敬の念を抱いているのだというのは、義兄の言葉だ。晶は町中で確かにそんな視線を向けられることがあるのを自覚しているが、それはどちらかというと、忌むべき恐ろしいものを見るような視線のように感じる。
だが冴子はそんな集落の関係性など無視して晶と付き合ってくれる。それで以前に晶を誘いにこの山の中に入り、家人に咎められたことがあった。だがそれ以降もこうして人目を忍んで晶を誘いにくる辺り、全く堪えていないようだ。晶は冴子のそうした態度に本当に救われている。
「お待たせしました」
裏口から自分の部屋の窓が面する茂みまで走っていくと、冴子が悪戯っぽく笑って手招きする。
背は晶と同じくらいだが、この年でもう均整の取れた身体をしているので並んで立つと晶の貧相さが際立つ。髪は首にかかるくらいまで伸ばし、明るいところで見ると少し茶色を入れてある。勝手に染めて親に怒られたと笑っていたが、高校に入ったら綺麗に染めるとも宣言していた。
「じゃあどこ行こっか。そうそう、昨日新しいゲーム買ってもらったんだけど、晶はゾンビ好き?」
「ゾンビ……?」
「え? ゾンビ知らないの?」
「す、すみません……」
晶が顔を赤くして俯くと、冴子は快活に笑って気にするなと背中を叩いた。
晶は学校に行く時と冴子と遊ぶ時以外は基本的に常に家の中だ。その家の中で晶はテレビも見せてもらえないし、本も読ませてもらえなければパソコンに触ることすら許されない。加えて携帯電話も持っていないので外部の情報に触れる機会というのが殆どないのだ。
だから晶は自分に常識というものがないのだと強く自覚している。今の晶の世間は家の中と冴子と一緒にいる時間だけなので、そうした晶の境遇に理解のある冴子のおかげでつつがなく回っている。
そんな晶を心配してか、はたまた反応を見るのが面白いのか、冴子は様々なことを教えてくれた。それが続いてもう六年になるが、まだまだ晶の知らないことは多く、その度にこうして申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
山を下りながら、冴子は晶にゾンビがどんなものかを冗談を交えながら教えてくれた。その内容に晶は見事に怯えてしまい、途中で冴子が謝って話を打ち切ろうとした程だった。
だが晶は続きを話してほしいとせがんだ。冴子のしてくれる話ならば、どんな怖いものだろうといくらでも聞いていられる。
「じゃあさ、家来る? 実際にどんなもんか見てみるのもいいんじゃない」
「え……でも……」
晶は以前に冴子の家を訪れた時の苦い記憶を思い出し、思わず表情が強張る。
「大丈夫だって。ばあちゃん今日は市民病院行ってるし、両親も今は会社だからさ」
本音を言えば、冴子の家に行けるのはすごく嬉しい。ただ、晶の存在が冴子に迷惑をかけてしまうのではないかという懸念が常に付き纏っているのだ。
黒金家の集落での立場はかなり特殊だった。名士として扱われているのは確かなのだが、明らかな嫌悪感を向けられているのは晶でもわかる。そんな家の子供である晶と付き合うことで、冴子にまで累が及ぶ気がしてならない。
冴子も口には出さないが、その感覚は肌でわかっているようだった。だからといって晶に辛く当たることは全くなく、常に優しく接してくれている。それでも二人で遊ぶ時は学校の敷地内か、人目の付かない山の中ということが多かった。それは冴子自身の自衛というよりは、晶への配慮だと思っている。
結局、晶は頷いていた。
山を完全に下りると、車がぎりぎり一台通れる広さの道が伸びている。この辺りはまだ人通りが少なく、普段遊ぶ時も時々下りてくることがあった。
「道覚えてる?」
「いえ……すみません」
「そっか。じゃあついてきて」
そう言って冴子は晶の手を掴んで歩き出した。手を握られた瞬間、晶は心臓が口から飛び出すのではないかと思う程鼓動が強まったのを感じた。どうかこの鼓動が伝わりませんように――隣で半歩前を歩く冴子に微笑みかけられながら、晶は内心気が気でなかった。
冴子は的確に人通りの少ない道を選び、時には山の中に入ったりしながら自分の家へと辿り着いた。
「まあ上がってよ」
玄関に入ると冴子は手を離す。晶は思わず声を上げそうになったが、ぐっと堪えた。
「リビングで待ってて。ジュース持ってくから」
「はい。お邪魔します……」
言われた通りリビングのソファの隅で縮こまっていると、すぐに冴子がオレンジジュースの入ったコップを二つ持って隣に腰かけた。
「はい。で、ゾンビなんだけど――」
晶にコップを手渡すと自分の分のジュースを一息で煽り、冴子はテレビの台の下にしまわれているゲーム機とソフトを引っ張りだした。
「じゃーん、これがゾンビ」
冴子はまた晶の隣に座ると、ゲームのパッケージを晶によく見えるように差し出した。
肌が腐って爛れたような男が、口を大きく開き、腕を突き出してこちらを見ている。単なる絵――CGというらしい――だとわかっていても不気味だ。
「これを銃で撃って倒すの」
「えっ! 殺すんですか?」
「だから言ったでしょー。ゾンビは死体なの。死んでるんだから殺してもいいんだよー」
「で、でも……」
「ていうか、ゲームだからね、これ」
言われて、晶はきょとんとする。
「ゲームっていうのは、生きてる人を殺しても全く問題ないの」
「こ、怖い世界ですね、ゲームって」
晶が言うと、今度は冴子がきょとんとしてから、快活に笑った。
「じゃ、やってみる?」
冴子はゲーム機の電源を入れようと立ち上がるが、その時玄関のドアが開く音がした。
玄関に入った瞬間、その人物はひっと息を詰まらせた。玄関には冴子の靴と晶の靴がある。この地域に子供は晶達二人だけだから、それを見ただけで全てが察せてしまう。
「冴子ォ!」
嗄れた怒声が響き、大きく足音を鳴らしながらリビングに駆け込む。
「げ、ばあちゃん」
「冴子ォ! お前は本当に何を考えとる!」
冴子の祖母は今にも掴みかからんかという剣幕で孫に詰め寄る。
「お前、また山に入ったりしとらんだろうな」
「別にいいじゃん。晶誘いに行くには仕方ないでしょ」
「山に入っちゃならんと何度言ったらわかる! この娘は本当に――」
「あ、あの――」
晶がおろおろと仲裁しようとすると、冴子の祖母ははっとして急に揉み手を始めた。
「これは黒金のお嬢さん。いえ、いえ、お気になさらず。悪いのは全部この娘ですので。本当にこの娘は何も考えずに。ほれ! お前も謝らんか!」
「は? なんで」
「あの!」
晶にしては珍しく大きな声を出した。
「私、もう帰ります。すみませんでした」
「この娘にはよーく言っておきますので。ご無礼をお許しくださいお嬢さん」
晶はその上辺だけの言葉に怒りというより悲しみが押し寄せ、何も言わずに玄関に向かった。
「晶」
何事か祖母と言い合っていた冴子が玄関に出てきて声を潜めて晶に呼びかける。
「ごめんな、厭な思いさせちゃった」
晶も声を潜めてそれに答える。
「いえ……私の方こそごめんなさい。私のせいで冴子先輩が……」
「晶は気にしないでいいよ。また明日誘いに行くから」
「私から行きます。学校の校庭で」
「オッケー。じゃあ十時頃ね。じゃ、送ってくから」
「あ、ありがとうございます」
二人は連れ立って家を出て、来た道と同じ道程を少し気まずく感じながら歩いた。
「あれ?」
冴子が声を上げ、細い農道の先を指差す。山の斜面から木が覆い被さってくるその道は昼でも暗く、人通りも少ない。
その先に、小さな影があった。
小学一年生程度の背丈で、夏だというのに長袖の上着を捲くることなくぴっちりと着ている。
この集落に子供は晶と冴子だけだ。物珍しさからか、冴子はおーいと声を上げた。
その子供はこちらを振り向くと、礼儀正しく会釈した。とても晶より小さいとは思えない程如才ない態度だ。少し髪が長いが、男の子だとわかる。
「君、どこの子?」
冴子が駆け寄って訊ねると、その子はこれまた如才ない笑みを浮かべる。
「こんにちは」
質問を無視してまず挨拶をしたその子は、間髪を容れずに続ける。
「僕は
自己紹介を終え、やっと冴子の質問に答えたその子――清は、丁寧な会釈をして悠然と去っていこうとした。
「ちょっと! せっかくだし三人で遊ばない? 今日は無理だけど、明日とか」
「いえ」
清はにっこりと笑みを浮かべる。
「すみませんが、子供の遊びには興味がないんです」
晶と冴子が呆気に取られている内に、清は特に足を速めるでもなく去っていった。
「な、なにあの子――それが年上に対する態度かーっ!」
ふん、と一度憤然として、冴子はすぐに落ち着きを取り戻す。
「絶対都会っ子ね。これだから都会っ子は――」
ぶつぶつと文句を言っている内に晶の家まで続く山道の前まで来ていた。
「じゃ、ここまでね」
冴子が家の前まで晶を送っていけば、家の者にまた文句を言われる恐れがある。それに理由はわからないが冴子は祖母から山に入ってはならないと言われているようだ。勿論そんなことを気にする冴子ではない――現に帰り道で何度も山の中に入っている――が、流石に晶の家の者に面と向かって説教を食らうのは避けたいようだった。
「冴子先輩――」
「おう、明日の十時、学校で、ね」
また明日、冴子と会える。それを思うだけで、晶は顔が綻んでしまう。
ただ、どうしようもなく、いつかはこの関係が終わってしまうことへの不安が、この瞬間が嬉しいだけ強まっていくような気がしてならない。
だから晶は、それを必死で押し込めようと、満面の笑みを作っていた。
「はい! また明日!」
手を振って、山道を上がっていく。山道とは言っても舗装されているし、車が余裕をもってすれ違えるだけの幅もある。傾斜も緩やかだから、あまり体力のない晶でも息を切らさずに登り切ることが出来る。
家の正門の手前に設けられた駐車場に、見慣れない軽自動車が停まっていた。黒金家の持っている車は全て所謂高級車というやつなので、そこに軽自動車はどうにも似つかわしくない。
お客さんだろうかと首を傾げていたので、危うく玄関から家に入るところだった。出てくる時に裏口から出たのだから、戻る時も同じにしなくては。家をぐるりと回って裏口まで辿り着くと、そこで靴を脱いで家の中に上がった。
誰にも気付かれないように部屋に戻ろうとしたが、廊下の曲がり角でばったりとある意味最も出会いたくない相手に出会ってしまった。
「おやや、晶ちゃん。お出かけだったのかな?」
ひひひ、と笑って、
確かに敏明は背が高く、少し太り気味というのも合わさって正面から向かうと圧迫感を覚えるが、目線を合わされなければ安心出来ない程晶は子供ではない。
「いえ、別に……」
「ひひひ、心配しなくてもお義母さん達には言いはしないよ。これで貸し一つというのはどうかな?」
「いや……」
「ああそうだ。今日から晶ちゃんに家庭教師の先生がつくそうだよ。全く、お義母さん達も僕にひとことくらい言っておいてくれてもいいのにねえ」
貸しだの借りだのという話を何とか取り消させようと思ったが、家庭教師という言葉に思わず意識が傾く。そういえば駐車場に見慣れない軽自動車が止まっていたが、あれがそうだったのか。
「あの、敏明さんですよね」
穏やかな声がして、敏明はびくりと身体を震わせる。
敏明の後ろに、長い黒髪の、まるで作り物のように綺麗な女性が立っていた。作り物は作り物でも、恐ろしく繊細なガラス細工のような、触れれば壊れてしまいそうな危うさを纏っている。ただ、その顔に浮かべている笑みは柔和な親しみやすいもので、決して怖い人ではなさそうだった。
「あ、あなたは……?」
敏明は怯えたように女性から距離を取る。敏明は姉に対しても、他の女性達に対してもこうした卑屈な態度を取っている。そんな敏明が晶だけには妙に馴れ馴れしく接してくるのは、晶からすれば不気味でならない。恐らくそれは晶がこの家で唯一の子供だからなのだろうが、その態度の差にはやはり厭な感じを受けてしまう。
それよりも、この女性がどういう人間なのか晶にはすぐにわかったのだが、敏明は大人の女性を前にすると判断力も落ちるのだろうか。
「あ、申し遅れました。今日からこちらでお世話になる、
「あっ、家庭教師の先生……」
まゆらは先生と呼ばれると小さく苦笑したが、すぐに優しい笑顔に切り替えて、晶を見た。
「えっと、あなたが晶さん?」
「は、はい」
「夏休みの間だけだけど、あなたの家庭教師をすることになりました。あ、本当はご両親と一緒に顔合わせするはずだったんだけど、声が聞こえたから。ごめんね、驚かせちゃった?」
「いえ、大丈夫です」
直前に敏明から家庭教師の話を聞いていたから、とは言わないでおく。また貸しだのと言われるのは御免だ。
「それじゃあきちんと挨拶したいから、応接間に案内してくれる? ごめんなさい、このお家すごく広くて、一人だと迷っちゃいそうだから」
まゆらは穏やかに笑ったまま敏明の陰から晶を連れ出すと、愛想よく敏明に会釈をして廊下を並んで歩き始めた。
黒金家は広い。山の中に建てられたこの屋敷は、まるで土地に糸目をつかなかったかのように山を侵食している。形式上は平屋建てなのだが、斜面にも敷地を広げた結果、階段を使って登り降りする区画さえある。初めて訪れたまゆらが迷いそうだと言うのも当然だろう。
ただ、晶の入ってきた裏口近くの廊下と応接間は一本の廊下で繋がっている。本来ならば案内は必要ないはずだ。
ひょっとして、助けてくれたのだろうか。
言葉こそ発しないが、晶を気遣うように隣を歩くまゆらを見上げて晶はそんなことを思う。
義兄を前にした晶が余程厭そうな顔をしていて、思わず止めに入った――有り得そうな話だ。そんな顔をしてもおかしくない程、晶の敏明への心証はよくない。
「ここです」
分厚い木製の扉を指差すと、まゆらはまるで本当に助かったように「ありがとう」と言った。
「じゃあ、入ろうか」
扉をノックして、まゆらは中に入った。それに続いて晶も踏み込む。
入った反対側はフランス窓になっているが、昼間だというのに厚いレースのカーテンがかかっているので部屋の中は薄暗い。天井にはシャンデリアが下がって電球が灯っているが、調光されて弱い光しか放っていない。スリッパが沈み込む程に起毛の深い絨毯。その両端をサイドボードが固め、中には洋酒やそれを飲むのに用いるグラスが並んでいる。
シャンデリアの真下――部屋の中央には大きなテーブルが置かれ、それに向かい合う形でソファが並べてある。
入口に近い側には一人掛けのソファが二つ。そこに晶の両親が座っており、揃って入ってきたまゆらと晶を見て手前のソファに腰かけていた父――
「あなた」
目だけを向けて二人を確認した母――
「先生の前でみっともない姿を見せないでください。黒金家の当主のつもりがおありなら、大きく構えていればいいのです。さ、先生、どうぞお掛けになって。お手洗いの場所はおわかりになりましたでしょうか」
黒金家の当主は、実際にはこの暁美だった。そもそも黒金家の娘である暁美に昭雄が入り婿の形で結婚したのだが、家内の権力も、集落での権力も、全て暁美の手の内にあった。
それ故威厳という面でも暁美は昭雄をはるかに上回る。まゆらを気遣うような言葉もその実恐ろしく冷淡なもので、聞く者を怯えさせるには充分だった。
だがまゆらはそれを額面通りに受け取ったかのように愛想よく微笑み、三人掛けのソファへと腰を下ろした。
「はい。本当に大きなお家ですね。晶さんに案内してもらえて助かりました」
「晶にはまだあなたのことは話しておりませんが」
暁美の声に明らかな苛立ちが現れた。まゆらは気にするでもなく小さく笑って、先程廊下で出会ったのだということを説明した。
恐らく聞かれていたので、晶が裏口から外に出ていたことを話されるかと思ったが、まゆらは敏明とも顔を合わせたことだけを話してそれ以上は何も言わなかった。
「――まあいいでしょう。晶、お掛けなさい。先生を紹介します」
言われて扉の前でぼうっと突っ立っていた晶は慌てて三人掛けのソファ――まゆらの隣に座る。
「改めて、こちらがこの夏休みの間あなたの家庭教師を務めてくださる久遠まゆら先生です。先生、この子が娘の晶です」
既に自己紹介を終えている二人には気まずい部分もあったが、まゆらは優しく笑って会釈した。
「先生には住み込みで働いていただくことになっています。部屋はあなたの隣を使っていただくので、何かあればすぐに来ていただけます」
何かあれば――何かあるというのか。それとも晶の監視役にでもする気か。
思わず怪訝な目を向けたが、まゆらがにっこりと笑うとそんな不審も雲散霧消してしまう。
「では、晶はもう部屋に戻りなさい。後は先生と詳しい打ち合わせをします」
晶が立ち上がって部屋を出ようとした時、まゆらがこちらを見て微笑んでいるのが少し嬉しかった。
「家庭教師、かあ……」
長く曲がりくねった廊下を歩きながら、晶はぼんやりと呟いた。
勉強は別段嫌いではない。それは時折冴子が上級生という立場から教えてくれたことが関係しているのだろう。晶の呑み込みが早ければ冴子も喜んでくれる。それが嬉しくて、普段ならしない予習や復習に精を出したこともある。
とにかく、明日の約束は守らなければならない。その障害にだけはならないでほしいと晶は強く願った。
夏休みはまだ始まったばかりだった。
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